高室弓生「ニタイとキナナ」青林工藝舎

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-88379-230-7, \1600

ニタイとキナナ
ニタイとキナナ

posted with 簡単リンクくん at 2006.12.27
高室 弓生著
青林工芸舎 (2006.11)
通常24時間以内に発送します。

 かつて「トムプラス」という雑誌があった。・・・という話は今更なので止めおくが,まあとにかく,やる気のない諦めきった漫画雑誌というものがあれほどみっともない代物に落ちぶれ果てるのか,と思い知らせてくれた反面教師であった。しかし,それでもきちんと廃刊(休刊とは言っていたけれど・・・ね)まで読者として付き合ったのは,あまりメジャーではないが,優れた漫画家に自分の個性を存分に生かした作品を執筆させていたからである。ここでいう「優れた漫画家」とは,作家性の強い・・・いや,もとい,あくの強い,一目見て「これは××が描いた作品だ」と分かる作品しか描かない漫画家のことを指す。横山光輝しかり,手塚治虫しかり,樹並ちひろしかり,夢路行しかり,竜巻竜次しかり,みなもと太郎しかり・・・キリがないのでこの辺で止めておくが,つまりは尾羽打ち枯らしたとはいえ,トムプラスでしか読めない作家の作品が多かったのである。その中にひと際個性的な漫画家がいて,それがつまり高室弓生なのである。
 という話は実は本書の解説にみなもと太郎大先生が書いておられたりする。ただ,ワシ自身はみなもと先生の漫画は好きだが,文章はイマイチピリッとしないのであまり好みではない。みなもと先生は大変苦労人であるので,大変周囲に気を使われる方であり,他人の攻撃や揚げ足取りというものとは全く縁がない。それは大変にオトナの態度であるのだが,こと批評となれば,そればっかりでは読む側としては退屈である。時に辛辣であっても,自分が感じたことはストレートに文章化して欲しいと思ってしまう。本書の解説も,文字数制限のせいかもしれないが,見方が大局的過ぎて,高室の魅力を語るには迫力不足といわざるを得ないのである。そこでワシが非力をわきまえず,高室作品の持つ素晴らしさを,時にはきつい言葉も交えつつ,解説してみたいと思う。
 高室は「縄文漫画家」と呼ばれているらしい。本作品以前にも「縄文物語」という絶版になった作品が存在しており,本書の舞台もそこと同じ場所,但し時代が異なる,という設定だそうな。
 では,高室は縄文世界を描くだけの専業作家なのか,というとちょっと違うような気がするのだ。
 もちろん,本書の主人公は,縄文時代のデランヌ村(現在の岩手県の山中)に住む,ふつーの若夫婦であり,一言で言えば,本書の帯にある通り「縄文ホームコメディ」なのであるけれど,「縄文」が付加されていなければ成立しないような,特殊な環境の特殊な夫婦の愛情を描いたものではないのだ。もし本作品に近い漫画を一つ選べといわれたら,ワシは迷わず池田さとみの「適齢期の歩き方」を指名する。舞台こそ現代の夫婦ものであるけれど,
 ・激しい恋愛のもつれの末ではなく,普通にお付き合いして普通に結婚して普通の夫婦生活を送っている
 ・旦那は組織に属して働いており,左翼に言わせれば「従順な政府の奴隷」であるけれど,普通に働くのがが一番という価値観を持っている
という,これだけ書くと「そんな普通人の生活のどこが面白い」と言われそうであるが,ワシみたいなフツーの常識人(笑うなよ)にとっては,他人様の生活を覗いている感じがして,とても楽しく読めるのである。
 確かに高室は縄文の生活をかなり学術的にも正確に描くし,それが好きでやっているのだろうが,それはあくまで漫画世界の環境の話であって,ドラマそのものは普遍的な,つまりは現代の我々の常識に照らして,なんら不思議のないものに仕上がっているのである。従って,縄文世界に全くなじみのなかったワシでも,連載中からすんなり入り込めたし,今回久々に単行本にまとまったものを再読してみても,全く違和感を覚えなかった。いやむしろ,寂しい中年独身男にとっては,普段意識していない寂寥感をいやと言うほど味あわされて,一人布団で歯噛みしていたぐらいである(大げさな)。
 高室の絵は,汗と油で湿った人間の肉のヒダをやわらかく描くという,一昔前の男性エロ漫画の画風でありながら,画面構成は少女マンガの手法が目立つという,かなり特異なものである。真正面アップの多用や,コマぶち抜きで全身を描く手法はまさしく少女マンガベースのものであるのに,線のタッチは1970年代の劇画調というのは,読者を限定しかねない面もあるのだが,逆に言えば,そのような画風だからこそ,縄文世界,ことに三内丸山遺跡に代表される,稲作が普遍化する以前の古代東北地方の芳醇さを楽しげに教えてくれるのである。みなもと先生が「あなたしか描けない世界」というのはまさにこのことであって,商業的にはとっつきは悪いかもしれないが,描き続ければ一定数の読者を掴んで離さない力量は間違いなくある。幸いにして,今でも漫画家業は続けておられるようで一安心であるが,あまり熱心に高室を追いかけていない怠惰なワシとしては,はやくもっと日のあたる場所に出てきてくれないかなぁ,と本書を抱えてぼんやり念願しているのだ。

