[ Amazon ] ISBN 978-4-584-12264-8, \752
だんだんこのblogのぷちめれ,マンガ,数学,コンピュータの本を除けば,内田樹と小谷野敦の著作で埋まりつつある。それも当然で,今の時代,あんまし自分に耳障りの良い言論ばっかり読んでいても,それが真実である気が全くしないのだ。TVを見なくなってしまったのも,時間が取れないこともあるが,一部の報道番組やドキュメンタリーを除けば,何だか庶民派を気取った「生ぬるい癒し」的コメントに満ちていて欺瞞的だと感じ始めたからでもある。国債発行残高は世界一,そのくせ少子高齢化の進展も世界一のスピードで進んでいて,社会システム,とりわけ税金の使い道については縮小均衡を目指さねば日本が持たないという状況なのだから,そうそう癒しばっかり求めていても問題の解決には繋がらないのは当然である。
その点,ネットの動画コンテンツやニュースサイトの情報,個人blogやTwitterでは,玉石混交なれど,結構真実味のある耳の痛い意見がたくさんあって,こっちを見聞きしていた方がよっぽど面白いし刺激的だ。とりわけ愛読しているのが内田樹と小谷野敦。ウチダの言論が自省的・メタ的な志向を持っているのに対し,コヤノのそれは実証主義的文学研究の延長線上でひたすら現実的・他罰的という,対照的な論者がこの二人なのである。一般にはコヤノの短兵急な批判文の方が耳に痛く感じられるし,それを武器に盛んにあっちこっちの論者に噛み付いては無視されまくっているようだが,人の悪さはウチダの方が数段上,ウチダ的構造主義に基づく怜悧な文は,時に罵倒よりもきっつい絶望に落とし込むこともある。商売のウマさではウチダはコヤノとは格が違うので,絶望の谷に突き落とすのではなく,谷底を見せつつ,向こう側の「希望」にうまくロープを渡してくれるから,読後感は爽やかである。しかし渡った後には「絶望の谷底」があることをワシらいたいけな読者に植えつけてしまうのである。ま,普通はこれを「達観」と呼んでいるようだけど,ね。
小谷野敦の言説は,「中庸,ときどきラディカル」という著作があるように,現実を見据えた中庸的なものがほとんどで,理想主義的なところには決して流れない。その分,客商売としては最低なところがあって,「もう少し愛想があっても良いじゃないの」と思わないではない。ファンタジックなメタ的思考は皆無で,「証拠はこれとこれとこれだ,なにか文句あるか」という言い回しが多い。本書でもこれでもかこれでもかというぐらい,文学研究者の実名とその有り様を挙げ,「だからぁ,実態はこんなもんなんだって」という愛想のない記述がひたすら続くのだ。これが有名な「小谷野節」なのである。
しかし,ワシにはこの小谷野節が痛快なのだ。愛想のない文章は,裏を返せば,地に足の着いた懇切丁寧な記述とも言えるし,何より,メタ空間に逃げないところが潔い。例として,読む人が読んだら激怒しそうな記述(P.103~104)を挙げる。
要するに,文学部は一流大学(注:旧帝大・早慶クラス)にだけあればいいのである。同じく(注:文学研究のための)大学院も一流大学だけにあればいい。もっとも,本当は,二流大学以下の大学に学んで医者になるだのというのは,人命にかかわるだけに問題なのだが,国民全体に行き渡るほどに優秀な頭脳が存在しないのだから,仕方がない。これは高校や中学校の教師もおなじで,もし一流大学卒の人たちだけが中学校や高校で教えていれば,生徒の学力ももっと向上するだろうが,それだけの量の頭脳が存在しないのだから仕方ない。理工学部とかの「実学」は,さほど頭が良くなくても,工程さえ分かればいいので,二流大学でも,まあ意味はある。
普段から小谷野の文に接しているワシなぞは,いつもの論が出たなと思うだけなのだが,真面目な人であれば口角泡を飛ばして反論してきそうだ。しかし,三流大学出のワシとしては,教師生活16年の経験を踏まえると,この文章は統計的に見て概ね「正しい」と認めざるを得ないのである。怒る気には到底ならず,むしろ,口は悪いが世の真実を淡々と語ってくれているように感じるのだ。
本書全体で,小谷野は,大学という場に雇用されながら文学研究を行う人間は少数でいいと主張し,過去から現在に到るまで,文学部における人事や論争のゴタゴタを述べ立てる。ワシの乏しい知見では,たとえ実学的な学部でもこの手の議論や出来事はついて回るし,むしろ「実学」と絡むだけにメンドクサイ出来事は文学部より多いんじゃないかという意見も出てきそうだ。
その意味で,小谷野の個人的な恨みつらみがドライブして出来上がってきた本書は,何故か,「文学」を「工学」でも「理学」でも「農学」でも「医学」でも置き換えたところで,概ね成立してしまう不思議な汎用性を備えている。多分,これは小谷野の実証的な物言いが功を奏しているのだろう。学問の相違はあれ,大学なんてのは人間がゴチャゴチャとより集まって行われる営みの一つに過ぎないのだから,事例をかき集めてみれば共通部分が多いのは当然と言える。従って,本書は,どんな学問であっても「研究という不幸」はついて回るという,ごく当たり前の「中庸」的なことを主張しているに過ぎないのだ。