宮崎克(原作)・吉本浩二(漫画)「ブラックジャック創作秘話 ~手塚治虫の仕事場から~」秋田書店」

[ Amazon ] ISBN 978-4-253-13239-8, \648
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 いやぁ,最高最高。この表紙左上のギラギラした手塚治虫の姿もさることながら,右下の帯のカット「来週はがんばります」と笑顔で言う手塚治虫に至っては,「漫☆画太郎先生ありがとう!」と叫んでしまいそうになる。・・・いや,そんなことではない。本書の魅力はそんなところではないのだ。本書はちょうど手塚が落ち目の時代に起死回生のヒット作「ブラックジャック」を描き,又売れっ子第一人者に復活していく時期の脂ぎった「黒手塚」を描いた傑作ドキュメンタリー漫画なのである。
 「白手塚」「黒手塚」というタームは,もちろんBSマンガ夜話における造語である。ファンサービスには手を抜かず,対外的にはにこやかだったベレー帽姿の手塚治虫が「白手塚」とすれば,本書は,人一倍嫉妬深く,才能ある新人の登場には常に目を光らせ,自作の人気の上下に拘ったという,今となっては周知の事実になっている人間くさい姿が「黒手塚」ということになる。もちろん,「黒手塚」という言葉は,単なる人間の醜い裏面を表現しているだけではなく,その因ってきたるエネルギーや感情の坩堝,つまりは「情念」の煮えたぎる様を言い表したものなのである。そしてその「黒手塚」を知ることによって,「白手塚」まできちんと繋がって一人の図抜けた巨人・手塚治虫が立体的に理解できるようになるのだ。
 吉本浩二のマンガをじっくり読んだのは,実は今回が初めてである。Webで連載作品を読んだことはあるが,紙媒体では今回が初だ。改めてじっくり画風を眺めてみると,青木雄司を洗練させて構成力を与えるとこうなるのかな,という感じで,デッサンの狂った力業のキャラクターに細密な陰の描線が異様な迫力を添えている。ワシ個人は「デッサン狂いのヘタクソな絵の魅力」について常々考えているので,吉本の画風は良いサンプルなのである。しかし,人柄が人畜無害っぽいところは,う~ん,どうなんだろうな,と微妙な評価で,今一ワシの中ではあまり高く買ってはいなかった。今回この単行本を買っていなければ,当分はその評価を変えることはなかったと思われる。
 しかし,本書はすごいのだ。いや,凄いのは「黒手塚」の情念なのだ。黒手塚が吉本の人畜無害さを吹き飛ばし,土方のようにマンガ執筆という肉体労働に勤しむ巨匠の姿とエネルギーを吉本に描かせたのだ。それはもう漫☆画太郎なんてもんじゃない。自分以外のアシスタントや編集者に作品のネームを内容を確認させ,面白さに疑問を呈する評価を受け取るや,表面的な締め切りなんぞはすっとばして一から作品を書き直す。アメリカ旅行中に自分の頭の中だけで作品を構成し,アシスタントに電話でコマ割りと背景を指示する天才っぷりもさることながら,その帰りの飛行機内で,全ての乗客が寝入っている中,一人,インク壺を左手に持ち,一心不乱にキャラをペン入れしている様の描写は,目撃した永井豪の驚きを再現して余りある。
 エピソードの一つ一つは既に手塚プロのアシスタント経験者や関係者,同業の漫画家やTV番組などで伝わっているものが多く,ワシ自身が初めて知った事実,というのはごく少ない。しかし,知識として得たエピソードの「情景」には,吉本が描いた黒手塚の情念の炎が欠けていたのだ。本書によって,その重大な欠落要素がかちっと嵌まり,まるでアメリカから帰国した手塚が描いたキャラで原稿を埋めるように,「手塚治虫」という像がワシの頭に屹立したのである。なるほど~,漫画でドキュメンタリーを描く意味はここにあるのか,ということを,本作でイヤと言うほど知らされたのである。
 黒手塚が生み出した異常な執着心とエネルギーは,今後もグローバル化した資本主義社会において,重要な原動力となって我々を巻き込み,永久に「リテイク」要求を突きつけるに違いない。「ヒューマンな手塚作品」というレッテルは,表面的にも内面的にも哲学的にも間違っておらず,相当深い射程を持つものであることを,本作はワシら凡人に知らしめてくれるのである。

