とり・みき&唐沢なをき「とりから往復書簡2」リュウコミックス,坂田靖子「サカタ荘221号室」PHP研究所

「とりから往復書簡2」 [ Amazon ] ISBN 978-4-19-950145-6, \933
「サカタ荘221号室」  [ Amazon ] ISBN 4-569-61991-6, \1350
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 NHK BSの番組「マンガノゲンバ」で唐沢なをき先生を取り上げる予定だったのが取材中のトラブルで中止になった,という記事(産経新聞)が出たのが本日2009年9月14日。それを見た現実逃避中のワシは慌ててからまんBlogにアクセスし,奥様の唐沢よしこさんがその顛末を細かく報告した記事を読んでみた。
 うーん・・・デジャブ・・・デジャブだ。そうだ,あれは坂田靖子先生の本だった。っつーことで本日「マスコミの横暴」じゃない「(一部の)横暴なマスコミ関係者」にからめてまとめて2冊ご紹介してみたい。
 さてくだんの事件だが,制作会社側の言い分が全く聞こえてこないので,今の時点ではよしこさんの記事でしか判断できないのだが,それを読む限り,まぁ何というか,やらせ問題があれだけ騒がれたのも忘れたのかという程の,ワシに言わせりゃ完全に横暴極まりないディレクターの指示(先方にしてみればお願い程度の認識だったのかもしれないが)には呆れかえってしまう。強引な先方のストーリーに載っかったインタビューもさることながら,漫画作品にまで手を突っ込んでこの材料を使えなどという要請(?)は,20年以上もプロとして食ってきたベテラン漫画家に対する敬意のかけらも感じられない。そりゃぁ,継続取材を断るのも当然だよなぁという内容である。
 で,よしこさんも言及している新刊「とりから往復書簡2」に納められている「愛の18通目」には,とり・みきからの「思いっきりやらせっぽいTVや雑誌の取材を受けたことはありますか?」という問いに対して「えーっもーいっぱいありますよいーーーっぱい!!」となをき先生が力説されている。で,「こっちが見下されてなければ」「実はけっこう好きなんですよ ヤラセの入った取材とかそーゆーの」(P.25)と言っている。しかし今回の取材では事前に説明もなく,あーしろこーしろという一方的な指示が来るだけだったので,さすがにこれは・・・ということでお引き取りを願ったということのようだ。多分,完全に「見下された」ような取材だったのだろうと想像する。
 「とりから往復書簡1」の感想でワシは,「とりの「冷たさ」と「毒」が程良い具合に唐沢によって中和された,万人にお勧めできる漫画エッセイ」と述べた。暖かみの残る絵もさることながら,内容もマイルドであるのが唐沢漫画の特徴であるから,とり・みきの逆ベクトルの味わいと混じり合ってちょうどよいハーモニーを醸し出しているのがこのエッセイ漫画なのだが,この取材の件では,そのマイルドさ故に,多少強引な注文をしても乗ってくれそうな人の良さというものを勝手にディレクターがでっち上げてしまったのかなぁ・・・とも感じてしまう。一条ゆかりにも同じ態度で取材していたとすればイヤな強引さだが一貫性があって,それはそれであっぱれとも言えるが,そうでないなら単なる悪のりとして糾弾されても仕方なかろう。
 しかし,どうしても作品がマイルドで,かつ,大変なビッグネームという程ではない,という漫画家さんは,往々にしてそーゆー横暴なマスコミ関係者がもたらす災難に遭ってしまうものなのかぁ・・・と感じてしまう。その一例が「サカタ荘221号室」に納められている坂田先生のエッセイ「ヨワいものの話」(P.48~52)に現れているように,ワシには思えてならないのである。
 本書は2002年発行だからもう7年前のものだが,今でも多分,漫画よりエッセイの分量がずっと多い著者唯一の単行本であろう。漫画同様,生き生きとした躍動感溢れる表現は文章でも変わらず,読んでいて楽しくなるものばかりである。ただ,この「ヨワいものの話」だけは,ちょっと引っかかるものがあってワシは良く覚えていたのである。
 このエッセイは,坂田先生が在住している金沢まで出張ってきた編集者2名+カメラマン1名の「抱腹絶倒な同人誌仲間とのエピソードを語れ」という無茶な要求に坂田先生が焦らされた,という話である。まぁ,文章は坂田先生らしく朗らかに締めているのだが,ワシが同じことをされたら逆上してちゃぶ台をひっくり返しているところである。「いきなり事前説明もなく面白い話をしろったってなぁ~(怒)」と怒鳴り散らしていること間違いないのである。
 最後は大人の態度で寛容にフォローをする坂田先生なのであるが,作品と人柄の良さにつけ込まれたなぁ・・・というのが,このエッセイを読んだワシの偽らざる感想であった。
 この手の「横暴なマスコミ関係者」ってのは絶えることなさそうだ・・・という予感,つーより,確固たる事実は,かつて坂田靖子を襲い,この度また唐沢なをき夫妻に一つのイヤな思い出と「まんが極道」のネタを一本提供して,その実在を世に知らしめたのである。

