岡野原大輔「ヒトとAI」岩波新書

岡野原大輔「ヒトとAI」岩波書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-00-432122-4, \940+TAX

 2026年9月13日(日) 20時現在でAmazon Kindleストア282位(コンピュータ分野 1位),書籍104位(IT分野 2位),この時点で最も売れている岩波新書である。AIを構築するための中核的なプロセッサを含むSoCを開発しているPreferred Network社の創業者・社長であり,日本のAIを引っ張る大役を担っている第一人者が,AIの中身を人間の知性と対比しつつ,AIが世界を席巻し我々の日常生活を覆いつつある現在,何を人間が担い,何をAIに任せるのか,読みやすい短文を積み重ねた短い28章で語っている。Claudeがどうの,ChatGPTが賢くなっただの,Kimi3を含む中華AIのコストの安さは驚異的だの,そーゆー目先のことではなく,根本的な原理と人間が構築してきた社会制度を踏まえた怜悧な分析が冴える本書は,AIに右往左往している我々が今こそ読むべき新書と言える。

 まーしかし2025年から2026年にかけての,LLM(Large Language Model)に代表される生成AIの進化は恐ろしいものがある。昨年早々にはChatGPTとGeminiを有料課金する最低ラインのところで使っていたのだが,正直,卒研生並みの能力しかなかった。具体的に言うと,論文に記述してあるアルゴリズムを読み取ってプログラムに起こすことはまともにできなかったし,せいぜいワシが書いたコードを機械的に書き換える程度のことしかできず,しかも結構つまらんミスをして気が付きもしないレベル。それでもまぁ目も肩もくたびれてきて,ぼちぼち人生黄昏時で根気も集中力もなくなってきた年寄り仕事の補助ができればいいか,ぐらいに考えていた。
 それがどうであろう,Claude Codeを導入し,Vibeコーディングのための研究費をつぎ込んでMaxプランを本格的に導入したのが本年3月。コーポレートカードの支払いは新年度からだから4月支払い分は自腹を切ったのだが,ちょっとびっくりするほど役に立つ・・・どころか,ワシがかつて3か月格闘した挙句に移植を諦めたライブラリのCUDA化を,悪戦苦闘しながらも成し遂げてしまったではないか。あろうことかベンチマークテストまで自動的にPythonコードを書いてサクサク進め,「あれとこれに載っている論文のアルゴリズムを起こして比較して」という漠然としたプロンプトにも的確に対応し,翻訳調ではあるが完璧なTeXレポートを仕上げてきたではないか。ワシは興奮していそいそとまとめてarXivにぶん投げつつ,ちょっとレベルの高い国際会議にも投稿した。残念ながら国際会議は3名の査読者のうち1名から難癖としか思えないrejectを食らって落ちてしまったが,1名はプラマイゼロ,1名はWeak acceptという評価をもらった。つまりは「筋は悪くない」のである。
 その後は今まであきらめていた題材を次々にClaude Codeに投げ込みつつ,ChatGPTやGeminiも併用してあれこれをarXivに投げ込み,あまつさえ,arXivの投稿制限を超えて入りきらなかったそれそれそれも書いてしまったのである。どれもこれもワシ単独では到底こんな短時間ではできず,Claude Codeのパワーのおかげで仕上がったものである。そのうち一本は情報処理学会論文誌採録が決定している。今も,2本ばかり準備が終わったネタがあり,これから3月に発表と投稿を控えるテーマについても下調べと基本ベンチマークは終わっており,おそらくはワシの研究者人生において最高の査読論文・査読国際会議採録数になること間違いないのである。せいぜい卒研生並みの能力しかなかったAIが,ClaudeでいえばOpus 4.8あたりでポスドクの博士ぐらいの能力を持つに至ったと言える。

 まさに生成AI様様なのであるが,いざ使ってみると,うまく活用するためには人間によるディレクションが不可欠であることも事実である。本書の第4章「AIは継続学習が苦手」でも述べられているが,一度やった仕事を完璧に忘れているのである。それどころか,レポートをまとめながら進めてきた仕事でも,最初に指示したことをすっかり忘れて間違い仕事を繰り返したり,小改良で済むところを一からやり直したりと,究極的な鳥頭なのである。これが人間相手なら「おまえなぁ,何回同じことを言わせるんじゃ」と愚痴の一つや二つや出てくるが,記憶力のないAIにそんなこと言っても仕方がない。こちらでも自衛のため,いったん区切る仕事は必ずTeXレポートを記述させ,次に開始するときにはそれを読み直せば記憶を呼び起こすことができるようにしておかねばならない。