新谷かおる・和田慎二「黒い子守歌 Super Tug」同人誌

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 昨日(2011年7月8日(金)),神田神保町のコミック高岡・書泉ブックマート・三省堂本店を一巡りしてきた。しかし,「和田慎二追悼」というフェアをやっているところは皆無。白泉社の少女漫画雑誌を1990年代に引退してからも結構精力的に作品を発表し続けていたのは良く目にしていたが,過去のヒット作に絡めた作品は「今更」感があったし,近作を読もう気も無く,個人的には完全にスルーしていた。それはワシだけではないようで,Twitterでも「スケバン刑事」以前の作品が好きだったという,50代以上の方々のメッセージが多数見受けられ,近作を読んで嵌まった,という若者の意見は残念ながらかなり少数のようである。
 とはいえ,読めば結構面白い,ということはもっと評価されても良いように思う。「もう少し画風を現代的にしてくれれば」と感じる向きも多かったのではないか。ストーリーテリングは今の漫画家にも十分参考になるだろうし,キャラクター造形も分かりやすくとっつきやすい。手塚治虫のように若い漫画家の感性をどかどか作品に取り入れる柔軟性があり,エロ度ゼロな健全さを捨てても読者へ媚びるような要素がもう少しあれば,別な展開があり得たかもしれない。そう考えると,麻宮サキだけの漫画家として忘れ去られるにはちともったいないなぁ,とも思うのである。
 ・・・などと言いつつ,ふと我に返ればワシの書棚には和田慎二の商業作品が一つも無いのである。1987年から「花とゆめ」を読み始めたワシには「ピグマリオ」が一番近しい作品なのであるが,大河ドラマの割りには最初から全部読んでやろうという気分が起きなかった。手練れ過ぎて,一作一作,以前の連載分を遡らなくてもストーリーの流れとキャラの把握がすぐにできた,というせいであったような気がする。連載は欠かさず全部読んでいたし,大団円までお付き合いしたにもかかわらず思い入れがイマイチ少ないのは,「健全な面白さ」以外の要素が少なかったせいかなぁ,と今となっては思うのである。貴重な働き盛りの時期を「ピグマリオ」に消費されてしまった,という和田自身の述懐も読んだ記憶があるが,本人としては「そこそこの人気」(決してアンケート一位,というポジションではなかったと記憶する)に甘んじる作品をだらだら続けてしまった,という気分もあったのかもしれない。
 1990年代に突如連載を投げ出すようなエンディングで「花とゆめ」を飛び出してからの活躍ぶりについては,前述したように横目で見てきただけなので,よくは知らない。しかし,結構時間も自由に取れて好きに活躍できたのかなぁ,という感じは伝わってきたので,人気の程はともかく,最期の最期まで仕事を続けられたというのは本人的には幸福だったのかな・・・とワシは勝手に思い込んでいるのである。
 この記事のトップにあげた同人誌は新谷かおるとの合作で,新谷のストーリーに和田キャラがはめ込まれている,という感じのものである。1999年の夏コミで販売されていたものを,「こんなの売ってた!」という情報を得て自分のサークルから飛んで買いに行った覚えがある。その場で読んでも結構面白かったが,今読み返してみても色あせていない。逆に,色気満載の新谷キャラが和田の地味な画風に華麗さとエロさを加えていて,ブレンド具合が絶妙である。もう少しこの新谷かおるの貪欲さが和田にあればなぁ,と思わずにはいられない。
 合掌。