8/6(月) 掛川・晴

 あじあじあじ。やっと夏らしい陽気になったが,なったらなったでやっぱり不快。早く夏が終わらないかな。
 銀行で面倒な手続きを終えてから出勤。今週9日からまる一週間,職場がロックアウトされてしまうので,雑用一切合切済ませてしまおうとあれこれ(としか書けないのが残念)。ついでに木曜日の出張も決めてしまう・・・が,あれ? ワシはひょっとして「8/9の水曜日」とか言わなかったか? うーむ,今更だが,明日もう一度電話をかけて日程を確認しようっと(^^;)。
 自宅のエアコン,全然冷えなくなってしまったので,近くのケーズデンキに電話して分解清掃をお願いする。が,案の定,混み合っているそうなので,来訪は8/16(木)午後になるとのこと。うーむ,この暑いのに丸一週間以上,暑い状況を我慢しなきゃイカンのか。しかも清掃に2万,ガス充填が必要になると更に2万,内部の配管がぶっ壊れていると更に・・・となるようなので,ひょっとしたら新規に買っちゃった方がマシかもしれん。エアコンの標準寿命は12年なんだそーで,うちのは8年目だからもうちょっと延命措置は出来そうだが,うーん・・・。UNIX Note PCよかこっちが先決かしらん?
 大体,7月から出張続きで金がないのである。8/18には東京行きでまた出費なので,来週末までワシは1万円で過ごさねばならない上にエアコン修理までやらなきゃならんとなると,全然銭がおっつきませんぜ旦那。秋の引越までワシは無事に過ごせるのであろうか?
 とりあえずはまず来週までは節制生活である。やることは山積みなので,暑い最中は市の図書館でやり過ごすしかないよなぁ。Note PC持ち込みできたっけか?
 ふーん,LAOX The Computer館が9月末に閉店かぁ。ヨドバシができてからは全く行かなくなってしまったし,それ以前から,1階のコンピュータ書売り場がなくなって以降はほとんど使わなくなっていたよーな。できた当初は随分日参して,購入する前のショールーム代わりによく使わせてもらったよなぁ。てめぇのような客が多いからこうなったんだ,と言われそうだが,ま,栄枯盛衰は仕方ない,と(誤魔化すなよ)。
 さて,今週末〆切のOY数理学会の予稿を書かなきゃなぁ。その前に,ちゃんとSciCADE07のまとめ論文を書かなきゃ。
 つーことで計算します。暑いけど。

8/4(土) 掛川・雨後曇

 台風5号の影響か,朝は土砂降り。今日はオープンキャンパスだぞ,どーなるんだ,と思っていたら,出勤時には止んでいた。その影響でちょっと湿度は高いが,太陽は出ず,過ごしやすい気温となる。
 オープンキャンパスの肝心のお仕事は全てK先生にお任せして,ワシは勝手なことをパーパー言いまくるのみ。宣伝が行き届かず,各研究室へのお客さんは少なかったようなので,明日はもうちっと口上の内容を考えなければイカン。
 終了後,ヨドバシと連絡を取り,修理に出しているLet’s Note R3の状態を聞く。どうやら保険の範囲内で修理できそうだが,しかし液晶交換って高いのねぇ。まあこれで一安心である。今度は壊さないよう,職場専用マシンとして余生を送ってもらおうっと。修理完了は8/17 or 18頃とのことである。
 つーことで,UNIX Note 購入が近づいたぞ,と。どうやら,8/18(コミケ二日目)に東京に行く用事が出来そうなので,そん時にでもヨドバシで決めてしまおう。うん。
 小生御大より,翻訳プロジェクトの今後の予定についてメール。今年中に全巻刊行予定とのこと。御大は9月以降に2巻のチェックを終わらせて,全部いっぺんに出したいとの意向である。

すべてが順調に進みますと、年内には両巻そろって年内に刊行することができる見込みです。引き続きご協力をお願いするものです。

 ・・・文面は丁寧なれど,「そろって年内に刊行でき」ないと戦犯は・・・となる訳で,現在再校中の方々には相当のプレッシャーですな。頑張って下さ~い>第2巻担当の方々 うーむ,やっぱり三島親父をシバキ倒して原稿をgetしておいて良かったぁ~。あの親父の完璧主義に付き合っていたら,今頃はワシの胃に穴があいていたに違いないのである。
 明日も頑張ります。

