伊藤理佐「あさって朝子さん」マガジンハウス

[ Amazon ] ISBN 978-4-8387-1961-7, \800
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 そうか,老舗女性誌・Hanako連載の名作漫画シリーズのバトンは伊藤理佐が受け継いだのか,と先日この新刊をgetした直後に気がついた。我が家にはちくま文庫に入っている高野文子「るきさん」と吉田秋生「ハナコ月記」があるのだが,数年後にはおそらくこの伊藤理佐の「あさって朝子さん」も,きっと,きっと,

全頁オールカラーで


収録されるに違いないのである。いいや,間違っても本書のように

最初の15ページ分だけがカラー,残り153ページまで全部白黒


などという,伊藤理佐の画力が放つ魅力を半減させるような,営業暴力的な単行本にはならないはずなのである。いいか,定価が高くなっても全頁オールカラーで文庫化するのだぞ>筑摩書房
 高野文子・吉田秋生・伊藤理佐に共通する,Hanako名作漫画シリーズの特徴は
 ・オールカラー,見開き2ページ連載
 ・ちょっとトウが立った三十路以降の女性が主人公
 ・現実味のある女性の色気が匂い立つ絵の魅力がある
 ・よくあるホノボノ漫画に堕落しない,笑えるユーモアとペーソスに溢れている
というものである。作り込んだギャグではなく,実体験が滲み出てほどよく蒸留された,「そうそう,そういうことってあるよね」という共感を覚えるエピソードが積み重ねられていくのである。
 伊藤理佐の場合,特に本作には,さすが吉田戦車の子を孕むだけのことはあって(何の関係があるのか),「やっちまったよ一戸建て!!」から「おんなの窓」「女のはしょり道」に至る一連のエッセイ漫画と同質の笑いが詰まっているのである。主人公である「朝子」は,はるばる田舎から上京し,アパレルメーカーの一広報部員(だよな,たぶん)として東京で日々豪快な社会人生を歩んでいるのであるが,どこか作者・伊藤理佐を彷彿とさせるエピソードが描き連ねられているのである。
 出張先で肌にどんぴしゃりのリンスインシャンプーと洗顔フォームを見つけた(と思った)とか(伊藤の肌は敏感),二日酔い明けの水道水はジョッキ生ビールと同程度にうまいと感じたとか(伊藤の飲み助ぶりは有名),どんぴしゃり,作者本人を想起させるものもさることながら,他の全ての作品でも,一作ごとに設定される一つの中心テーマはエッセイ漫画と全く同じ「質」のものなのである。朝子を伊藤と置き換えても全く違和感のない作品になるのだ。これは伊藤が細く長く漫画家をやってきた結果,辿り着いた一つの到達点故の相似なのだろう。芸のない芸人は命の危険も顧みずマラソンにチャレンジしたり,大したおもしろみのなさそうな冒険に出たりするものだが,そういう輩は面白い「ネタ」が非常な体験を通じてしか得られないと勘違いしているのだ。優れた芸人は「感性」を磨くことで,どんな些細な日常生活からでもネタを仕入れることが出来る。伊藤も読者や編集人・漫画家との付き合いを通じて「感性」を磨き,笑えるエピソードを拾い出すことができるようになったのだろう。
 しかし,特筆すべきはネタの面白さ以上に,へろへろな線で描かれる朝子をはじめとする女性陣に色気が満ちあふれていることだ。彼氏と5年つき合ってアパートの更新ついでに結婚した女性も,四十路越えで時たまカラスに変貌する女性も,皆例外なく可愛らしい。これで全頁カラーだったら・・・とワシが喚きたくなるのも当然なのだ。白黒ページが多数を占めてしまう編集によって,伊藤理佐の画力を存分に味わえなくなったことは,何度も言うが,返す返すも残念である。定価が倍になってもイイからマガジンハウスには頑張って欲しかったところだ。ちくま文庫に入った2冊は,その点,全頁あざやかなカラーが再現されていて,これがなければ「名作」の輝きに曇がさしていたこと間違いないのである。
 ということで,筑摩書房の皆様方におかれましては,是非とも是非とも,本作の

全頁オールカラー収録による文庫化


をお願いしておきたいのである。

8/21(金) 掛川・?

