諸星大二郎「闇の鶯」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-05-375699-9, \1048
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 最近,諸星大二郎にハマっている。ここ数年,立て続けに単行本が出るところを見ると,やっぱり人気があるんだなぁと感じる。つーても,ワシが諸星をちゃんと読めるようになったのはつい最近の話で,それまでは,読むことは読むが,それはちょっといやな気分が残るホラーマンガとして,だったのだ。それが今では良い味のファンタジーとして楽しめるのだから,ジジイになるのも良いモンだと再認識させられる。
 そーいや,高野文子の「黄色い本」(講談社)に「マヨネーズ」という短編が収められている。ちょっとセクハラ気味な男が,ちょっと鈍い,でも可愛らしい後輩の女性と結婚するというものだが,この作品に登場するリアルで艶めかしい,そして人権侵害的ニュアンスもある会話の妙は,若い時分には理解できなかったと思うのだ。してみれば,通な方々が褒めちらかしていた作家性の強いマンガの作品の一部が,ようやくワシにもそこそこ理解できるようになってきたということなんだろう。で,その先は嫌みなマンガマニア親父の道が待っているようで,それもまたどうかなぁとは思うが,まぁ中年になるということはそういう老人への通過儀礼的なことが起こるということなんだろうから,それもまた仕方のないことなのである。
 本書の巻頭の「それは時には少女となりて」は,アフタヌーン誌でリアルタイムに読んでいるのだが,まぁこれは普通に面白い純然たるファンタジーマンガである。最後の「涸れ川」も同様に面白い。しかし,親父なワシはこの2作品より,「描き損じのある妖怪絵巻」と,「闇の鶯」が味わい深く,諸星が持つ思想のバランスの良さが現れていて好感を持ったのだ。
 「描き損じ」の方は,極悪非道な先祖を持った名家の現当主とその息子が,妖怪ハンター・稗田礼二郎と,普通に会話をしている。非道な先祖がいたことや,その先祖のおかげで今の家の隆盛があることを率直に認め,それを今も「引き受けている」この二人は,とても全うで常識的な人間として描かれている。
 「闇の鶯」は,本書の一番の読みどころで,約100ページの中編だが,ここに登場する「鶯」は,人間との関わりについて,こういうことを言う(P.184)。

 山を切り開いても ダムを作っても 人間たちが幸せになるなら私は邪魔はしないわ
 私は人間たちが好き・・・ 人間の文化も・・・
 畑も炭焼きも機織りも・・・
 最近のテレビやワープロだって好きよ
 でも人間たちが 間違ったことをして 不幸になっていくのは見たくない・・・

 妥協的というか,神の化身にしては随分と物わかりが良いことですこと,と,若い頃なら憤ったかも知れない。しかし,今の文化的生活を手放すつもりは毛頭ない以上,増えすぎたワシらとしては自然を司る神様に妥協してもらうほかないと骨身に染みて理解できた中年のワシにとっては,至極穏当,というか自然と受け入れられる理屈を諸星は提供しているのだ。「描き損じ」にしても,どんな非道な犯罪者のDNAを受け継いでいようが真っ当な教育と環境があれば普通人に成らざるを得ず,しかしながらそんな「原罪」とは全く無関係と切り捨てることも出来ない,ということをこの年になれば理解できるのである。通な方なら若い時分でもすっと吸収できるのだろうが,この辺の機微は,昔のワシには受け入れられたかどうか,ちょっと怪しい。
 寡作な高野に比べて,諸星は還暦を迎えてもまだ意気盛んというか,自然体で独自のファンタジー世界を描き続けている。この調子で両人とも,中高年以上のおっさん・おばさん向けの,良い意味で「世間ズレ」した作品を描き続けて欲しいものである。