伊藤智義「スーパーコンピュータを20万円で創る」集英社新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-08-720395-0, \680
 伊藤智義・作,森田信吾・画「栄光なき天才たち」は,大学学部時代に愛読させて貰った漫画である。ワシが現在も持っている単行本は7巻までだが,第1巻の刊行が1987年11月25日付,第7巻は1989年11月25日付なので,ちょうど学部1年生から3年生になるまでこの漫画とつき合っていたということになる。漫画家・森田のデビュー作はこの第7巻に納められているコメディタッチのSF短編だが,このいかにもマンガ的なノリの軽さに,少し劇画調のリアルさを加えた森田の演出力が「栄光なき天才たち」を優れたエンターテインメントにさせたことは疑いない。この7巻のうち伊藤のクレジットが入っていない第5巻と第7巻も,主人公こそ学者や技術者ではなく,映画人(グリフィスとマリリン・モンロー)とアスリート(円谷幸吉とアベベ)だが,他の巻と遜色がない出来であり,面白く読んだ記憶がある。なので,失礼ながら伊藤の名前はあまり良く覚えていなかった。今回,本書の著者名に引っかかりを覚えググってからようやく「ああ,あの『栄光なき・・・』の?」と合点がいった訳である。実際,本書によれば,この作品以外で原作者としての活動は止めてしまったとのことなので,漫画界からは忘れられてしまったのも当然である。
 その伊藤が東大でGRAPEの立ち上げ時にハードウェアの開発を担っていた,ということを本書で初めて知らされて,いやぁ,何というか,世間は狭いというか,才能ある人は何でも出来ちゃうんだなぁと,改めて感心させられたのである。こういうと「努力の人」伊藤にはイヤミに聞こえるかもしれないが(その意味もあるが),少しずつでも自らを磨きながら努力を積み重ねるということは,それなりに「才能」を要するものなのであり,残念ながら誰にでも出来ることではないのだ。
 GRAPEのPCボード版は,実はワシの研究室にも一台転がしてあるのだが,正直,非才なワシには使いこなせないなぁ,とサジを投げてしまっており,殆ど活用していない。それだけ扱いづらい特殊用途のハードウェアなのだが,その特性を生かすアプリケーションがあれば,GPUベースの並列演算アクセラレータやPhysxのような物理演算ボード以上の働きをさせることができる・・・らしい。ワシはとうにアカデミックな流行を追うのを止めてしまっているので,その意味でもあまり魅力を感じないのだが,ハイパフォーマンスを求めてやまない熱心な計算機屋さん達にとっては格好の研究活用対象であるようで,本書には書いていないが,次期スパコン計画にも組み込みが検討されているようである。
 本書において伊藤はそのGRAPEの生い立ちを,プロジェクトリーダ・杉本の学問的出自まで遡り,小説仕立にして語っている。さすがジャンプ編集部のお眼鏡にかなうだけのことはあって,その筆力は読者を引き込む力を持っており,ワシが3時間ほどで本書を一気読みしたぐらいだ。その分,学問的資料としての価値は若干薄いと言わざるを得ない。どうしてもプロジェクト内部に身を置いた人物・伊藤の主観に負う記述が多くなってしまうため,客観的資料はそれほど豊富ではないのだ。計算機に縁のない読者には,何故専用ハードウェアがソフトウェアに比べて高速なのか,本書を読んでもさっぱり分からないだろう。
 しかし,だからこそ逆に,学問の先端を行くプロジェクトに身を置いたメンバーでしか知り得ない「体感」と「汗の湿り気」を存分に味あわせてくれるのだ。作者ご本人は現在千葉大の教授に就任されているので,今の時点ではとても「栄光なき」天才とは言えないが,海のものとも山のものともしれない時期の専用計算機開発時においては,伊藤が描いた過去の研究者・技術者達の焦燥と情熱が入り交じった感情を,伊藤自身も存分に味わったに違いない。

「伊藤(著者)は,漫画原作者としての評価と実収入に一旦終止符を打って,GRAPE開発に取り組んでいた。そこには,一般の学生にはない,強い自覚と自負があった。」(p.132)

 この「強い自覚と自負」の形成には,おそらく,「栄光なき天才たち」への偽りのない共感が寄与しているのだろう。
 GRAPE自体を知るには,本書の参考文献に挙げられているものを読むのがベストだろうが,研究活動の「実感」を知るには格好の一冊である。

藤原カムイ×大塚英志「アンラッキーヤングメン1・2」角川書店

1巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-04-853724-7, \1200
2巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-04-853725-4, \1200


