映画「サイレンス」「舟を編む」

 HDDがPCのバックアップデバイスに成り下がり,メイン用途は家庭用録画機材の積読ならぬ「積録(つんろく)」のためのメディアになって久しい。我が家でも2TB・48時間分の外付USB HDDをパナソニックの旧型DIGAに取り付けてあるが,残り10数時間となっている有様であったので,この四連休中に「一回見た」「もう見ることは無さげ」なモノは消去して,「一度見ておけば消去可能」なモノを片付けることにした。映画「サイレンス」(原作・遠藤周作,監督・マーチン・スコセッシ)と「舟を編む」(原作・三浦しおん,監督・石井裕也)はそのうちの二本である。世評は高かったので,こちらの期待も高かった分,消さずに残しておいたのだが,どちらもこの期に見て良かった。ここでこの映画の感想を書きつけておく。ちなみにどちらも原作は読んでいない。

「サイレンス」

 江戸時代初期,一人のイエズス会宣教師フェレイラが日本で消息を経った。経過を記した文書にはフェレイラは棄教し,日本人として妻子と共に暮らしていると書いてあり,それも年単位で前のことだという。敬虔なフェレイラを師とする若い二人の宣教師は文書を信用できず,フェレイラの真の消息を知ると共に,神父がいなくなった日本でキリスト教を維持するために,漂流者として流されてきたキチジローを案内人として日本に密入国し,隠れキリシタンとなっていた五島列島・平戸方面で,最初は二人で,そのうち一人ずつ別れて密かに神父としての責務に励むも,そのうち幕府の役人らに信者の村人共々捉えられてしまう・・・というのが前半のストーリーだが,後半は捕まった神父の一人にひたすら棄教を迫る精神的拷問と説得に占められ,最期はフェレイラ同様,日本人として幕府の貿易業務の手伝い(キリスト教関係品の選り分け作業など)をしながら余生を過ごすことになるのだが,全編音楽なし,セミの声,波の音・・・ひたすら自然音を淡々とバックグラウンドミュージックとして用いる地味な演出ながら,深い信仰心というモノをこれでもかと突きつけてくる演出に引き込まれ,終了後はジーンと頭の中が痺れてしまったのである。
 感心したのは,残酷極まりない信徒への貼り付け,ミノ踊り(藁ミノで包んだ信者に火をつける),長く苦痛が続く逆さ吊り・・・と,神父を慕う信者の拷問を見せつけつつ,長崎奉行・井上(イッセー尾形)や配下のインテリ(浅野忠信)が叩きつけてくる「日本がこれほどキリスト教徒を弾圧する理由」の説得力の強さだ。奉行以下,江戸幕府の残酷さに憤る向きは多いだろうし,確かにそれは分かるのだが,バランスを取るように弾圧者の理屈も述べられていて,神父もその政治的理路は理解しているという描写が実に巧みである。それでいて,何度も裏切っては安直に懺悔をするキチジローが,ラストで信仰を貫いたことを見せたり,屈服した元神父は,日本の土に帰るものの,助けを求める信者や自身に対する何の救いももたらさない「神の沈黙」を受け入れ,更に深い信仰を秘めていたことを歪んだクロスに象徴させている。全く,いろんなモノを詰め込むだけ詰め込み,激しい肉体的精神的葛藤をもたらす信仰というものの正体を観客に突きつけているような映画である。
 どんな神でも,現世の人間が願う安直かつ直接的な救いなどは寄越さないものであり,それを持って神は死んだと言うのは簡単なことであるが,信仰そのものが救いどころか完全なる害悪をもたらすものであっても,それを人間は手放すことができるものなのか,ワシはかなり疑問である。ソビエト連邦ではあれだけ弾圧したロシア正教を根絶やしすることはできなかったし,隠れキリシタンも明治まで細々ながら生き残った。中国でもそう簡単にコトが運ぶとはどうしても思えない。むしろ迫害が精神的紐帯を強めてしまうことも井上ら奉行所一同はよく理解しており,それ故の神父の棄教を迫っている。だがしかし根絶やしには結果としてできなかったということの「信仰の強さ」を理解する教材として,この映画ほど雄弁に語ってくれるモノはないとワシは確信しているのである。

