August 9, 2008

Dr.取りに関する私見

 apjさんの戦闘的な文章はワシの愛読するところであるが,その中にDr.(博士号)取得に至る経緯をつづった文章がある。簡単にまとめると,主査たる教授が示した研究テーマがとてもDr.取りには不向きなもの(とapjさんは判断した)だったので,テーマ変更を自分から仕掛けてめでたくDr.取得に成功した,という内容である。当然,教授のコメカミには青筋が立つわけだが,apjさんもさるもの,お返しすることを忘れていない。

一度だけxx教授(伏字はKouyaによる)にプレッシャーをかけられたことがある:「これだけ金をかけて学位をとれなかったら、この部屋(3階)の窓からお前を放り出すぞ」。私は即座に答えた。「その前に○○さんをつれてこい。東京湾に沈めてやるから。」これが、多分、測定開始の合図だった。

 いやぁ,スッキリする啖呵ですね。ワシなんかグズの意気地なしなので,主査の先生からDr.論文提出直前に驚天動地の指示を出されても直接文句も言えず,間に入ったワシの大師匠に愚痴る(と,いうことにしておこう(笑))のがせいぜいだったモンなぁ。

 ・・・とシミジミと自分のDr.取り時代の回想にふけってしまったのも,ワシが見聞してきたDr.取りの成功・失敗の具体例をつらつらと考えてみるに,結局は「環境」と「能力」というものがDr.取りに多大な影響を与えているのだなぁ,と,apjさんの記事を読んで会得できたからである。

 「環境」とは,この場合,「師匠運」ということになる。「運」とは何か? 簡単にまとめると,師匠(主査)の(1)研究者としての能力,(2)学内における立場,そして(3)弟子(院生)との相性である。従って最高の「環境」とは,国際的にも知名度の高い優秀な研究者であって,学内でも人格者で通っており,弟子には常に優しく,そして時には毅然と指導してくれる師匠を持つ,ということに尽きる。
 が,そんな奇跡みたいなこと,そうそう起こるわけはないのである。むしろ,全てが逆になることだって珍しくない。つーか,その方がむしろ普通だと考えた方がいい。・・・え,そんなの酷いって? 学費を取らない噺家ならともかく,安くない学費を納めているのに酷い主査に当たってしまうことが普通だなんて非道だという訳ね,あーたは。
 じゃ,言うけどさ。その師匠を選んだのは,他ならぬ,アンタでしょ? 学部で卒研に入る時だって,第n希望まで書いたはずだよね? ましてや大学院だよ。イヤなら他の先生でも,他の大学院でも,他の専門分野を選んだっていいじゃない。今なら2ちゃんねるでもどっかの掲示板でも,その先生の評判ぐらい,すぐ調べられるってモンでしょうが。それを怠ったとすれば,アンタが悪い。
 え?修士の時に誘われて,ついDr.まで進んじゃってから,その師匠についていてはろくな就職先も業績も得られないどころかDr.取得も危ういって分かったって?・・・そりゃ,アンタがバカなだけじゃん。・・・あー泣くなってば,もう三十路も近いってのにもー,みっともないてーの。そーゆー時こそ,apjさんみたいに,自分の「能力」を発揮するしかないじゃないのよ。

 ということで,「環境」が悪い時こそ役に立つのが自分の「能力」である。apjさんのように自分でテーマを変え,それを主査に納得させる(喧嘩腰だけどね),これも一つの能力である。だけど,これってあんまりお勧めしない。スマートじゃないし,第一,Dr.取っても業績がゼロでは今後のキャリアにマイナス効果にしかならない。
 ということで,ここは絶対に,査読論文を自力で書いてacceptさせるべきである。それも内規以上の本数とクオリティで。それが無理・・・なら,Dr.取りも研究者への道も,すっぱり諦めるべきだ。そこが自分の能力の限界と見極め,他の道を模索すべきである。
 ワシは冷たいことを言っているのだろうか? いやぁ,違うね。絶対違う。どこの学術雑誌でも,主査と共著でないと論文は受け付けない,なんて規約を設けているところはない。自分一人でも書いて投稿しちまえばいいのである。もちろん国際的な権威が共著であれば論文が通りやすいということはあるだろう。ズブの素人が論文の体裁を整え,新規性を持ったテーマの内容を簡単に執筆できるわきゃないのだが,それこそ自分に「能力」があって,かつ,努力の方向性を間違わなければ不可能ではないのだ。主査にぐうの音も言わさぬほどの業績を稼いでしまえば,多少の嫌がらせはあるかもしれないが,すんなりDr.を出せそうな人間の主査になることは自分の業績にもなるわけだから,遠からずO.K.を出さざるを得ないのである。
 そしてもしこれを実現できたら,それこそ自分の研究者としての「能力」を開花させたと胸張って生きていけるのだ。「環境」がいいところでぬくぬくとやってきた人間よりも,よっぽどまともな研究者になれるんじゃないのか? ・・・いや,性格は多少なりともねじ曲がっちゃうけどさぁ,どーせ研究者なんて変人の集まりじゃん。犯罪を犯さない程度に社会生活が送れるなら,気にするこたぁないのである。

 Dr.がすんなり3年で取れるかどうかってのは,「環境」の要素が大きいようだ。でも,年数を継ぎ足せばDr.が取れるかどうかは「能力」で決まる。・・・いや,Dr.が取れる学内あるいは職場「環境」が一番要因なのだ,とあくまで言い張る人がいるかもしれない。だけど,それも自分の選択の結果だと思えば,やっぱしその手の「環境」を選ぶ「能力」の問題って気がしないでもない。・・・なんだか「鶏が先か卵が先か」的な堂々巡りになってきたのでこの辺でやめておくけど,ワシの見聞した範囲では,「環境」に寄りかかってDr.を取った人って,その後のご活躍の程度は甚だ良くないよーに感じるんだよねぇ・・・って,これも僻み根性の色眼鏡で見ちゃっているせいなのかしらん?

Posted by tkouya at August 9, 2008 10:21 PM