「一食100円の・・・」 [ Amazon ] ISBN 978-4-86238-172-9, \1000
「ペリーさんちの・・・」 [ Amazon ] ISBN 978-4-8211-4301-6, \952
年末恒例のぷちめれ祭り・・・と息巻いたのはいいものの,今回はペースが思いっきり乱されて元通りにならず,やっと書く気になったと思ったらもう大晦日。今回は短いものを幾つかご紹介して〆させて頂く。
つーことで第一弾は,「意外な人が書いた料理レシピ本」2冊。不況不況といわれて久しい日本であるが,この先のばーっと景気が良くなるという見込みはゼロ,むしろ日本国民全員,そーゆー一方向を目指して熱狂するという行為自体を忌避しているような印象がある。秋月りすが指摘するように,20年も不況を続けられる底力こそが,日本の本当の強みなのかもしれない。
とはいえ,国全体がビンボ臭くなっていることは事実である。デザイン能力だけで糊塗した新規開店のチェーン店の看板は,ちょっと時間が経てばすぐに安っぽい材料で作ったことがバレ,老いも若きも人件費の安い国で生産した衣料品を身にまとっている。こういう状況では,たとえ余裕のある金持ちでもバブルっぽい振る舞いは躊躇してしまうだろう。金持ちであればあるほどパーッと金を使ってもらわないと一国の経済は回らないのだが,横目で隣人の一挙一動を監視して細かいスキャンダルを炙りたてようとする貧乏人根性が蔓延する昨今では,それも難しい。せいぜいコンビニで550円の弁当を買って顕微鏡サイズの満足を得るのが関の山。いい加減,この国の経済をダメにしているのは自分らの行いにあるのだと気が付かないとまずいだろう。
そんな雰囲気であるから,本来ならバカでスケベな金持ちがド嵌りするはずの風俗業界も不況のあおりをもろに食って,なめだるま親方こと島本慶も,穏当で貧乏人に媚びたエッセイを書くようになってしまったようだ。それがこの「一食100円の幸せ」である。ワシは本書を「一般」新刊コーナーで見つけ,びっくりして10食分もする大枚を払って本書を購入してしまったのである。ええええぇっ,あのなめだるま親方が「作る幸せ,食べる幸せ。」だとぉう! 親方なら「舐める幸せ,突っ込む幸せ。」だろうっ! こっ,こんなの,親方じゃないっ!
つーことで,プリプリ怒りながら読んだのだが,これがなんと,面白いのだ。風俗ライター業がうまく回らず,こういうエロ抜き穏当エッセイを書くようになっちゃったという「言い訳」はあるのだが,「・・・親方,頭下げながら舌出してるでしょ?」と言いたくなるのはワシの勘ぐりすぎか。いや,やっぱり本書のコンセプトである「1食100円」レシピの紹介は,単なる貧乏自慢・貧窮礼賛とは受け取れないのだ。中年オヤジの無駄な抵抗,そしてスケベ心に満ちている,と言わざるを得ない。レシピの考案から,いしかわじゅんに感心されたイラストによる解説,そして料理にまつわるエッセイの生き生きした表現・・・どれをとっても枯れていない,いや,スケベなエネルギーに満ちている。大体,結構手間暇のかかる料理を100円程度で自炊してしまうということ自体,相当めんどくさい作業であり,「生きる力」に満ちていないと出来ないことである。
本書は描き下ろしのようであるが,その割には薄味になっておらず,適度にメリハリが効いている構成になっている。なめだるま親方に免疫のない人でも,「あ,ちょっとスケベそうなおじさん」ということが本書の記述からも伺える程度なので,安心してお読みいただきたい。
