12/25(月) 掛川・?

 そーいや昨日はクリスマスイブ,今日はクリスマスだったのだな。毎年恒例のWinbiffのPostmanさん変化で気が付いた。
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 本日が本年最後の講義日で,ゼミの最終日でもある。卒論にダメ出しをしながらゼミにお付き合いし,その後は忘年会へなだれ込む。チェーンの居酒屋が会場だったが,新人店員が多かったせいか,やたらに待たされたな。
 ま,無事終了して何よりである。
 今日はこれにて。明日は仕事納めだが,卒論のダメ出しも,保険の変更の手続きもあったりする。結構ドタバタになりそうな予感。浜松まで買い出しに行きたいのだが,そんな暇があるのかどうか。
 奥村先生のblogで,我が掛川市のシステムについての講評がなされていた。何でわざわざド田舎のシステムを見学に来たのかワカランのだが,まあかなり疑問を持たれたようである。WebもIE専用に作ってあったりして,批判されるのは無理ないのだが,掛川程度の職員数と財政規模で,小うるさいIT専門家の批評に耐えられるシステムを構築できるのかどうか疑問である。もちろん,予算の範囲内で,セキュリティもアクセシビリティも万全のものを作るべきであるというのは正論なのだが,それだけのものを作る技術レベルを持った企業を選択するとなると,簡単な仕事ではない。外部から批判するのはたやすいが,どのようにすれば建設的なITシステムの監査が可能になるのかを提言できる人間は非常に少ない。
 寝ます。

三浦しをん「シュミじゃないんだ」新書館

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-22048-7, \1400

シュミじゃないんだ
三浦 しをん著
新書館 (2006.11)
通常24時間以内に発送します。

 三浦しをんは,漫画に関するエッセイで評判になったときに初めてその名を知った。が,評論的な内容ではなく,自分の嗜好を縷々述べたエッセイであるらしいことを本屋の立ち読みで知ってからは,これは買わない方がいいな,と読まずにスルーしてきたのである。
 何故か? それは,ワシのこのblogの内容とバッティングするからである。この「ぷちめれ」というジャンルは,ワシの好み100%の単なる「感想文」であって,それが何か学術的な意味を持つとか,第三者の本の購読に繋がるとか(たまーにAmazonでご購入頂いているようであるが),歴史的資産として日本文化に貢献する等といったことは全く意図していない。ワシが好きだから,気に入ったから(or クソミソにけなしたいから),主観的な感想を書いているだけであって,それ以上でも以下でもない。
 従って,三浦しをんなる人物の嗜好とワシの嗜好がほぼ完璧に合致しているというのであれば別だが,そうではない場合,しかもその確率は非常に高い訳だが,好みがすれ違っていると,三浦の感想文はワシにとっては何の意味もないものになる。まあ,三浦がこんなblogの記事を読むわけもないのだが,もし読んだとすれば,事情は全く同じであり,多分殆どの「ぷちめれ」は三浦にとって全く読む価値のないものである筈だ。感情のほとばしる主観的文章というのはそーゆーものであって,故に,本書のタイトルである,