9/14(月) 掛川・晴

 朝晩はすっかり秋の気候。日中の気温はまだ20度代後半まで上がるが,湿気が取れている分過ごしやすい。本日は時期遅れのミンミンゼミが一匹だけ鳴いていた。こうなると寂しいものである。ましてや,伴侶を見つけることが出来ないことが分っているだけ,その健気さには同情を禁じ得ないというものである。おーいおいおい(号泣)。
 は~,ふんづまりになっていて全く手が着かなかった計算,本日やっと少し進んだ。やってみると前に作った分も間違っているような・・・げげっ,明日にでも全部やり直さないと。今週中に蹴りをつけねば。ついでに,25日締め切りの原稿も取りかからねば~。・・・って,Web関係と数値計算関係を同時に進めるのはちとしんどい。いいよな,計算ばっかりやってリンク切れになっていることも気がついてないようなWeb作ってほったらかしていられる人はさ。けっ。
 計算の糞詰まりが何とかなりそうになったせいか,ホントの糞詰まりも少し改善。ここんとこきっつい便秘で腹がきつかったのよねぇ~。寄る年波を感じる四十路の秋~。
 溜まっていた書類作り,一気にやってしまう。我ながら出張の多さにびっくり。次年度からは半分に減らそうっと。大体,論文書きに精出して,講演回数は減らす予定だったんだからさ。もう一年9講演のペースを維持するのは無理。次年度はせいぜいシコシコ文章書きをする程度にして,純然たる遊びの遠出を増やすことにしよう。折角マガリ太郎も買ったことだし,民主党さんが高速道路をもっと安くしてくれるかもしれないんだし~。
 法科大学院の合格率前年割れ,という記事(産経新聞)。apjさんがこの件に関して,朝日の社説の八方美人さに疑義を呈しているし,マイスターさんは地方の法曹人口を増やそうという目論見に反して首都圏に合格者が集中していることを指摘している。うーん,なるほど。
 お二人の意見とは別に,合格率を上げようとすれば,毎日新聞の社説にあるように単位認定が甘いことと,J-CASTの記事中で「国家的詐欺」などと抜かすレベルのロースクール学生いるってこと,この2点を改善するしかないのかなぁと思う。
 前者についてはなかなか難しいのかなぁと思う。単位認定を厳しくして履修率が下がると経営側・学生側両方から文句言われる訳で,日本人的従順さを持つ教員なら唯々諾々と従ってしまうものなのだろう。
 後者については,国を相手取って戦うはずのスペシャリストが「国家的詐欺」を見抜けないでどうすると言うほかない。どの程度ハードな勉強をさせられているのか知らねど,課題をこなしたら余った時間で資格対策を独自に仲間とやるって訳にはいかんのか? ひょっとして,講義だけこなしていれば合格できるってのが新司法試験なのか? 全体としては旧司法試験の時より合格者の数は増えているようなので,目的値より低いとは言え法曹人口は増えているのだから,日本国としては「詐欺」と言われる覚えはないぞと反論してくるんじゃないのかなぁ。「合格できないのはてめぇの努力が足りないからだ」と,少なくとも法律家になろうというインテリゲンちゃんには冷たく言い放っても罰はあたらんだろうて。
 ありゃま,唐沢なをき先生も大変だなぁ。これについては後ほど,臨時ぷちめれにて言及することにする。何せ本日のアクセス,ほとんどこれがらみと思われるものばっかりだったもんでねぇ。
 さて,風呂入ったら臨時ぷちめれ書いて寝ます。

