月曜日の日記を書こうとしたら,もう日が変わっていた。ちぇっ。
Linux Conference 2003のプログラムが公開された。むぅ,11/1(土)は最終日で,しかも基調講演なしかあ。こりゃ人が少なそうである。とりあえず,Closing Sessionまでお付き合いしてみることにしよう。あああ,原稿がまだ出来てない~。
寝ます(久々だな,このフレーズ)。
起きました(これは初めてではないか?)。
出勤前に,Intel Fortran Compiler for Linuxをインストールしてみる。サポートなしでNonprofit use onlyであるが,期限なしで使えるのはありがたい。もっともAcademic価格なら大した額にはならないのだが。
おお,これは簡単。install scriptはよくできている。自宅のPIII 800 MHZ + RedHat Linux 9.0にすんなりインストールできた。では,懸案のFMLIBをコンパイルして試してみようぞ・・・と始めたら,FM.f90のコンパイルが30分以上経っても終わらない。さすがFortran界の多倍長の雄であるわい。・・・などと感心している暇もなく出勤時間となり,そのまま自宅を出る。
cat /proc/meminfoしてみると,
[user@homemachine user]$ cat /proc/meminfo
total: used: free: shared: buffers: cached:
Mem: 260354048 256819200 3534848 0 1527808 201031680
Swap: 534634496 267313152 267321344
MemTotal: 254252 kB
MemFree: 3452 kB
MemShared: 0 kB
Buffers: 1492 kB
Cached: 14860 kB
SwapCached: 181460 kB
Active: 204448 kB
ActiveAnon: 191552 kB
ActiveCache: 12896 kB
Inact_dirty: 12208 kB
Inact_laundry: 8048 kB
Inact_clean: 4520 kB
Inact_target: 45844 kB
HighTotal: 0 kB
HighFree: 0 kB
LowTotal: 254252 kB
LowFree: 3452 kB
SwapTotal: 522104 kB
SwapFree: 261056 kB
となって,どうやら256MBのメインメモリでは足りないらしく,Swapを引き起こしているのが分かる。どーりでHDDがやかましい訳だ。
教訓: 性能の良いコンパイラを使う時には,ハードウェアにもそれなりの投資をしましょう。
んが,悪いことに,glibcとの不整合があって,コンパイルしようとすると
[user@home user]$ ifc test.f
main program
7 Lines Compiled
/opt/intel/compiler70/ia32/lib/libIEPCF90.a(f90fioerr.o)
(.text+0x4d3): In function `f_f77ioerr':
: undefined reference to `__ctype_b'
となって,Executable fileが生成されない。どうやらFAQのようである。ちょうど,linux-users MLでも話題になっていた。
glibcをダウングレードするか,ダウングレードしたものをstatic linkして使う他ないのかなあ・・・とIntelのSupport Forumを読んでいたら,ctype.cなるソースを作って下さった奇特な方がおられたので,試したらおっけーでした。うーむ感謝感謝。
久々に,Fortran90と戯れてみるかなぁ。むっかし書いたソースがまだ残っているから,あれこれ弄ってみるもの一興か。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-344-00390-X, \952
戦争論3が出版されて,編集長の漫画二編が無事帰ってきた。これが一番の目当てなんだから,休まれては困る。後の連載は後回し。
んが,ボチボチ主張が固まってきたこともあって,繰り返しが多くなってきた。故に,読者としてはちと飽きてくる。今は中断している仏教論をまとめて一冊にしてくれないものか。
戦争論3出版後のよしりんは相変わらず忙しく全国を飛び回っているようだ。金沢の護国神社へ行ったと思えば,新装開店して大にぎわいのJR札幌駅隣接のホテル日航に一泊し,洞爺湖のウィンザーホテルに宿泊したとのこと。
それはいいのだが,洞爺湖の豪華ホテル,拓銀破綻を知るものとしては複雑な感慨を持ってしまう。カブトデコムに膨大な資金融資を行った結果,取り返しの付かない不良債権を背負ってしまったのが直接の原因なのだが,その投資先の一つがこのホテルなのである。
今は普通に運営されているようで喜ばしいが,その豪華さの裏には札幌に本店があった唯一の都市銀行の倒産劇があったのだ。それを思うと,今回のゴーマニズム宣言EXTRAを素直に楽しめないのである。ま,よしりんに罪はないのだけれど・・・ね。
まだ夜中なので,天気不明。天候が安定しない典型的な秋の気候が続く。台風シーズンは終わりのようだが,でかい地震が今年は頻発している。釧路地方で震度6とのこと。義弟(なんだよなあ,実感湧かないけど)の実家は大丈夫かしらん?
Google Toolbar Version 2をインストールする。PageRankの数字が明確に表示できて,わかりやすさに磨きがかかった。んで,わしのWebページのPageRankはというと5/10とのこと。証拠はこれ。わしの職場のメインページと同じランクやんけ。どうやらわしのページ内リンクがそのままカウントされてしまっているようである。まあ,トップ以下のページでも独自にリンクされているところ(BNCpackとか)があるからなんだろうけど,客観的に見てどうなのかしらね?