シュミじゃないんだ

の一言でもって却下されてしまう性格を持っているのである。
 しかし,本書は珍しくその「嗜好」が一致している内容であり,しかもそれが二項目も挙げられるのである。そうでなければワシが1400円も出して買ったりはしなかった。
 一致項目の一つは「あとり硅子」である。本書の表紙の銀糸で打ち抜かれたバスタブで優雅に本を読んでいるメガネ男子を描いているのは,故・あとり硅子である。書店で平積みになっているのをちらと見るや,直感で手にとってシゲシゲと表紙を凝視してしまったのは,ワシの”あとりセンサー”が働いたからに他ならない。
 あとり硅子は本書に収められているエッセイにイラストとサイレント漫画を,死の直前まで描いていたようだ。その縁もあって,現在刊行されているあとり珪子の漫画文庫に,三浦は解説を書いている(ちょっと不満な内容だが)。
 二つ目の一致項目は,本書のメインテーマである「ボーイズラブ」略してBLである。ここでカミングアウトしてしまうが,ワシは一時期,BL(その当時はやおい or 耽美という名称で呼ばれていた)漫画にハマっていたことがある。その分野では有名なBBC(BE×BOY Comics)をコンプリートで揃えていたぐらいだ。・・・う,身の破滅かも・・・と書いていて冷や汗が出てきたが,三浦が本書で力説している通り,日本国憲法の基本的人権によってワシが何を読もうと,他人様に迷惑をかけない限り,勝手なのである。
 ここであらぬ誤解を受けないように言っておくが(何せワシの親まで疑いやがったことがあるからな),ワシはゲイではない。つーか,ゲイだったらBLは多分,読めない。昔,NIFTY-Serveの漫画フォーラムで,BLを読んでいる自称・ゲイの方が発言していたのを読んだことがあるが,彼によればBLの大半はゲイ漫画としては読めない代物なんだそうな。ノンケなワシにはよーわからんが,やっぱりBLは,故・岩田次夫御大(BLに関しても相当読んでいたようだ)が言う通り,ファンタジーとして理解すべきものなのであって,現実の同性愛とは隔絶された世界を描いているジャンルなのである。
 と,力説しておいてなんだが,今のワシはBLどっぷりの生活からは足を洗っており,隠居生活を送りながら「えみこ山」作品をゆるゆると鑑賞するだけになっているのである。大量にあったBBCは,静岡に来る際にBook offに叩き売ってしまっているから,もう10年近く,えみこ山以外のBLは読んでいない。だいたい,えみこ山の作品は,三浦に言わせれば「まだ毛も生えそろわぬようなガキんちょが主人公の,明るく軽い男同士の恋愛話」の典型であるから(本人が「男同士が悩みもせずにラブラブ」と言っているぐらいだ),多分,カツを入れたいぐらいのぬるい代物である。そんなのを読んでいるだけのジジイであるけれど,久々に本書を読んで,「焼けぼっくいに火がついた」状態になってしまったのであった。
 三浦のエッセイは初体験であるが,うーむ,熱い,熱いぞオバちゃん。あんたそれでも直木賞作家か。直木三十五が天国で泣いていやしないかと心配するぐらい情熱を込めて,BLを語るのである。いくらマイナー出版社・新書館の本とは言え,少しは文藝春秋に気をつかってやれよ,と言いたいぐらいの前のめり姿勢なのである。
 それでもさすが伊達に直木賞は取っていない。妄想系と呼ばれるスタイルではあるが,そのように筆(キーボードか)が滑っても構成は崩れていないので,きっちり具体的なBL漫画作品を解説してくれている。BL隠居オヤジのワシが分かる作家は,石原理,よしながふみ(もうBL作家ではないよな),こだか和麻,那州雪絵(今は新書館で描いてますな),初田しうこ(改名したことは本書で知った),藤たまき(息が長いなあ),門地かおりぐらいであるが,記述自体はかなり正確(シュミの部分はともかく)であることは保証する。それでいて,本書には漫画のカットも,コミックスの表紙写真も一切挿入されていないのである。文章onlyで好きなBLをしっかり語る,まことに男らしい(?)硬派な態度はさすがだと,隠居オヤジは感服するばかりである。
 もっとも,巻末に付いているBL小説の実作とやらは・・・,ま,読まなかったことにしておこう。本人も失敗といっているし。しかし,真面目にBLやろうしているのかなぁ,と疑いたくなるカップリングである。この辺りが,BL作家になりきれない「直木賞」の呪縛という奴なのかもしれない。
 も一つオマケ。これは三浦の責任ではないと思うが,「シュミじゃないんだ」の英語タイトルが”It’s not just my hobby”ってのは酷くないか?意味としては,”It’s not to my liking”なんじゃないかと思うんだがどうか。大体,三浦にとってのBLはどう考えてもhobbyなんて代物ではないのである。「シュミではない」ものを排除して,本書が成立しているんだから,タイトルに偽りなきよう,訂正をお願いしたいものである。

