風が強いなぁ。最上階のワシんとこは換気穴がビュービュー鳴ってうるさくてしゃーない。まあそれでも「屋根があるだけ素晴らしい」(by 吾妻ひでお)のだから,まあ贅沢は言うまい。
昨日から料理の鉄人と化している。今年は黒豆も膾も作ってやるぅとばかりに,まず一番手間のかかる旨煮から作成,先ほど風呂に入る前に,きんぴらごぼう,膾,黒豆は完成,買っておいた焼き豚とかまぼこを切って並べてすべての準備が完了した。あとはそばを茹でてダラダラとTV・・・じゃない,PCの前に座って過ごすのである。
本年は・・・いい年だったのかなぁ。家を買ったし,賞も頂けたし・・・これで引っ越し後の燃え尽き症候群による鬱がなければもっと仕事ができたのにとは思うが,まあ贅沢を言うときりがない。来年は今年の分を補って余りある量の仕事をバリバリやりたいものである。
本日や夕焼けがきれい。元旦はいい天気になりそうである。初日の出を拝むのは寒いし眠いからやめにして,代わりにこれを拝むことにする。
つーことで,今年もこれでおしまい・・・じゃない。最後のぷちめれを完成させて,本年最後のごあいさつと代えさせて頂く予定。んではみなさま,よいお年を。
12/30(火) 掛川・晴
朝っぱらからずぅーっと強風が吹きすさんでいる。冬らしくて結構だが,外のお仕事の方は大変そうだ。ワシなんぞはシベリア抑留の次の日には死んでいることだろう。不況ということもあって,12月中旬には浜松駅の地下にはいくつか段ボールハウスが建設されていたが,あれはどうなっているのだろうか? 当今のお言葉じゃないが,年末年始,みなお健やかに過ごして頂きたいものである。
ふーん,ホワイトデータセンター構想か。神戸の海上に作る前に出してほしかったよな,そーゆーものは。地方には今までも,そしてこれからも公共事業が必要なことは言うまでもない。ただ道路とか何に使うか分からない建物ばかり作るのはもう限界だろう。これだけ光ファイバ網が発達している時代なんだから,も少し公共事業の幅を広げて考えた方がいいよね。
さて,旨煮を作る前に大掃除をすべきか,大掃除の後に旨煮を作るべきか悩みつつ,本日はのんびり過ごします。外,寒いし(前言撤回)。
山本直樹「レッド1」「レッド2」講談社
「レッド1」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-372322-9, \952
「レッド2」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375527-5, \952
山本直樹にはその昔,大変お世話になった。
無論,夜のオカズとしてだ。
山本直樹のSEX描写は,ちょうど性のリビドー真っ盛りのワシの脳天を直撃したのだ。
確か,ビッグコミックスピリッツだったと思う。「極めてかもしだ」には大変お世話になり,大変記憶に残る漫画になったのである。
山本のSEX描写の一番の特徴は,SEX後の空白表現にあるとワシは考えている。それは,射精後に性も根も尽き果ててしまう男の感性の忠実な表現である。か細い女体が喘ぐ描写と,この空虚感の落差を最初にメジャーな漫画雑誌にもたらしたことで,山本直樹は日本の漫画を,後戻りを許さぬ表現の高みへ連れ出してしまった。
しかし革新者はその後必ず自らの成功に悩まされることになる。SEX描写が売り物だった山本直樹は東京都から有害図書指定される「栄誉」を得るに至るが,そこに安住することは許されなくなっていった。そしてその描線からは生気が抜け,コンピュータを使いながらものっぺりテカテカのレイトレーシングとは逆方向の,パサパサの乾燥した表現へと移行していった。それは古さから脱却であると共に,時代から「湿り気」が抜けていったことと連動していた。感性に忠実なSEX表現から,方向性の定まらない現代の不安な,それでいてウェットな関係性が完全に崩壊した現代の,忠実な空気の表現を希求した結果が今の山本の描線なのである。
その山本は,とてつもなく青臭くじっとりしていた1970年代を,乾燥した筆致で描くことを選択した。それがこの「レッド」である。
当然,今の山本にはその時代の空気を描くことはできないし,それをしようとはしていない。「赤色軍」(赤軍派がモデル)に参加した若者たちの運命をあらかじめ丸付き数字で頭に刻印しておき,ジリジリと警察から追い込まれ自滅していく様を乾いたタッチで淡々と描くことに専念している。この先,3巻で描かれるはずの「地獄めぐり」(第16話)をことさら非人道的に描くのを避けるためか,赤色軍のメンバーたちの言動は,普通の大学生のサークル活動のノリ,そのままである。このあたり,「死へのイデオロギー」を読んだものとしてはちょっと違和感を禁じえない。しかし本作は連合赤軍事件のリアリティを描くことを目的とした作品ではないのだから,その程度の違和感が生じるのはやむを得ない。死んでいく人間は死ぬための準備を万端整えて死ぬわけではなく,普段の生の延長上に死があるだけなのだ。山本が描きたいのは,そのような死のリアリティなのだろう。