9/10(木) 掛川->豊田->掛川・晴

 ん~,もう窓を閉め切ったまま寝ても暑くて目を覚ますということなく,さわやかな気温と適度な湿度が定着した模様。今年は15年目のパル子のエアコンが逝かれたのを機にマガリ太郎に乗り換えたのだが,こんなに涼しいのなら12月の車検まで粘るべきだったかな。それともパル子最後の呪いのせい?
 本日は電気関係学会東海支部連合大会(なげぇよ)の見学会。明日行く予定だったのが,給料分働いていない人たちのせいで用事が出来てしまい,本日にずらして出かけたという次第。名古屋圏内のでかい大学の間をぐるぐる当番で回しているようで,今年度は愛知工業大学。車で来るなと書いてあったので,近場の愛・地球博記念公園の駐車場に止めておく。
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糸井重里のいないメイと五月の家にいってもしゃーないので,誰もいない駐車場のみ使わせて貰い,リニモで八草へ移動。
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 創立50周年記念事業とかで,真新しい建物が正面に建っていた。ふーん,こぎれいですな。古参の理工系大学なので,理科大とか日大理工とかと雰囲気は似てますな。
 全く専門外のウブな学生さんの講演に訳の分からん質問を時たまぶつける内職教員が一人いたというイヤな記憶は学生さん達の間に残るであろう。ワシはおかげで本日のノルマは完璧にこなせた。いや,ごちそーさまでした。帰宅途中に大学に寄って印刷して本日の仕事は終了。何のこたぁない,ワシの仕事を愛知工大まで持ち込んでやっていたというだけのことである。でも出かけて違う環境でやると進むねぇ。漫画家がネームをファミレスや喫茶店で作ったりするのも同じか。ずーっと仕事場に居続けると精神が腐っちゃうモンねぇ。
 平日だから高速料金も高そうだなぁと思っていたら,地方路線は100km超えると通勤割引なんてものがあるそうで,往復しても4000円かからなかった。安っ! って,山崎養世に言わせると,現状が高すぎるってことになるようだが。
 さて,明日には原稿の下書きを早々にアップして,こんどこそJSIAMの計算に取りかからねば~。つーことで風呂入ったらさっさと寝ます。
 おっと寝る前に気になる記事があったのでメモ(朝日新聞)。この理屈で言うと,国民年金なんて支給額を何割カットせにゃらんのか・・・。

