私はコンピュータを使っての計算を専門に研究している37歳の男性大学教員である。37歳と言えば,人間ドックに補助金が出る年であるので,肉体的には中高年の仲間入りをする年齢ということになるらしい。バカにするんじゃねぇ,私はもっと若いんだ,と主張したいのは山々であるが,ズボンのウェストサイズは年々増えているし,目が霞んでディスプレイの文字が判別しづらくなってきているし,何よりプログラミングに没頭して徹夜なんぞしようもんなら,その後数日は疲労が抜けず,かえってその後の仕事の能率が落ちてしまうのだ。やっぱり老けたなぁ,ということを痛感させられる主観的事実が増えていることは残念ながら否定できない。くそ。
「老け」を感じるのは,それだけではなく,客観的な事実によることもある。
例えば携帯電話。既に「ケータイ」という正しいイントネーションを伴うカタカナ単語を操れない時点でジジイなのであるが,私はあれを正しく使えている自信が全くないのだ。
職業柄,18歳から22歳までの若者とお付き合いをすることが多いのだが,彼らのケータイの使い方を見ていると,恐らく財布の次に重要なアイテムになっていると思えて仕方がない。暇が出来ればメールを打っているか,漫画や小説をケータイのあの狭い画面で読んでいたりするし,ゼミで飲み会の日程を決めたりすると,すかさずケータイのスケジューラを取り出してメモを取るのである。たまにでかい声で通話している迷惑な人がいるなぁ,と思ったら同僚の教員だったりする。つまり,ケータイを電話として多用するのは年寄りの証拠で,若い世代は私にとっての(通話機能付き)パソコンのような存在になっているのである。で,私はと言えば,最近やっとメールの文章を片手で打てるようになった,というレベルであって,とてもスピードでは学生達には敵わないのである。
インターネット白書2005(インプレス)によれば,日本のインターネット利用者数は,2005年2月時点で約7007万人であり,そのうち携帯電話・PHSからのみ利用している数は約943万人,パソコンと併用してしているのは約4669万人にも上るらしい。つまり,インターネット利用者の約13%がケータイからのみインターネットを使っており,約66%はケータイからも利用している,ということになる。私個人としては,この約13%のうちどれほどの層が,「インターネット」を意識して使っているのか,かなり怪しいと思っている。パソコン上で見ることのできる「ホームページ」と,ケータイ画面で見ることのできる各種の情報検索サービスが,同じ技術で出来上がっているものだ,ということを大学の情報リテラシ教育では必ず教員が解説していると思うが,どれほどその知識が浸透しているのか,となるとかなり怪しい。
科学技術を,お仕着せのマニュアルに沿って「使う」ことはそれほど難しいことではないし,ましてやIT(情報技術)の世界では,普通の人がたやすく使えることが重要視されているので,ソフトウェアも「さあ使ってください,簡単ですよ」というメッセージを発する外見を纏っていることが多い。もちろんデザインは重要であるし,それがソフトウェアの目的の本質に敵うものであれば,使いやすさを第一に考えることは当然であるが,そうでなければ,まずはどのような仕事をさせたかったのか,それがどのような「原理」でなされているのかを知る必要がある。そしてそれは多くの場合,とても簡単な言葉と常識的な体験から説明できるものであり,英単語のカタカナ発音をそのまま使っているIT用語の羅列が必要なものではないのだ。
例えば,インターネットがこれだけ多くの利用者を抱え,しかも大規模な破綻も起こさずに運用が継続できている「原理」は単純明快で,使用されているパソコンの多くが,通信回線の速度を調節する機構を内蔵しているからである。もちろん,悪意のある利用者が増えればその影響は受けるが,多数の利用者が回線を共有しつつ,遅くても途切れない通信を可能にしているのはこの機構のおかげであり,それ故に,インターネット全体では大規模な破綻を起こさずに済んでいるのである。
だから,単なる利用方法の習得ではなく,原理原則も併せて知ることで,難しげなITの世界も感覚的に理解できるようになり,よりIT技術の利用に対しての認識も深まるんだ・・・と学生諸子の前で力説するのだが,いかんせん「ケータイ」の使いこなしに難儀している自分を振り返ると,「使えない」ことの言い訳めいて解釈されそうであり,そのような意識が全く働いていないとは断言できない部分もあるのだ。こうなると,原理原則論は単なる「インターネット老人の繰言」であって,つまりはこれも老けたという客観的証拠の一つでしかないことになる。あ〜あ,年は取りたくないもんだなぁと嘆息しつつ,ケータイの使いこなしにも精を出す諦めの悪い私なのであった。
10/23(火) 掛川->浜松->掛川・?