今学期から,数学関連科目を多数引き受けることになった。それはいいのだけれど,さーて何をやろうか,となるとかなり迷う。わし自身は応用系の人間であるから,理論屋さんから見ればヘタレ人種である。しかし,世の中,立派な人間よりもヘタレの方がずっと多いのであるから,大衆迎合的に考えれば,わしみたいなのが教えるというのはそれなりに価値のあることなのである。
藤原正彦の「遥かなるケンブリッジ」には,著者があるカレッジのチューター(個人教授)となる経験が描かれている。数名の学生に対して家庭教師のように濃密なゼミを持つのであるが,そこでスポーツマンタイプの学生が,親しくなった藤原にこんなことを漏らす。カレッジの教授陣は,理論系より応用数学系の方向へ学生を導きたがっている。応用なら理論を適用するだけなので良い成績をとりやすいから・・・と。これは一面の真実を突いている。「良い成績」が「良い学問」に繋がるかどうかは首をかしげるけど,ね。
純粋数学の専門書は,ものすごく密度が高いので,読みこなそうとすると時間がかかる。しかも,馬車馬のように高度な次元へと一直線に誘うものだから,んなもんいらないこの程度でいい,と感じるヘタレにとっては敷居が高すぎて,目標意識を持つことが難しい。その点,応用系だと,解決すべき具体的な問題が提示されているから,こういう問題の前提に対してはこの理論を使えばいい,この手法を適用すればいい,という道筋がとりやすい。特にコンピュータの馬力に任せた試行錯誤的シミュレーションができれば,考えるための材料も得やすい。
わしが悩むのは,最初っから応用系を目指す人たちに必要な理論をどのように学習してもらうのか,ということである。理論系を目指して「挫折」しちゃった人たちは,そこに至るまでの理論的蓄積が期待できるから,まだいい。それが全くない場合は,目標意識を保つことができる程度に演習を行い,そこで使う理論を最低限提示し,しかも完璧な証明まで至らないまでも,その理論が正しいことを納得してもらうぐらいの「説明」を行う,という形を取ることになる。このバランスをどうするか,で悩むのである。
ま,悩んだところで,結果として「いい授業」が可能かどうかは怪しいのであるが,こーゆーことに少ない灰色の脳細胞を使うのは嫌いではないので,今日も,うじうじと結論の出るような出ないような思考に時間を費やしているのである。
風が強い上に,昼からは雨までぱらついてくる,いやんな天気。明日はちっとはマシになるようである。
12月まで研究集会もなし,などと書いたら,本日,Linux Conference 2003採用通知が届く。11月1日(土)講演とのこと。前日から泊まり込んで,大阪でもぶらついてきますかねぇ。
つーことで,10月3日までに原稿を出せとのこと。あーもーまた仕事が増えた~・・・と自分から申し込んでおいて,贅沢なことをぬかす私。
e-Learning学会に入会すべく,書類を書く。これでえーと・・・日本応用数理学会,日本数学会,情報処理学会,SIAM,日本Linux協会,e-learning学会・・・6学会か。銭ばっかりかかるわい。仕事上の投資みたいなモンだから,いいんだけどさ。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-02-259835-2 \1200
人間国宝&文化功労者の噺家と,シュバリエ賞&紫綬褒章作家との対談をまとめたもの。筒井によれば,新聞に掲載されたのはこれのダイジェスト版で,「限られた紙面」であったために「面白い部分は大きく割愛」されたものだったそうである。4時間に渡る長丁場の対談にしては「朝日の謝礼というのは失礼ながら恐るべき低額」なので,本にすべきと筒井は主張し,もう一度対談を重ねて本書が出版されるに至った。
米朝という人は,私がものごころついた時には既に上方落語のの大御所で,オーソドックスな噺家というイメージがあった。が,噺を聞いてみると,マクラでは時事ネタを織り込んで観客を引きつけるだけの現代性を持っており,伝統芸能としての落語をタダ語るだけの人ではない,ということが段々と分かってきた。「大物」というのはこーゆー人のことなのであるな。小松左京と親交があるだけあって,SFを含めて本をよく読んでいるよなあ,と感心する。本職の落語に至っては,ちくま文庫から自身の解説付きの選集が発行されているが,まあ底知れない知識があって,弟子のざこばに言わせると「広うて深うてむちゃくちゃやしね」となる。
といっても,それだけ深いと自らその知識を披露するにも限界があり,引っ張り出すだけの力量を持った相手が必要である。本書の対談は,勿論,大御所同士のタッグを見せる目的で設定されたものであろうが,さすがに筒井は一歩引いて,米朝の底知れぬ知識を読者に開陳するべく,楽しみつつも奮闘しているように感じた。
んで,読んでいる方と言えば,古典芸能には全くもって暗い上,大阪の知識が皆無であるから,脚注は充実しているとはいえ,よく分からない部分が多い。それでも,語られるエピソードの多くに感心したりにやりとしたりさせられ,一気読みしてしまった。「分からない部分もあるけど,そこも含めて面白い」という楽しみ方が出来れば,なおよし,という本である。
