5/26(日) 駿府・晴

 まだ梅雨入り宣言されていないのに,早くも猛暑日を北海道内陸日で記録する事態となっている。掛川でも熱中症警報が出る有様。今年の夏はどうなっちゃうんだろうか?

 新年度になってからよく分からないままにあれこれ所用が差し込まれてくるので,目を回しているうちにGWを迎え,そして終わった。で,またぞろ様々な事象にてんてこ舞いの日々を送っている。管理職に没入できるならそれでいいのだろうけど,現役研究者の看板を下ろすわけにもいかず,それどころか,今まで以上に頑張らねばいかんという二重苦・・・でもないな,今のところはソコソコ楽しみながらハンコ押しと決済をしまくっている。役職につかないと分からない事情が全部明け透けになるのは中々の見物で,「藪の中」でいつの間にやら終わってしまっていた物事の経過が呑み込めるようになるのである。額縁ょ~レベルでこれだけ面白いと,省庁の役職に就いた政治家はさぞかし色んなことをたくらむ材料を得るんだろうなと想像してしまう。・・・ま,まだ始まって2カ月程度だし,一年続ければ「あれがこうなってそうなる」ことの理解がもう少し深まるかしらねぇ。

 普通の会社と違って,大学における管理職ってのは罵声を浴びせられるのが職務の一つとなっている。結構同情されることが多いが,なに,自分だって若かりし頃は普通に当時の額縁ょ~にやっていたことで,つまりは因果応報という奴であるし,なってみれば思いのほか”So what?”なものでもある。批判でも激励でも罵声でも賞賛でも聞くことが仕事の一つ,その後は権限を持った所で決済してもらうのも大事な仕事である。まぁ宦官とか茶坊主とか執事とか,そんなところかな。で,そーゆー手合いは大体「鉄面皮」な表情で「お伺い」するのがセオリー。あの慇懃無礼な態度はつまり”So what?”と言っているわけである。取り次ぐけども権力を持つわけではないという立場だと「役目がら次いだ結果,(私が下したわけではない)結論はこうなった。(私が悪いわけでも責任がある訳でもないからね)で?」というわけである。もっともワシはそこまで人が悪くないので「しょーがねーだろ」って言っちゃうけどね。

 組織内の全部の情報が筒抜けでわかっちゃうと,当事者Aの主張をそのまま受け入れると別のところでしわ寄せが受けて当事者Bの主張とは相反した結論になっちゃうってこと理解できるようになる分,間を取ったり当事者Aに泣いてもらうこと結論になったりして,「しょーがねー」ことが増えるというジレンマ・・・じゃないな,「お楽しみ」。モヤモヤは次の課題解決の原動力にもなるので物は考えようである。「なるようにしかならん」ということを骨身に染みて理解できるようになった五十のオッサンにとっては,額縁ょ~な日々是面白なのである。

 そーいや,今年のSWoPPの枠が締め切り後も埋まらなかったというメールが来ていたので,多倍長行列積まとめレポートしようかと申し込んでみたら通ってしまったらしい。つーことで,6月京都に続いて7月下旬は北見まで出かけることになってしまった。9月は応用数理で東京,下旬にはODE-JPでまた京都である。ここ数年来こんなに働いたことないなぁ。以後はじっくり論文のネタでも弄ろうっと。

 低視聴率と騒がれているNHK大河ドラマ「いだてん」,近年にない熱血スポコンコメディになっていて毎週楽しみにしている。勘九郎がまたいい味出しててナイスである。あまりにいい人過ぎるオーラが出ているので,父親のように夭折しないよう,適度に悪人になって神様に嫌われて欲しいものである。

 「いだてん」見るために洗濯物を取り込んで込め問で味噌汁作って卵焼き作ります。

R. T. Kneusel, “Numbers and Computers”, Springer

R. T. Kneusel, “Numbers and Computers”, Springer

[ Amazon ] ISBN 978-3319505077, \8000ぐらい?

 「多倍長数値計算(仮)」という本を刊行すべく原稿は何とか仕上げたものの,果たしていつ頃完成するのかは全然見通せない今日この頃,いつになったら版下ができるんでしょうか? ・・・ま,予定より1年以上完成が遅れたワシには急かす権利はありませんな。

(追記: 今年秋頃に出るそうです。ワシがサボらなければ。Mさん,慌てさせてすいません。)

 つーことで,いわゆる多倍長計算,GNU MPとかMPFRとかQDとかで,どういうC/C++プログラムを書いたら長い桁数で計算がすいすいできるようになるのかなぁ~という方への(刊行予定の立たない立った)入門書を書いたわけだが,そーゆー本が,この世にないわけではない。日本より何十倍も読者がいる英語の本ならありそうなもんだが,これが案外ない。もちろんこの分野の専門家の書いた”Modern Computer Arithmetic” (by R.P. Brent & P. Zimmermann)とか,”Handbook of Floating-point Arithmetic” (by Muller, et. al.)なんてのがあるんだが,これはゴリゴリの専門書であって「入門書」ではないのである。