 ふぅ~,あっついあっつい。8月も後半になってムシムシする熱気が戻ってきたか。でも既に外はトンボが飛び交い,蝉の声も小さくなっていて,秋の気配が濃厚である。この天候不順のせいで野菜は高騰しているそうだが,ワシがいつも買っているものはあまり影響なし。どーせひとりものですから,芯が曲がっちゃった1/4キャベツとか,一個単位でばら売りしているちょっとしなびたタマネギとかニンジンみたいなモンしか買わないのである。高くなっているのは新鮮な奴だけだろう。ワシの目には入らないものはないも同然なのである。
 ふ~,イレギュラーに入っちゃった高校生講座,本日無事終了。ゆっくり出来る夏休みなのに,無理矢理連れてこられたのはお気の毒であったが,ま,涼しいところで一日過ごせたから御の字・・・と思ってもらえればいいなぁ。結局,PHPでアナログ時計を書くという無謀なゴールを設けたにも関わらず,半分以上の生徒さんが到達できたのは大したもの。全く(以下略)。ともかくお疲れ様でした。お手伝いを無理矢理パワハラ的にお願いしたT君,N君にも感謝。明日もオープンキャンパスよろしくね~(鬼)。
 総選挙,序盤戦の情勢,朝日読売日経毎日のものが出ていた。選挙期間中に付き論評は避けておく。ワシは静岡3区なのだが・・・へ~,ホントかね?
 それより気になるのは東大・松尾・木並研究室静大・佐藤研究室主催のサイトでの予測結果。当たるか外れるか,ということよりも,どの程度結果が反映されているものなのか,「集合知」ってものがどの程度使えるものなのかハッキリするってのがいいね。こういうのって,頭脳ベースのお仕事以上にシステムの構築や維持作業が大変なんだけど,よくやるよなぁ。
 さてあと一週間,どうなりますことやら・・・。
 って議員さん達の心配する前に,ワシの仕事をなんとかしなくちゃ。んでは。

8/17(月) 掛川・快晴

 ふぅ~,夏のぷちめれ漫画祭り,何とか終了。あ~,シベリア抑留漫画なんて真面目に紹介しようとすると手間がかかってしょうがない。ま,人生は短いし,言いたいことは言っておかないと,ね。大好きな山岸凉子の「白眼子」も紹介できたしぃ~。
 つーことで今日からは平常業務(自宅だけど)に復帰しマース。今日もお仕事頑張ろう。んでは。

おざわゆき「凍りの掌」Vol.1,Vol.2,Vol.3(完結), 同人誌&小池書院

[ 著者サイト ] 頒価 \1000(だったかな?)
[ Amazon ] ISBN 978-4-86225-831-1, \1238 (2012年6月発売)
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 終戦記念日なので,何かそれにちなんだものを取り上げようと思ったときに真っ先に思いついたのがこれである。ということで,ワシが大好きな同人作家・おざわゆきのシベリア抑留マンガをご紹介したい。
 太平洋戦争における日本の「敗戦」を考える切り口は,ほぼ出揃っているように思われる。政治面では天皇の統帥権を盾に,いわゆる「城下の誓い」に至らしめるまで,次から次へと内閣を翻弄してきた帝国陸軍の責任を第一に考えるべきであるし,しかしそれを支え続けたワシら国民の責任というものも同程度に考える必要がある。戦中,東京で少年時代を過ごした吉村昭は「私の文学漂流」で,世に認められるきっかけとなった作品「戦艦武蔵」の土台となった資料である「『武蔵』の建造日誌から立ち上る熱気」を受け,「私が少年時代に感じた戦時の煮えたぎっているような空気」を思い出して次のように述べている(P.217)。