さて,次にご紹介するのは,年末も押し詰まったこの時期に刊行された,得能史子の「ペリーさんちの、おきらく貧乏ごはん」だ。得能史子と言えば貧乏,貧乏と言えば得能,というぐらいワシ的には公式が出来上がってしまっている漫画エッセイストなのであるが,本書はその肩書を日々の「料理」を前面に出すことで強化している内容となっている。なめだるま親方の本が,あくまで料理レシピ&作り方主体のレシピ本なのに対し,本書はレシピはつけたしっぽい扱いで,むしろ,いつもの得能スタイルエッセイ漫画のオマケとしてくっついている感じ。料理の作り方はレシピに文章でさらりと書いているだけなので,絵解きの料理本と勘違いすると失望するかもしれない。あくまで得能史子のエッセイ漫画を好む人向けのマニアな一冊なのである。どういう漫画かは以前にもご紹介してるので,そちらを参照されたい。
タイトルにある「ペリーさん」は,得能の旦那である内気なNew Zealerのこと。とはいえ,旦那のためにせっせと愛妻料理を作る・・・という感じではなく,自分が好きな和食を作りつつ,旦那の好みも勘案して最適化を図る,という程度。よくもまぁこれだけ和食テイストな食事を食わされ続けて飽きないな,と同情してしまうほどだ。たまぁにステーキが食いたいとダダこねたり,グリーンピースをそのまま頬張ったりするぐらいで我慢できること自体が奇跡である。いくら貧乏でも,牛肉ぐらいは食わせてやっても罰は当たるまい。本書の印税が少しでも得能夫婦の懐をあっためる役に立てば幸いである。
つーことで,2010年に出た,「意外な人が書いた料理レシピ本」2冊,おせちに飽きた正月の暇な時間に読んで,一つ二つお試し頂くと,この貧乏な日本にも豊かな内的幸せが低価格で得られることが実感できる・・・筈である。
12/19(日) 札幌->掛川(予定)・晴
今日も札幌はいい天気。ダイエット成功したせいもあってか,やたら寒く感じて困る。日中でもやっとプラスになるかならないかという気温だから,もともと温暖な静岡で生ぬるく年取ってるせいもあって寒さに耐性がなくなってる上に,皮下脂肪が薄くなってしまったから,2重に答えるのだろう。「やせたら寒い」ってのは真実だったのだなぁ~,と実感。ま,実質三日間の実家暮らしでのんべんだらりと三食生活を送ったから,リバウンドはしそうだが。掛川帰着が午後1時の予定だから,急いでスポーツクラブに駆け込んで運動を再開せねば。せめて札幌滞在期間中にも水泳ぐらいはしたいと水着は持ってきたのだが,結局使わなかったもんなぁ。怠惰生活のつけは重い。
つーことで,登場1時間前に新千歳空港に着いてしまったため,暇つぶしがてらblog更新しているのである。
・・・(ここで便意を催したのでトイレに駆け込む)・・・
は~すっきりすっきり。新千歳空港搭乗口2番近くのトイレは和式洋式一つずつ取り揃えられていて,ワシは迷わず洋式を選ぶ。和式にはないウォッシュレットが付いているからである。和式用のウォッシュレットってあるのかな?
今や,日本のどこの観光地でも,っつーか,観光地ほどトイレ整備が進んでいて,ウォッシュレットが付いていない旅館・ホテルは皆無であろう。年寄りになればなるほど肉体的にも精神的にもケツの穴が小さくなるので,自然とウォッシュレットにはうるさくなるのであるのである。今や金も暇も持て余している団塊世代以上の年寄りマネーを狙うのが観光ビジネスの常道,となればどうしてもケツの穴をいかに心地よく洗ってもらうかが最重要課題と言えよう。
・・・何の話だっけ? あ,そうそう,現在ワシは新千歳空港搭乗口2番付近の待合室でこれを更新しているのである。
半年ぶりに札幌に戻ってきて少し驚いたのがこれ。
電子マネーカードの種類を客に選択させる方式の自販機である。自販機だけじゃなくて,友人の店頭でもこのタイプの電子マネー精算機が普及していて,最初,「カードの種類を選んで下さい」と言われて戸惑ってしまった。
・・・と思うのだが,まぁいろいろ先方にも事情があるのだろう。JR各社の電子マネーも互換性があったりなかったりする部分が多いしな。いっそのこと全部SUICAに統一してくれると助かるのだが。
[追記] と,舌の根も乾かぬうちにこんなニュースが(読売新聞)。JR系,大手私鉄系のICカードは2013年春から相互利用可能になる予定,と。うむ,正しい。で,SAPICAはどうなるのかな?
