夢路行「ねこあきない 1巻」秋田書店

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-253-10537-8, \590

ねこあきない 1
夢路 行著
秋田書店 (2006.1)
通常24時間以内に発送します。

 昨年に引き続き,今年も最後は夢路行の,それも採録ではない最新刊で締めくくることが出来,ワシは大変うれしい。
 居職である漫画家,特に女性漫画家は必ず仕事場,もしくは自宅にペットを飼っているという。ことに猫が多いようでだ。で,そーゆー境遇だと,つい猫をわが子のように愛しんでしまうらしい。故に,親バカ化した漫画家は,エッセイのネタに「わが子」を描いてしまいたくなるようで,その結果,女性漫画には「親バカ漫画」なる分野が確固として存在するようになったのである。そーいやコミケにも「ペット」というジャンルが出来て久しいよな。
 親バカ漫画の内容は大概似たり寄ったりであるが,数が多いと傑作も出るもので,古くは大島弓子のサバや,大雪師走のハムスターのように名作を生んでしまったりする。夢路にとっての猫は不可欠の友,というよりは,適度に付き合っている知り合いという感じであるから,擬人化するまでに感情移入されたサバにはなり得ず,故に,本書はハムスター観察日記猫バージョン,という淡々とした日常エッセイになっている。ま,夢路らしくていいやね。暫くは連載が続くようであるから,是非とも傑作にのし上がって行ってほしいものである。
 大晦日までみのもんたとお付き合いしたくない向きには,除夜の鐘を遠くに聞きつつ,まったりと本書を読むのがよろしかろう。
 あ,一度はカバーを取るのをお忘れなく,ね。

12/31(土) 掛川・晴時々曇

 天候悪化と伝えらえられていたのが,ちょっとマシになったようである。雲が空の50%程度を覆っているが,水分が振り出す気配は今のところない。
 昨日このblogを書き付けてからメールチェックしたら,論文不採択のお知らせあり。新規性が薄いのでレターとして再投稿せよ,というエディタの判断が付記されていた。まー,昔のようにけんもほろろという査読結果はなくなったが,通らなけりゃ意味がない。えらそーに学者論などぶった報いであろうか。
 共著だし,通りそうな見通しはあるわけなので,2月上旬には再投稿する予定。このほかにもう一本,アイディアは良いけど誤差解析がなおざり,という理由でrejectされた論文がたな晒しになっている。これも来年早々には何とかせにゃ。
 今年の誓いは「質より量」であったが,これは9講演したことでまあなんとか達成できた。来年は講演数を少し減らして5講演程度とし,少しは査読論文を書くことにしたい。ということで誓いとしては

質も量も!

としておこう・・・どっちも達成できなくて玉砕したりして。しかし,年も年だし,この辺りで気合を入れて「中身」の充実を図っていかないと,定年まで楽しく研究生活を送ることができなくなってしまう。自己満足だけならどーとでもできるが,それじゃぁねぇ,publishしてこその学者でしょうが。
 よーし,頑張るぞ~。
 今年は初めて筑前煮に挑んだが見事に失敗。煮物は濃い目の味付けにしないとダメなんだなぁ・・・糖尿患者のオカズみたいになってしまった。そば汁兼雑煮汁は無事成功。これは薄味でいいしな。
 もうちっと日本人のふるさと「煮物」に精進しないといかんな。来年は
煮物も!

頑張ろう。うん。
今年は色々とお世話になりました。
来年もよろしくお願い致します。

 ぼちぼち仕事してから風呂入って,ほぼ日の除夜の鐘を聞きながら寝ます。

吾妻ひでお「アズマニア1~3」ハヤカワコミック文庫

アズマニア1 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-15-030543-9, \600
アズマニア2 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-15-030550-1, \600
アズマニア3 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-15-030558-7, \600