ふと気が付けば,夜の草むらからはコオロギ(かな?)の声が聞こえてくる。先週までの残暑が嘘のような肌寒い,風の強い一日であった。
2週間に渡る学会ラッシュが終了してみれば,12月まで東京に出る用事も,研究集会に出席する予定もなく,ひたすら仕事に邁進する(ホントか?)秋となりそうである。全く,昨年までは毎週非常勤で横浜に出かけていたことを思えば,随分と時間に余裕が出てきたものだ。それを埋め合わせるように,あれこれとまとめたいネタが湧いてきたのだろうな。学者冥利に尽きるわい。ふっふっふ。
しかし,こうデカイ本屋に出かけられない日々が続くと禁断症状が出そうである。いわゆる,「Amazon症候群」という奴で,ちょっと時間が出来るとブラウザを起動し,新刊をチェックしたりするのである。今ちょうど岩波書店から,応用数理シリーズをまとめなおした単行本がワサっと刊行されているから,来月あたりに耐えきれなくなって全巻購入しかねない。今日もSIAMの新刊を購入してしまったが,これはきっと禁断症状の前触れであろう。なまじっか小金があるのも考えものである。
一昔前ならきっとPC用パーツをチマチマと購入していたであろうが,もうPCには大して興味がなくなっており,特に欲しいソフトウェアもないため,研究用のPC Clusterの価格チェックをする以外は通販ページを見ることもなくなってしまった。次年度は一年ぶりに海外に出かけることになりそうだし,旅費にふりむけることにしようっと。
GMPのVisual C++.net ネイティブ環境対応バージョン。他にも,MinGWで作ったものがある(但し,import libraryは自分で作る必要がある)。Assemblerルーチンも対応させたのはこれが始めてではないか? リタイアした技術者の方が作られたようで,敬服する。
C++のクラスライブラリを使って,Visual Basic環境で気軽に多倍長計算が可能になると嬉しいのだが,誰かやらないかな? ・・・わしはやらんぞ。当分。
某学会で一度リジェクトした論文が復活して採録されたようだ。Editorとすったもんだしたのでこちらも気分が悪かったが,ま,一安心。どんな内容になっているか,楽しみである。最も,新規性については今でも疑問なのだけれど。
JSIAMから回ってきた査読論文,滅茶苦茶めんどくさい。原書の補題のミスを指摘した論文が以前掲載され,その論文における間違いを指摘する論文なのだ。つまり間違いがRecursiveになっている。その上,翻訳の方では修正がなされていることになっているが,今回の論文の指摘を見る限り,それは修正になっていないようなのである。この時点で頭がクラクラしてくる。で,更にややこしいことに,一見したところでは以前の論文のどこが間違っているのか,さっぱりわからないのである。
つまり,これを査読しようとすると,以前の論文,今回の論文,原書,翻訳書と4つの文献を相互参照しながら,もつれた論旨を紐解くところから始めねばならないのだ。うがーっ,引き受けるんじゃなかったっ。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-370701-0, \629
学者さんの書いた本は文章が晦渋で分かりづらいものが多い,と巷間よく言われる。ま,ね,一昔前,研究室でふんぞり返っていられた時代なら,それは権威の象徴を高める小道具になったかもしれないが,今は全く逆である。いかに分かりやすく,しかも内容のレベルを落とさずに語れるか,その能力が学者先生の評価を定める基準となっているのである。
問題は,そーゆー,分かりやすく人に伝える文章を書く訓練を,大学とゆーところは全く教えてはくれなかった,とゆーことにある。せいぜい「ゆー」ではなく「いう」と書け,という「てにおは」チェックレベルが,卒論指導で行われる程度であった。故に,分かりやすい文章を書く能力は,分かりやすい文章をたくさん読んで自学自習で習得せねばならなかったのである。
そこで本書の著者,ウチダは「小田嶋隆」を学習し,その結果,分かりやすい文章を身につけるに至ったのである。よって,随所にオダジマ風文章が出現することになった。
オダジマ風文章の特徴に,吐き捨てるような短いセンテンスで改行し,ハードボイルドのパロディ的な雰囲気を出す,というものがあり,本書でも至る所で出現する。例えばP.236の
これではブランショ的な無限後退だ。
「おれは自分の背中を見られるぜ」
「そういうおまえの背中を俺は見ているよ」
「というおまえの背中を俺は・・・」
うんざりだ。
やめよう。
なんてのは正にそれである。論理的な文章の最後の締めがこれぐらいピッタリ填ってしまうと,お見事としか言いようがない。
