November 3, 2005

究極の孤独

 「若い人はシングルは男女問題だと思っているみたいだけど,それはちがう。シングルというのは老人問題なの。若いのがひとりなのは当たり前なんだから」(「歩くひとりもの」P.140より)。

 NHKスペシャルは,たまに興味のある内容の時は録画して見る。しかし,これはたまたま時間とザッピングのタイミングが合って見ることになった番組であった。
 「ひとり団地の一室で」(2005年9月24(土)放映)。これはまさしく老人問題としての,しかも男性のひとりものを扱った番組である。一言でいって,本番組に登場するひとり者は悲惨極まりない。体の調子が悪くて働けず,医者に行く金もない。病気になって働けなくなった途端に妻から離婚を言い渡され,ひとりで団地に越してきたが,部屋から一歩も出ず部屋は荒れ放題。挙句に孤独死。そういう状況を少しでも改善したいと奮闘する団地役員氏とそのお仲間達の活動を主軸に据えているが,ひとりものの悲惨さが際立って伝わるように編集された番組であった。そーゆー悲惨なひとりものばっかりなのか? と疑問に思わないではないが,「ひとりものの末路は孤独死」という事態が多いことは紛れもない事実であろう。この番組が放映されるかなり以前にも,東京都の警察の仕事の多くは老人の孤独死の後始末だ,という話を聞いたことがある。

 というわけで,酒井順子が言うように,負け犬は男女問わず「腐乱死体」になることは覚悟しなくてはなるまい。勿論,今はこうしてバシバシキーボードを叩けるのも元気で若いからであって,いざ腐乱死体にそう遠くない年齢になったときに平気でこの4文字熟語(じゃないか)を口に,あるいはキーボードに叩き込めるのか,と言われれば,かなり自信がない。今のところは,50を過ぎたところで,貯金に見合った額で入ることのできる有料老人ホーム探しに勤しむ予定であるが,そもそも現在のような日本経済の状態で,そんなところに入るだけの余裕があるのかどうか。それ以前に,街中を彷徨う,臭気プンプンのうらぶれたホームレスオヤジになってしまう可能性が高いのだから,屋根のある所で死ねるだけでもマシかもしれない,と本気で思う。

 かつて「老人Z」というアニメ映画があった。「原作・脚本・メカデザインが大友克洋、キャラクターデザインは江口寿史」(from Amazon)という,どうしてこの二人が関わって作品が完成に至ったのか,日本の7不思議に数えられているぐらいの珍しいアニメだが,さすがに面白い。脚本のくだらなさ(誉めてるのよ)とキャラクターの可愛さが共に際立っていて,まさしくワシ好みの作品であった。そーいや,これもNHK(BS2)で見たんだったな。ワシの一生はNHKと共に終わるよーな気がしてきたぞ。いやそれはともかく。
 この作品で大活躍するのは,暴走する介護マシンとそのモルモットにされた独居老人である。この老人は痴呆の症状も出始めた足腰の立たない要介護状態でありながら,妻とは死別して一人暮らしである。故に厚生省(現・厚労省)が開発されたばかりの介護マシンの実験台として目をつけるのだが,この老人の「かーちゃん(妻)」への想いがマシンの人工知能に伝わって,老人が理想化した妻の人格を宿してしまうことになる。

 あれ? これって,あの千葉の公営住宅に越してきたひとりものの男性と境遇が良く似ているな・・・と気が付いた。離婚と死別,理由は異なるが「かーちゃん」が今はいない,故に寂しい,という状況は同じではないか。

 アニメと一緒にするなよ,と怒られそうだが,「萌えるひとりもの」の妄想だと思って許して欲しい。ワシは老人Zを見ながら,主人公の老人を羨ましく思っていたのである。勿論,エンターテインメントとして切れの良い演出が施されていたせいもあろうが,「かーちゃん」とかぼそく言い続ける老人は,ワシみたいな純粋培養ひとりものよりも真っ当な男に思えて仕方がなかったのである。
 対して,映像は暗くてすさんでいたけれど,あの公営住宅に越してきたひとりものの老人らは,ひとりになった寂しさを嘆いていたが故に,真っ当な人生を歩み,真っ当な感情に苛まれている,これはとても良いことなのではないか。人間性とは,このような寂しさを知る老人らにこそ宿るのではないか。

 おなじ腐乱死体になるにしても,そこに至る過程において,純粋なひとりものに比べれば,老人Zも公営住宅の老人もずっとずっと真っ当であり,寂しさに泣くことによって魂も昇華できるのであろう。

 孤独の寂しさを忘れた人間は,自分以外の人間を求めることもしないから,この世に存在しなかったことなる。

 それこそ,究極の孤独って奴なんじゃないかしらん?

Posted by tkouya at November 3, 2005 3:00 AM