12/31(木) 掛川・晴

 外はピーカン晴れ・・・何だが,この冬最強の寒風が吹きすさぶ。日本海側は相当な大雪なんだろうなぁ。
 本日は料理day。毎年この日しか作らない鰹ダシを大量に取る。昨年の教訓「ダシ取りは最高の食材を無駄に使う処理」を生かし,今年も削り節を大量に投入,大鍋二つに一袋ずつ使用して濃度の高いダシを取る・・・ううむ,やっぱり顆粒のやつに比べてまろやかな風味が出て良いですな。
 昨日購入した大規模鍋は年越しそば兼雑煮用汁にすべく,酒と醤油,砂糖少々入れてちょっと辛目の味付けにし,小さい方の鍋は醤油と味醂で甘辛く濃い味付けにしてうま煮を作成。
 うま煮だが,人参がない状態ではこんな感じ。
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 味はともかく,見た目が地味すぎ。これに人参を投入すると一気に華やぐ。
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 最後は,ゆり根と絹さやをさっと茹でて投入し,フィニッシュ。
making_of_umani_finished_without_eggs_of_uzura.JPG
 ・・・あ,うずらの卵入れるの忘れた。まぁ,味付けの必要もあまりないのでそのまま投入してお茶を濁す。
 にしても,料理の見た目,あでやかさって大事だなぁと思いました,はい。

12/30(水) 掛川・曇

 冬本番なのに,どんよりした一日。晴れている日に比べて寒さはさほどでもなし。これから全国で大荒れとなるようだが,どーせどこにも出かけないので関係ないね。コミケ参加の皆様,ご苦労様です。ワシはのんびり年末を過ごしてます。
 のんびりっつーても,部屋にたまったゴミを片付けねば安心して年を越せないので,エアコン掃除・ワックスがけ(フローリングって維持するのに手間がかかるってやーね)・風呂掃除をすませて,一年分の漫画雑誌を近場のカインズホームに廃棄。年末ということもあって,もう紙資源置き場のコンテナはもうイッパイイッパイ。それでも無理にねじ込んで,気分は爽快。
 そーいや,毎年本の置き場にはほとほと困っていた前のアパート暮らしに比べて,「壁一面の本棚~」(by 久世番子)になってからはそんなに本の置き場には困らなくなったなぁ。いつまで持つかと思ったが,格納場所に困ったらロフトに上げちゃえばいいし,当分は凌げそうだな。これだけでも引っ越した甲斐があったというもの。
 本日の晩飯は,唐沢俊一さんの日記に記述のあったピェンロー・・・つーても,塩だけではちっとモノ足りず,ワシの場合はポン酢で食うようにしている。ヘルシーでうまし。
 さて明日は冷蔵庫野菜室一杯になったこの食材を一挙に調理。
my_food_stock_in_2009-12-30.JPG
 毎年のことだが,殆どはうま煮と年越しそば・兼・雑煮汁用である。あ,でもキンピラゴボウと紅白なますもあるな。この二つはもう作ってしまった。明日はメインディッシュの作成に勤しまねば。
 さて,神保さんに倣ってワシもTwitbackrに登録してみた。無事更新情報が載るかな?
 お,載った載った。つーことで,これからはblogの更新情報もTwitterに載っけますです。

12/27(日) 掛川・?

 うーむ,何かしようとして何もできなかったな・・・。いつものことだが。
 とりあえず,年末のぷちめれ特集は一応終了。大晦日にあと一本,ご挨拶代わりの記事を上げたらおしまいである。
 昨日,職場は土曜日ではあるが出勤日扱いとなり,仕事納めをしてきた。終了後はいつものようにショッピングセンターへ直行。ららぽーと磐田ができたので,浜松まで遠出しなくていいようになったのはありがたい。
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 傍らに写っている人形のケツ本,都築響一さんの新刊であるが,まぁ,西欧のグロいところを集めて煮染めたきっつい本なので,モノホンのホラーが大好きだという酔狂な人以外はオススメしない。
 以下の記事も,グロい写真へのリンクを張っているので,怖いのが嫌いな人は読まないよーに。・・・警告したからね。
 ・・・つーことで,都築さんの本に載っていた,ロンドンにあるマダム・タッソーの館にあるフランス革命時のギロチン処刑者の生首展示(P.57)に興味があって追っかけてみた。
 本に載っている写真は1990年台のもののようで,この記事のトップにある写真と,配置は多少異なるけど首の造形はほぼ一緒。マリー・アントワネット(正面向かって左から2番目)・・・太ってないか? ルイ16世(真ん中)はデブなのでまぁ納得。ロベスピエール(一番右)も,まぁチンクシャだからこんなとこでしょ。分からないのは一番左の美人(それとも男・・・?)と右から2番目の恨めしそうにこちらを見ている人。この記事によると,HebertとCarrierという人らしいが・・・誰?(分かった,エベール(ジャーナリスト)とキャリエール(ジャコバン派の政治家)という人らしい・・・けど,逆じゃないのかな?)。
 ついでに,別の写真(2006年のものらしい)。タッソー館はロンドン以外にもいっぱい支店があるそうなので(東京にも作って欲しいが・・・無理か?),これはそこの展示なのかも。それにしてもだなぁ,どっかのパンクバンドの惨殺写真にしか見えんぞ,これ。もちっと歴史的な深みを出して欲しいところ。やっぱ,これは実物を見ないとダメだね。ロンドンに行く機会があったら見物してこよーっと。
 ちなみに都築さんの本は生首よりもっとグロい写真満載なので,この程度で気分が悪くなった人は読まない方がいいです(特に昔の病理標本・・・)。カフェオレ飲みながら優雅に読む本じゃなかったな・・・。
 「カフェオレ飲めないならブッシュ・ド・ノエルでも食べればいいじゃない?」ってマリーちゃんからイヤミ言われないうちに寝ます。