解説の高橋源一郎曰く,「極端ではない思想」が詰まった,コヤノが言うところの「中庸」が徹底しているオダジマ風思想書は大変に面白い評論集であった。んが,それは「極端」を知っていなければ面白がれない代物ではないかという気もする。商業的にはやっぱり薬より毒を持っている方が重宝がられるから,たくさん読むと「ああやっぱりどっちつかずの結論ね」と飽きられてしまいかねない。保守と革新(というくくりももはや有効ではないような気がするが)のどちらにもなじめず,「ああ,俺はどっちつかずの人間なんだ」と気が付いた時に本書を読めば,「それもありなのね」と気が楽になる。が,たくさん読んでは飽きてしまう。適度に服用してこそ役に立つ思想の常備薬,というのが,私にとって一番ピッタリ来る表現である。
さわやかな風がそよ吹く秋の空。おお俳句になった。気持ちの良い一日。が,朝晩はぐっと寒くなってしまったので,慌てて長袖のパジャマを引っ張り出した。
先日オープンしたばかりの掛川花鳥園の招待券が郵便ボックスに投函されていた。しかも2枚。入場料が\1050だそうで,地元民がrepeaterになる率は低そうである。11月に家族が押しかけてくる予定なので,その時まで取っておくことにする。
明後日から講義開始。ああ短い夏休みだった。充実していたか,と言えば・・・難しいところである。あんだけ論文論文と騒いでいて,まだ出来上がっていないのである。ただ,ここに来てネタが一本増えたので,ちっと嬉しい。掲載されるかどうかは不明だが,投稿できる準備が整ったことはめでたい。
静岡に来てから早5年目。ようやく研究と教育のサイクルがかみ合ってきたようだ。この勢いで○○できるよう,もっと精進しよう。
あ,19Inchの液晶ディスプレイ,しかもTV Tuner付き(PC Watch)。職場ではNANAOの19inch CRTを使っているのだが,これがでかくて邪魔になっている。6万円台になったら購入しようかしらん。
そろそろタオルケット一枚では風邪を引きそうな朝になってきた。昨日は疲れてバタンキュー。出張帰りに仕事なぞするものではない。
うーん,ATXの次はBTXかあ(PC Watch)。合理的なデザインであることは確かだが,むー,従来のケースが全く使えなくなっちゃうのは痛い。ま,暫くはIA-32アーキテクチャと格闘することになるのだから,関係ないけど。
あっつぅい~京都から,じめっとした掛川へ帰宅。今回のJSIAM年会では講演しなかったのだが,何か充実していた。高々数セッションがpallalelに催されているだけの小規模な学会なのに,顔見知りがやたらに多くて挨拶ばっかりしていた感がある。むー,FIT2003とはえらい違い。次年度も,FIT(同志社大)とJSIAM(中央大)に参加することになるのかなぁ。
宿が東寺の方向にあったため,京都駅からバスでえっちらおっちら三日間会場へ通い詰めることになった。おかげで通の名前が覚えられて,京都中心部の地理が把握できた。また12月に研究会があるのだが,これは出席できそうもない。その分,頑張って論文を書かねば。
職場に戻ったら,「ソフトウェアとしての数値計算」の冊子が届いていた。結構立派で,印刷もきれい。KnuthとTeX日本語化に尽力された方々に感謝せねば。その割には内容が薄っぺらいのは情けないが。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-253-17881-2, \657
いやあ懐かしい懐かしい。週刊少年チャンピオン黄金時代の良心的漫画作品がついに文庫化された。原作者は逝去されてしまったが,わたしゃこの人の名ををこの作品で知ったので,つい最近までSF作家という認識がなかったぐらいである。
ロン先生という渾名(本名は如何に?)のビンボー学者が主人公の地味な作品であるが,脇役に元太というコメディリリーフと,洋子という色気のあるヒロインを配置して,生物にまつわる知識を織り込みつつ,オチのある質の高いユーモア短編になっている。コドモだったわしは楽して知識を得られる学習漫画が好きだったが,これは「学習」という意識を全く持つことなく,純粋なエンターテインメントとして楽しんだことを覚えている。
惜しむらくは,時代を先取りしすぎていて,相応しい評価を得られずに連載が終了してしまったことにある。岡崎二郎がきちんとした科学知識を織り込んだ短編でそれなりにヒットしたことを思えば,漫画の人気が絶頂期を終えた1990年代後半あたりに登場していれば,楽にどっかの漫画賞を獲得していただろう。
前述の通り,原作者は逝去されているから,今となっては作品を継続することは不可能である。んでも,こうやって文庫化されて,旧作といえども復活したのであるから,是非ともここでこの作品の先見性を評価してやろうではないか。日本にも誇るべき「ファーブル昆虫記」に匹敵する漫画があったのだ,と。
前日は毎度の偏頭痛のため,買い物に出かけた以外は一日中引きこもり状態。ここんとこ頭痛の回数が増えたようだ。そろそろバファリンを常備薬とすべきか。こんな時間(丑三つ時)に書いているのは早く寝過ぎたせい。
今日は静大で定期試験の後,○○という時間の無駄としか思えない行事がある。明日からは京都で応用数理年会。金曜日に帰宅予定。隙があれば日記を書くが,多分ないでしょうな。少しは後期の準備もしなきゃ。論文の準備もしなきゃ。頑張りまっしょう・・・と書いて,頑張ったことがあったのか>わし。自省する。