11月末締め切りのエッセイを真面目に執筆。最初,下書きをだらだらと書き連ねたが,字数を大幅にオーバーしたので,つめつめして何とか2000字に押し込んだ。暫く寝かせておくことにしよう。で,だらだら書きした下書きの方は,前回試験的に書いて没を食らった(つーか,無視された)ものも含めて,こっちに掲載しておくことにする。あんまし面白い中身になってないよなー,とは思うが,このぐらいにとどめておいた方が良いのかなー,とも思うし,よくわからん。
ふーん,日立がPC製造・販売から完全撤退か。時代って奴ですかねー。
ふーん,情報処理学会の論文誌が次年度から完全ペーパーレス化か。これも時代って奴ですかねー。査読システムも完全にWebベースになるから,三島親父みたいなTeX onlyってご仁には査読も回せなくなるな。近々,雑誌「情報処理」を除いて紙媒体は全廃になるようだから,まあ,雑誌の置き場所に困っているワシとしては助かるけど,何かちょっと寂しいような。
夜は初めての志の輔落語を堪能。演題は下記の通り。
「そば清」って演題は初めてだが,「蛇含草」ってのは大阪落語だっけか? 「死神」も何度か聞いたことはある。どちらも古典だが,なるほどねー,これが志の輔落語って奴か,というぐらい,たっぷりと演出が加わっている。「死神」なんて,落ちはどうなるのか?ってぐらいだったもんなぁ。これだけ面白く,しかも分かりやすい語り口なら,パルコ劇場で一ヶ月公演を張れるよなぁ。いや,ともかく堪能しました。
堪能ついでに,1月の桂南光独演会のチケットまで買ってしまった。6月の小米朝独演会を出張でキャンセルしたのは痛かったが(米団治襲名前としては最後だったかも),またぞろその轍を踏まなきゃ良いが。
堪能したので今日は寝ます。
10/21(日) 掛川・晴
昨日は久々にフリーの身として東京を散策。回数券が余っていたのと,次週以降は土日が潰れてしまうので,ここらで気分転換をしようという趣向である。11月は毎年恒例,連続出張死のロード(自分で予定を組んだくせに)に突入する上,ワシの自腹を相当切らねばならず,せめて移動中は読書で気分を和ませる必要があるので,見逃していた新刊を一気に買っておくという目的もある。まあ,どーせギリギリまで何もできない(しない)質であるから,発表用のPPTファイルをせっせと弄くっているとは思うが。
つーことで,さわやかな秋空のもと,新幹線で東京へ出発する。
新富士付近で,山頂部に雲の笠をかぶっていない富士山を久々に堪能する。
写真ではわかりづらいが,ちょこっと冠雪していた。これからはますます富士山らしくなるんだな。
東京ではいつも通り,丸善丸の内本店→秋葉ヨドバシ→神保町ぶらり旅というコース。あ,でも神保町は久々かも。再開発の話が出ていた筈だが,あれはどうなったのかなぁ。日本の民間文化遺産として是非残してもらいたいものだが。
いつも通り,神保町の休憩場所としていた喫茶店に向かったら閉店していた。がーん。
まー,あの名古屋並みの価格の安さでやっていくのは難しかったのかなぁ,とは思うが,能登時代,早朝七時から開いていたこの店に,夜行バスから降りて直行していたワシとしては,感傷を禁じ得ないのである。うーん,チェーン店だから,例えば両国にある店はまだ健在・・・であってほしいな。喫茶・談話室もなくなるわ,シャノアールもなくなるわ,これでルノワールもなくなってしまったら,ワシはいったい東京のどこで憩えばいいんじゃ。スタバ?・・・まー,悪くはないけど,もっとおじさん臭い店の方がゆったりできて嬉しいんだけどなぁ。
東京での戦果の程は,これからボチボチとぷちめる予定である。今年の年末はエロ特集を予定しているので,そのネタ本も入手してきた。いやぁ,18禁のジャンルがここまで訳の分からない進化を遂げているとは驚き。やっぱり何でも読んでみるモンである。乞御期待(誰が期待するというのか)。ところで,18禁マンガを絵の引用抜きで文章で紹介しても,やっぱり18禁なんですかね?
