Y博士のこと(1) — 職人(engineer)と学者(scientist)

 Y博士のことを書こうと考え,数年経つ。この間,ずうっと書きあぐねまくったのは,私自身の怠惰のせいが大きいのだが,そればかりではない。どこから書き出そうか・・・それを考え続け,折に触れて思い出しては考え考え・・・そんなことをしているうちに年単位の時間が過ぎ去ってしまったのである。どの辺が難しいかはおいおいここでのたくりながら述べるつもりであるが,ともかく,ここは一つ書き出してみようと決意したのである。
 決意の理由はいくつかあるが,一番大きいのは,考えてばかりいても先に進まないという,当たり前の事実を,数年の時間を無駄にしたことで悟ったからである。40過ぎて今更そんなことを・・・と我ながら呆れかえるが,経験からしか学べない愚者である以上,仕方のないことである。悟っただけでもよしとしたい。
 次に,Y博士を知る関係者の高齢化の問題がある。つい先日も数値計算黎明期に関数近似計算の分野で多大な功績のあったアメリカの研究者の物故に関して記事を書いたが,ここでお話を伺っておかないと,文書上の調査で分かることしか書けなくなる,という焦りを覚えたのだ。まずはオーラルヒストリーをできる範囲で収集しておく必要がある,そのためにはまず切っ掛けとしてのこの記事ぐらいは書いておかなければ話にならない。
 最後の理由として,私自身の知識と残された時間とを勘案すると,そろそろ書き始めても良いだろうという判断と,今書いておかないと一生書けないままに終わるだろうという両方の判断がある。知識に関しては,多倍長計算に手を染めて10年以上経ち,ぽつぽつと業績らしきものが出来てきたということがある。世間に対してもの申すだけなら日本語を綴る文章力と媒体さえあれば十分だが,それが説得力を持って他人に通じるものになるかどうかは,文章が伝える「コンテンツ」の質が重要であり,質の向上には知識と経験が不可欠だ。それとて十分とは決して言えないが,ゼロではないと言えるこのタイミングを外してはならじ,と決断したのである。その決断には,41歳を迎えた私の年齢と私を取り巻く社会状況を鑑みて,自分の活動時間はあと10年程度しかないという認識も背景にある。
 それにしても,科学技術開発ってのは本当に人間くさい営みだと,中にいる人間としては切に感じる。現代の人間社会においては大なり小なり他人と関わって知識だの財産だの感情だのをやりとりし,そこから日々の糧を得なければならず,「科学技術」もそうしたコミュニケーションにおいて交換されるものの一つでしかない。科学技術開発に携わる人間を理系クンと称して特殊化する向きもあるようだが,それが非人間的だという指摘は間違っている。確かにそこで培われる思考回路が特殊な訓練を要するものであることは認めるが,できあがってきた「科学」や「技術」はコミュニケーションを媒介として古代から現代に至るまで営々と積み上げられてきたものである以上,人間くさいものを形成する一要素であることは当たり前のことだ。
 だから,金はもちろんのこと,義理だの名誉だのといった生臭いものが,どうしたって絡んでくる。理系クンがそういうものとは無縁の浮世離れした存在だという認識は誤りだ。金銭を求めない学者はいるが,名誉を求めない学者いない(by 藤原正彦)のである。自分が作成した,開発した,発明したものを褒められて喜ばない科学技術者は存在しないのである。