SIAMの会員更新を行う。応用数理学会から回ってきた査読論文に関する資料集めをする。京都にいる間に仕上げたいプログラムをNote PCにコピーしておく,等々の雑用を行って帰宅。ボチボチいこか。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-7542-3220-8, \1600
筒井康隆原作の小説「パプリカ」を忠実に漫画化した傑作が,連載中断後八年を経て,漫画家曰く「ダイジェスト版」なる第2部100ページを追加して,ようやっと一冊にまとまった。雑誌連載を楽しみに立ち読み(ゴメン)していた私が渇望していた作品だけに,ひときわ感慨深い。
原作の持つ馬力がもの凄いので,果たしてどこまで漫画化できるのだろうかと連載時にはハラハラしていたのだが,「おぉ・・・さすが」と唸らされる出来映えであり,それ故に理屈っぽい漫画家・萩原の苦悩は深かったと思われた。んだもんで,原作の咀嚼がうまくいかずに連載続行が困難になった,という趣旨のコメントを残して中断された時は,がっくりすると共に,まあ仕方がないか,と萩原の誠実さを褒め称える感情が同時に沸き起こったのを覚えている。
今回書き下ろされた第2部については,あれこれ言いたいことはあるのだが,それは全て萩原自身が認識しており(それもまた凄いことだが),巻末の「漫画家覚書」を読んで貰えば済むことであるので,ここでは何も言うまい。原作者・筒井との対談のおまけまで楽しめる(ジブリ版「旅のラゴス」は観たいぞ!),ちっと高くて500ページを越える分厚い傑作,見かけたら是非とも入手すべきである。配本能力に劣る弱小出版社の本だから,すぐに店頭から消えてなくなっちまうぜ,きっと。
実家から帰ってきた・・・という表現は正しいのだろうか? いつも迷う。実家に「帰っていた」のか,実家から今の住居へ「帰ってきた」のか,全くこの「帰ってきた」という表現は,軸となる「家」は一つしかない,という前提に依っているためにわしみたいなひとり者には使用が厄介である。
久々にAmazonのレポートをチェックしたら,先月から引き続き「Javaによるアルゴリズム事典」が好調で,クリック数では今のところトップである(といっても一桁台)。何があったのかなあ。ま,ジワジワと評価が上がってきた,ということにしておこう。良書が売れるのは嬉しいものである。
ということで報告まで。
FIT2003に来ており、開放された計算機室でこれを書いている。
札幌に来るまでの道中、経済産業省が公開した「オープンソースソフトウエアの利用状況調査/導入検討ガイドライン」をつらつらと眺めていた。んで気がついたのは、大学や研究機関がオープンソースを担うという観点がまったく欠けているのである。もちろん、この文書はビジネスとしてのオープンソースの活用を目指す企業に向けたものであるから、意図的に無視しているのであろうが、それならそれで一言ぐらいの言及があってしかるべきでは、とは思う。
昔以上に、研究者ってのは自らの研究を広報する必要に迫られていて、分野を問わず、自分のWebページを作って公開している人は多い。そーゆー広報の一環として、成果としてのソフトウェアをオープンソースにするってのは一番理にかなっている行動である。その結果、新たなビジネスに繋がる可能性も広がるわけだ。
そーゆー意味で、本文書は研究者にも広く読まれるべき文書である。後半のGPLの厳密な法的解釈は読んでいて頭が痛くなったが、具体的な事例を眺めるだけでも十分参考になる。
つーことを書いておかないと忘れそうなので、記しておく。続きは帰ってから、と。
ねばり腰で頑張っていた残暑も峠は越えたようで,すっかり涼しくなってきた。朝晩は長袖が必須。明日からは札幌に出張だが,あちらは上着も必要な気温であるようだ。つーことで,9日以降は更新を休む予定。
うーむ,ここで不満を書いたのが功を奏したのか,Phaseのリンクページから,わしのBNCpackの分類が変更され,無事多倍長計算パッケージの仲間入りをしている。それはいい。それはいいのだが・・・うーむ,ますます人の悪口が書きづらくなるではないか。なんたるちーや,さんたーるちーや(古い,しかもCMネタ)。
この日記を気候の話から始める癖がついて,もうどのぐらい経つのだろうか。そのまま哲学的な話題に繋がれば,まるで文藝春秋の巻頭エッセイのような「しみじみエッセイ」(from 小谷野敦)になるのだが,まだ枯淡の心境とは無縁であるため,「独特の臭気」(from Weblog入門)が漂う俗っぽい内容になってしまう。あと25年も続いて赤いちゃんちゃんこを着る頃になれば,少しは好々爺になって「枯れた」内容になるかもしれない。しかし,そうなればもう新規に内容を追加するよりも,バックログを読む方が楽しめるだろう。つーか,その頃にはWeb自体が残っているかどうか怪しいものであるが。