 明治の半ばから終わりにかけて,ため息と共に詩を詠んでいた,うだつの上がらぬ男がいた。生前は小説で身を立てることも夢想していたようだが叶わず,貧窮の果てに死んだ後,彼の詩は世の大多数の「うだつの上がらぬ」男たちに支持され,今も生き続けている。国語の授業では必ず彼の詩の一つや二つは取り上げられるようになって久しいが,女性の感覚では「ダメ男の自己憐憫なんかにつき合ってられっか」と一刀両断の元にうち捨てられるのが常のようで,ついぞ好意的な感想を聞いたことがない。
 彼の,ひたすら享楽的で,家族を慈しまない生活態度は,いつの時代も「健全」とは相反するものであることは確かだ。そして,彼の詩は,そのどうしようもない彼の生活態度と,社会的に認められないという嘆きを源として沸いてきたものである以上,「健全」でない部分を持つ世の男どもの琴線に触れないはずがないのである。
 石川啄木は,つい最近も離婚した(させられた?)嘆きを女々しく愚痴る現代短歌作家によって光が当てられたが,そんなことに関係なく,人間の虚栄心と自己愛と競争心が消滅しない限り,彼の詩は人々の口の端から漏れるつぶやきとして残っていくに違いないのである。
 母親に捨てられた若い男・Nがいて,ヒロシマで放射能を母親の胎内において受けた若い女・ヨーコがいて,人生の第一歩を踏み出せず躊躇しているTがいて,Nを思慕しながらも満たされないセーラー服の女・ヨーコがいて,革命を夢想しつつ権力に凭れるSがいて・・・まあつまり,背負ってきた人生は様々なれど,「青春のモラトリアム」がもたらす焦燥感にさいなまれている若い衆が昭和40年代に生きていれば,こういう嘆息調の啄木の詩がぴったりくるということなのだろう。大塚によれば,彼らの「内面」は啄木に託されたようなもんであるから,物語はどうしたって「やるせなさ」の固まりとならざるを得ない。誰一人として,筋書きがあらかじめ決まった映画のようには行動できず,短期的な目的を持った途端に結果に裏切られるのだ。
 啄木なのである。
 彼らは別段特別な存在ではなく,ごく普通の,どこにでも存在するアンラッキーな十把一絡げのサンプルに過ぎないのである。啄木は,そんなサンプル達のつぶやきを短く的確な詩に残してのたれ死んだ,これも明治のサンプルの一人だったのである。大塚英志は,そんなサンプル達を,この時代に発生した事件・事象をうまく絡めて物語を紡いだのである。
 藤原カムイはデビュー以来培ってきた表現力を,我々が持っている「青春のモラトリアム」という共同幻想の構築に注いだ。昭和40年代の人物や背景を,軽みを帯びた陰鬱さのスモッグの中に配置できたのは,大塚の原作と注文(ATGの映画のように,とか,永島慎二や宮谷一彦のように,等)に因るところが大きいのだろうが,画力がなければ間違いなく失敗していたに違いない。
 初期のSF短編とは別の,雰囲気を醸し出せる的確な表現力は,谷口ジローと双璧をなすところまで行き着いた。しかも,全編に渡って手を入れ直したというだけのことはあって,あまり画面にむらがなく,至極安定している。静謐な雰囲気を壊さない微妙なタッチを,700ページを超える長編で維持できた藤原の力量があってこそ,この作品は傑作たり得ているのだ。
 分厚さを感じさせない大作である。啄木を堪能しつつ,読むべし。

8/1(水) 旭川・曇時々晴

 朝晩はちょっと涼しい・・・じゃないな,寒いぐらい。今日は日中も曇っていて,それほど気温は上がらなかったようだ。うーむ,ラーメン日和。とゆーことで食ってきました,旭川ラーメン。
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 昨日は梅光軒,今日はよし乃でござんす。写真は後者の奴だが,もやし+タマネギ+挽肉炒めがてんこ盛りであるところは前者も共通である。久々に食ってみたが,やっぱりうまかった・・・が,完全にカロリーオーバー。掛川に戻ったら粗食しよーっと。
 本日はSWoPP。なんて気合いの入った看板なんだか。日本OY数理学会年会の奴より立派である。そーいや,参加者は両者に多様なモンだったな。資本力の違いか。
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 講演は・・・いやー久々にご質問があれこれあって嬉しいやら困るやら。しかし見知った人ばっかりだったモンなぁ。Halley法を使ってみたらとか,DE公式にも適用できたらとか,今後の課題が一杯出来て良かったっす。しかし勉強しなきゃ移管ことはいっぱいあるモンですなぁ。やでうでしや。ともかく,ワシの仕事はこれでオシマイ。
 ではIP Reachableな環境とはしばしお別れ。後は帰宅後に。つーてもOpen Campusやら高校訪問やらで,blog更新は微妙なところ。
 さて,こっちで読めた漫画のぷちめれをupしたらちょっと仕事して寝ます。