吉村昭「死顔」新潮社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-324231-0, \1300

死顔
死顔

posted with 簡単リンクくん at 2006.12.16
吉村 昭著
新潮社 (2006.11)
通常24時間以内に発送します。

 滋味,という言葉がある。最近の文学界の動向は全く不案内であるが,奇を衒わず,それでいて「説明」ではなく「描写」を深めることによって滋味を引き出しつつ,小説という形態でしか表現できないものを著す,という吉村の執筆態度は,今も昔も,そして未来に渡っても営々として引き継がれて行くに違いないと確信しているのである。このようなオーソドックスな技法は,才能ある書き手が散々試行錯誤した結果にたどり着いたり,最初から不器用を自覚した書き手によって追求されたりするものであるけれど,それ故に,廃れることはないものなのである。吉村は多分,後者の方だろう。不器用を自覚しているからこそ,取材を重ねて史実を重んじる態度を崩さず,かといって司馬遼太郎のように思想の大風呂敷を広げることもしなかったのだ。
 その吉村の遺作小説を集めたのが本書である。もちろん,香典代わりに購入したのであるが,その死に際しての行動が「尊厳死」論争を引き起こしたこともあり,いったいどういう死に様だったのか知りたい,というスケベ根性も手伝っていたことは否定しない。本書の最後には妻である津村節子の「遺作についてー後書きに代えて」も収録されており,ワシのスケベ根性はこれを読むことで収まったのであった。しかし,本書はそのスケベ根性を叩き潰す以上の効果を,ワシの荒んだ精神に与えたのである。
 吉村の短編小説を読むのはこれが最初ではない。完全なフィクションも,伝聞に基づく元ネタが存在するものもあるのだろうが,初めて読んだ短編集には,地味だが,それなりに年齢を重ねた人間には思い当たる,「あれ?」と感じる行動を的確に描写する凄みが漂っていたのである。
 本書に収められている現代が舞台の短編「ひとすじの煙」「二人」「山茶花」「死顔」は,それ以上の凄みを感じた。ショッキングな事件が起こる作品も,淡々と常識的な出来事が連なるだけの作品もあるのだが,どれもこれも読了後には「うーん・・・」と眉間にしわ寄せて考え込まされてしまったのである。これを面白いと感じるか,地味でつまらないと感じるかは,多分人生経験の差によると思われる。芥川賞を貰い損ねたのは多分この地味さによるのだろうが,一定数以上の読者を得て世の尊敬を集めていたことと思うと,今更どーでもいいことではある。無理して派手を装って執筆させられることの多そうな現代の作家にとっては,吉村の存在は救いになっていたのではないだろうか。
 本書で唯一,未発表の歴史短編「クレイスロック号遭難」は,吉村の史実に対する真摯な態度が感じされる,吉村らしい作品である。このような歴史作品を多数執筆していながら,日本社会や歴史に関する思想を語らなかったのは,無論,歴史に対する思想がないわけではなく,下から事実を積み上げること,その営みこそが自らの思想を語ることに繋がっていたと考えるべきであろう。この路線を引き継ぐ地味な作家が,これからも大器晩成的に支持されていくことを願って止まない。
 ご冥福をお祈り致します。

