December 30, 2006

桂米朝「落語と私」文春文庫,他2冊

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-741301-9, \429

落語と私
落語と私
posted with 簡単リンクくん at 2006.12.29
桂 米朝著
文芸春秋 (1986.3)
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 本年(2006年)は,昨年のドラマ「タイガー&ドラゴン」による落語人気を引きずって,マスコミは随分と落語ブームを囃し立てていたが,実際は無風状態と言っていいのではないか。一部のマスコミ受けしている噺家は更に人気が高まったようだが,そうではない普通レベルの噺家まで「落語ブーム」とやらの恩恵を受けているとはとても思えない。ブームを当て込んだ出版もちらほら見られたが,爆発的な売れ行き,とまでは行かなくとも,数万~十数万部のセールス記録を残した本が一体どれほど存在していたのか,甚だ心許ないというのが実情ではなかろうか。
 実際,寄席に行ってみると,人気者の番組が組まれていない平常時の固定客の年齢層は高止まりしたままのようだし,つまんないベテランのレベルが上がっている訳でもなく,番組が変わる度に必ず通いたくなる程の面白さはそんなに期待できない。フジテレビ提供のお台場寄席・Podcast版の司会進行を勤めている塚越アナは「寄席は当たりが3割(あれば上等)」と言っていたが,まさしくその通り。今のTVのバラエティ番組のテンションに慣らされている我々にとって,寄席はちょっとおとなし過ぎるのだ。従って,これから先の寄席の入りは元通りの低空飛行を余儀なくされると思われる。
 春風亭小朝「いま,胎動する落語」(ぴあ)は,前著「苦悩する落語」の続編として今年出版されたインタビュー集であるが,落語界の将来が楽観できる状態にはないことを如実に物語っている。詳細は本書に譲るが,媒体に乗って宣伝できる売れっ子に活躍の場を広く与えつつ,若手の有望株をうまくユニット化して舞台に上げること等,つまりは常に新機軸を出し続けていく必要がある,ということを力説している。いまや,芸能界にもしっかりしたポジションを確保した小朝にしか言えない,きついけれども問題点を的確に指摘する説法は,あのまろやかな口調も手伝って非常に説得力がある。
 とはいえ,小朝ですらそれだけの危機感を捨てきれないという現状は,きちんと認識しておく必要があろう。本年は落語協会会長も馬風に代替わりし,そのあたりの事情も述べた自伝「会長への道」(小学館文庫)も出版されたが,この中で会長は次のように述べている。

 「上野鈴本演芸場も,近年は出演メンバーが変わって,若くて面白い連中を出すようになったけど,寄席はああでなきゃいけない。世間一般にはまだ無名でも,センスのいい若手を次々と入れていけば,まだまだお客が陰気になるわきゃない。
 (略)
 個性を上手に差配すれば,寄席はまだまだ面白くなると思いますね。」(P.213)

 つまり,馬風会長もそう落語の現状を楽観視していないことが分かる。現状維持ではダメで,伝統を壊さない程度に新機軸をつぎ込む必要性を訴えているわけだ。もちろん,会長の音頭取りで各種のイベントも怠りなく準備しており,その一つが六代目・小さん襲名,もう一つが木久蔵・きくお同時襲名であり,その陰で目立っていないが,「春風亭柳朝」(小朝の師匠)も近々復活予定なのである。

 ・・・とまぁ,後継者の多い古典芸能と言えどもそう安閑としていられない現状を一通り憂いたところで,原点回帰,そもそも「落語とはどのような芸能なのか?」といことを一度振り返っておく必要があろう。
 「落語とは?」ということを解説した本は数多あるけれど,漫画のことは漫画家に効くのが一番説得力があるのと同様,やはりここは噺家に聞くのが一番である。そうなると,いまや人間国宝・桂米朝以外に適任者はそうそういない。語り口は丁寧で奇を衒わず,歴史的な事柄もそのバックグラウンドとなる知識も備えた現役噺家が書いた「落語の教科書」が,表題の「落語と私」である。タイトルだけを見ると「自伝かな?」と思ってしまうが,これは,ポプラ社から1975年(昭和50年)に出版された中高生向けの「落語入門書」である。それが1986年に文春文庫に収まり,2006年には第7刷を数えるまでに至っている。バカ売れとまでは行かないが,定番の書として定着していることは間違いない。

 本書の締めくくりとして,米朝は師匠・米団治から入門時に贈られた言葉を掲載している。有名な言葉なので知る人も多かろうが,ここで改めて引用しておく。

 「芸人は,米一粒,釘一本もよう作らんくせに,酒が良いの悪いのと言うて,好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに,むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に,世間へのお返しの途はない。また,芸人になった以上,末路哀れは覚悟の前やで」(P.216)

 「末路哀れ」が覚悟の「上」ではなくて,「前」というところが凄いな,と思う。一人寂しく橋の下でのたれ死にすることを「リスク」ではなく「当然」として考えろ,ということなんだろうが,これって,学者とか評論家とか作家にも通じるモンがあるよなぁ。世間が決めた自分の値打ちを自分で引き受けて,更に精進を重ねるほかないのだ,ということは馬風も本にも書いてあるけど,言うは易し,行うは難し,なんだよな。しかし,それ以外のまっとうな芸人人生はないわけで,仲間内で愚痴っている暇があったら,精進すべきである。そしてその先にしか,落語の未来も,「世間が値打ちを決める」商売の未来もない訳だ。

 びしっと背筋を伸ばして頑張らなきゃ,と気合いの入った一冊(プラス二冊)である。

Posted by tkouya at December 30, 2006 3:00 AM