 戦後,戦争は軍部が引き起こし持続したものだ,という説が唱えられ,それがほとんど定説化している。しかし,少年であった私の目に映じた戦争は,庶民の熱気によって支えられたものであった(太字はワシによる)。

 ナチス・ドイツ同様,そういうものが成立する土壌はポピュリズムにあるのだということは,洋の東西を問わない事実だ。しかし民主主義がそれなりに回っていくためにはポピュリズムの力を利用しなければならず,結局の所,政治家がその他大勢の国民を煽ったり騙したりなだめすかしたりしながら,ある程度長期的な観点に立って合理的な方向性を探っていくほかないというのもまた事実である。その意味では,ちょっと合理性を欠いた行動をし過ぎたな,と言わざるを得ない時期が昭和初期~20年8月15日ということになろう。そして,合理性を無視し続けた結果,敗戦後に国民が支払わねばらならなかった「代償」は,64年経った今に至るもワシら国民を色々な意味で「屈折」させ続けているのである。
 大きな「代償」の一つが,植民地・満州国崩壊によって引き起こされたものである。邦人引き上げの際の混乱によって残留孤児問題が引き起こされ,近年まで毎年のように肉親捜しが続けられたことは多くの人が記憶していよう。ワシが一番好きな竹宮惠子の作品は「紅にほふ」であるが,満州花柳界で育った3人姉妹(血は繋がってないが)それぞれの人生が時に優しく,時に残酷に描かれる入魂の作品である。当然,日本への引き揚げの苦労も描かれるが,この3姉妹はまだマシな方だったようで,悲惨きわまりない事件も多数あったこともちゃんとモノローグでは述べられている。残留孤児問題はそんな事件の一つであった。
 さて,満州国崩壊と共に,ここを実質的に抑えていた関東軍がソ連軍に連行されてシベリアで過酷な肉体労働をさせられるということが起こった。これがシベリア抑留事件である。本書は著者の父が体験したこの抑留経験に基づいた漫画作品である。
 つげ義春の作品を表して,赤瀬川原平は「悲惨な町の安全運転」と言った。けだし名言である,とワシは感じた。その意味は「つげ義春コレクション 大場電気鍍金工業所/やもり」の解説を読んで頂きたいが,おざわゆきのシリアス作品も,意味は多少違えど「悲惨な町の安全運転」めいたところがあるように思えるのだ。
 おざわゆきの作品については,竹宮惠子が的確な解説をしているので,まずはそれを引用しておこう(「竹宮惠子のマンガ教室」筑摩書房,P.199)。

 絵は三頭身ぐらいのバランスで,卵のような丸い顔の中に,大きな目が半分くらい描いてある,全然シリアスな雰囲気じゃない絵なのに,その絵のまま,戦争で難民になってしまって,放浪している間に自分の身を売って家族を助けていく,というドラマチックな話を,こんな薄い同人誌の中で描いている人がいるんです。本当に枝葉の部分を全部そぎ落として,話の骨子だけを伝えているんですけれど,それはそれですごいというか,読んでしまえばすごいドラマだった,そういう描き方をする人もいるんですね。