参考文献を明示しない人々

 つい最近,当学教授の最終講義(ワシは聞きに行けなかった)の要録を読んでいたら,地動説に関してガリレオはコペルニクスについて全く言及していない,というお話で締めくくっていた。ふーん,今も昔も人間同士のプライドと功名心のぶつかり合いってのは変わらないんだな,とシミジミ思う。と同時に,参考文献の明示,つまりは先行研究・事例へのリスペクトを表わす,ということに関してはいろんな人が大なり小なり,意図的あるいは過失によって悶着を起こしてきて,今もそれは絶えていないということを考えると,ある程度のコンフリクトを抱えているからこその「文化」なのかなぁという気がしてくる。
 ワシの漠然とした「著作物」のイメージはこんな感じである。まず土台には,多数の人間同士のコミュニケーションという「空気」と,そこでやりとりされる情報という「水蒸気」が不可欠である。その中の特定の個人や団体の熱気が空気の流れを作って水蒸気を集め,「雲」,即ち一つの文章・一冊の本として集約される,と。情報を語る言語は所詮「借り物」(by 糸井重里)であるが,情報そのものだって,元はといえばどっかからの借り物からしか派生しないものである。集めた情報の編み方とか,それを土台として自分なりの積み上げたものに対しては「著作物」として保護しなきゃいけない,という考え方は現代では常識となっているけど,茫漠とした「雲」の周辺にくっきりとした境界線があるはずもない。著作物ををどこまで保護すべきなのか,唾棄すべきなのかということは,文化のジャンルによって恐ろしいほどの幅があり,歴史的な経緯やビジネスとしての価値,果てはナショナリズムまで絡んできて,「こっからここまでを著作物として認める」という明確なラインは引けそうにもない。もし引けるとすれば,権利者同士のぶつかり合いの均衡点を取るしかなく,それとても時代の変化によって変動することは避けられない。大体,本気でぶつかり合うならまだマシで,大方はぶつぶつ言いながらも裁判沙汰にはせず,当事者がそれぞれ勝手な言い分を表明しておしまい,ということになる。こうなると漠然とした,ある程度合理性のある世間的な合意点というものの形成すら難しい。かくして剽窃だの盗作だのという問題は尽きることがなく現れては霧散霧消するか,どっちがいい人とか美人だとかハンサムだとか金持ちだとか貧乏人だとか著名人だとか学歴が高いキャリアがあるまだ商品価値がある,いやもうない・・・などといった要素に引きずられて時には非合理的な世間的空気が作られて終わってしまうもののようだ。詳しくは栗原裕一郎さんの本でも読んで下さいな。全くいやんなってくるから。しかしまぁ,そこで曲りなりにも積み上がってきたものを尊重しなきゃいけないのは言うまでもない。参考文献の明示ってのは,その尊重すべきものの一つである。
 apjさんとこのblogエントリで,と学会がらみの悶着について運営側の唐沢俊一さんの意見に軍配を上げたら,案の定というか,アンチ唐沢な方々が集まってきてちょっとしたボヤみたいになっている。ワシはと学会の関係者でもないし,この悶着については全く知識がないのでどっちが正しいとか間違っているとかは分らないが,どうもアンチ唐沢な方々は潔癖なお人が多いようで,ワシみたいなゲスにはどーにもその言説が「純粋まっすぐ君」(by 小林よしりん)みたいで,生理的に受け付けないんだが,漫棚通信さんの件以来,訴求力のある町山智浩さんが煽ったこともあって,どーも唐沢俊一さんには風向きが悪いようですな。ま,仕方がないとはいえ,随分とまぁにくまれているモンだと感心させられる。憎まれるってのは大物の条件でもあるわけで,ひょっとしてアンチ唐沢な方々ってファンの裏返しなのかと勘ぐってしまいたくなる。
 ご本人が認めた漫棚さんの件以外にも,パクリだ剽窃だと唐沢さんが言われ続けているのは,トンデモ事件コラムとかに参考文献(URL)を明示しない上,引用文を多用しないという書き方に起因しているように思われる。ネット時代なんだから,ネタ元として使っているところには仁義を切るべきだろうし,そうでないなら文献を最後に書いておくとかすればいいようなモンだが,それをしていないのは本人のスタイルなんだろう。実際,学者じゃあるまいし,いちいち文献なんぞ羅列していられるかいってんだ,と開き直っちゃった人もいるんだよね。代表的なところでは「なだ・いなだ」がそうで,ちくまプリマ-ブックス「こころの底に見えたもの」でも,フロイトの学説を紹介しながら文献については明示していない。同じシリーズでも金森修の方はちゃんと巻末に文献一覧があるのとは対照的。なだに言わせると,ろくに読んでもいない文献の羅列は学者が権威付けのためにするもんである,と。その割にはビジュアル著作権協会で人様の著作権の使い方には随分小うるさいのですねとイヤミの一つも言いたくなるが,あんまし唐沢さんみたいに声高な批判が聞こえてこないのは単に売れてないからなのか,それともアルコール依存に関してはオーソリティである医者という立場のおかげか?