 問題はその「褒められ方」である。どうしたって他人からの評価には「格差」が生じる。褒めるための表現には濃淡が必ずあるし,「誰が」褒めたのか,ということによっても世間の受け取り方は異なってくる。気にする向きは気にするし,気にしないという向きだって否応なく「気にする」他人から気にされてしまうから,本人がどう受け取ろうとも世間的な「評価」はそうした褒められ方によって固まってしまうのだ。こうした「評価」をきちんと定義しようとするとそれだけで一冊の本が書けてしまうほど難しく,しかも重大なものになってしまうのでここでは深入りしないが,これから綴っていこうとしているY博士を語るために提示したいと私が考えている「職人 vs. 学者」という主題においては,この「評価」というもの,そして評価の基盤となる「格差」の生じる原因をまず明らかにしておかないと,後に述べるY博士に生じた「悲劇」というものを理解することはできないのである。
 エンジニアを「職人」と書いてしまうと気分を害する人がいるのかもしれない。また,ここでいう「学者」はいわゆる理工系の研究者全般を表す表現ではない。「職人」と「学者」という括弧付きの言葉は,象徴的なテクニカルタームとして使用していきたいと私は考えているので,現実の町工場にいる職人さんや企業・研究所・大学にいる学者先生を表現したものではなく,あくまで人間の性行を二つの方向でわかりやすく示したものである,ということをお断りしておく。
 私はこのY博士のことを書いた文章を通じて,「職人」を「一つの技術を突き詰めて考え,深く内省的に自分の知識の血肉とする人」と定義し,「学者」を「一つの技術を中心に周辺の事柄も含めて広域的に考え,体系化していく人」と定義する。この結果として職人は「技術の蓄積が個人とそのごく周囲の少数人にとどまる」傾向があり,学者は「技術を学問化し,広く世間に伝達しようとする」傾向が生じる。それ故に職人の評価は,得てして学者のそれより低くとどまる傾向も生じるのだ。
 Y博士はかなり職人的な人だった。晩年は学者の席に着いたが,私の見る限り,最後まで職人的な行動を取っていたと感じる。それば別にY博士が特別なのではなく,理工系全般の「学者」という人の中に,かなりの割合で職人的な人々が混じっているから,その一類型にカテゴライズされるというだけのことだ。
 Y博士の特徴は,そんな職人的学者のなかでもことさら職人的であったということだ。漠然とした私の印象を述べると,自分の培った知識を広く伝えることに失敗したのだ。伝えようとしていたが,その伝え方も頑なに職人的で,結局Y博士個人から広がることがなかったのだ。
 しかしY博士個人は「学者」であろうと努力したのだ。成功したとはとうてい言えないが,最晩年の数年は真摯に努力していたように思える。しかしその結果,その努力が祟って寿命を縮めることになるのだ。人によってはこれを喜劇的と取る向きもあるかもしれないが,それは努力が真摯であった証とも言える。
 ・・・と,断言しちゃっていいのかなぁと思うが,今のところ,私の,Y博士に対する「総論」は上記の通りなので,まずはここでそれをご披露しておく。以降,関係者の方々にお話をお伺いしていく予定であるので,そこで得た知見によってこの総論が根底から覆されたり,補強されたりすることになるのであろう。ちょっと楽しみでもあり,怖くもあるが,出来る範囲でこつこつやっていきたいものである。