 さらに厄介なのはAIには感情がないということである。つまりは仕事に対する動機付けがないのだ。人間ならば,出世したい,そのためには業績を上げたい,論文を書かねばならない,論文執筆のためには研究せねばならない,みたいな,つまりは行動の動機となるアカラサマな欲望が必ずあるものだが,それはAIには期待できない。欲望を駆動する感情があってこその人間であり,「何を記憶し,何を忘れ,どのように行動するかを強く規定」(第12章「感情」, P.86)するのも感情がなせる業なのだが,そこがAIには決定的に欠けている。逆に言えば,全知全能の神みたいなAGI(Artificial General Intelligence, 汎用人工知能)に到達するための一里塚として,何らかの感情的な駆動装置を発明する必要があると言える。最近の研究ではどうもその萌芽のようなものがあるとの報告も上がっており,これはこれでちょっと怖い状況であるが,にしてもワシも含むAIの能力に魅了された人間がこの便利なツールを手放すわけもなく,世界中の電気を食いつくすまではAI能力向上競争が止まることはないのであろう。

 著者は既に科学を支える基盤としてのAIについての考察をまとめてしまっているらしく,東京化学同人から「AI計算科学:表現・推論・探索による計算科学の再編」が11月に出るらしい。全く東大・松尾研出身者の馬力の高さは恐ろしいほどである。ワシ自身がAIに駆動されながら論文作成に邁進しているぐらいだから,もう学術界の,特にコンピューティングに依存するところは「AI計算科学」に染まりつつあるのだ。本書はその土台となる基盤技術,人間社会のありようとAIとの協調をどこに求めるのか,AIの導出した結果の責任の取り方を考える基礎教養書になること間違いないのである。

永田礼路「まどいのいきもの」1巻,小学館

永田礼路「まどいのいきもの」1巻,小学館

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-8638246

 大体,国家資格である医師免許を持って居ながらにして,歌人になったり作家になったり漫画家になったりソフトウェア作ったりという人種がいること自体,人間の持つエネルギーや能力は不平等極まりないなということを痛感させられるのである。古くは斎藤茂吉から始まって息子の北杜夫,渡辺淳一,手塚治虫という超ビッグネーム迄居る始末。困ったことに,医療は自然科学から人間心理学から社会学までネタの宝庫であるから意欲さえあれば書く材料には事欠かない。エッセイ漫画から重厚な人間ドラマまで幅広の題材が選べるだけに,読者としては楽しみが多くなるわけだが,SF畑出身(?)の永田礼路はファンタジー路線の上に「ロン先生の虫眼鏡」とか岡崎二郎的な生物学蘊蓄を載せる方向で連載を持つに至り,今回めでたく商業単行本を刊行することができたのである。

 著者の永田がどういう遍歴を経て医者兼漫画家なったのかということを知りたければ著者のエッセイ漫画(前編後編)を読むのが良い。最近ではベテラン漫画家が自分の人生を振り返った作品を描くことが多いが,割と若いうちに,というか,まだまだ現役真っ最中でまだキャリアの半分ぐらいじゃないのという向きも,一息つきたいということなのか,はたまたこれからを見据えてということなのか,来し方を振り返った漫画を描いたりすることがある。古くはとり・みきの「あしたのために」というギャグエッセイ漫画があったが,やっぱりキャリアの合間にヒマができたりするとその手の吐露をしたくなるのかなと勝手に想像しているのである。

