[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-449202-7, \1300
一応学者の端くれでありながら,齢三十にしてようやっと自分の馬鹿さ加減とじっくり付き合えるようになりつつある。ひらめきは皆無だし,深く思考することも苦手,一穴主義に徹する持久力に欠け,それでいて自意識過剰。何より,こうして自分の短所を並べ立てつつ,頭の片隅に人様の同情を買おうという意識があるのがイヤであり,そーゆー自己弁明をつい書いてしまう自分はやっぱり愛おしい・・・とキリがないので止めるが,どーにも居心地が悪いのである。これはつまり一言で言うと「馬鹿」,ということである。
それでいて引きこもり体質なので,本来なら今頃,年金暮らしの両親にゴク潰しだの無能だの罵られつつ,エエ年こいてその脛をかじるような毎日を送っていてもおかしくないのに,一応世間並みに自活していられるのは何故か。偶然のなせる技とも言えるが,それ以外の原因を探すと,どうやらいつの間にか,自分の内部から湧き上がるエネルギーを自活するための活動に振り向けられるようになったからであるらしい。
この湧き上がるエネルギーは,自意識の過剰さから来るものであり,多くは怒りや焦り,慌てふためきとなって噴出する。それらは全て何らかの社会的活動へと駆り立てる原動力となっているのである。このWeblogもその一つである(最近は研究発表活動に割かれることが多いけど)。
もちろん,そんな感情によって引き起こされた活動の多くは見苦しく,他人からは「馬鹿が慌てて何してやがる」なーんて思われているんだろーなー,という自覚はある。自覚はあるが,じゃあ黙って沈思黙考すれば少しはましな活動ができるのか,というとそれも期待できない。馬鹿の考え休むに似たり,どころではない,そんなことをしているとほんとに休んでしまってそのままヒッキー一直線である。
とにかく走り続けなければ,走っていればそれが次の活動へ繋がる(かもしれない),という確信を得たのはついこの間,静岡に来てから数年経ってのことである。以来,「居心地の悪さ」も冷静に抱えていられるようになったのである。
で,読書の方も,怜悧かつ切れるタイプの筆者より,書くもの書くもの突っ込みどころが多く,あまり賢くないなあと思いつつ,「それでも俺は書く,書き続ける」というエネルギーを感じさせてくれる筆者の書くものを好むようになってしまった。自分はポチ保守で小泉支持にも関わらず,今でも小林よしりんを好んで読むのは,そこに魅せられているからである。
小谷野敦もそういう理由で好きな書き手の一人である。本書では,やっぱり同種の人間である佐藤愛子の一文を取り上げ,「インターネット上でシニシストぶりを発揮し,懸命に人を笑おうとしている者どもは,佐藤愛子の爪の垢でも煎じて飲むがいい」(p.134)と啖呵を切っている。パチパチ,である。
小谷野は筑摩書房からも「俺も女を泣かせてみたい」を出したばかりだが,こちらは短いエッセイを集めたものだから,どうしても法界悋気だらけとなってしまい,物知り学者としての本領が発揮されたものとはいい難い。ま,その分,生のエネルギーに満ちているとも言えるけど,うざったい感情が楽しめない人には読んでいても辛かろう。
その点,本書は長めの連載論考をまとめたもので,加筆訂正が丁寧になされたこともあって,小谷野節に馴染みのない人にもお勧めしやすい内容となっている。そのうちどっかの入試問題にでも使われるのかなぁ,と思っているのだが,どんなもんでしょうかねぇ。