10/31(水) 駿府・晴れ

 朝晩の冷え込みがきつくなりつつあり,コートに加えてマフラーを着用するようになった。しかしながら,そこまでの重装備をする人はワシ以外に見当たらず。そのくせゴホゴホ咳き込む向きは増えている。見栄え気にして薄着でいるから風邪を引くのであるからして,寒ければ着込めばいいのである。ウィルスに罹患するのは勝手だが,ワシにはうつさんで欲しいものである。

 本日の進展はMPFRマニュアルの翻訳ちょろっとのみ。GMPの日本語訳にTypoがあり,修正するためのtexlive + Ubuntu on Windows環境を構築してたら会議2つにゼミ2つに妨害されて時間切れ。TexinfoファイルからHTMLとPDFを生成する方法をド忘れしてしまい,前者はtexi2htmlでサクッと作れることを思い出して事なきを得たが,後者はpdftexで作るのを思い出せず,まともに動かないtexi2pdfと悪戦苦闘してしまった。

 つーことでUTF-8のgmp-6.1.2_ja.texiからの生成法:

  • [html] texi2html –split=section –node-files –output=./gmp_ja gmp-6.1.2_ja.texi
  • [PDF] xetex gmp-6.1.2_ja.texi

 どちらも,Ubuntu 18.04 on Windows10環境のTeXLive 2017環境で実行。

 本日はiPad Pro,MacBook Air,Macminiの発表があり,取らぬ狸の皮算用で妄想を膨らませてしまった。iPad ProにSmart Keyboardとペンを組み合わせると,256GB SSDのAirが買えてしまうことが判明。自宅2ndマシンの某国産スパコンメーカー関連Lenovo売却済み会社製のNote PCがイマイチなので,スピーカーもキーボードも素敵なAirがいいなぁと夢想していたら一日が終わってしまった。まぁボーナス時期まで勝手にあれこれ悩むことにしよう。結局買わないような気がするが。

 単なる進展報告だけ書いてもツマランかったので,日記と渾然一体化することにしよう。いつまで続くか分からんが,Skype英会話も1年継続しているから,執筆完了までは断続的にでも報告はマメに書くことにしよう。

 寝ます。

第3章,第4章修正

 全章が一応形になってきたので,講義をやりながら加筆修正を施すことになった。つーことでチマチマここでその履歴を書き残すことにする。

 LAPACK/BLAS入門は分量的に物足りないという声が多かったそうなので(ワシもそう思う),多倍長数値計算入門(仮)はたくさん書いてよろしいということになった。で,遠慮なくガシガシ加筆していくことにする。

 今日までに講義で使った3章と4章の手直しを行う。Winogradのアルゴリズムを章末問題に追加,演算量計算の間違い修正,mpnカーネル関数の演算プログラムの修正など。

 MPFRマニュアルの翻訳,1/3のところで停滞中。ガシガシ進めなきゃ。こういうのは加速度がつくとすぐに終わるんだけど,もう一度ギアチェンジせにゃ。

10/19(土) 駿府・快晴

 朝晩に冷え込むようになった割に,日中晴れると25℃越えとなれば,人間風邪を引きやすくなろうというもの。静岡市内ではもうインフルエンザで学級閉鎖になったというローカルニュースが聞こえてきた。ワシは神さんに引きずられて12月初旬に予防注射を接種されに行く予定であるが,それまでに罹患する可能性も高いかな。まぁ毎年インフルエンザではない普通の風邪はほぼ学生から頂いているから,ワーストケースが避けられれば良いのである。

 ちょっとご縁があって,かなり自由度の高い使い方のできるスパコンを触れるようになった。昨日は目前に締め切りが迫った書類書きをほったらかして久々にMPIを触りまくった。基本,Xeonクラスタなので普通のソフトウェア開発環境がそのまま使えるのはありがたい。一度ちらっとだけUltraSparcの環境に入ってみたが,GMPがクソ遅くて10分で閉じたっけ。遅いなら自分で何とかするのが研究ネタになるんだけど,そこまでする義理はないところはサッサと見限るに限る。今度のスパコンは池のように自由に泳げるので,一番のウリであるOpenCL-likeなKernelをどのぐらいきちんと動かせるかどうかだなぁ。11月はそれがメインのお仕事になりそう。若い人のお仕事を参考に勉強させていただくことにする。

 ワシが愛読していたヤマザキマリ&とり・みき「プリニウス」の連載誌であった「新潮45」が実質廃刊となった。で,発端となった文章の書き手について,高橋源一郎が恐ろしく手間のかかる下調べをした上で良いエッセイを文芸誌「新潮」に寄稿,反響が大きかったこともあってかWebで全文公開となった。廃刊原因を作った書き手の文章を読む気は毛頭起きないので,これはありがたい論考である。以下,高橋源一郎の文章だけから受けた感想を書き付けておく。

 高橋はこの問題の書き手に対して嫌みではなく,かなりの同情を寄せている。さすが小説家だけあって,うまく引用しながらその結果下される共感的結論を直接言葉にしていない。が,一見軽薄な文体でありながら,高橋の文章を読めば,この問題書き手がどういう経緯で問題文を書いたかがすんなり分かるようになっている。つまり,この問題の書き手は,原因は不明なれどかなりのコンプレックスを抱え,文芸評論家としてそれなりのレベルに達したものの登竜門となる賞の選に漏れ,鬱屈した結果どういう思考回路の結果かは不明なれど,現政権首班を露骨に褒めあげる絶賛本を書いて,その関係筋からうち捨てられていた評論文をまとめた単行本を刊行してもらえた,という人物であると。高橋はこの書き手に溜まった鬱屈が二重人格を生じさせたことに思いを馳せ,限りない同情を寄せているのである。

 一般論だが,ある種のコンプレックスが強烈な上昇意識を生み,とてつもないエネルギーの源泉となることは普通にある。家庭環境が複雑だったり,人間関係がこじれて社会生活がうまくいかなくなる,など,結果として社会的出世に繋がるケースは普通に見られる。ただ,その手の成り上がり者にはある種のゆがみが残り,それが結果として躓きの元となることも,また,よくあることである。田中角栄は成り上がりの原動力であった金権問題で足をすくわれたし,橋下徹は鋭い舌鋒で上昇した結果,行き過ぎた右翼的言動で諸外国や国内からバッシングを受け,自ら立ち上げた政党の上げ潮の勢いをストップさせてしまった。こういう成り上がり者の躓きは,丸くなった大衆の良い娯楽であると同時に,丸くならざるを得なくなったかつてのトンガリ上昇志向を持った人間には,ちくりと胸の奥が痛む思いをもたらすのである。ああ,ワシもそうだったなぁ,と。

 高橋もこの手の人間の心情を理解することができるタイプで,だからこそ「ああ,そっちの方向に行ってしまったのか。分かるけど・・・それは悲しいな」という文章を書いたのであろう。この問題の書き手は,今後,自分を擁護してくれる少数のグループと,擁護した振りしてサッサと鞍替えすることを厭わない賢い向きが支持してくれる間はその方々の中で生きていくことになるんだろうけど,基本的人権を理解できない人間として認知されてしまえば,文芸評論家としての普遍的な尊敬を得ることは難しくなった訳で,あがいた経験のあるワシとしても何だか悲しくなってしまったのである。

 悲しくなったので,神さんと映画でも見てホンワカしてきます。