 今なら西原理恵子に似た画風,といえば当たらずといえども遠からず,ではあるが,納得して頂ける方が多いだろう。ただ,叙情と根性に頼った短編が多いサイバラと決定的に違うのは,竹宮が言うように,おざわは骨太で重厚なドラマを展開するストーリーテラーであることだ。そしてその物語は悲惨な状況であっても,パンドラの箱に唯一残った「希望」を感じさせるものである。これはオザワ流の「安全運転」=「ハッピーエンド」なんだろうなぁと思えるのである。ワシは宗教には全く疎いのだけれど,業田良家の「自虐の詩」の幸江が辿り着いた境地と同じ,「悟り」というものがオザワにもサイバラにも共通してあるような気がしているのである。そしてそれは悲惨さが自尊心をズタズタにするような経験によって得た,いつまでも尾を引く疼痛を抱えたものであるように思えるのである。
 オザワ作品は以前,「才能とは何か?」というテーマで谷口ジロー作品とまとめて論じたが,ワシはあの作品,かなり実体験に即したものだと思い込んでいるのである。で,ワシの感性をヒリヒリと刺激した,あの作品に描かれた世間との軋轢は,現在でも大なり小なり,誰しも世間に出る時には感じさせられる通過儀礼なのだと気がついた。
 現代は教育の場であれ会社であれ役所であれ,効率化を求められる時代である。故に,誰しも他人から「評価」されることになる。客観性のある評価であれば個人はそれに従うほかなく,自尊心との齟齬がどうしても生じてしまう。それに甘んじるのか不満を述べ立てるのか,評価を上げる努力をし続けるのかは人それぞれであるが,ある程度飯が食える状況に持って行ければそれなりの「悟り」の境地に達することが出来る。しかしそこに至るまでには通過儀礼としての「痛み」が誰にでも生じざるを得ない。優れた作家はその痛みを読者に「共感」させ,一種のコミュニケーションツールとして利用し,自分の表現を伝えるのである。BSマンガ夜話用語である「あざとい」というタームも,多くの読者にこの共感作用を呼び起こしたという肯定的な意味で使われているが,その意味ではオザワも十分「あざとい」作家であると言えよう。
 そう考えると,父君の体験とは言え,シベリア抑留をテーマに作品を創ったおざわゆきの意図は明白である。作家の直感として,これは自分の持つ資質と呼応するテーマだと断じたのだ。自分が描くべき物語だと,135ページものネームをバリバリと切っていったのである。本作は,右翼がソ連の横暴さを非難するためのものでなく,左翼が戦争の悲惨さ/愚かさを訴えるためのものでもないのだ。ただ,オザワが描くべき作品だったというものなのである。
 それ故に本作は,誤解を恐れずに言うが,面白い作品なのだ。井伏鱒二の「黒い雨」が優れた文学作品であるという以上に,面白い作品であるのと同じ意味で,エンターテインメントとして優れているのである。
 いしかわじゅんは「いわゆる反戦漫画とか戦争漫画を」「あまり読まない」と言う。その理由はこうだ(「秘密の本棚」小学館,P.369)。

その多くが,苦しいと描いてしまうからだ。痛いと,辛いと,悲しいと描いてしまうからだ。現実の大きさに甘えて寄りかかり,表現することから逃げてしまっているものが多いからだ。
 大きな事件があって,それを克明に描いていけば物語の形にはなる。傷を負って痛いと描けば,痛みはわかる。愛する人を失って悲しいと描けば,もちろんそれは伝わる。しかし,それは表現ではない。