 永田の場合,手塚ほど漫画にのめりこんでそっちを本業にしたというほどではないにしろ,本業と並行してのデッサン教室通いをしたり,出版社に持ち込みしたり,同人誌を作ったりと,かなり漫画の方にも気合いを入れて取り組んだようである。そのせいか,画風はオーソドックスながらも画力は高く,それでいて上品なユーモアを醸し出しているあたり,ワシの好みの一端とフィットしている。もうちっとエロいと個人的には嬉しいのだが,そのあたりは教養が邪魔しているのか,正直前作はう~んという感じであったが,本作は自然体でオチの効いた読み切り短編としてまとまっており,しかも一口メモ的な生医学的エッセイ付き。エンターテインメントだけでは物足りない小うるさいオタク気質の読み手にはお勧めできるものとなっている。それでいて通底するSFミステリー的伏線を感じさせるところもあり,打ち切りになっちゃった過去作よりも良い着地になることを願っている・・・いやまぁ続きは同人でという手もあるんだけど,正直,売り上げと読者からの反応を気にする編集者が関わらない作品には「ゆるい」感じが付きまとうことが多くて,個人的には好んでも人様にはイマイチ勧めづらいところがあるのだ。いや,これは理工学書を書いた経験しかないワシも痛感するところで,好き勝手書いたものよりは読み手を気にした記述が多い方が格段に良いものになっていること間違いないのである。

 とゆーことで,2巻以降が紙媒体で出るかどうかは不明なれど,電書であっても商業連載作品としては一定の面白さを保つためにも続いて欲しいと願っている。胡乱な学者タイプの医者と謎な女性(?)看護師が紡ぐSFショートショートっぽいテイスト,今となっては天然記念物的希少価値のある作品なのである。

ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」22巻,小学館

ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」22巻,小学館

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-86385704, \750+TAX

 2026年4月25日(土)から同年6月7日(日)まで,静岡市歴史博物館にて没後500年を記念して「戦国大名 今川氏親」企画展を催している。連載中の作品の主要人物である「龍王丸(氏親の幼名)」が展示の主ということもあって,著者も訪れたようである。本作品を愛読しているワシも会期終了2週前に400円支払って神さん共々身銭払って見てきたわけだが,なるほど料金に相応しい分量の見ごたえがある展示であり,まだ元服前で未だに虫取りに興じている龍王丸の立派な業績を知り,「(母親・北川殿と叔父・伊勢新九郎盛時の助力があってのことであれど)ご立派になられて」と感慨に耽ったのであった。
 今川氏というと,氏親の息子・義元が桶狭間で織田信長に首を取られた貴族まがいの間抜けという印象がいまだに根強いようだが,氏親の時代に駿府から遠江まで,つまり伊豆半島を除く,今の静岡県を版図とする大身の戦国大名になり,義元時代には氏親時代に足がかりを作っていた三河から尾張に進出するまでに至ったのだから,なかなかのご一家だったのである。とはいえ桶狭間の前からしばしば当主が不慮の死を遂げる癖があり,氏親の父親・義忠しかり,氏親の長男・氏輝は家督を継いで間もなくよく分からん死に方をするし,義元しかり。戦国大名あるあるなのかもしれんが,にしても,まとまりに欠けるところは否めない。その点,本作の主人公・新九郎が創始した北条5代は割とスムーズに本家の継承が行われ,伊豆半島を根城に,ごたごた続きだった関東一円を納めるに至った訳で,後ろ盾の今川家や,もっとゴタゴタ続きの足利将軍家の威光を笠にしたとはいえ,反面教師的にも学習した結果としか思えんのである。

 作家がベテラン期以降になると時代小説を書くようになるという傾向があるが,ゆうきまさみがその路線を踏むとは思わなかった。とはいえ,パトレイバー以降はちょっと厳しいかなという感じがあり,もちろん少年誌から青年誌に移ったことも影響しているとは思うが,程の良い作品ではあるものの,ごっつり骨太のストーリーを堪能できる作品が,少なくともワシ的には無かったのである。もちろん,一定レベル以上に面白いから一定数以上の読者は付いてくるだろうし,短めの連載か読み切り主体の作品でボチボチやっていくのかなと思っていたところに本作がドッカーンとやってきたのであるからビックらこいたのである。しかも導入から後の展開を知らしめるべく,伊豆公方・足利茶々丸の館襲撃から始まっているからこれは楽しみ,一巻から紙の単行本で買いましょうと付き合い始めたのが運のツキ,まさか22巻になるまで引っ張るとは思わなんだ。