ボチボチ搭乗時間のようなのでこの辺で。続きはまた明日以降,ボチボチ年末恒例のプチ目れ祭り突入である。頑張ろうっと(仕事は?)
12/16(木) 札幌・シバレル
ひょぇ~,寒い寒い。昨日夜7時過ぎに新千歳空港に降り立ったら-7℃とか。今朝も-8℃・・・って旭川じゃないんだから,そんなに寒くならなくてもええんだわ。全く久々に「しばれる」という形容詞がふさわしい日となった。
で,今日明日とHOKKE2010にお付き合いするのである。今回は情報収集(+帰省)が主なので,気楽に内職に励もう・・・と思ってたら,明日は座長を振られてしまった。うかつに○印なぞ付けるモンではないのである。
本来なら極寒の地の風景写真なぞを張り付けるべきなんだろうが,あいにくIS03を実家に忘れてきてしまった。写真は明日以降ってことで一つご勘弁を。昨晩は実家近所のド派手は電飾の家をとろうとして電池切れ,今日は忘れ物と,どーもIS03のご活躍の機会がなくて,何たる暇つぶしTwitterマシンと化しているのはさぞかしGoogle様もお怒りであろう。Androidであることのメリットを安増生かしてないなぁと我ながら思いまする。
ではこれから北大へ出勤してきます・・・ってこれ,本来有休なので,こんなに真面目に出かけなくてもいいんだけどなぁ。私費で帰ってきて何やってんだか,全く。
山川直人「澄江堂主人 前篇」エンターブレイン
[ Amazon ] ISBN 978-4-04-726899-9, \740
ワシは文学に暗い。芥川龍之介なんて,せいぜい国語の教科書に載っていた「杜子春」「鼻」ぐらいしか読んだことはない。本書のタイトルだって「すみえどうしゅじん」と読んでいたぐらいだ。正しくは「ちょうこうどう」であるらしい。従って,この主人公たる「澄江堂主人」,すなわち芥川龍之介をモデルにした本作に,どこまで山川の「創作」が混じっているのかを判断するだけの知識をワシは持っていないのである。だもんで,以下のうだうだは全て純然たる山川直人のマンガとしての記述である。文学史的なウンチク話はよその誰かにお願いしたい。
で,山川直人だ。古くから創作系同人誌即売会「コミティア」では異彩を放っていた作家である。プロデビューも1988年と古く,実力は古くから一部では知られていた・・・筈であるが,少なくともつい最近になるまで,ワシはあまり興味がなかった。ペンによるカケアミを多用した温かみのある画面に,ビンボ臭い2頭身キャラ達が物憂げに人生を送っている,という文学的童話に似た作品は,つげ義春を知ってしまったワシにとってはちと物足りないものを感じさせたのである。つげ作品が「悲惨な街の安全運転」(by 赤瀬川原平)と形容されるのであれば,山川作品は「暖かい街で飲むほろ苦いコーヒー」という「程度」なのである。どちらがいいというものでもないが,ある程度以上の年齢の大人が安心して読める読み物としては山川作品に軍配が上がり,もっと「深淵」を覗きたい向きが否応なく求めてしまう「文学」がつげ作品なのだ,と,ワシは感じているのである。
とはいえ,山川作品は,同じペン画であるにしても,つげ作品にはない暖かさと豊かさを感じさせる独特の魅力的な画を持っていて,これが一番の強みであることは確かだ。近著である「ハモニカ文庫」は,掲載誌が生ぬるい4コマ雑誌だから仕方ないとは言え,ちと甘すぎかなと思えたけど,「ほろ苦さ」は効いており,そこそこ面白く読める。・・・なんかワシ,持って回った言い方で微妙に批判をしてしまうなぁ。しかし,実際,いまいち物足りないと感じているのだから仕方がない。どうも,山川直人の作風は,今の日本の重苦しさに比して「軽い」と感じてしまうワシがいるのである。だもんで,いまいち,エンターブレインから刊行されている作品集にも手が出なかったのだ。
今回,山川が差し出してきたこの「澄江堂主人」,いつもの山川作品集ならスルーしていたところであるが,一見して手にとって書店のレジに差し出したのは,帯にある「芥川龍之介」の文字が決め手となったのである。自殺した文学者を描いたドキュメンタリータッチの,シリアスな作品に挑んだのだとワシは思ったのである。