12/24(日) 福井->名古屋->掛川・晴

 福井行きから帰宅。HO先生,HA先生,久々の出席なのにきっちりお世話頂いてありがとうございました。さーて,喋った中途半端な内容はこれから正月で一気に結果を出してしまおうっと。
 福井行きは名古屋から高速バスを使った。
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 行きは3割程しか席が埋まっていなかったが,帰りは8割近く埋まっていた。結構人気あるんだなぁ。金沢・富山までと言われるとちょっと乗車時間が長いので辛いが,福井ぐらいまでなら特急とそれほど変わらないので十分競争力があるのだな。往復5000円は安くてありがたい。
 会場ではかような↓スローガンが張られていた。
slogan.jpg
 良い味を出している。
 帰りは名古屋駅内の三省堂書店で久々の単行本一気買い。福沢さん一名行方知れずとなる。うーむ,既読の漫画単行本が多いのだが,良いものがあるので今年中にぷちめれましょう。
 へー,ロケット団芸術祭賞受賞とのこと。あんまし有名ではない若手漫才師であるが,寄席の老人客も巻き込んで笑わせていたのはたいしたモンであると感心した覚えがある。
 賞取りレースなどと揶揄されることも多いだろうが,それなりに実力がないと受賞は出来ないシステムになっているのは事実であるから,これを機会に,更に頑張って東京漫才を盛り上げて言って頂きたい。
 明日に備えて寝ます。

小林よしのり責任編集「わしズム Vol.20」小学館

[ 小学館 ] \1000
 以前にも書いたが,ワシは(この言い方はよしりんから拝借したものである)既に小林よしのりの思想漫画には飽きていて,ゴー宣は読んでいない。いい線ついているな,とは思うし,個人的な倫理の持ち方はかなり共感できるのだが,同じ事を繰り返されるとさすがに読んでいてゲンナリさせられるからである。別にこれはよしりんに限ったことではなく,右でも左でも頑固に思想が固まってしまったお方のご意見はそーゆーもんであり,それ故に世間に堂々と物言える訳なのである。しかしワシはエンターテインメントとしての読書をしたい享楽的な人間なので,そーゆー壊れたCDみたいな繰り返し演説はご免こうむりたいのである。
 今回久々にこのわしズムを購入したのはひとえに巻頭漫画が,ワシのまいふぇばりっと漫画家である,とり・みき(中黒を忘れてはいけない)の作品だったからである。最近長い作品はとんと見かけない上に,「遠くへ行きたい」を連載していたフリースタイル(出版社名)のフリースタイル(雑誌名,ああややこしい)が,なかなか定期的に刊行してくれないモンだから,おいそれとその作品を読むことが出来なかったのである。
 とゆー訳で,本号のテーマである「不安」をコラージュしたよーな作品を堪能させて頂いた。しかし,よしりんがとり・みき作品の愛読者だとは知らなかったな。作風は真逆だし,思想的にも合いそうにない。どちらも少年週刊漫画雑誌(よしりん・・・ジャンプ,とり・みき・・・チャンピオン)でデビューし,ギャグマンガを描いていたから,互いに意識はしていたのかなー,とは思うが,多分,売れ部数では10倍ぐらいの差はあるんじゃなかろうか。
 ついでに,ゴー宣も読んでみたが,相変わらず熱血ぶりは健在であり,思想的に共感できる読者であればそれなりに惹きつけられるのは間違いない。ただ,絵の洗練度はこの辺りで打ち止めのようで,この先何年この作画レベルを維持できるかどうかが,よしりんの漫画家としての活動が決まってくると思われる。個人的には新連載「遅咲きじじい」やゴー宣より,「夫婦の絆」を再開して欲しいんだが,あれはいつになったらまとまるんだろうか。末永く活躍してもらい,眼中レンズがクリアなうちに再開して欲しいものである。