小谷野敦先生の著作,この秋は一気に3冊。
「日本の有名一族」幻冬舎新書
「日本売春史」新潮選書
「リチャード三世は悪人か」NTT出版
これに「退屈論」の文庫化を入れると4冊である。うーん,凄い。内田樹先生の新刊の大半は既にblogで発表済みの文章を手直ししたものか,対談集だったりするので,まあ大量に出せるのも当然ではある。しかしこの3冊は資料集めから執筆から全部一人でこなして書いたもんだからなぁ。まあ家系図についてはWebでもこういうものがあるので割と楽だったのかなとは思うが(唐沢なにがしじゃあるまいし,ワシは全部書籍から資料を集めたのだと言われそうだが),他の2冊はオリジナリティ度の高い労作である。さすがだなと感心させられる。あ,ワシは全部入手済みである。日本売春史は年末のぷちめれエロ特集の最初(か最後)を飾ることになりそうだ。
あーやっぱり東京の本屋巡りは楽しいなぁ。おかげで今日は目覚めが良い。ここんとこ土日は死んだように引きこもっていたのだが,やっぱり人間好きなことをしてなきゃダメだな,と痛感。
今日も一日頑張ります。
10/19(金) 掛川・晴
M$が提案した二つのライセンスが,Open Souce Initiative (OSI)の認可を受けたという記事(Enterprise Watch)。へー,M$がねぇ・・・と感心。しかし面白いのはこの記事では触れていないOSI blogの記事の最後。大方の人が抱くであろう疑問に対して,こう解答しているのである。
[幸谷訳] もちろん,MicrosoftはOpen Sourceの世界ではおおよそ信用されておらず,この認可に関する議論の間中,ずっと疑義が呈されてきた。Open Sourceのプロジェクトを攻撃しておきながら,そのOpen Sourceの手法を要求し,かつOSIの認証トレードマークまで欲しがるなんて,どういう思考なのか? それを理解しているのは当のMicrosoftだけだ。しかし,OSIにいる我々同様,Open Sourceがソフトウェア開発には最適な方法であると思うのなら,MicrosoftがOpen Sourceを攻撃するのと同時にそれを利用しようとしている理由も分かるはずだ。つまり,彼らにとってはOpen Sourceは自らの救済策であり,かつ敵でもある,ということなのだ。
禅問答みたいだけど,「大人の思考」ってのはこういうものなんだろうな。いや,ワシはM$にもOSIの態度にも感動しているのである。両者とも,エライ。
内田樹「村上春樹にご用心」アルテスパブリッシング
[ Amazon ] ISBN 978-4-903951-00-3, ¥1600
日記にも書いたが,ワシは村上春樹とは相性が悪い。おかげでエッセイ一冊,小説一冊,読み通したことがない。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の文庫版を買って読もうとしたが,最初の段落を読んで「こりゃだめだわ」と早々に撤退してしまった。以来,どんなに売れていようと,世評が高かろうと,ワシにとって村上春樹は敬して遠ざける作家であり続けている。
だもんで,本書を買ってしまったのは,純粋に内田樹が書く村上春樹に関する文章が好きだ,という理由によるのであって,決して村上春樹に興味があったからではない。本書に納められている文章の大部分は既に内田のblogで発表されたものであるが,リライトされ,紙に印刷されたものを読むと更に面白さが増しているように思える。やっぱ,ワシは骨の髄から内田ファンになってしまったんだな,きっと。