9/7(月) 掛川・晴

 太陽光線はまだきついが,空気は乾いていてべとつく感じは消え失せた。蝉の声は既に過去のもの。鈴虫松虫が夜に小さく輪唱を奏でるのみ。透明度を増した大気は満月からの儚げな光線を一切遮ることなく,鮮やかに照らし出して人々の目を楽しませてくれる・・・秋。・・・だめだ,使い慣れない形容詞を使うと寒気が・・・がほごこげほ・・・げ,新型インフルか?
 休み中にも真面目にサーチエンジンを回転させてくれているT君からご報告。MeCabクラスタのうち一台がついに逝かれたとのこと。まぁ6年前に購入したP4マシンだからなぁ。良く持ったというべきか。明日にはM/BとCPUとメモリとG/Bを買っておくよ~・・・と言っておいて,すっかり忘れてた。明日,会議の合間に買ってこなくちゃ~。全く,HPC研究なんて金かかるよなぁ。
 代替物としてはこのCeleron E3200/3300あたりがよさげ。安いのが何より良いね。このSSDをキャッシュ代わりに使うHDDアダプタも出たら使ってみたいなぁ。間に合いそうもないけど。
 それ以外はシコシコと予定通り,某出版オーディション用の原稿改訂作業にかかりきり。あーだこーだと悩む内に何とか軌道に乗ってきた。この調子で今週末には下書き脱稿したいもの。しかし・・・肩がバリッバリ。歳ですなぁ。
 先日受診した人間ドックの診断書が届く。・・・デブさは改善されることなく今年も「痩せろ」とのご神託を頂くことに。胃にはポリープやら老化現象が見られるというし,ワシはもう老い先長くないわい。絶対大師匠より早くこの世からおさらばするに違いない。
 肩こりを治そうとして風呂に浸かるも・・・全然バリバリは取れず。もうこの辺で寝ます。朝のウオーキング,真面目にやんなきゃだめかしらん?

松本清張「史観宰相論」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42605-5, \900
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 政治家の評価ってぇのは難しいモンだなぁとツクヅク思う。いや,個別の政治家が好きだ嫌いだと床屋政談レベルであれこれ言うのは簡単だが,歴史的に長いスパンで,かつ「日本の国益」に寄与しかどうかを判断基準にしてきちんと評価しようとすると,誠実に考えれば考えるほど分らなくなる。小村寿太郎なんてのはポーツマス条約直後にはロシアからの見返りが少ないと当時の国民からボロクソにこき下ろされたが,吉村昭が小説「ポーツマスの旗」でその業績を評価したら180度変わって名外相ともてはやされたり,井伊直弼に至っては二転三転どころではなく,結局今も統計的に確定した評価なんて存在しないのではないか。世の移ろいに従って「国益」の基準が変わってしまったり,評価する側の「常識」が変化してしまったりすると,政治家の評価なんてコロコロ変化するに決まっているのである。
 ましてや,政治家をテーマにしたノンフィクション書き物なんて,書き手の見方が変われば同じ人物を取り上げていても真っ二つの評価になることは普通にある。いや,同じ書き手でも「俺の筆先一つで善悪好悪は何とでも変えてみせるぜ」という筆先三寸な輩であれば,2パターン,いや何パターンの評価の異なった著作を作ることも可能だろう。大下英二ならやりそうだな。
 じゃぁ芯が通っている書き手であれば信用できるかというと,佐野真一のような文学的フレーズ表現に懲りすぎ,しかもその人物の生い立ちに寄りすぎた断定の多いライターだと,事実関係の記述は大いに参考になるが,肝心の評価については「?」をつけざるを得なかったりする。「凡宰伝」読んでいるときには引き込まれたけど,今になってみると,小渕恵三を「幼虫」と形容したのは何の意味があったのか,形而下的なことしか分らないカチカチ頭のワシにはさっぱり分らん。
 ということで,政治家の評価というものは,それなりに客観的・合理的な証拠に基づいた上で,個々人が判断し,それを各個人が積み上げてきた社会的ステータスも勘案して重み付けした上で統計的まとめを行い,そこに現れる「偏り」をもってようやく「まぁこの政治家はこういう評価か」と思うしかないものなのである。
 ・・・という結論を得た上で言うのだが,どーもそれはワシの好みではない。事実関係はきっちり調べて欲しいが,それはそれとして,結局その政治家がどんなことを政治的にやってきたのか「だけ」を取り上げて評価したものが好ましいと,ワシは思っているのである。「ちくま」No.462では佐野が小泉純一郎一家の,親権争いだの姉の別れた亭主の批判などを捕らえてとんでもない宰相だと批判しているが,そんなもの,政治家としての評価と何の関係があるのか,まるで意味不明である。小泉への批判は,国会議員となってつい先日の解散時に引退するまで,特に総理大臣在籍時の政治的振る舞いに力点を置いた政治活動に基づいて「だけ」で行うべきであって,不倫しようが離婚しようが「よっしゃよっしゃ」と言おうが目白に御殿を建てていようが芸者に金をばらまこうが,そんなプライベートなことはどーでもいいのである。ゲス的な調査はゴシップとして面白いからそれはそれで結構であるが,何を行い,結果として何が起こったのか,そこは揺るぎなく捕まえた上で良いだの悪いだのを言って欲しい。それがワシが好む「政治家談議」である。
 本書はそんなワシ好みどんぴしゃりの,大久保利通から鈴木善幸まで扱った「日本の宰相論」である。松本清張は本書の意義をこのように述べている(P.8)。