 文化的な立ち位置が違うからなんだろうが,特に芸人/職人の世界ではパクリが普通,というと言葉が悪いが,テクニックを見て「盗む」ことはよくあることだ。といってもあからさまなマネでは芸人仲間からは軽蔑されるが,くすぐりや演出を真似するってのは,芸道では普通にあり,あの志ん生ですら,先達のマネと言われていたぐらいである。目の前の客さえ喜ばせておけば,オリジナルかどうかなんて関係ない,瞬間瞬間が重要,という世界では,まずウケなけりゃ話にならない。極端な話,まんまのパクリだって,パクっちゃった方が客を沸かしていれば,それで人気が出てしまうことだって「アリ」の世界だ。ヤクザと言えばヤクザな世界だが,そうやって回っている部分がワシらの世界では今も存在している,ということは事の善悪の判断とは別にして,認識しておくべきだろう。
 昔気質のライターには,文章のリズムが崩れるからと,引用文を嫌う向きがあったらしい。確かに,不用意に長たらしい引用文はちょっと勘弁して欲しいと思う。佐高信の金融恐慌の本がまさしくそれで,もうちっと的確にやってくれと言いたくなったものである。
 引用を嫌い,すべて地の文に押し込んでスムーズな流れの文章を作る,という職人気質は今でもライターさんに残ってたりするだろうなぁとワシは想像しているのである。唐沢さんが以前,東浩紀の文章が下手くそと批判したことがあったが,学者的な文章がライター的な文章に比べて引っかかりが多いというのは,そもそも目的が違うから当然のことだ。何でそんなことで東に突っかかるのか,ワシはとんと理解できなかったが,ドンドン名声を勝ち得ていく東に対する嫉妬と,この職人気質を持つライターとしての矜持が相まってあの批判になったのかなぁと,ワシは勝手に結論づけている。どうも,唐沢さんはアカデミズム的なものとは相性が悪いようだ。参考文献をずらずら書かないのもその辺に原因の一端があるのだろう。
 しかし,芸能プロを経営し,落語会のようなイベントを開くだけでなく,自らも出演してしまう唐沢さんは,かなり芸人的なノリに影響されているし,意図的に芸人的ライターとしての立ち位置を保っているように思われる。だとすれば,ネタの学術的発掘という金にならないことに精力を費やすよりは,ネタは楽に仕入れてうまく裁いて客に出した方が勝ち,という価値観を今も保っていることになる。パクリ批判に対してほぼ沈黙を守っているのは,「へっ,トウシロが外野でギャーギャー言ってても客は気にしねーよ」ということなのかも知れない。そしてその態度が何となく伝わってくると,神経過敏な方々や空気に乗って叩きたい輩が騒ぎ出すのだろう。してみれば,このアンチ唐沢な方々は,実は唐沢さんに載せられているということも・・・あるのかしらん? まー,あちらは結構な経験を積んできたプロデューサーだからなぁ。相当図々しく計算していたとしてもおかしくはない。そーゆー「古狸」みたいな存在には噛みついても取り込まれるだけ無駄であって,遠くで眺めているに限る,というのは,ワシが40年生きてきて学んだ経験則である。
 つーことで突き放す気はないのだ。だって唐沢俊一さんの著作は読んでて面白いところが多いから(最近は町山さんの方が勢いがあって面白いが)。もしあちらがヤクザな「芸人」なら,こちらはもっと無責任な「客」でしかない。少なくともワシという客は,面白いものには金は出すが,道徳を語るだけの社会運動家や街宣車は無視して通り過ぎるようにしているのだ。もちろん「パクリだ!」というご批判はちゃんと受け取って,引用するときにはそっちを使うようにする。まぁ,ワシの商売柄,そうそう使う機会はないだろうけどね。
 してみれば,唐沢俊一という人は,アンチを取り入れることによってさらに使用価値を高めたということになる。無責任な第三者であるワシは,その成果(と悶着)を楽しませていただいて,誠にありがたいと日々感謝しているのである。