 幕末を描くべく関ケ原から始めて結局完結しなかった「風雲児たち」ほどではないとはいえ,漫画家のロングスパンの構想に延々付き合ってくれるほど,商業漫画の世界は甘くなかろう。ゆうきほどのベテランだって例外ではなく,特に紙需要がひっ迫し,コストアップが急激になっている昨今,部数の出ない作品を単行本にまとめて印刷してくれるお人好し出版社は存在しない。それを見越してのことなのかどうか,ゆうきは延々と伊勢家の傍流で堅物ながらも将軍の近習にまで出世してコケてしまった新九郎の周囲の状況を,京都や関東の政情までしっかり大河ドラマ的な解説を交えながら22巻に渡って語り続けたのである。この構想力もさることながら,人気を維持するだけのストーリーテリングの旨さ,そしてこの新九郎という人物の魅力がなせる業なのであろう。もうここまで引っ張ってきたゆうきまさみの力量に感服せざるを得ないのである。

 何はともあれ,第一話の冒頭で描かれたように新九郎は伊豆を手中に収める過程に入った。龍王丸・氏親のサポート役として活躍しながら,よく知る地名が随所に出てくる上に,京都にほど近い所で仕事を得たワシとしては,偶然ながらもうってつけの作品になりつつある。この先まだまだ長いはずであるが,まずは長大歴史漫画の先人・みなもと太郎のように未完で終わることがないように健康に留意されて作品を綴って欲しいと切に願う次第である。

久田将義「教養としての新宿・歌舞伎町」朝日新書

久田将義「教養としての新宿・歌舞伎町」朝日新書

[ Amazon ] ISBN978-4-02-295370-4, \870+TAX

 ここんとこ神さんに呆れられるほど吉田豪の動画コンテンツを貪り視聴している。毎月やっているニコ生の3番組(平熱大陸,噂のワイドショー,居酒屋タックルズ)は欠かさず見ているし,Show Roomの「豪の部屋」はよほど興味のない人以外は大体見ている。オンラインで見られるトークイベントも,本書の著者・久田将義氏との番組は課金してちゃんと追いかけているのである。
 今日日,程よくリベラルで程よく保守で,ゴリゴリの人文系アカデミズムにも染まらず,とはいえ一定の教養を踏まえつつ世俗との接点も多いという御仁はごく少ない。どれかに偏った論者は多いんだけど,中庸的バランス感覚を持っているメディア論者は限られる。一時はかなり右寄りとみなされた小林よしりんは良い感じで着地した感があるし,東浩紀は元々バランス感覚が良かった上に今も中小企業経営者として一定のスタンスを保っているし,辻田真佐憲は右寄りからぐっと中道的な論者になって左右の論者に是々非々で臨んでいる。久田将義は,論者というよりは編集者という立場を守っているせいか,他人の論をしっかり受け止める素地があり,本書で開陳されているように,ヤクザや立ちんぼ当事者からのインタビューを行っており,人間生理的にしっくりくる論を展開できる貴重な人材なのである。

 ワシ自身は,新宿コマ劇場がまだ現役だった頃の歌舞伎町に映画を見に訪れたことがある程度の体験しかないが,それでも夕方から夜の盛り場の猥雑さは今もしっかり脳裏に刻まれている。ひっきりなしにポン引きやホステスらしき人物からの声掛けはあるし,振り払いながら雑踏を歩くのは妙な緊張感があったものだ。幸い下戸の人間嫌いなので,おかしな店に入ることはなかったのだが,一歩間違えるとあぶねぇ所だなということは肌身で理解できた。
 本書では21世紀も1/4を過ぎた今の歌舞伎町の様子がビビットに伝わってくる。のみならず,猥雑さの奥底に潜むヤクザや半グレ,立ちんぼからインバウンドで訪れる外国人,そして戦後の歌舞伎町を作り上げた韓国出身の立役者まで,本文200ページ足らずのちょっと薄めの新書なのに,情報量がぎっちり詰まっていてしかも読みやすい,ディープな歌舞伎町のガイドブックになっているのである。

 半面,もうちょっと読みたいな,という物足りなさもあり,阿形氏のインタビューは,戦後の焼け跡の愚連隊からヤクザになるまでの軌跡が知りたいし,アルファベットになっている現役ヤクザの方々の話はもっと読みたいなと思わされる。立ちんぼについては,サポートしているNPOからの取材などがあればもっと真相が分かるだろうなとか,無茶な要求はいくらでも湧いてくるのだが,それだけ本書の提供する情報が,好奇心を呼び起こす良い呼び水になっているという証なのであろう。この続きは別のスポライターや社会学者の方々に突っ込んでもらいたいモンであると思う次第である。