しかし,最近,村上春樹に関して興味が湧く事件があった。かつて担当編集者だった故・安原顯が村上の直筆原稿を売り飛ばしていた,という事実が発覚したのである。それに対して村上春樹は長文のコメントを雑誌に寄稿している。本書でも内田はこの事件について一文を寄せ,村上のコメントを引用しながら鮮やかにこの事件について解説を行っている。既にblogで読んでいた記事だが,ワシはそれを本書で再読しながら,いちいちごもっともだなぁ,と理性で思いつつも,一方では,「酷薄だな」と感じたものだ。
本書でもう一カ所,内田の「酷薄さ」を感じた所を引用しよう。
しかしご存じのとおり,今や日本を代表する世界的文学者である村上春樹について,わが国の批評家のほとんど全員(およびかなりの数の作家)たちが「毛嫌い」ないし「無関心」を示している。世界的な評価とドメスティックな無関心との対比は誠に興味深い。
これを「売れているから嫉妬している」というふうに下世話に解釈することは(かりにそれがかなりの程度まで事実であったとしても)文学的には生産的ではないだろう。やはり,村上春樹を嫌う人々にはそれなりにやむにやまれぬ文学的事情というものがあるに違いないと考える方がよろしいと私は思う。(P.36)
これを読んだワシは,なんだウチダ先生,ちゃんと村上春樹が世間のジェラ心によって意図的に無視されているってことはご承知なんだ・・・と思ったものだ。しかし,それはそれとして,この文章はさっさとよりグレードの高い問題へ軽やかに移行していくのである。
こういうスマートな思考を持つ人たちをエリートと呼ぶのである。そしてこういう思考をできる人はそれほど多く存在しない。ワシも含めたある種の「しぶとい(友人命名)」バカどもは,「スマートな思考」が優れていることを重々承知しながら,自分が拘る一カ所に拘泥し,そこから足抜けできずに日々悶々としているのである。
そこを軽やかにすり抜けていく人間を見れば,そりゃ,ジェラ心を抱かない方がおかしいだろう。もちろん,ある程度年輪を重ねると,露骨に感情を出すよりは黙っていた方が得策だ,という程度の知恵は付く。しかし・・・それで治まりがつかない人間もやっぱりいる訳で,その一人が安原顯だったんだろうなぁ,とワシは思うのである。そして,ウチダも村上も,エリートの思考を持ってして,図星を付く指摘をしているのだ。
これを「酷薄」と呼ばずにおられようか。
ワシの理性は拍手を送っているのだが,感情は「冷たい・・・」と震え上がっているのである。
本書の担当編集者が,ほぼ日で本書の紹介をしている。そこでは「橋本治以来の知性」という文句を使ってウチダを礼賛している。
ワシもそれは肯定する。その知性は恐ろしく切れ味が深い,という意味でも正しい。しかし,それは小谷野敦や大塚英志にワシが感じる「自分の持つダメさへの諦観と郷愁」という奴とは真逆のベクトルを持つものである。人類全体の進歩には重要なものではあるが,人間個々人の「癒し」とは成り得ないものである。本書で批判されている蓮實重彦の「村上春樹作品は結婚詐欺である」(P.63)や松浦寿輝の「うまいのは確かだが,文学ってそういうものなのか」(P.167)という発言は,多分そのあたりのことを指摘しているのではないか,とワシには思えるのである。
ま,しかし「癒し」でない知性も重要である。その意味でも一度読んでみると,村上春樹以上に内田樹という人の考えがよくわかる本であることは間違いないのである。