交番を襲撃しようとする人間もその直前まで談志の落語を楽しんだり,赤城の山に籠って「総括」に加担する人間も女性とすき焼きを食った後に同衾したりする,そんな生のありようこそが死のリアリティに直結することを,山本は熟知しているのだ。その卓抜した表現能力は,大学生だったワシにさんざん精液を吐き出させたSEX表現の延長上に磨かれたものである。バブリーな時代から遠く離れて長期低落のあきらめが満ちている昨今,時代の熱気を取り去り乾ききった滅びゆく赤色軍を描くことで,山本自身が生を実感しようとしているのかもしれない。
P.G.Steinhoff, 木村由美子・訳「死へのイデオロギー 日本赤軍派」岩波現代文庫
[ [Amazon](http://www.amazon.co.jp/gp/product/4006030843?ie=UTF8&tag=pasnet-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4006030843) ] ISBN 4-00-603084-3, \1100
つい最近まで気がつかなかったのだが,産経新聞で「さらば革命世代」という連載がなされている。現代から1970年代の大学紛争を当事者の証言を得ながら振り返るという記事だが,まあこれだけ否定的な内容も珍しい。結果として,その時代に騒ぎまくった「全共闘世代は理屈をこね回していただけで、上の世代の敷いたレールを忠実に歩いてきたに過ぎなかった。政治も経済も行き詰まる中で、新たな日本型システムを提示することもできなかった」(第1部(10)「過去を振り返れない人たち」より),というのが連載全体のトーンである。産経新聞という媒体の性格を差し引いても,当たっているところが多いとはいえ,なんだか自虐的だなぁという感じがする。若い時分に馬鹿げた行動に出たり青臭い議論にうつつを抜かしたりなんてのは誰でもフツーにあることで,ましてや日本に留まらず,全世界的にリベラルの風が吹いていたのだから,自己卑下はほどほどにしておいたらどうか・・・と,ゼンキョートー世代なんてのは馬鹿老人の掃き溜めみたいなもんだという持論のワシでも弁護したくなるほどである。
しかしその過剰なまでの自己卑下の背景には,ある種ヒーロー的な役回りを担っていた一握りのグループが行った一連の犯罪行為がある。赤軍派と総称されるそのグループは,ワシみたいな市井の一般人はもとより,学生運動の中心にいた人々までも戦慄させる行動をとった。一つはあさま山荘事件の少し前に終わった「総括」という名の粛清行為,もう一つはパレスチナ解放戦線の活動の一環としてのテルアビブ空港襲撃事件である。本書によれば,同じ仲間が引き起こした「総括」事件によって,パレスチナに飛んだ岡本公三らは無差別テロに参加せざるを得なくなったというから,結果だけ見れば「赤軍派」というグループは一括して救いようのない自滅的テログループということになる。そして大学紛争を支えていた無数の学生たちには,自分らの活動の中から赤軍派を出してしまったという重石がのしかかることになったのだろう。
ハワイ大学で戦前の日本における共産党員の「転向」を研究していた著者は,テルアビブ空港での事件の後,夫の助言に従ってイスラエルの首相に手紙を書く。純然たる学術目的で,テロ後に生き残っていた犯人グループの一人,岡本公三にインタビューしたい・・・と。その願いはかなえられ,テープレコーダーも許可されない環境において,ロングランのインタビューをイスラエルのラームレ刑務所で行うことになる。それが著者と赤軍派の最初の接点であり,1991年に塩見孝也・高沢皓司らとあさま山荘周辺を訪れるまで,長い付き合いをすることになるのだ。
本書の特徴は,同じ1970年代リベラルの風を受けていたとはいえ,米国人が執筆した「学術書」であることだ。共産党員の転向がなされた環境,米国人の生活習慣などを例に引きつつ,何故,岡本がイスラエルでマシンガンをぶっ放すに至ったのか,本人や家族へのインタビューを行いつつ,その背景にある社会情勢を述べ,赤軍派が第一世代の幹部逮捕によって第二世代へと移行していく過程を解説し,最後は連合赤軍事件の真相に迫っていく。結果として,あさま山荘からテルアビブ空港は一連の思想的背景があることが明らかとなるのである。そして,赤城山中で行われた「総括」のメカニズムも,しつこいなぁという程のねちっこい記述によって読者の脳に語りかけてくる。読んでいるワシの方が感化されそうなぐらいである。そうはいっても,その記述はあくまでアカデミックなものだ。