「次世代スーパーコンピュータ」事業仕分けについての世論・まとめ

 Twitterにごそごそ書くだけでは頭の整理が出来ないので,ワシがチェックできたものからまとめておく。ちなみにワシの意見はもう書いちゃったので,ここでは繰り返さない。
☆仕分け結果に反対の意見・声明
 情報処理学会の「意見」 ・・・ 「声明」「公式見解」でないところがポイント。
 情報処理学会・計算機アーキテクチャ研究会「有志」の意見書(PDF)・・・「有志」がポイント。
 情報処理学会・ハイパフォーマンスコンピューティング研究会「有志一同」の声明(PDF)・・・「有志一同」がポイント。その辺の事情はこちらを参照して下さい。
 理研・次世代スーパーコンピュータ実施本部によるQ&A ・・・ やっとまともな技術的反論が出てきたって感じ。事業仕分けがなければこんなページも出来なかったんだろうなと思うと,いかに今まで説明をサボってきたかってことだな。
 ・・・他にも色々あるけど,あまり新鮮味がないので割愛。
☆仕分け結果に賛成の意見・声明
 おごちゃんの雑文「「京速」は潰れるべきだったのだ。明日の世界一のために」 ・・・ 今んとこmy best opinion。
 元麻布春男の週刊PCホットライン「NECがスパコンでIntelを選んだ理由」 ・・・ おごちゃんの意見を補強する情報がある。
 民主党代議士・枝野幸男のインタビュー(Videonews) ・・・ 仕分け統括責任者へのインタビュー。次世代スパコンの話はPart2に出てくる。「「二位じゃダメなんですか?」は助け船」,「「予算計上の見送りに限りなく近い縮減」は次世代スパコンだけに与えられた(熟慮の結果の)結論」という話が聞ける。
 自民党代議士・河野太郎の意見 ・・・ 仕分けの対象になった理由が挙げられている。
☆中立的,更に深い意見など
 阪大・菊池先生のblog「科学への投資を誰に理解してもらいたいのか」 ・・・ 菊池先生の意見もさることながら,コメントの議論が参考になる。「若手研究者支援」も必見。
 藤代裕之・ガ島流ネット社会学「「スパコン凍結」批判でかすむ事業仕分けの「そもそも」論」 ・・・ 今回の事業仕分けを評価している。後続の記事では社会とのコミュニケーションの必要性も詳細に論じている。
 マイスター・大学プロデューサズノート「スパコン凍結など、事業仕分け報道を見て思うこと」 ・・・ 総論賛成各論反対は世の常だけど難しいね,という意見。
 RIETI政策対談 第7回「真の教育,研究水準の向上につながる大学改革とは」 ・・・ 今回の件とは関係ない対談だけど,財務省側の考えが分って面白い。公費を求めるならチャンと説明し続けないとダメ,ってことが力説されている。
 事業仕分けWS3 科学分野まとめWiki ・・・ 情報はここに書き込んで集約した方が良いかも。扱う分野が広いのでとりまとめが大変そうだけど。
☆J-CASTニュースから
 文科省,NECに賠償請求方針 ・・・ 仕分けで背中押されて渋々って感じがぬぐえないんだが・・・?
 行政刷新会議事務局長の反論 ・・・ 世間では事業仕分けそのものへの評価は高いことをまず認識すべき。
 3800万円GPUクラスタの報道 ・・・ 事業仕分け結果を後押しする論拠として使われている。どーせなら,「スーパーコンピュータを20万円で創る」にも言及して欲しかったな。どっちも同一グループ出身者が関わっていることなんだからさ。

京速コンピュータ計画雑感

 大体,ワシは今の今までお国から金もらって研究をやらせて頂いたということが全くないのである。一応科研費の分担者ぐらいにはなったことはあるけど,実質的に金銭的援助を得たわけではないので全くのゼロである。従って税金とか公的な銭をもらった経験と言えば,前の職場でもらっていた給料とか実習費用(研究という名前ではなかったけど,当時一人100万ぐらいは使えたような),そして今の職場で頂いている私学助成金ぐらいである。
 だから,事業仕分けで京速コンピュータが俎上に上っても対岸の火事,いや,チョモランマの頂から立ち上っているボヤ程度にしか思えなかった。どっかのHPC MLで頭の悪そうなオサーンのご意見を2件拝聴したぐらいで,せいぜいベクトルプロセッサと共に消えてしまえと念じた程度の感想しかなかったのである。ポシャったところで,ワシがシコシコ遊んでいるGMP/MPFR/MPIRとは無関係,ハード屋さんとか一部並列ソフト屋さんが困る程度のモンだというのがワシの偽らざる認識である。
 しかしまぁ,blogとかニュースサイトでいろんな意見を見聞きし,ワシが末席を汚しているHPC運営委員会でも,委員会としてパブコメを出そうという話が出たりして意見を述べたりしているうちに,ここでひとまずワシ個人としての「まとめ」をしておこうという気になったのである。つーことで,ちみっと人の意見にリンクを張ったりしながら私見をつらつら述べてみたい。
 まず,京速コンピュータの事業仕分けの結果についてはこちら(PDF)で公開されているので,まずはずらっと並んだコメントを読んで頂きたい。文科省がらみの補助金事業の事業仕分けWGの結果一覧はこちら(PDF)が見やすい。
 事業仕分けWGのライブ映像も見たが,おおむね,仕分け人側の意見の方に合理性があるように感じた。そもそもこの事業仕分けの俎上に載せられた時点で削減という結論は決まっている,という意見も読んだし,仕分けの俎上に載せる事業を仕分ける仕事は財務省主導でやっていて,それもけしからんという意見もあったが,まぁ