しみじみエッセイと言えば,Y博士(Y元教授の方がいいのかな?)が某コンピュータメーカに在籍していた際に,自分で発行していた社内ジャーナルに連載していた記事をまとめた冊子がわしの手元に残っている。面白い代物かと言えば,うーんと即答しかねるのだが,「しみじみ」であることは間違いない。推敲を重ねたと自分で書いているだけあって,文章はさすがにしっかりしている。
この手のシロウトが書いたエッセイってのは,99%がまとめられることもなく消えていくものであるが,Y博士の場合はそれを恐れたのか,ドットインパクトプリンタで印刷・製本して知人に配っていた。で,その一つがわしんとこにある訳だ。
しかし,それとて経年劣化が激しく,もうかなり文字が掠れてしまっている。Y博士を知る人も少ないだろうし,内容も前述の通りであるから,これも99%の一部と成り果てるのだろう。諸行無常。
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-734005-4, \571
本書は,新潟の口は悪いが頭の切れるオバサンから「凡才」の渾名を賜った,小渕恵三・元首相の評伝である。全くマスコミ受けしなさそうな風采の上がらぬ,弁が立つ訳でもない人だったが,某国立女子大学の哲学教授にまで直接電話をかけまくる実直さでジワジワと内閣支持率を上げ,さてこれから長期政権という矢先に突然死去した,というぐらいは知っていた。が,本書ではその人当人の生い立ち,特に父親に至るまでの系図までさかのぼって調べ上げており,あの政権運営のしぶとさのルーツを知ることが出来た。解説で成田憲彦が述べている通り,本書はいわゆる永田町立志伝という趣は皆無で,よくもまあこれだけ当人に批判的なスタンスのルポライターの取材を,表面上は快く受け入れていたなあと,改めて当人の偉大さ・・・というより奇妙さを感じる。
2003年9月7日(日)のテレビ朝日系列「サンデープロジェクト」は,今月末に控えた自民党総裁選挙特集を組み,現職首相を除く候補者3人を呼んで直接意見を聞いていた。その後を受けて,総裁候補者の意見を黙って聞いていた宮澤元首相が一人で登場し,司会者田原総一郎が質問をぶつけるより早く,開口一番,
「日本の政治の浄化は,進みましたねぇ。これは特筆すべきことだと思う。昔はこんな場所に来て討論会なんて考えられなかった。ガラス張りになりました。」
シミジミと,何かを思い出しながら,断言していた。
個人的な感想だが,リクルート事件以後,政治資金規制が厳しくなり,選挙制度も変わって,たまに報じられる政治家がらみの汚職事件もめっきりスケールが小さくなっていった,そんな時代の変遷の中で,大派閥の長が最後の輝きを放ったのが小渕首相ではないかという気がしてならない。実直さを前面に押し出して自身の健康状態を度外視してもブッチホンをかけ続けた背景には,もうそれ以外に政権の浮揚を図る方策がないという判断もあったのではないか。総裁選挙で争った対立候補者グループには露骨な報復人事を行う一方,これからの政治はガラス張りになる一方であり,少なくとも表面ではマスコミ受けをしなければ何も出来ない,と思い詰めていたのではないか。
ご本人は志半ばで倒れ,話し合いで後を継いだ首相はマスコミからボロクソに叩かれて短期間で退陣し,その同じ派閥から総裁選挙を勝ち抜いた現首相は番記者とマメに会見を行い,中身がないと批判されつつも短い言葉でスパスパとTV受けするコメント発しながら,高支持率を維持している。薄れゆく意識の中で極秘裏に病院に担ぎ込まれた小渕さんは,今のこの状態を予見していたんでしょうかねぇ・・・。
MPIBNCpackをアップ。LGPLに基づいて配布。
今日も暑くなりそうである。日本列島は,関東を境に南と北でまるっきり気候が違ってきている。北は低気圧と前線が通過して肌寒いぐらいだが,南は月遅れの残暑がきつい。米の作柄もがらっと違ってくるんじゃないのか。
Weblogのスタイルシートを修正する。と言っても静的に生成する方ではなくて,わしが使っている編集画面に適用されるものである。これがまた小さい字で見づらいったらありゃしない。少なくとも文章を打ち込むTextareaだけは見やすくしようと,fontsizeを11px->14pxへ変更する。おかげで大分見通しがつくようになった。HTMLもCSSも勉強しておくとこーゆー時には役に立つわい。
出張時に愛用している旅の窓口が楽天に買収される(Internet Watch)。本体の日立造船の不振から,売り払われてしまったようだ。利用者としては,妙な仕掛けを導入したりしないで,現状のままの使い勝手を維持して貰えればありがたいのだが,さてどうなりますやら。
Yahoo! BBしかり,楽天しかり,のし上がってきたベンチャーの雄の営業本位体質ってのは,個人的にはどーも肌に合わない。言葉は悪いが,「成金根性」的卑しさが感じられるのである。競争に勝ち抜くためには仕方のないことではあろうが,それを全面的に肯定する気分にはなれない。そーゆー成金さん達が頑張ってくれているおかげで,一消費者たる自分が恩恵を授かっているにもかかわらず,である。・・・疲れてるのかな?