 本書は本年(2005年)初頭に失踪日記でブレイクした吾妻ひでおの漫画短編集であるが,今年の新刊ではなく,初版は1996年3月,5月,7月となっている。しかし,ワシが購入した第2版は3冊とも2005年5月31日に刷られたものである。つまり,失踪日記が予想外にブレイクしたため,それを当て込んだ早川書房が慌てて10年ぶりに再販したと思われる。事情はともかく,吾妻ひでおが元気だった頃の傑作集が日の目を見るのは嬉しいものだ。
 とり・みきによる漫画家へのインタビュー集「マンガ家のひみつ」(徳間書店)が刊行されたのは1997年である。収録されているのは,ゆうきまさみ,しりあがり寿,永野のりこ,青木光恵,唐沢なをき,吉田戦車,江口寿史,永井豪といった面子で,これらは全て雑誌に連載された記事のインタビューが元になっている。データを重んじるとりの著作らしく,インタビューの最後には1997年当時の単行本リストが漏れなく付記されている,よく出来た本である。もっとも懲りすぎたためか,インタビューから2年も経って刊行されており,故に,インタビュー自体は全て1995年に収録されたものとなっている。
 このインタビューの最後を飾っているのが,とりがマイフェイバリット漫画家と呼ぶ吾妻ひでおである。これだけは連載されたものではなく,この単行本のために語り下ろされたもので,もちろんこれも1995年9月のもの。失踪日記の巻末対談で最初に言及されているのがこのインタビューである。
 今,この「マンガ家のひみつ」を読み直して気がついたのは,吾妻の失踪が1985年から始まっていたんだな,ということである。いくつか小さな失踪があった末に,1989年の失踪(「夜を歩く」編)と1992年の失踪(「街を歩く」編)に至ったようだ。このインタビューではとりが「あえて訊く決意をして」(P.272)臨んだだけあって,失踪日記のダイジェスト編になっている。だから,今年になって失踪日記が出版され,それを読んだワシは,少なくとも失踪部分についてはさして驚かなかった。予習していたからね(藁)。アル中病棟編はさすがにびっくらこいたけどさ。
 さて,アズマニアである。ここに収録されている中短編のうち,失踪後に執筆されたものは一つしかない。1994年にコミックトム(休刊中)に掲載された「幻影学園」(3巻)である。実はこの時,ワシは地の果て能登半島の奥地で掲載雑誌を講読していたのである。で・・・軽い違和感を覚えたのを記憶している。今これを読んでみても同じ印象で,1980年代に入ってからの,絵からつやと色気が匂い立つようになった作品と比べると,明らかにキャラクターから精気が消えうせている。一生懸命スラップスティックをやろうとしているのは分かるのだが,かえってそれが痛々しい。雑誌で読んだ時にはその理由が分からなかったが,今になると良く分かる。これはちょうど失踪から戻り,アル中になるまでの時期に執筆されたものだからである。思えば,この時期の,ギャグへの執着がアルコールへ走らせたのではないか・・・。
 してみれば,本作品集は残酷である。吾妻ひでおが自覚的にマイナー志向となり,不条理日記をモノにしてからエロスを満載する作品を描き,失踪後の低テンション作品までの全てがここに収録されているのである。よって,アル中に至る前年の1996年に刊行された,解説も何もない粗末な編集の本書は一種のタイムカプセルとなっている。それが今年,失踪日記のブレイクによって発掘されることになったのである。10年ぶりに再び日の目を見たこの作品集は,失踪日記で初めて吾妻ひでおに触れた読者にとっては,失踪に至る吾妻の苦闘とアル中直前の虚脱を学習できるよい参考書でもある。
 心して読みたまえ>新規吾妻ファン

12/30(金) 掛川・晴

 昨日に引き続き快晴だが,午後からは雲が出るらしい。昨日の水炊きの残り汁で雑炊を作ってかきこみ,今年最後の燃えるごみを出し,半年分の漫画雑誌を紐でくくり,残りの洗濯と布団干しを同時にこなす。一息ついてこれを書いているという次第。
 後は仕事部屋の片付けと全体の掃除機がけ,余裕があれば拭き掃除もしたいが体力が残っているかな?
 韓国のES細胞研究(Yahoo! Japan News),完全な捏造らしいという。今年はどの分野からも論文・業績の偽造・虚偽報告のニュースが満遍なく聞こえてくる。実際,研究に主軸を置いている大学・研究所における業績評価のプレッシャーはかなり強いらしいと聞くから,誘惑に抗し切れないヤワな神経の持ち主は耐え切れずに罪を犯してしまうのであろう。
 このような風潮に対して批判的な向きも多いが,概して学者さんからの批判には首をかしげるものが少なくない。その大部分が,「昔は良かった,昔に帰れ」的なもので,ようは論文の本数や被引用数による締め付けを緩くしろ,というようなものであるが,それはどーかなぁと首を傾げてしまう。分野によって論文の本数には雲泥の差があるのは確かだから,その辺りは勘案されてしかるべきだが,十数年に渡って査読論文ゼロとか,研究発表も数年に一度とか,Fermatの定理の証明並みの大プロジェクト準備のためとか,健康上の理由とかでもない限り,明らかなサボりと見られても仕方のない状況にある輩を見逃すようなことになってはマズいだろう。また,高評価の論文を5年に一本書く学者と,低評価だが1年に一本論文を書く学者とは,学者としての評価は前者の方が高いであろうが,組織内における出世においては後者が早いということがあっても,それは不合理なことではない。
 結局,質と量を乗じた「面積」による評価でしか,今のところ多数が納得する結論は得られないということである。これにもし合理的な教育に対する評価が加われば,「体積」評価ということも可能であろう。しかし,そのような評価によって,結果平等というものが得られるかどうかということについては,かなり怪しいといわざるを得ない。むしろ相当な格差が付くであろう。しかしながら,それをもってして「質や量」の評価を下げろ,と主張するのはどう見ても合理的とは思えない。
 中島らもはワシも好きな作家だが,そのエッセイの中で「人生の晩年に老人ホームで人気者になる」という「幸せ」を提示していた。そう,人間としては合理的な業績評価とは別の物差しがあって,そーゆー幸せを求めることによって豊かな人生を送ることができるのである。
 だが,専門家として,教育者として,組織内労働者としての学者という職を選択した以上,人間的な「幸せ」追求だけに偏ってしまっては,不適格の烙印を押されても仕方あるまい。そーゆー幸せは「保険」なのであって,学者としての時間ではなく,余暇に家族や友人と育むものであって,勤務時間中に掛け金を支払うものではない。
 業績を偽造しちゃう方々ってのは,学者としての本来業務を軽視し,単なる書類上の項目を増やすことによって,豊かな老後を得るための資金稼ぎに執念を燃やしすぎたんじゃないのか,という気がする。それは人間としての幸せ追求の一種であろうが,明らかに学者としては失格である。
 大体,学者なんてのは西部邁が言うように,村はずれの丘の上に一人住む変人なんだから,人間らしい豊かな老後なんて望む方がおかしい。そんなに人生楽しく送りたいんだったらさ,辞めなさいよ学者なんて,と言っておく。大体,そんな変人生活でも送りたいという馬鹿は引きもきらないんだからさ,アンタの代わりはいくらでもいるのである。
 ぜえはぁ・・・掃除終了。拭き掃除は著しく汚いところだけをゾリゾリそぎ落とすように拭いて終了。いやぁ,床に這いつくばって濡れ雑巾を前後左右に擦る運動というものは本当に疲れる。昔の日本家屋は部屋から廊下から全てこのような重労働によって維持されていたのだなぁ。昔の女中さんは偉かった。してみれば,西洋のメイドさんなどというのは殆どが立ち仕事で済むのであるから,楽なものである。
 ああそうか,ワシがメイド喫茶に並ぶ野郎どもに寒気がするのは,日本の女中さんがないがしろにされていることへの,深層心理における憤りであったのか。それに加えて,重労働に黙って耐えていた女中さんに対する敬意の念が欠けていることに対する,愛国心の表われであったのだ。
 ということで女中さん喫茶を希望(違)。