12/26(火) 掛川・雨

 台風並みに発達した低気圧が太平洋沿いを進んでいるようで,生ぬるい風と土砂降りが続く。明日は東京行きなのだが,新幹線の運行に支障が出るかしらん?
 仕事納めだが,午前中会議,午後卒論チェック。卒論進まず,正月に勝負を賭けることになりそうな感じ。頑張りましょう>卒研生の皆様
 帰宅途中に地元の温泉に寄って骨休めをし,スーパーでカレーの材料とルーを買って帰宅,夕食に久々の自家製カレーを作って食う。うまかったので,お代わりしたら腹一杯になり,うつらうつら状態で仕事にならず。何とかでかい次数の計算を流すことはできたが,細かい作業はとても出来そうにない。続きは明後日以降となりそうだ。何とか論文にまとめたいんだけどなぁ。無理かなぁ。
 眠いので寝ます。

西村しのぶ「西村しのぶの神戸・元町”下山手ドレス”」角川書店, 「下山手ドレス(別室)」祥伝社

「西村しのぶの神戸・元町”下山手ドレス”」角川書店 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-853145-X, \820
「下山手ドレス(別室)」,祥伝社 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-396-76386-7, \781

西村しのぶの神戸・元町「下山手ドレス」
西村 しのぶ著
角川書店 (2001.2)
この本は現在お取り扱いできません。
下山手ドレス〈別室〉
西村 しのぶ
祥伝社 (2006.7)
通常24時間以内に発送します。

 「神戸在住」という漫画があった(現在は連載終了)。漫画自体はワシの好みのテイストで,購読雑誌を買うたびに欠かさず読んでいたが,それとは別なワシの感性が「神戸のおしゃれなイメージにうまく乗りやがって」と臍を噛んでいたことは正直に告白しなければならない。
 そうなのだ。ワシはコジャレた場所や人間に対しては本能的に敵対意識を持ってしまう,「ウザい奴」なのである。原宿や渋谷を仕方なく通り過ぎるときには,マシンガンをガンガン撃ちまくってイケてそうな若者がバタバタと死んでいく様を脳内で思い描くことにしていたぐらいである。これは恐らく,バブル絶頂期に大学生活を送りながらもそこに乗れず,家賃月額一万二千円(大家さんがさらに千円引いてくれていた)の風呂なし洗濯機・トイレ共同のボロアパートで寂しく過ごしていた頃のルサンチマンの後遺症であろう。ワシが小谷野敦を愛読するのは多分,彼がブ・・・いや,この辺で止めておくことにしよう。
 ともかく,ワシがファッションとか流行とか(どっちも同じ意味なんだがな)に疎いことは今もそうで,それ故に,趣味の漫画でもあまりオシャレなものはワシの視野に入らずに来たのである。
 ただ,何事にも例外もあって,エッセイ漫画は別である。フィクションとは逆に,自分とは全然異なる価値観を持っている作品の方が,いろいろと発見があって面白く読めるのである。もちろん,ワシが共感する思想を持つ作品もいいのであるが,そればっかりでは脳細胞が安心しきってしまい,飽きてしまうのだ。むしろ「テメェ,人生そんなことでいいのか?いいんだな,なるほど,そういう考え方もあるのか」と,反感→肯定(洗脳?)という過程を経る作品の方が,中年を迎えて死に絶えつつある脳細胞のシナプス活性化のためには好ましいのである。
 しかしそれにも限度というモノがあって,この西村しのぶの超コジャレた煩悩全開のエッセイ漫画に対しては反感を持つ隙などみじんもないのだ。「ああ,世の中にはこういう人生の過ごし方があるのだな」と感心させられるばかりである。そしてワシの頭には,若い頃には少しはオシャレを気取った方が良いかも,という後悔の念すら湧いてくるのである。
 煩悩全開のエッセイ漫画といえば,一条ゆかりを置いて他にはない。うまいモノを食いたい,いい男と付き合いたい,リゾートでくつろぎたい・・・ということを言いまくり描きまくって,「一条ゆかりなら当然だよね」と世間を平伏できるパワーはさすがというしかない。しかしそのエネルギーは,幼き頃の貧乏暮らしの苦労が根底にあって湧き上がってくるものであり,それを知る多くの読者は,どんなに一条ゆかりが女王様のように振る舞おうとも,「苦労人なら当然だよね」と納得してしまうのだ。大体,彼女の場合は,「煩悩パワーが次の仕事に繋がる」と公言している通り,仕事のサイクルの中に組み込まれた行動だから,遊んでいない一条ゆかりは多分,仕事もできない筈なのである。
 西村しのぶには,そのような苦労人の香りが一切しない。その時点で既にワシは敵対意識を持ってしまう筈なのだが,このエッセイはあまりに自然体で,「はあ,スキーですか」「ピンクハウス・・・ね」「カナダでリゾート・・・へぇ」「ボディバッグっつーはやりモノがあったのか」「バリで石けん作らんでも・・・」と,これまたジェラる隙がないのである。タイトルカットは毎回ゴージャスでトレンディー(死語?)な女性が描かれるが,ワシにはまぶしすぎて生きている人間に思えない。
 多分,普通に流行に敏感で,無理のない生活を送っている社会人の女性にとっては,かなり自然な行動・意見を述べているのではないか。短い(1 or 2ページ程度)ページ数ながら,テンションが高いことでワシみたいなウザい男でも面白く読まされる作品に仕上がっているが,そんな生活を送っている普通の女性(20代後半~30代)ならもっと共感して楽しめるんだろうなーと思えるのである。
 2006年に出た「下山手ドレス(別室)」は1998年から2006年にかけてのエッセイをまとめたものであるが,「本家」は2001年に出版されており,これはなんと1988年から1998年まで,コツコツと10年以上に渡って連載されてきたモノをまとめた,激動の「失われた10年」を物語る世相史に仕上がっている。この2冊を合わせると,著者がデビューして間もない20代前半(多分)から,30代(後半?)までの生活を語っていることになるわけで,その間,バブル崩壊ありーの,オウム事件ありーの,阪神・淡路大震災ありーの・・・と,ワシのようなおっさんは思い出に浸ってしまうという特典が得られたりする。
 そんだけ息の長い作品であるから,当然,著者自身も「キャピキャピのギャル(死語だらけ)」から,結婚して主婦となり,メガネをかけながら痛む腰を気にする「オバサン」に変化している。今のところはまだ「妙齢」という訳のワカラン単語で誤魔化しが効く年ではあるけれど,「下山手ドレス」はまだこの先も当分続きそうであるから,きっと更年期障害が気になる年まで,西村は開けっぴろげに自分の煩悩を語ってくれるに違いないのである。共に老いていくパートナーに欠けるワシとしては,価値観の全く異なる異性がどのようにオバサン化していくのか,大変下品な興味を持ちつつ末永くお付き合いしていきたいと思っているのだ。