「舟を編む」

 広辞苑(岩波書店),大辞林(三省堂)といった分厚い国語辞典を10数年に渡り,担当編集者の世代交代を経つつも編んでいく様を淡々と描いた日本映画である。ストーリーに余計なモノを持ち込まず,適度にウェットな演出を挟みつつ,最後はハードウォーミングに落とすという邦画にありがちの映画であるが,編集責任を全うできなかった国語学者(加藤剛)が病床まで日課となった語彙再録作業を辞めなかったというあたり,つい先日に恩師を亡くしたワシとしてはちとウルっときてしまったぜよ。
 辞書編さんという,地味だが長期の取り組みが求められるビッグプロジェクトを「舟を編む」とタイトル付けした三浦しおんはさすがだなと思うが,それを主演の松田龍平,オダギリジョー,はな,宮崎あおい等の芸達者な俳優陣を揃えることで魅力的な映像に仕上げたのはさすがだなと感心させられた映画であった。

9/14(月) 駿府・晴

 朝晩は25℃を下回る気温となり,日中は暑いが,空気から湿気が抜けて爽やかな秋風を感じるようになってきた。これからの台風シーズンが思いやられるが,猛暑日を今後は経験せずに済むかと思うと一安心である。

 大師匠が先週逝去され,本来ならイの一番に駆けつけてご葬儀の手伝いなどすべきところ,このコロナ禍の中,東京へ出かけることも憚れる上に,一度出かけてしまうと家族にまで迷惑が及ぶので,不詳の弟子ということでご勘弁願うことに。代わりに香典だけでも兄弟子に届けてもらおうとう現金書留で送ったら日曜日に返送されて大慌て。電話番号が同じだったので住所も変わってないかと思ったら引っ越しされてたとのこと。今度はご遺族の住所をきちんとうかがって本日再送,明日には届くかなぁとは思うが,誠に間抜けは話である。あの世で大師匠が「あらあら」とほくそ笑んでいるさまが見えるようである。とまれ,ほぼ100年間の人生お疲れさまでした。思い出話はまだ改めてここにでも書きつけることにする。

往生際の悪い本日の朝顔一輪

 プランターの朝顔,全滅かと思いきや,後からヒョロヒョロ伸びてきた輩がしぶとく生き残り,数日ごとに花を咲かせ続けている。ぐんぐん伸びて四方八方に弦を這い回しまくった先人はとっくに枯れて種を残しているのだが,後塵を拝した輩はその枯れたツルの上にはい回って今頃活躍を始めるという大器晩成タイプ。まぁ長く楽しめるのは良いことなので,全ての朝顔が枯れ切るまで付き合うことにするか。

 さて,Python本は一段落したし(校閲はゆっくりでいいですよーと言っておく),二本目の査読は〆切日にぎりぎり間に合わせたし,Springerの冊子に掲載予定の論文の校閲も終わったし,現在気が抜けている有様。次年度以降のPython実習計画なぞをひねくり回しつつ,SIMD命令の勉強を今更ながらしている所である。参考になるかなと今頃Pythonのテキストを買ってきてパラパラめくっているのだが,やっぱり望洋先生のが一番しっくりくるかなぁ。感想はまた後程まとめてここに書きつけることにしよう。

 さて新首相が誕生間近,えっマジかってなモンだが,だからって今の日の本が劇的に変わる訳じゃなし,そもそも国民が見たいものしか見ていないっていう有様だから・・・という宮台真司の皮肉な論説が一番しっくりくる現状,予防的ワクチンがしっかり機能してコロナ禍が終わるまではまぁ世の中ひっくり返るようなことは起こりそうもないな。いいんだか悪いんだか。

 さて,明日からまたゆるゆると頑張ります。そーいや,ワシが大師匠と初対面したのは還暦過ぎだったよなぁ・・・それに引き換えワシは50過ぎにしてへばってたりして,元気さが違うわなぁと反省しております。