坂田明「ミジンコ 静かなる宇宙」テレコムスタッフ

[ Amazon ] \3990(税込)

 新聞サイトのベタ記事にこのDVDが紹介されていたので,速攻買い。価格は映画のDVDに比べるとちょっと高く感じるが,そんなに数が出るとも思えないので,妥当なところであろう。
 Jazzサックス奏者・坂田明のミジンコ好きはタモリの宣伝も手伝って,かなり有名である。しかしどの程度の趣味なのか,ということについて詳しく知る人はそれほどいなかったのではないか。当然ワシもその一人で,せいぜい金魚と隣り合わせの水槽にミジンコを飼っているだけなのだろうと思っていた。
 しかしそれは完全な誤りであった。坂田明はミジンコ学者なのである。自宅の一室に研究室並みのVTR付き顕微鏡を据え,微に入り細に入り,水滴に閉じ込められた一匹のミジンコを観察しつくすのである。坂田は水産学部を出ており,機器の扱いにある程度通じているとはいえ,ここまでミジンコに入れ込むとは尋常ではない。これは学者の仕事である。
 このDVDは,坂田による学術的なミジンコの解説が主軸となっているが,時間的にはミジンコの物言わぬ映像が多いように思える。これがNHKのドキュメントであれば,3DCGでわかりやすい図解をするところを,全てミジンコの顕微鏡映像を淡々と流すだけである。静かなアルトサックスが奏でる音楽と合わせると環境映像のようであるが,むしろ「分かりやすい解説」,いや,「分からせてやる的な解説」に慣れすぎている我々は,このような本物の映像のみが語り得る情報を,自分の頭をフル回転させて想像し,受け取るべきなのではないか。
 例えば,ミジンコには殻があり,二枚貝のような形状をしている,ということを説明するには,3DCGを作り,それをグルグル回転させればよい。それに対し,この坂田のDVDでは,殻の裂け目からチラチラ動く足が良く見えるよう,縦になったミジンコの顕微鏡映像しか見せてくれない。しかし,我々はそこで想像するべきなのである。いや,かつては想像していたのだ。教師は自分勝手に自分の価値観を押し付けるだけの教育をしていた時代,TVでも字幕スーパーが要所要所に現れたりしなかった時代には,学生は一定の「努力」の末に学問を修め,視聴者は自らの「想像力」の働きによって番組の流すメッセージを受け取ることができたのである。
 このDVDを面白がれるかどうかは,自然科学に対する興味の有無のみならず,昨今では薄れてしまった真の映像が発する情報を想像力を持って理解することができるかどうか,そこにかかっている。それができなければ,単なる透明な生物と坂田の奏でるミジンコ音楽によって構成された環境映像にしかなり得ない。心して視聴して頂きたい。