本文はどこまでも雑談ふうな史的宰相論である。ここにとりあげる人物が宰相の適格者だとはけっして思っていない。あるいは「悪宰相列伝」かもしれない。だが,現実性のない理想像的宰相論を言うよりは,曾ていくたびか変遷した組織の上にたしかに存在し,史的評価も与えられている「宰相」を見る方が,まだしも将来の理想像をさがす手がかりとなろう。

 阿刀田高は「松本清張あらかると」の中で清張の小説にはユーモアが全くないと指摘しているが,本書のような結構気楽に書き綴った(でも事実はきっちり調べた上で,だが)ようなエッセイでも,ほんっっとに読者をクスリとさせようと塵ほどもしていない。現実の宰相に理想なんて述べ立てたところでしゃーねーだろ,と一種の諦観というか達観というか,そーゆー冷めた視点のみが屹立しているという印象がある。結果として,日本の宰相の原型は内務卿・大久保利通がもたらし,そのくびきから現在に至るも逃れてられていないと断じることができたのであろう。
 本書では清張の興味を引かなかった首相はいとも簡単にすっ飛ばされている。東条英機なんて全く面白いと思っていなかったようで,近衛文麿が始めた「日本の破滅」(P.220)を行ったとして一言でまとめられているだけ。戦前の首相では,大久保・伊藤以降は政党嫌いだった山県有朋がいわゆる「統帥権」と,軍が天皇への直接意見具申が出来る制度「帷幄奏上」を創設したところから,近衛文麿が陸軍の「使用人」として終わるところまでを扱い,戦後はワンマン宰相・吉田茂を集中して述べ,それ以降の首相はさらっとした一口論評程度で終わっている。本書執筆当時の政治家が小物だということではなく,歴史資料の堆積のない最近の首相は書く意味がないと言っているようでもある。この辺は分厚い歴史資料好きな清張の面目躍如という感がある。
 きちんと取り扱っている宰相についての論評はほぼ的確,というか,資料の裏付けのある歴史的評価の定まった人物については,「ふーん,なるほど」と納得させてくれる記述をしている。ほめあげることは殆どなく,政治家として実行したこと・しようとして出来なかったことに対して少し辛口な論評を短くそっけなく行っている。ほとんど異論はないが,客観的すぎて作家と言うよりは学者の仕事という感じ。早大を出た石橋湛山に関する記述の中に,中年になって作家デビューするまで苦労した清張の「やっかみ」が見える記述(P.394)を見つけてホッとしたぐらいだ。高学歴の多い編集者に質問を浴びせてその無知ぶりを笑っていたという清張らしいが,ワシはこの子供じみた振る舞いに魅力を覚えるタチなので,もっと自分のことに絡めて語ってもよかったのではないかと思うのである。
 本書には,今度首相になる鳩山由紀夫の祖父・一郎についての記述も,現首相である麻生太郎の祖父・吉田茂の記述もそれなりの分量が割かれている。そしてその二人が登場するまでの歴史的経緯も明治以来厚く書かれている。戦後政治がどのような「源流」を持っていたかを知るには格好の一冊であると共に,今の政治も決してその源流とは無縁ではないどころか,太いワイヤーで繋がっているということを再確認する上でも役に立つ書である。ワシは政権交代が起った今こそ,本書が刊行された意味が出てきたと思っているのである。