 これを耳が痛いと感じる人もいよう,ヒドイ言いぐさだ,戦争の悲惨さから目を背ける口実に過ぎないという人もいよう。
 しかし戦後64年も経っているのだ。直接その被害を受けた当事者が言うならともかく,間接的にその話を聞き取り,それを「表現」しようというのであれば,少なくともそれをどのように読者に伝えるべきかは表現する者が真剣に考えるべきだ,と,いしかわじゅんは主張しているのだ。ワシはこの意見を支持する。
 おざわゆきが書き下ろした本作が,いしかわじゅんの言う「表現」になっているか,と言えば,いしかわの意見は知らねど,ワシ自身は十分それに叶っていると,この2冊を読む限りは断言する。抑留そのものが国際法に則って正しいとはとても言えないことぐらいは主張しても良さそうだが,それもかなり抑制的。ソ連兵による扱いが非道であることを声高に主張することもあまりなく,ひたすら過酷な収容所生活が描かれるだけだ。それはオザワが描くべき所がそこにあるからなのであって,別紙でオザワが主張するように,シベリア抑留を告発することが目的ではないからである。そしてこの重苦しい,いつ終わるとも知れぬ極寒の地における過酷な労働生活は,「読ませる」物語になっているのである。
 本作は3部作だそうで,多分今年(2009年)には完結すると思われるが,ワシはまだ未見である。それを楽しみにしている,というと悪趣味なようだが,面白い作品なのだからしゃーないではないか。大体,戦争漫画が面白くて何が悪いか,とワシはいしかわじゅんに成り代わって叫びたいぐらいだ。まぁそのうちどっかのプロパガンダに利用される可能性はあるけど,そうなったらなったで良いではないかとも思うのだ。たとえ思想のフィルタがかかっても,物語の面白さに違いはないのだから,どーせ使われるなら面白いものの方がイイに決まっている。原爆の悲惨さを伝える作品として丸木位里・俊の絵が今も流通しているのも,圧倒的な迫力があってのことだ。吉村の言う「煮えたぎるような熱気」の源泉を肯定的に描いた小林よしのりの「新ゴーマニズム宣言 戦争論」がベストセラーになったのも,左翼の反発を呼び起こすだけの圧倒的な表現のエネルギーがあったればこそだ。「表現」として優れていて,ワシの共感を呼び起こす「あざとさ」を持つものであるなら,ワシは積極的にその作品を支持していきたいと思っているのである。そして優れた「表現」が右にも左にも氾濫することで,「屈折」が複雑さを増して強固な地盤となり,現代日本の長い「戦後」が豊かになるとワシは信じているのである。
 是非とも完結した本作を読んで,このエントリにその感想を追加したいと念願しつつ,コミケにも行けずにいじけている終戦記念日のワシなのである。11月のコミティアか年末のコミケには何としても出かけて3作目を読みたいぃ~ぞ~っと,オスの負け犬が掛川から遠吠えをお届けした次第である。
[2010-09-01 追記] 2010年8月15日付で完結編のVol.3が発行され,ワシは8月29日のコミティアにて入手した。3冊の中で一番分厚く,111ページの力作。収容所での共産主義洗脳活動のリアルな描写があって,骨組みとしての知識はあったものに「肉付け」される感じがして,このVol.3だけ取り出しても十分「面白く」読むことができた。
 刊行が一年遅れたこともあって,民主党政権のもと,「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」が2010年6月に成立(朝日新聞)。洗脳された帰国者の共産主義活動が問題視されたことも,成立が遅れた原因であるらしい。そのことの是非は置いておくとして,ちょうど法律が成立した年に本書が刊行されたのは,意図せぬ偶然とはいえ,救済に間に合わずに亡くなった抑留者の慰霊としても相応しい。
[2012-06-26 追記] 小池書院から3冊分の同人誌を纏めた単行本が刊行されたので,そのデータを追加した。