で・・・読んでみたら,う~む・・・確かに「芥川龍之介」がモデルになっていけれど,これは純然たるいつもの山川ファンタジーではないかと,ちょっと拍子抜けしてしまったのだ。どん底に陥らないという安心感漂う,温かみのある物語になっている・・・少なくとも,この「前篇」と銘打たれた本書を読む限りは,そうなのだ。ぼんやりした不安感が主人公・芥川に付きまとっていることは説明としては理解できる。しかし,幻影として芥川自身が,そして周囲が見る「死」の表現は,どこかユーモラスなのだ。いい枝ぶりの木で縊死している芥川の姿には「ぶら~ん」という能天気な擬音が付き,やせ細った姿を見た子供に「オバケ!!」と叫ばれた芥川は,おどけた姿で「ひょい」っと「オバケ~」とポーズをとって見せる。どれもジョークには至らない,ブラックユーモア「風味」なのだ。この表現は何なのだ? ・・・とワシにはまだ解せないものが感じられる。きっとこの先,中編,後篇(まさか完結編まで行くんじゃないだろうな?)・・・と物語が進展するにつれて,この明らかな作為の所以がワシら読者に示されるのであろう。現時点ではそう解釈しておくことにしたい。
そうそう,「作為」と言えば,最大のものがあった。この「澄江堂主人」に登場する明治・大正・昭和初期の文人たちは全員,「漫画家」なのである。「吾輩が猫である」も「羅生門」も漫画であり,短歌や詩は四コマ漫画に置き換えられている。今のところ,文学作品を漫画作品と置換しているだけのように見えるが,これも何かの仕掛け,なのであろう。その謎もそのうち明らかに・・・なるんでしょうね? 山川先生。
従来の山川作品に満足していなかったワシを,どう引き回してくれるのか,それとも「やっぱりいつもの・・・」で終わるのか,その帰趨を見るためにも,ワシは続刊を3年ばかり追いかけてみようと思っているのである。結論は,完結した後に書くことにしたい。
平川克美「移行期的混乱 経済成長神話の終わり」筑摩書房
[ Amazon ] iSBN 978-4-480-86404-8, \1600
一気通貫・・・にはとても読めなかった。読了までにひと月以上かかっている。読書の時間が取れなかったという事情もあるけど,それはいつものこと。読み始めて「これは面白い!」と思えば,全ての用事をほったらかしても読み終わるまでは本に噛り付くのだが,本書はそーゆー読み方ができなかった。面白いことは面白いのだが,読み進むにつれてこちらの気分が重くなってくるのだ。陰鬱な時代の空気を反映していることは確かだが,本書の書きぶりはそれ以上に厳しい「自省」を強いるのである。以前読んだ釈徹宗の著作もそうだし,江弘毅にもその気があるのだが,どうも内田樹系列の書き手は自己批判を織り込んだ物言いをするので,まことに信頼がおけると同時に,読者にも自然と自省を強いることになる。プロパガンダとは正反対の抑制的な物言いは,高揚感とは逆のベクトルの重苦しい自省をもたらす。本書は,それゆえに現在の日の本の過去・現在・未来を荒っぽくも的確に表現したデッサンであると言える。
以前にも述べたが,評論家の物言いの癖として,「悲観論テンプレート」なるものがある。未来予測を楽観的に述べると外れた時の批判がきつくなるので,ついつい悲観的な予測を言ってしまうというアレである。本書がその中の一冊かどうかというと,そうとも言えるし,そうでないとも言える。しかし今の日本の置かれた経済的・国際的・国内的状況を鑑みて,高度成長期のような高揚感を伴った楽観論を語れる人間は皆無だ。客観的に見て,積みあがった膨大な国債を前に大丈夫何ともないと一言で切って捨てられるのは亀井静香か小林よしりんぐらいだろうし,人口抑制策が効いているとはいえ,経済力の成長に伴って国家主義も膨れ上がってパンクしそうな中国と隣国として付き合っていかねばらないのも,やりきれない気分にさせられる(あちらもそう思っているかもしれないが)。高齢化は進む一方で労働力は減る一方,ゆとり教育の影響で若い奴らの学習意欲は下がる一方だと喧伝されれば,まぁ明るい未来を思い描く方がバカ扱いされても仕方がない。著者もそのような日本の状況を次のように述べている。