噴飯もの

である。別段ワシは財務省の回し者ではないが,財務省だってバカではないから,「事業仕分けに回した方が適切」との認識がなされても当然という理由のあるものを選別しているはずだ。そこで,京速コンピュータのように
 ・独自アーキテクチャを支える中心企業(NEC, 日立)が抜け
 ・グローバルスタンダードなアーキテクチャの組み合わせに過ぎないものになり
 ・「このマシンがないとDNA解析が進まず日本の製薬開発スピードが阻害される」とか
 ・「このマシンがないと日本全体のパンデミックシミュレーションが不可能になる」とか
 ・「このマシンがないと銀河形成の核を明らかにするシミュレーションが実行できない」とか
 ・要するに,「このマシンがないと」不可能になる具体的かつ普通の人が「ふうん,それは大事だね」と一発で理解できる目的が出てこないようなものは

さっさと仕分けされて潰して欲しい

と,

見切られた,


または,

見捨てられた

というのが本当のところだろう。ホントに国際的な評価が高い成果が短期間に(少なくとも財務省のお役人が定年になるまでの間に)得られると判断されるようなら,自らの業績を高めるかもしれない事業を,むざむざと仕分け人如きに渡すもんかね。
 技術的なご意見としては,おごちゃんのご意見以上のものは見受けられなかった。牧野先生のご意見も,八ッ場ダムと同様,「折角ここまで作ったんだから完成させないともったいない」以上のものではない。申し訳ないけど,事業仕分けWGの「苦渋かつ前向きの判断を」というコメントに対する返答としては甚だ頼りないと感じてしまうのである。
 この辺の感想の違いは,おごちゃんとかワシとかがLinuxとかLAPACKとかGMP/MPFR/MPIRとかのグローバルスタンダードに依拠したソフト屋であるのに対して,京速コンピュータグループの中核グループの方々がハードウェアを作る側ってぇところに依拠しているように思われる。つまり,ソフト屋は「ハードウェアなんぞ,スタンダードなものがアリさえすればいい」と思っているのに対して,ハード屋さんは「たとえ汎用品の組み合わせであっても,世界一を目標としたハード作りこそ次世代に繋げる重要な使命だ!」と憤っているという図式な訳だ。
 この食い違いには,応用方面の方々に過度のベクトル偏重→コモディティPCクラスタ環境軽視→OpenMP/MPIなどを活用した並列計算教育軽視→並列計算ソフト技術者育たず・・・みたいな負の循環があって,どっちかてぇと,ソフト屋側の普段からの地道な活動に問題があったように思える。大体,ワシみたいなロートルがしこしこPthreadだのMPIだのと格闘しなきゃならんという時点で「日本ヲワタ」という感がある。大体書店を探してもまともな並列計算技術を解説したしっかりした厚みと正確さをもった本がないんだから。いやまぁ,ふつーに英語で読めば?って態度も,エリート教育としてはいいんだけど,啓蒙活動としては失格でしょう。地道な若手育成広報活動をサボった報いって面も軽視すべきではないとワシは思う。普段から「このソフトをあのマシンパワーのマシンに乗っければこんだけの規模のシミュレーションが可能です!」ってな説明がベクトル型でなく普通のコモディティPCクラスタを使って普段から行われていれば,これに関わった研究者以外からももう少し援護射撃があったかもしれないのだ。この計画がポシャった結果,号泣している若手の姿がTV映像に残ったかもしれないのだ。言っちゃ悪いが,これから死んでいくだけの小数のオサーンが喚くだけでは何の効果もないばかりか,かえって仕分け人WGの意見の合理性が普通の人の頭の中に定着するだけであろう。
 しかし,こうして仕分けショーが派手に行われた結果,後出しじゃんけん的ではあるけど一線級の研究者の方々が反論を出しつつあるのは良いことである。しかし今更結果が覆るとは思えないし,一線級であればあるほどみんな頭が良いから,口ではガーガー反対しながらも腹の中ではボチボチ撤退方法と今後の進むべき方向を探っているに決まっているのである。科研費とかにぶら下がってガシガシ研究している人ほど国家戦略の方向付けには敏感だから,京速コンピュータ計画がポシャった結果,おごちゃんが憂慮するところの「完全撤退」状態になりかねないところがある。
 しかしまぁ,あんましワシは心配していない(つーか,最初に書いた通り,ワシにとってはどーでもいい話だし)。
 旧帝大では計算センターがそれなりの予算を組んで,Top500より少し落ちる程度の規模のクラスタを持っているのが普通だし,ワシみたいな弱小研究者でも数十台規模のPCクラスタを持っているのは当たり前だ。マシンパワーが必要な計算処理が実験できる環境は昔より確実に広がっているし,裾野が広ければ成果もポツポツ出てくる筈。もちっと民間企業も巻き込んでビジネスとして展開できる技術に育てていく啓蒙活動を地道にしていけば,自力でメシが食えて,しかも世評も高まって財務省としても補助金を付けたくなるかもしれない。そのときには仕分け人コメントにあるように「従来の検討者以外の新しい研究者を入れて、新しい議論を公開しながら行う」ことが,自然と出来ているだろう。
 結局の所,今のコモディティ環境を大事にしながら,そこで出来る計算処理をガンガンやる,やった結果をプレゼンして啓蒙活動してクチコミ的にもビジネス的にも高い評判を勝ち取る努力をする,そこから地道にやっていくしかないのだろう・・・って,そんなこと,ワシ自身は出来る範囲でやってきたつもりなんですけどね・・・まだまだ頑張らないとダメってことなんでしょうなぁ。