MPIBNCpackのドキュメントをでっち上げてTVを付けると,おや,養老剛司先生の特集番組が放映されているじゃありませんか。思わず見入ってしまう。学問ってのは思考の自由を与えてくれるものだってことを改めて感じる内容であった。
@niftyの契約を10/1付けで解除することにした。あーさっぱりさっぱり。
残暑に襲われっぱなしであった週の最後になってようやっと寝苦しくない夜を過ごすことが出来た。目覚めすっきり。
職場と自宅のWindows 2000/XPマシンは全てupdateを終えたが,Officeの方はほったらかしだったので,試しにと自宅マシンの方にOffice Updateをかけてみる。しかしこれがめんどくさい。インストール時にイチイチCD-ROMを要求してくるんだもんなあ。わしはOffice 2000をクリーンインストールしているからいいようなものの,Office 95->97->2000と上書きしてきたズボラユーザは大変なんじゃないのかな。
M$のユーザ不信ここに極まれり,と憤るものの,大勢に従う向きには帰って好都合なんだよな。「M$がやっているんだからうちも」と,易々とvalidate必須にできるから。最も,validateするサポート体制を維持できる体力があればの話だが。
昨日の"Revolution OS"の中で,StallmanがGNU Hurdのリリースが遅れた原因として,Microkernelにおける非同期通信の難しさを挙げていた。Linuxはmonolithic(字幕では「一枚岩」となっていた)だから短期間でリリースできたと。
んで,スケールが小さい話で恐縮だが,わしのMPIBNC(「早くリリースせいよ!」「すいません,ドキュメントがまだ・・・」)には非同期通信API(isend, irecv)は使っていない・・・つーか,使い方がよーわからんので使っていない。今のところ,小規模PC clusterでの数値計算しか考えていないので,相手がいつ送受信おっけ状態になるのかワカラン,ということはないのである。これがGAだのAgent-orientedだのということになれば,逆に非同期通信でなければやってられんという世界になるのだろう。ましてやGridなんてことになれば・・・ねぇ。
つーことはだ,Netで繋がったPC同士を全体として使うことがMicrokernel的なものであり,そこであれもやろうこれもやろうという構想が立ち上がって実験を開始している現状は,PC単体ではmonolithicで十分間に合っており,超大規模な,マシンリソースが膨大に存在する環境でこそMicrokernel的発想が有効であることを示しているということなんだろうか? つまりは早すぎた発想ということなのかな。Machなんてどんなもんなんだろう。もうシロウトにはこの辺が議論の限界であるな。
「などと妄想を書き付けている暇があったら少しはドキュメントを書いたらどうだ!」
「すいません」
ということで,少しはドキュメントを書くも完成には至らず。職場ではPC Clusterが相変わらず汗顔計算を進めている。まったくこの暑いのに頑張っているよのう(誰のせいじゃ)。
青木雄二死去(毎日新聞)。まだ50代である。
査読の仕事が舞い込み,3ヶ月ほったらかしの査読があるにもかかわらず引き受けてしまう。あっ,Mさん,あなたの論文じゃありません。
しかし面倒なことに,むかーしの文献を漁らねばいけないらしい。来週,札幌へ向かう時に,大師匠にもお越し願って,○大で資料を漁ることにする。全く,こーゆー時に首都圏の大大学は頼りになる。感謝感謝。
8月の怒濤の仕事ラッシュが終わってようやっと散髪に行く余裕が出,仕事帰りに立ち寄ってさっぱりさっぱり。残暑もばっちり乗り切れる,と思ったのもつかの間,夕方以降は涼しくなりました。ちぇっ。
おおっ,Phaseサーバのリンクページが更新されている・・・うげ,いつの間にわしのBNCpackは線型計算に分類されていたんだろう・・・まあ贅沢を言ってはイケマセン。
[ NowonDVD.net ] \3900
GNU ProjectからLinux, Open Source Movementの関係者のインタビューをまとめたドキュメンタリー。Proprietary陣営への直接インタビューはなく,公平性を重んじる向きにはちと不満なところがあろうが,これだけの重要人物の肉声による証言はそれだけで貴重であり,買っておいて損はないDVDである。個人的にはこれと同じスタンスでThe Internet創世期のドキュメントがあれば申し分ない。どちらもお互いに絡んでいる所がたくさんあるので,大きな歴史のうねりを知るには必要な情報なのである。
ドキュメント中,StallmanがGNU Hurdについて,Linuxよりデビューが遅れた理由を説明する下りがあったりして,それなりにGNU/Linuxの歴史は知っているつもりでも,これは新発見だった。発売元がマイナーレーベルだけに,これがリリースされたことすら知らない人も多かろうが,Open Sourceに興味を持つ向きにはお勧めしておきたい佳作である。
夕食を壱番館のカレーで手早く済ませて帰宅したら睡魔が襲ってきて,そのままバタンキュー。目が覚めたらまだ日が変わる前であった。仕方がないのでこうして日記を付けているという次第。
それにしても昨日は暑かった。関東以西は秋雨前線を押し上げた蒸し暑い暖気の影響で残暑がきつく,静岡でも30度を優に超えた。
そんな日に,実験講座で使用するために一旦ばらしたCS-PCCLUSTERを再度組み立てようと,PCの移動を敢行したものだから,暑いの何のって。黒い無地Tシャツを着ていたので,作業終了後にクーラーに当たって涼んでいたら汗が乾いて白い塩がふき出てきてしまった。