12/25(月) 掛川・?

 そーいや昨日はクリスマスイブ,今日はクリスマスだったのだな。毎年恒例のWinbiffのPostmanさん変化で気が付いた。
merry_xmas_winbiff2006.png
 本日が本年最後の講義日で,ゼミの最終日でもある。卒論にダメ出しをしながらゼミにお付き合いし,その後は忘年会へなだれ込む。チェーンの居酒屋が会場だったが,新人店員が多かったせいか,やたらに待たされたな。
 ま,無事終了して何よりである。
 今日はこれにて。明日は仕事納めだが,卒論のダメ出しも,保険の変更の手続きもあったりする。結構ドタバタになりそうな予感。浜松まで買い出しに行きたいのだが,そんな暇があるのかどうか。
 奥村先生のblogで,我が掛川市のシステムについての講評がなされていた。何でわざわざド田舎のシステムを見学に来たのかワカランのだが,まあかなり疑問を持たれたようである。WebもIE専用に作ってあったりして,批判されるのは無理ないのだが,掛川程度の職員数と財政規模で,小うるさいIT専門家の批評に耐えられるシステムを構築できるのかどうか疑問である。もちろん,予算の範囲内で,セキュリティもアクセシビリティも万全のものを作るべきであるというのは正論なのだが,それだけのものを作る技術レベルを持った企業を選択するとなると,簡単な仕事ではない。外部から批判するのはたやすいが,どのようにすれば建設的なITシステムの監査が可能になるのかを提言できる人間は非常に少ない。
 寝ます。