吉村昭「私の文学漂流」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42560-7, \600
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 本年(2009年)はなかなか大学生の就職が決まらない。就職先がない,というわけでもなく,企業の新卒者採用の意思はそこそこあるのだが,採用目標数に届かなくても学生の質には妥協しないという「厳選化」と早期に締め切ってしまうという「早期化」,そして学生自身の「質」の問題が引っ絡まって,変な言い方だが「内定が取れない学生は取れないまま」となってしまうようである。
 「厳選化」と「早期化」は企業側の都合だから仕方ないとしても,「質」の問題となれば,ワシも含めた教育機関側にも大いに責任がある。学生自身を甘やかしたという気はあまりないのだが,考えさせる機会をことごとく奪ってきた,という忸怩たる思いはある。もちろん「あまり考えさせないでくれ」というのは学生側の「(かなり)切実な」要求ではあるのだが,それにハイハイと応じてしまうワシらの側に一義的な責任があると言わざるを得ない。但し,たたきのめす様なことを今更やったところで脱落者が増えるだけで良いことはあまりない。サポート体制はとりながら,チクチクと「考えさせる」ことを意識的にやらせるようにしなければダメだろう。そういう意味では,小中高を通じて,どれだけ勉強してきたか,というよりは,その勉強を通じてどのように「主体的にモノを考える習慣をつけたか」ということが,知識量そよりも何倍も重要なことである。ハッキリ言って,就職活動を始めてからそのことに気がつくのでは完全に手遅れなのだ。どこまで通じるか分からねど,せめて「これから自分の人生をどう歩んで入ったらいいのか真剣に考えろ!」と,ネチネチと言い続る必要があるのだろう・・・が,それで彼らの胃の腑に届くのかは甚だ疑問だ。
 本書は,2006年にガン闘病中,カテーテルを引きぬいて逝った吉村昭の,デビューまでの悪戦苦闘ぶりをいつもの静謐な文体で綴った自伝である。これを読むと,確かに日垣隆が嫌味を言うように,事業を営む兄弟の援助を受けることができる恵まれた環境にいたことで,長い助走期間を何とか脱落することなく乗り切れたということが分かる。
 しかし,途中,妻の津村節子が先に芥川賞を取る一方,自分の作品は再三候補になりながら,一度は受賞決定の知らせを受けて会場にたどり着いてから間違いだったと告げられるという仕打ちを受けた挙句に結局取れずに終わって挫折しかけるという経験を読まされると,結構辛い助走期間だったなぁと同情してしまう。結局,自分のポリシーを曲げて筑摩書房に投稿し,やっと太宰治賞を取ることができたあたりから反転,新潮社から「戦艦武蔵」を出して10万部を越えるヒットを飛ばしてなんとか作家として離陸できたという事情が,本書の最後あたりで明らかとなる。
 この助走期間において,吉村は同人誌で批評合戦を行いつつ,作家修業を積んでいたことが本書の半ばあたりで詳細に語られている。当時の純文学雑誌は同人誌の中からめぼしい作品に目をつけてスカウトするというシステムだったようで,段々と吉村にも声がかかって来ると,芥川賞にも手がとどくところまで到達するのだ。
 教師をしていて思うのは,学生への訴求力は,学生同士の関係から生まれてくるもののようだ。結局のところ,読書会とかゼミのように,自主的に学びを経験し,ロールモデルを教師にではなく,自分より優れた学生に見つける,というのが一番学生の成長が見込める学習形態である。作家・吉村を育んだ土壌もそこにあった。
 内定が取れる学生とそうでない学生との差異は,仲間内から自然発生的に優れた部分を見出そうと意識し,自分の開発に生かそうとする学習能力が発揮できるかどうか,そこが大きいように思える。具体的な行動を起こさず,他者との現実的なコミュニケーションも怠り,何年も夢想だけしているというのでは,採用する側が躊躇するのも当然だろう。実績のない若手は,体力にモノを言わせて短期間で実績作りに死に物狂いになって取り組まねばならない。何故なら,自己プレゼンはそこに基づいて行うしかないからだ。「何でも好きなことをやりなさい」とはワシらの常套句であるが,それは好きなことなら主体的に「学習」できるだろうという期待に基づくものであって,怠けさせるための口実ではないのである。
 吉村のデビューまでの経緯には,終戦当時としては経済環境は恵まれている方とはいえ,作家としての実績作りに真剣に取り組み続けた跡がくっきりと残っている。今の学生さんも,社会環境が厳しくなっているとはいえ,まだその多くは学費を払ってもらって飯も食わせてもらってという,吉村以上に良い経済環境に浸っているはずなのだ。だから,彼らは口先三寸の面接だけで企業に入れてもらおうなどというさもしい魂胆はさっさと捨てて,せめて吉村並の必死さを見習って,何でもいいから「実績」を作って示して欲しいと,ワシは願っているのである。