山岸凉子「押し入れ」講談社,同「白眼子」潮漫画文庫

押し入れ [ Amazon ] ISBN 978-4-06-375680-7, \648
白眼子 [ Amazon ] ISBN 4-267-01740-9, \571
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 夏なので怪談ものをご紹介・・・と思ったのだが,ワシはドーモここんとこ,怪談とは相性が悪い。何年か前は,「ほぼ日の怪談」に集まった投稿を読んで結構怖い思いをしていたのだが,先日読んでみたら,怖いという以前に,怪談の構成があまりにも良くできていることの気がついてしまい,どっと白けてしまった。それもこれも稲川淳二が悪い。というより,口コミで伝承され素朴に怖がっていた民間伝承である「トイレの花子さん」的怪談を商売のネタとして取り上げ,ワシらに消費させ続けてきたマスコミが悪いのである。ああいうものは,そもそもワシら日本人の土俗的な道徳観念に根ざしたものであり,因果が巡って人に祟ったり,恨みを持って亡くなった人が化けて出たりする話を聞くと,そこがじわっと刺激されて怖くなるというものなのだ。日常生活においては,ごくたまに,しかも整理されていないしゃべりを通じて聞くからいいのであって,マスコミから工業製品のごとく整理され演出されて出てきたものは,あくまでエンターテインメントの要素のみを取り出したものでしかなく,土俗的精神構造をチクチクする怪談とは別物なのである。
 山岸凉子の「押し入れ」は,その点,きちんと「因果応報」を踏まえた短編が納められていて,どれもこれも普通に怖い。単に怖いだけではなく,「ああ,こういうことをしちゃいけないな」という気も起こさせてくれるほど,本書に収められている4つの短編は古いタイプの民間伝承に基づいたストーリーになっている。「夜の馬」では薬害を引き起こした大御所の医者が地獄に引きずり込まれるし,「メディア」では子供に執着しすぎた母親が現実に子供に「祟る」し,表題作「押し入れ」は美内すずえのアシスタントが経験した,よくあると言えば良くある「事件」をネタにしているし,最後の「雨女」では,次から次へと女性を食い物にしていく男が「因果」を引き摺っていく様が描かれている。怖い思いをして読了した後には,「悪いことはしないほうがいいな・・・」と身に染みて感じさせる土俗的作用があるのだ。もちろん,山岸独特の儚げな描線と吸い込まれそうな白いバックの作用によるところも大きいのだろうが,それよりも山岸自身の,とても素朴だが太古から積み上げられてきた,誰しも共通して持っている伝統的道徳観念への敬意というものが大きいように思われる。
 山岸の,道徳観念への敬意は「白眼子」を読むとよく分る。ワシはこの作品が今はなき「コミックトムプラス」に連載されていたのをリアルタイムで読んでいたのだが,戦後の札幌が舞台ということもさることながら,戦争孤児だった主人公を狂言回しにして語られる,不思議な能力を持つ盲目の「白眼子」という人物の持つ土俗的思想に感動したことを今でも覚えている。いわゆる「霊能者」という部類に入るのだろうが,依頼人のごく素朴な願望,死んだ息子の今際の様子を知りたいとか,死んだ母親の成仏状況を知りたいという要望にはきちんとした回答を与える一方,白眼子の姉の「旦那」の運命についてははかばかしい予言はせず,二人の旦那は破産したり実子に殺されたりするのである。
 白眼子は言う。「幸と不幸は皆等しく同じ量」なので,「必要以上の幸運を望めば」「すみに追いやられた小さな災難は大きな形で戻ってくる」。自分の能力についても「せいぜい小さな災難を小さな幸福に変えるぐらい」と言い,「災難は来る時には来る」ので「その災難をどう受け止めるのが大事」と主張する。多分,こういう台詞は誰しもどこかで聞いたことがあるものだろうが,それだけ素朴だが重要な人生訓=伝統的道徳観念であると言える。こういう哲学を持ち,周囲に対してセンシティブな神経を持った人物が古代におればキリストや仏陀のような宗教的主柱となったかもしれない(なだいなだ「神,この人間的なもの」(岩波新書)参照)。そして現代でも,こういう人物は,安らかな人生を送れるに決まっているのである。
 科学技術がどれほど進展しても,いや進展したからこそ,ワシらには分らないことが増えるばかりであり,予測不可能な未来が待ち構えていることは昔よりも明白となっている。となれば,日々の生活においては,太古から積み上げられてきた伝統的美習,「足を知る」とか「礼儀を重んじる」とといった生活習慣を重んじて生きていく他ない。たまに無軌道な振る舞いに及ぶことも「祭り」「ハレの日」という伝統に組み込まれた行事の頻度程度にしておくのがイイに決まっている。山岸の著したこの2作には,書物というものがワシらの日常生活において果たしてきた,こういった伝統的美習を伝えてきたという役割を再確認させてくれているように思えるのだ。