 「入門書」とは何か? それは敷居を極力低くした,底の浅い記述に満ち溢れたお手軽な本のことである。「LAPACK使う必要があるんだけど,ググったら大量の解説ページやマニュアルが出てきてゲンナリ」という向きに,お手軽な「とっかかり」を提供すること,そのためには分厚さで圧倒してはならず,古老の如きウンチクを傾けてはならず,記述は簡潔にしたペラペラな本が望ましい・・・という自虐はこの辺にしておくけど,必要以上に厚くする必要はない,つか,「ほんとにその分厚さ必要なの?」というプログラミング書籍が多くてちょっとゲンナリしているのは確かなのである。「敷居を低く,底は浅く」書く,その上で「ストーリー」があれば言うことなし。入門書との相性は,著者が提供するこの「ストーリー」と波長が合うかどうか,そこに尽きるとワシは確信しているのである。

 「ストーリー」とは何か? それはその入門書の目的を完遂するための「流れ」と言い換えることができる。本書の場合,「数とコンピュータ」というタイトルが物語る通り,整数,有理数,浮動小数点数,固定小数点数,区間演算(Pythonによる実装とMPFIの解説がある)などなど,「コンピュータ上で数をどのように取り扱うか?」ということを理解させるべく,その本質的な記述を心掛けつつ,短く適切なプログラム例を織り込んでおり,プログラミングを通じて目的を完遂しようというストーリーがあるのだ。

 これ,ワシにとっては理想的なストーリーなんである。で,ワシもそれに従って・・・といきたいところだが,いかんせん教養がなく,仕方がないので自分なりに持っているノウハウの引き出しをぶちまけた「GNU MP, MPFR, QDプログラミング入門書」になってしまったのは致し方ないところ。それなりにストーリーを作ったつもりであったが,どーもワシの悪癖である「書いてあるからプログラム読めば?」というところが随所に出てしまってかなり解説が舌足らずになってしまっている。・・・という反省ができるのも,先達である本書が優れたストーリーを見せてくれたからである。

 まさに「先達はあらまほしき」なのである。まぁバリバリプログラミングしたい向きにはちと物足りないところはあれど,現代的に「数」の扱いはどうなっているのか,俯瞰的に知りたい向きには程が良い「入門書」と言えるのである。

映画「スターリンの葬送狂騒曲」(原題:The death of Stalin)

Blu-ray, The death of Stalin

[ Amazon ] \2500 + TAX

 いやいや予想外に面白かった。予告編で見た時にはちょっとふざけたテイストで,正直三谷監督作品「清須会議」並みの凡作を予想していたのだが,いやいやどうしてどうして。シビアな政治闘争と苛烈な情報統制・集団指導体制のもろさをシリアスに演出することで,ブラックユーモア的な戯画を作り上げることに成功した佳作である。10連休という史上最も政治的な意図で弛緩しまくった日本の一般家庭に息つく暇を与えぬ豊かな時間を与えてくれた本作に献杯すべく,ぷちめることにしたという次第である。

 古来,「集団指導体制」というものぐらい脆弱かつ笑える政治装置はない。その渦中に入ってしまい,権力闘争に巻き込まれた当事者にとっては悲劇であろうが,遠目で眺めていられる部外者にとってはこの上ない「喜劇」だ。安定しているようでいて,複数メンバーの力の作用反作用によって辛うじてバランスを保っている状態は積み木細工に例えられる。疑心暗鬼の末にバランスがいったん崩れると,崩れきるまで闘争が続くことになる。日本の歴史で言えば,鎌倉幕府初期,源氏の将軍三代から北条氏の執権政治体制に移行するまでは将軍家を巻き込んだ御家人の権力闘争に明け暮れ,まさにこのグラグラな積み木状態が続いていたと言える。嫉妬からくる讒言の果てに殺し合いに至る過程は竹宮惠子「吾妻鑑」でたっぷり堪能できるのでお勧めの歴史漫画である。

 ソビエト連邦の大祖国戦争,米国で言うところの太平洋戦争,日本でいうところの大東亜戦争を強引な恐怖政治と指導力で乗り切った独裁者・スターリンが突然死するところから本作の幕が開ける。スターリンの下で集団指導体制を形成してきた幹部の重しが突然崩れ,一応の後継となるマレンコフは単なる忠実なスターリンの部下でしかなく,当然,独裁的な決断などできるはずもない。となれば・・・ということで,赤い国の歴史に詳しい向きは当然結果は知っている訳であるが,刑事コロンボの例にもれず,犯人が分かっていても逮捕までの過程がスリリングでありさえすれば面白い作品になることは周知の事実。本作も,「マレンコフにいち早くすり寄って一番手にいたはずのあのデブがどうやって除かれちゃうのかしらん?」という下種的興味にキチンとした回答を与えてくれるのである。

 本作の原作はフランス戯曲だそうだが,イギリス人監督が仕切ってくれたおかげで,いわゆる日本凡作(そこそこ楽しめるから駄作とは言うまいよ)にありがちの「どうせ最後はホノボノ落ちか?」と感じさせる嫌な伏線は一切なく,「あのデブ」の末路が一番のクライマックス,怒涛の如く最高幹部会議が展開していくのである。筋書きは歴史に則っているけど,「あのデブ」の最期はヒトラーのそれだよなぁ・・・実際にはもっとスマートなやり方で排除されたのだと思うけど,その辺は限られた舞台俳優だけで物語が進むように「脚色」されている。権力者が自分の手を汚さずに物事を進めることは政治の常道・・・などと野暮なことは言うまい。テンポの悪さをホノボノで誤魔化す癖のある国産ドラマの安っぽさとは対極のシビアな舞台を作り出すことで,それを遠景で見る観客にブラックユーモアテイストを与えてくれる本作は,安直な国民的長期休暇に堕したワシら日本国民に活を入れてくれる傑作なのである。