南Q太「ぼくの家族」YOUコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-08-782261-8, \838
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 本書読了後,ふ~,「レディース」もついに大変化の時を迎えているのか・・・と,感嘆せずにはいられない。欲を言えば,優れた中間小説並の「大人の物語」まであと一歩・・・と思わなくもないのだが,しかし,岡崎京子らが巻き起こした少女漫画から女性漫画への,ストーリーと絵柄の革命は,とうとう中高年女性も巻き込んでレディースまで変えようとしている・・・そんな大潮流が巻起こっていることを南Q太は本書で示したのだ。
 世の「妙齢」な女性であれば,未だに結婚生活における家事の担い手のデフォルトは妻であり,夫ではない,という「常識」にカチンと来た経験はあるはずだ。ワシが知る限り,よしながふみ「愛すべき娘たち」でも,かなり協力的な夫ですら食事は妻としか作らないし,掃除は汚れに根負けした妻がやれやれとため息をつきながらやらざるをえないものという場面が描かれるし,勝間和代&西原理恵子の対談でも,家事を「手伝う」と発言した毎日新聞男性記者に,手伝うとは何事だ,てめぇの仕事なんだゴラァ,当事者意識がねぇぞぉ~・・・と二人して説教しまくっていた。世の男性の意識は昔に比べれば大分変わったというのは確かだが,それでもまだ「良妻賢母」幻想は根深くワシら日本人の,主として高齢者と男どもに食い込んでいるのである。かくいうワシだって,妻がいれば家事は「やってもらいたい」という願望が拭えないのだ。それゆえに,家事負担の平等を恐れて未だにひとりもの生活を続けている・・・というのは単なる言い訳だ。すまん。
 本書では,ともにバツイチ・子供(娘)一人のイラストレーターの女性と会社員の男性が再婚したあとの,困難であることは火を見ることが明らかなステップファミリー生活が描かれているのだが,主として妻となる側の忍耐が前半の主要テーマとなっている。第一話から「つらくない結婚などないのだ」(P.31)・・・だからなぁ。いや,全く,(結婚してないけど)男性として,申し訳ないな~・・・と感じ入ってしまう。またこのモノローグの被った,まるで小学生のように膝抱えて泣いている女性の絵がいいんだなぁ。いや,ワシも四十路になってわかったんだけど,精神構造って全然進歩してないのね。メンドクサイとか疲れたとか世間体とかが邪魔して感情表現が表に出づらくなっているだけで,喜怒哀楽の発火点はそんなに変わってないのである。昔より成熟年齢が上がっているという話はあるけど,それを差し引いても,辛いもんは辛いよね~。特に「妻」はさ。
 ま,「夫」もそれなりに辛さは抱えて毎年3万人超の自殺者の過半を占めてしまったりするけど,死ねば終わりってのも一種の責任放棄っぽく感じられて,あまり同情できないところもある。辛さに耐える,のではなく,辛さを受け入れてアウフヘーベンするってのは,業田良家「自虐の詩」のテーマだけど,結局,宗教家が古来語ってきたことをワシら俗人も寿命が尽きるまで追求しなきゃいかんのだろう。
 本作の最後は正直,ハッピーエンドにしようとしすぎてご都合主義的なものが感じられて,う~ん,どうかなぁと思うところもある。それでも,本作の半ばの「羊と筏」の疾風怒涛な展開を経て,次第に他人同士だった家族が「融合」していく様は,南の実体験から来ている部分も多いのだろうが,説得力を持ってワシを和ませてくれた。怒りも悲しみも笑いも涙も全部取り込んでコミュニケーションを図り,多少いびつでも社会を形成する一つの結晶として関係性を固定化していくのが家族というものの基本的な姿なのだろう。これで最後にもう一歩,単なるハッピーエンドではないビターテイストがいい具合に入ってくると,田辺聖子とか佐藤愛子の中間小説のような,類型的でない上質なエンターテイメントになる・・・と,思うのだけれど,さてどうでしょう?
 そういえば,レディースって,昔から家族がテーマだったよなぁ,と今更ながら思い出した。その意味では金子節子とか風間宏子あたりから,夢路行やこの南Q太まで,本作も含めて「レディース」の王道は踏まえているわけだ。「嫁姑」関係が蒸発してしまった家族の形態や,「ヘタウマ」的な絵のセンスといった,表現形式はずいぶん変化しつつあるが,本作は間違いなく「レディース」の王道を踏まえている。この先も,新規参入者が増えるにつれてレディースといえども間断なく変化していくのだろうが,多分,「家族」という軸がブレることはないんだろうなぁ。