論文の書き方も色々ある

 今年に入って,興味のある問題が出てきたので,あれこれ参考文献を渉猟している。最近はググる(げ,ATOK2009では標準登録されるんだ,これ)と主要なものは最低限,どこの雑誌に載っていてAbstractはこれ,程度の情報は取れるし,もうちっと深く探索すると,掲載論文そのもののや,それと寸分違わぬpreprintが著者のWebページからタダで入手できることが多い。だもんで,面白くなってどっさりDLしてプリントアウトしてざっと眺めているのである。
 集めてみると面白いモンで,「ああ,やっぱりそこの部分はそうやるのか」という,かゆいところに手が届くように書いてあるものもあれば,「どーしてそこのところを言及しないのよ。全然分らんぞ!」とワシみたいなアホに冷たいものもあり,論文の書き方も色々だなあ,と感じる。当然,アホなワシが書くと「アホなワシにも分る」ものになってしまうので,特に後者のように書いてある論文が好みである。ま,反面,二番煎じ的な内容が多いので,あんまし重要度は高くないが,なに,分らないものを神棚に上げて飾っておくよりよっぽど役に立つというものであるし,大体,ワシ自体が既存のアルゴリズムの有効な活用法という,完全な二番煎じを狙っているので(つーか,使えない理論家には辟易しているのでね),いわば「お仲間」なのである。
 で,そーゆー二番煎じ論文を集めてみると,よくもまぁこんな内容で査読に通ったよなぁ的なものが多くてびっくりする。日本語の学会論文誌の方がよっぽどレベルだの流行だの内容だのに厳格だったりするので,ホントに世界には山のように論文誌があって,レベルもまちまちだと思い知らされる。まぁ,ホントに疑似科学に踏み込んじゃっている怪しげなものもあるけど,そういうものを避けておけば,英語で書いた論文の方が通りやすい,つまり,論文のレベルに合った雑誌は見つかるってのは事実なんだなぁ。してみれば,日本語の論文ばっかのワシは結構真面目にやっている方なのかと思ったりして(嘘ですからね)。
 そろそろ土台が固まってきたこともあり,論文の量産を目指そうかと思っているので(出来るかどうかは別よ),下手でもイイから英語で書こうと決意するに至ったのは,そーゆー二番煎じ論文集めの賜と言える・・・のかなぁ?