と言う訳で,CS-PCCLUSTERのBefore/After。
やっぱりPC Clusterはラックに収まっているべきものであるな。
ちなみに,Test runの後,最初に繋いだ8port Repeater Hubは16portのSwitching Hubに変更された。並列DKA法でガンガン回していたら,数十分後に必ず一台のNIS/NFS接続が切れてしまうのである。MPIとNIS/NFSとを同じIP net上で使うというズボラなことをやっていた報いであろうか。で,取り替えて様子を見ているという次第である。
PC Watchのソニー副社長のロングインタビュー。GridとCell computingの話が出てくる。まだ実験段階であるだけに抽象的な言い回しが多くなっているが,ビジネスとしてそーゆー話が出てくる時代になったのだな,と感慨深い。
思えば,CPUが登場し,hippieが大型計算機のantiとしてのPersonal Computerを作り出し,downsizingが進み,アーキテクチャがPC/AT compatibleへと収斂していきつつ,Webをkiller applicationとしてThe Internetが全世界に普及して,IT革命を謳歌した途端にITバブルが弾けて今に至る訳だが,この間,高々30年足らずである。修士時代,混雑するS-810をちょろっと触っていた程度のわしが,並列分散処理を手かげることになるとは夢にも思わなかったが,それもこのような時代の変遷の影響を受けてのことである。
以前,東大を定年退官されたI先生が講演の中で「一体いつになったら計算機の環境はfixするのか」と半ば呆れて慨嘆されていたが,わしはそれを聞いて,あの元気なI先生に「老い」の影を見ると共に,「変化する環境と共にあるのが『応用』的学問じゃないのか」と,少し反発する気持ちを持ったのである。
何だか蒸し暑くて目が覚めてしまった。9月に入ったというのに,残暑は根強く残っているようである。
今日は防災の日。駿河湾で大地震が発生,という想定で防災訓練が行われるようだ。全く当事者としては胃に良くない設定である。緊急時連絡カードなるものも常時携帯するように配布されており,わしがどっかで何かの下敷きになったりしていなければ,いざその時には職場に駆けつけ,カードに書いてある連絡先に電話をし,生存が確認できるようにしておかねばいけないらしい。自身はもういつきてもおかしくない状況だそうだが,具体的な日時の予測は難しいから,全く待たされる方はもどかしい。早く来ないかな(違う?)。
今日は雑用に追われる一日であった。午後からは企業の方が来訪されて,研究話。SCOの訴訟があってから,Linuxがらみのビジネスからは一端手を引いたということであった。それなりに効果はある訳ね。ヤクザのミカジメ料みたいなもんを請求しているらしいが,はてさて判決はいかばかりか。
注文していた"Revolution OS"が届いたので,作業をしながら流してみる。音楽のセンスがイイし,インタビューしている人選もナイスである。詳細はちゃんと見てからここに書くことにしよう。
で,それを見つつ思いついたのだ。Open Sourceのビジネスってのは技術的には高いレベルを要求されるのだなあってね。
結城浩さんが書かれた固有IDのシンプルシナリオ流に単純化して,例を示してみる。
(1) 企業Aはプログラマaにあるシステムを発注する。
(2) プログラマaは,Open Sourceのパッケージαにコードを付け加えて改良し,パッケージα'として完成させて,企業Aに納品する。
(3) プログラマaはパッケージα'をOpen Source Communityにて公開する。
(4) Open Source Communityから別のプログラマbがパッケージα'を入手する。
(5) プログラマbは「私はプログラマbより安い費用でパッケージα'をメンテナンスできる」と,企業Aに自らを売り込む。
まあ実際には人が作ったものをその人以上に理解して改良できるかと言えば難しいことが多いだろうし,そんなズーズーしいことを平気で実行できる厚顔無恥な輩は少ないだろうから,(5)のようなことはあまりないと言える。んでも
(5)' パッケージα'をサポートしてくれるプログラマを捜している企業Bが,ツテを辿ってプログラマbに依頼する。
もしくは
(5)'’ プログラマBが,パッケージα'をサポートできる旨,それを求めていた企業Bに自らを売り込む。
ことは枚挙に暇がないし,そーゆー繋がりを通じて,Open Sourceが広がったという側面は見逃せない。
ソースが公開されているってことは,それをサポートする上で,言い逃れが出来ないってことにもなる。勿論土台となるパッケージの出来が悪ければ改良にも限界はあるが,そうでなければ,不具合が直せないのはソースを読み解く力がないか,サボっているためにそれを回避する手段を見いだしていない,ということになる。しかも,ユーザ数は多いから,モタモタしていては自分以外の人間がさらなる改良を施してしまう可能性が高い。Proprietaryであれば,バイナリだけをユーザに渡し,自分の能力の及ぶ限りにおいて,差分パッチをリリースしていけばいい。勿論,あまりにヒドイ不具合があればそのうちライバルが出現して来る可能性は出てくるけど。
してみれば,Open Sourceのビジネスモデルでは,技術スキルが不可欠要素となり,言い訳の効かない世界であると言える。うーん・・・。