高度経済成長から相対安定成長期までの戦後の半世紀とは,下層中流の人々が一生懸命働いていればそれなりの恒産ができるようになるまでの時間であった。
(略)
90年以降の日本は,都市化,民主化,消費化の頂点に向けてひた走っていたつもりが,前世代の築いてきたものを文明の進展と同じスピードで蕩尽してきたかのようにさえ思えるのである。(P.259)
荒っぽいけど,正確な現状の「デッサン」であると認めざるを得ない。
本書で著者が言いたいことはただ一つ,現在の日本の状況はどの文明であれどの国であれ普遍的に起こる不可避な「移行期的混乱」であり,過去の成功経験を繰り返すだけで乗り切れるような代物ではない,ということである。基本的にはエマニュエル・トッドの著述から得た見解をベースに,日本の状況に当てはめてごく控えめに,そして内省的に応用展開を図っている。根拠となる客観データは第1章にまとめられていて,ワシもどこかで見たことがあるようなものばかりだ。重要なのは図表1の日本の経済成長率の推移,そして図表4の日本の人口予測カーブである。これらに基づいて,日本のこれまでの状況とこれからとるべき「態度」を,内省的な書きぶりで,著者の生い立ちとビジネスの経験を踏まえてつづっているのが本書なのである。 だから,読み進むにつれて陰鬱な気分に陥るのも当然なのだ。
かてて加えて,平川の書きぶりの根本には「原理的な問題」を探索しようというぶれない軸が存在する。これが更に「重苦しさ」を増しているのである。何故ならば・・・
原理的な問題には,答えというものがない。ただ,永遠に繰り返される問いの変奏があるだけである。それでも,自分たちの生きてきた時間の証として,新たな問いの変奏を付け加えることには意味があると思って作業を続けてきたのである。(P.8)
・・・いやぁ,まことにスカッとしない物言いである。しかし正しい,としか言いようがない。現代の論理を支える哲学の根本原理がトートロジー,すなわち同語反復だけに依存している,ということを文学的表現に「変奏」するとこういう文章になるのだろう。故に,本書は原理的な問題への追及を止めないのだ。追求し続けること自体が「意味を持つ」と言うが如くに。
本書の主張は,聡明な経済学者や社会学者,評論家が述べていることに共通するもので,それ自体に新味があるというものではないし,それは平川が目指したものではない。原理的な問題を掘り進めていけば,それはそんなに沢山あるものではないし,自然,他の論者と論点の共通要素が多くなるのも当然である。「問題山積国家・日本」という主題に興味を持つ読者なら,本書の主張はすんなり受け取れるだろう。
しかし本書がたくさんの読者に支持されているのは(既に3刷だそーで,めでたい),主張そのもの以上に,その主張を述べるこの平川の「態度」こそが,共感を得ているからに他ならない。「こういう物言いをする人の言うことなら信用しよう」という読者も多いだろうし,そこから「こういう物言いをする人になりたい」という新たな市井の論者も誕生することだろう。そうなれば,あけすけな物言いの中にブラックユーモアを織り交ぜたりして社会のトランキライザーとして機能する人々が増える筈だ。適切に自己の感情をコントロールして,社会システムのスタビライザーとなる人々がこの日の本に点在することになるのだ。
「原理的な問題」をどう考えるか,どうしてそれを考えることが大事なのか・・・そんな当たり前のことを訥々と語る「大人の態度」というものを再認識させてくれる本書は,年末の慌ただしい時間を過ごした後に,ヒートアップした頭と体をクールダウンさせるにはぴったりの漢方薬として機能することだろう。