5/27(水) 掛川・曇

 少し気温が下がったようで,4月下旬並だそうな。過ごしやすくて快適。月曜日・火曜日の午後は疲労回復のために前倒しの寝倒しデーとさせて頂いたので,ストレスが高じて犯罪に走る(読売新聞)ようなこともなく,本日の仕事を無事終えたのであった。しかし拓大って,そんなに論文書きのプレッシャーが強いのかな? 着実にコツコツと一定のレベルの仕事はしてきた方のようだが。
 栗本薫さん死去(毎日新聞)。癌になったことは見知っていたが,それほど悪かったとはしらなんだ。腐女子の元祖のような方だったからなぁ。J・Gardenとかで追悼イベントでもやらんとイカンのではないか? 何はともあれ合掌。56歳てな現代では若死にという印象だぁね。
 あ~,次々に故障が発生していくPentium Dクラスタの補修作業を完了した。今回はNIS/NFSサーバも故障しちゃったから焦ったのなんの。土曜日の実験講座が終わってからで助かった。
 故障の内訳だが,今のところ
・[4台] Graphics cardのファンが逝かれてカードのみ炎上(火は出ないけど,焦げはする)
・[3台] 格安450W電源が昇天
というものばっか。DELLの16 port GbE switchがまるごと昇天したというオマケも付いた。2005年から順次揃えていったマシン群なので,まあ次々と寿命を迎えているのであろう。にしても,だ,ファン付きのnVidiaカードって,何でこんなにファンがぶっ壊れるんだか。今のところCPUファンが止まったということがないのは,やっぱ良いベアリングを使っているんだろうなぁ。思ったよりHDDが丈夫で,今のところすっ飛んだものはナシ。
 対照的に,そろそろ10年目を迎えようというPentium III(知ってるか?)クラスタは,未だUNIXの講義用に現役であるが,こいつはHDDの故障が殆どで,電源ストップが2台程度。やぁっぱり電気を食わないマシンは優秀だなぁ。しかしそろそろお払い箱にしたいところなんだが,壊れないんだこれ。・・・執念でしょうか? 執念のデカならぬ執念のPCと命名すべきか。
 ともかく修理はしたので,これでなんとか20並列までは実験可能な体制には戻った。さて,6月中には並列実験をガシガシ・・・やりたいもんだがどーなるやら。
 風呂入ってもう寝ます。

論文の書き方も色々ある

 今年に入って,興味のある問題が出てきたので,あれこれ参考文献を渉猟している。最近はググる(げ,ATOK2009では標準登録されるんだ,これ)と主要なものは最低限,どこの雑誌に載っていてAbstractはこれ,程度の情報は取れるし,もうちっと深く探索すると,掲載論文そのもののや,それと寸分違わぬpreprintが著者のWebページからタダで入手できることが多い。だもんで,面白くなってどっさりDLしてプリントアウトしてざっと眺めているのである。
 集めてみると面白いモンで,「ああ,やっぱりそこの部分はそうやるのか」という,かゆいところに手が届くように書いてあるものもあれば,「どーしてそこのところを言及しないのよ。全然分らんぞ!」とワシみたいなアホに冷たいものもあり,論文の書き方も色々だなあ,と感じる。当然,アホなワシが書くと「アホなワシにも分る」ものになってしまうので,特に後者のように書いてある論文が好みである。ま,反面,二番煎じ的な内容が多いので,あんまし重要度は高くないが,なに,分らないものを神棚に上げて飾っておくよりよっぽど役に立つというものであるし,大体,ワシ自体が既存のアルゴリズムの有効な活用法という,完全な二番煎じを狙っているので(つーか,使えない理論家には辟易しているのでね),いわば「お仲間」なのである。
 で,そーゆー二番煎じ論文を集めてみると,よくもまぁこんな内容で査読に通ったよなぁ的なものが多くてびっくりする。日本語の学会論文誌の方がよっぽどレベルだの流行だの内容だのに厳格だったりするので,ホントに世界には山のように論文誌があって,レベルもまちまちだと思い知らされる。まぁ,ホントに疑似科学に踏み込んじゃっている怪しげなものもあるけど,そういうものを避けておけば,英語で書いた論文の方が通りやすい,つまり,論文のレベルに合った雑誌は見つかるってのは事実なんだなぁ。してみれば,日本語の論文ばっかのワシは結構真面目にやっている方なのかと思ったりして(嘘ですからね)。
 そろそろ土台が固まってきたこともあり,論文の量産を目指そうかと思っているので(出来るかどうかは別よ),下手でもイイから英語で書こうと決意するに至ったのは,そーゆー二番煎じ論文集めの賜と言える・・・のかなぁ?