 AIがいくらでもネットに転がる情報を引っ張ってきて「いい感じ」にまとめてくれる昨今,生身の人間からの血の通った一次情報に基づくルポは貴重である。中庸的な視点で人間社会のしょーもなさとダイナミズムを醸し出す,久田将義に続く書き手の登場も願ってやまない。

筒井康隆「老耄美食日記 九十歳のあとさき」新潮社

筒井康隆「老耄美食日記 九十歳のあとさき」

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-314537-0, \1650+TAX

 筒井康隆の小説において,豪勢な料理が出るごとに詳細かつ見たことも聞いたこともないメニューがずらずらと列挙されるようになったのはいつからだろうか? 夭折した息子(ワシと同学年)が挿画を描いた「聖痕」は,美しい主人公が美食に目覚めていく様が描かれるが,文中これでもかこれでもかというほどの迫力で料理名が押し寄せてくるのだ。不思議なもので,自分では食したことのないものでも,そのメニューを目で読むごとに唾液が出てくるのである。まったくもって旨そうであって,読者に対する飯テロに他ならない。幸いなことに,この度関西に縁あって職場を得ることになったので,とりあえずワシの収入でも破産せずに済みそうな「テアトロクチーナ」ぐらいは行ってみたいなと夢想する程度には洗脳されているのである。
 本書では頸椎を痛めて以来,足元不如意となった著者が豪勢な老人ホームに入居してもなお,美食ツアーに精出す様が生き生きと描写されており,食欲がある限りはこの筆の勢いも健在なりやと,一ファンとしては歓喜せざるを得ないのである。

 旨いものを食いたいのは人類の性であり,誰しも不味いものよりは旨いものを食いたいと願うのは当然である。我々は資本主義社会に生きている以上,旨さは値段に比例して増していくのはやむを得ず,という悟りは得ている。とはいえ年収三千万円もある大作家ならともかく,そんなに稼げていない一介のサラリーマンは自分の財布の中身と相談しながらの「最適化」を行う他ない。今ならSNSを通じてのグルメガイドが容易に入手できるから,スマホ片手にGPSも駆使してどんな狭い路地にある店でもたどり着くことが可能である。かくして,通常普通の庶民としては,できるだけ安く旨いものを食うべく,価格とうまさの最適化を行う「B級グルメ」に精出すことになる訳である。ま,たまぁあに小銭を貯めて5桁クラスの勘定を厭わずド高い所に行ったりすることもあるが,それは家庭内不和を軽減するための必要経費なのであって,滅多にできるものではない。故に,印税成金作家の美食の様を文章で堪能するのが,一塊の庶民読者の関の山なのである。

 この大作家の美食ぶりは,本人の嗜好もあろうが,どうやら細君のためであるらしい。貢がれることは誰しも望むことであるが,高級スーパーである紀ノ國屋(文中ではKINOKUNIYA)で高級総菜をかき集めない限りはマトモな食事が取れないという事情も大きいようだ。また,息子の夭折の影響もあるようで,死後のエッセイでは「金なんて貯めても仕方ない」と浪費宣言していたりする。正直,これだけ日をあけずに一食〇万円台の飲食を続けていたら,いくら美食であっても飽きるだろうと心配になるが,この二つの要因を知っているツツイスト達は,鬼気迫るメニューの羅列にある種の安心と恍惚感を覚えるのである。

 さすがにホームに入ってからは美食するといっても行動範囲が狭まってしまい,繰り返しになるのでこの辺でと美食日記は中締めと相成ったが,潤沢な印税が支える美食の渉猟は今も相変わらず続いているのだろう。その証拠に,新潮社の広報誌ではショートショート連載が2026年5月現在も続いている。執筆が行われている限り,食欲は滅していないということになる訳である。ということで,ワシも美食と執筆を支えるべく,本書を紙書籍で購入し,僅かながらも寄付をしたという次第である。・・・しかしやっぱり旨そうだなぁ。帝国ホテルはとても無理だが,紀ノ國屋ぐらいは漁ってみようかしらん。