藤子不二雄(A)「愛しりそめし頃に・・・」8巻,小学館

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-09-181018-7, \1200

愛…しりそめし頃に… 8
藤子 不二雄A著
小学館 (2006.10)
通常24時間以内に発送します。

 つい先日(2006年12月)に入って,ワシはとうとう20年近く購読し続けた少女マンガ雑誌の予約を取り消す旨,行きつけの本屋さんに告げたのである。
 青春が終わった,と思った。
 ・・・あ,そこのお前,笑ってるだろ。いや,ワシだってちょっとは恥ずかしい。「青春」だなんて言葉は,海に向かってバカヤローと叫ぶことができる精神構造を持った人間にだけ使うことの許されたものだと,つい先日まで思っていたのである。だいたい,ワシはもう37の立派な中年オヤヂである。就職してから14年目である。貴様は今まで社会人としてまともな経験を経てきたのかよ,と小一時間問い詰められても仕方がないのである。
 ま,教師という職業が世間知らずであることは認めよう。そして「萌えるひとりもの」として,普通に恋愛して失恋してヤケ酒くらって憂さを晴らして(以下n回ループ),結婚して子育てして・・・という,人間としてのステージを上げる努力をしてこなかった,ということも認めよう。
 その上で言うのだが,そーゆー薄ぼんやり過ごして来れた時間というものが,ワシにとっての「青春」だったのだ。そのことを,定期購読を止めた時に初めて気がついたのである。
 本書は藤子不二雄(A)(ホントは○にAである),安孫子素雄をモデルに,高岡から上京してかの有名なトキワ荘に住み,藤子・F・不二雄(藤本弘),赤塚不二夫,石ノ森章太郎,寺田ヒロオらと切磋琢磨しつつ,漫画家として独り立ちしていくまでの自叙伝風漫画である。自叙伝「風」というのは,やはりエンターテインメントとして読ませる作品になっているために,事実の時系列が乱れている上,結構フィクションも混じっているように思えるからである。それでも著者が感じていた昭和30時代の雰囲気はかなり正直に描いていると思われる。
 BSマンガ夜話(復活しないのかなぁ)で,本シリーズに連なる最初の作品群である「まんが道」が取り上げられたとき,主人公・満賀道雄(著者の分身)の惚れっぽさ,が指摘されていた。仕事や行きつけの店などで女性と知り合う度に,ほのかな思いを抱いてしまうという所は確かにそうだなぁ,と納得した覚えがある。と同時に,これはつまりSEXして結婚して・・・ということを意図できない時期の男の典型的な自意識なのではないか,ということに気がついた。
 満賀は少年雑誌に連載を持っているとはいえ,まだ駆け出しの新人である。そのことはコンビを組んでいる才野茂(藤子・Fがモデル)とも常に確認し合っており,自分の漫画家としてのスキルを上げるべく,新機軸を探してそこに挑んでいかなければならない,という意識で日々を過ごしている。このような時期は,社会人である中年ならば誰しも経験している筈である。仕事のことで手一杯,将来設計なんてまだ先の話だと,人間のステージを上げる活動(恥も伴うが)をサボってしまいがちになる時期だ。ま,普通は煩悩に負けて「据え膳」を食べてしまったり食べられてしまったりして,知らず知らずのうちにステージを駆け上がってしまうのだが,異性に対してオクテな人間は置いてきぼりを食ってしまうことになる。満賀はその典型的な人間として描かれており,しかしそれでも「ステージを上がらねば」という本能はあるので,自然と惚れっぽくなるのだと推察できる。そして,満賀の,何か世間に対して「腰が引けている」ような態度は,ステージを上がる時期を遅らせている罪悪感から出ていると言えるのではないか。そのような,仕事に対しては前のめりの姿勢,しかし人間としてのステージを上げる活動に対しては停滞気味,という時期こそが満賀にとっての「青春」なのである。
 この8巻では,「青春」を終えてトキワ荘を出て行くテラさん(寺田ヒロオ)が描かれており,満賀は自分もそのような時期が遠からず来る,ということを意識させられることになった。もしかすると,この作品の最終回も近いのかな,と読者にも思わせるこのエピソードは,青春の定義を再確認させてくれるものになっている。個人的には,もう少しフィクションとはいえ「青春」を味わっていたいのだがなぁ,と願ってしまうのは,自分もダラダラと続けてきたそれを終えたな,ということを実感してからなんだろう,きっと。