[ Amazon ] ISBN 978-4-253-10490-6, \950
読了後のワシの感想は,「な~るほど・・・そうきたか」,である。詳細は述べないが,本書は「面白いマンガ」である。ある種の「道徳」「イデオロギー」を説くにはまるで役に立たない,エンターテインメント作品である。
以前,おざわゆき「凍りの掌」を紹介した文章でも引用したが,第2次世界大戦における日本の敗戦時の出来事を題材に取った「作品」を評価する軸として,いしかわじゅんの提示した「基準」がある。ここでもう一度繰り返して引用しておく。
いしかわじゅんは「いわゆる反戦漫画とか戦争漫画を」「あまり読まない」と言う。その理由はこうだ(「秘密の本棚」小学館,P.369)。その多くが,苦しいと描いてしまうからだ。痛いと,辛いと,悲しいと描いてしまうからだ。現実の大きさに甘えて寄りかかり,表現することから逃げてしまっているものが多いからだ。
大きな事件があって,それを克明に描いていけば物語の形にはなる。傷を負って痛いと描けば,痛みはわかる。愛する人を失って悲しいと描けば,もちろんそれは伝わる。しかし,それは表現ではない。これを耳が痛いと感じる人もいよう,ヒドイ言いぐさだ,戦争の悲惨さから目を背ける口実に過ぎないという人もいよう。
しかし戦後64年も経っているのだ。直接その被害を受けた当事者が言うならともかく,間接的にその話を聞き取り,それを「表現」しようというのであれば,少なくともそれをどのように読者に伝えるべきかは表現する者が真剣に考えるべきだ,と,いしかわじゅんは主張しているのだ。ワシはこの意見を支持する。
さて,本作「cocoon」だが,舞台となった場所や,主人公が女子学生たちであることから,明らかに沖縄戦におけるエピソードに基づいて創作されたものだと判断される。しかし,作中では一切,状況説明がなされないのだ。恐ろしい状況下で煩悶し,倒れていく人間たちを描きながら,主人公・サンのモノローグだけが白い画面に響くのだ。
これは,少女マンガだ,とワシは気がついた。成長する若い血潮を極限状況で迸らせる青春「恋愛」マンガなのだ。戦争は舞台に過ぎない。今日マチ子はサンとマユと中心とした女子学生のグループを巡る物語を語るに相応しい舞台として,沖縄戦を選んだのだ。
してみれば,本作は戦争マンガの範疇に入れて良いものかどうか,ちょっと悩んでしまう。それぐらい,よくある「メッセージ」は全く語られないのだ。206ページもの物語をすれっからしのマンガ読み中年に一気に読ませてしまう力業を持った本作は,間違いなく,いしかわじゅん言うところの「表現」に昇華していると言える。
本作を読みながら,ワシはアニメにもなった絵本(つーより漫画作品だが)「風が吹くとき(When the wind blows)」を思い出した。あの作品も,ト書きによる状況説明は一切なく,ただ,核戦争が始まったという「ニュアンス」だけを描写しつつ,人の良い老夫婦が放射能に冒されていく様を描いたものだった。あの作品が全世界で話題になってから既に20年以上経っていることを考えると,戦争という悲惨さを描く技術はどんどん進化し,ワシらの日常感覚にジャストフィットするリアルさを獲得しているのだなぁと,つくづく思い知らされる。
「風が吹くとき」と「cocoon」は,老夫婦と女子学生という対比はありながら,戦争という極限状況を「利用」しつつ,「生」すなわち,生きる,ということを鮮やかに浮かび上がらせているという共通点がある。表現手段として戦争をあまり多用しすぎるのもどうかと思うが,表現が真摯であり,結果として面白い作品になっていれば,少々「あざとい・・・」とは感じつつも,同時に,「やられた!」とも思うわけで,読者にそう感じさせる出来であれば,ワシは大いに支持していきたい。
本作にはしかし,「風が吹くとき」にはない「仕掛け」があって,ワシはそこにも大いに感心した。ま,ミステリー好きの奴なら即座に見抜いてしまうものなのかもしれないが,今日マチ子が描きたかった,女子高生を包む繭(cocoon)をなす重要なパーツとしての機能もあるので,読了後は「なるほどね・・・」と思い知らされることになる。あまり描くとネタバレになるのでこのぐらいにしておくが,仮にこの仕掛けに対して「悲惨な沖縄戦を商売の種にしている!」と憤る純粋まっすぐ君がいたとしたら,「商売になるぐらい広く読まれることにこそ価値がある!」と擁護しておきたい。
Posted by tkouya at August 16, 2010 3:00 AM