それによると,最初の脱走者の処罰による殺害事件は別として,その後行われた「総括」は,いわゆる粛清とはタイプが違うものらしい。あくまで本人の反省を引き出すための行為にすぎず,それがあまりに過酷だったために,結果として殺人になってしまった・・・と,端的にまとめるとこうなるわけだが,読みながらワシは思いっきり突っ込んでしまった。まあ確かに突っ込みを入れるはずの「外部」が存在しない山の中の出来事とは言え,どうやったら「共産主義」の理念強化活動が,風雪吹きすさぶ山小屋の外に縛り付けた揚句に全員でぶんなぐることになっちゃうのが,
さっぱり理解できない。しかも死んだら「敗北死」だぁ? 死ぬのが当然だろうがっ! ・・・と。
しかし,Steinhoffはこの行為がなされた原因は確かにあり,それは日本的集団合意のあり方に起因するものだとしてこう述べている(P.167)。
> 日本社会でよく見られるように,共同参加の意思表明を迫る強大な組織の圧力のもと,この新方針(注:「総括」行為に参加すること)はメンバーをジレンマに追い込んだ。それは,イデオロギーを巧みに操る森(注:森恒夫)の才能によって,いっそう力を得ていった。エスカレートしていく暴力に戸惑いを感じている人間も,弱気な姿勢を少しでも見せることは,自分の非革命性の指標になるのだとすぐに気がついていく。誰もが共産主義化を獲ち取ることを心から希求していたから,自覚した欠点がそれがどのようなものであろうと,克服するように努めようと決意していたのである。したがって,不快に感じる暴力にも駆り立てられるように参加していった。それは自分が次の(注:「総括」の)ターゲットになるのを恐れてであると同時に,不快だと思う気持ちが怯えからきていると自覚したからだった。
もちろん著者は日本的なるものがなければ「総括」のエスカレーションもなかったと言いたいのではない。あくまで,この暴力行為は日本的なるものと無縁ではない,ということを主張しているだけである。そしてワシらはその時の赤軍派メンバーの心証を,好むと好まざるとに関わらず理解してしまうのである。実際,「そんことしちまったら死んじまうぞ」と,素朴な常識に従って止める回路が働かない状況であったからこそ,よく分からない森恒夫の屁理屈で死人が続出することになったのである。そして,彼らがひれ伏した屁理屈は,あさま山荘にこもった際に人質の管理人夫人を丁重に扱うという行為の合理的な説明にもなっているのである。
本書は日本的なる文化背景を血肉として持っていない米国人が,同じ米国人に対して誤解の入る余地がないほどねちっこく「赤軍派」の思想と犯罪行為を解説したものである。それ故に,ワシみたいな全然その世代のことを理解していない人間でも分かりやすい内容になっている。しかしそれでも,ワシが1970年代にいたとして,赤軍派に肩入れしたかどうか,となるとかなり疑問である。
たぶん,ホリエモンやコイズミを支持したようにはいかなかったろう。追い詰められたインテリの行き着く果ては遠く見送り,ポピュリズムを指向する権力者の尻馬に乗る方がマシと考えるのが今のワシだ。金融肥大化の経済の先行きは危ういとはいえ,グローバルスタンダード化が進んだ日本も含むこの世界のルールは所詮,思想なきゲームにすぎない。しかしゲームのコマの一つ一つ,目を示す情報ツールではない実体としてのサイコロですら,ワシにとっては愛おしい。思想がどれほど高邁であったとしても,目前の生きた仲間を抹殺するような行為に走るような集団が信奉するものからはできるだけ離れて生きていきたいというのが,今のワシが愛してやまない「馬鹿さ加減」なのである。
12/29(月) 掛川・晴
朝はピーカン晴れだったが,昼から少し雲が出てきた。この年末から正月にかけての天候はあまりよろしくないらしい。太平洋側がこうだと,日本海側は大雪になることはあまりなさそうだね。ま,雪でもないのにJR東日本の新幹線ダイヤは朝からえらいことになっているようですが。
我が家の正月飾りは小さい鏡餅を一つ置くだけで完了する。
楽だし安上がりだし,どんど焼きに出す必要もなく大半はワシの胃袋に収まるのでエコロジー的にも良い。おまけに「さびしい」という感情まで付いてくるのだから,言うことないのである。
さて,おせち(つっても,年越し蕎麦兼用雑煮汁と旨煮を作るだけだがな)の材料を買い出しして,本日のぷちめれを書いて計算するとするかな。Core i7,ちろっとベンチマークしてみたけど,やっぱり性能いいわ。もっと遊んでみよーっと。