晴れてたような気もするが,2つの会議の合間にVine 3.1でサーバのセッティングを行っていたので,忘れてしまった。
あーめんどくさ。久々のセッティングなので,すっかり忘れてやんの。apt-getコマンドは便利だが,それに頼れないPHPだのJakarta-TomcatだのJDKだのとあれこれ突っ込んだのである。一通り動くところまで漕ぎ着けたので,一安心である。後はiptablesでガッチガチに防御してセッティングである。postfixの設定は結局後回し。やっぱりSMTP-AUTHを使いたいので,再来週にテストを重ねてから使ってみることにしたい。でもやっぱ,sendmailに比べると楽だわ。
さて,明日も早いので,さっさと寝ます。もう少しで休暇だ休暇だ。
西島大介「世界の終わりの魔法使い」河出書房新社
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-309-72846-4, \1200
サラブレッド,という言い方があるそうだ。何のことかというと,いわゆるエリート純血主義のことである。出身地,出身校,両親・親類等が優れている人物のうち,特に才能に秀でている者を引き立ててエリートとして育てあげる,というシステムをそう呼ぶのだそうである。取り立てて才能もなく,出身大学も並以下,人並みはずれて努力家というわけでもないワシは,最初そのシステムを聞いてムカついたものである。大体,サラブレッドだらけの世の中って面白くなさそうである。ワシみたいな馬鹿もいた方が,何かと賑やかで,トラブルは多いけど,それ故に思わぬ見返りもありそうじゃないか。
しかし,サラブレッド・システムでなければ生まれ得ない人物,というのも確かにおり,馬鹿を生かすなら,飛び切りのエリートもいないと釣り合いが取れない,とも言える。まあ,最終的にはバランスの問題になるのだけれど,とびっきりのエリートってのは,やっぱり必要だな,と,同世代のそーゆー人物と言葉を交わす機会が多くなってくると,そう思うのである。
サラブレッドなら,自力で這い上がってくるんじゃないかって? いや,それじゃまずいのである。千尋の谷から這い上がって来た時点で,サラブレッドは獅子になっているのである。馬はやっぱり平和な牧場で,飼い葉に困ることなく,それでいて「走る」ための鍛錬だけは怠らずに続ける,そうやって育てなくてはならない。余計な岩登りなんぞさせてはいけない。ま,ワシみたいな馬鹿は,「馬鹿力」がないと世の中渡っていけないので,大いにロッククライミングに励む必要があるのだが,ね。
で,西島大介である。後見人は・・・いっぱいいそうだけど,やっぱり大塚英志の力が大きいのかな。独り立ちして書いた作品は既に2作。「凹村戦争」と,この作品である。「へえー,新人でもう書き下ろし2作目?早川と河出から,ねぇ」などと嫌味を言ってはいけない。彼はエリートなのである。サラブレッドなのである。その資格を十分備えた作家(漫画家,と言われた方が嬉しいのかな?)なのである。大事に育てようではないか。冗談抜きで,ワシは宮崎駿亡き後は西島大介が日本のカルチャーを引っ張っていくのではないかと,期待しているのである。
とにかくセンスがいいのだ。一見かわいい3頭身のキャラクター達が,鮮血を噴出しながらバラバラになったり,SEXしたり(本作ではベロチュー止まりだが),泣いたり笑ったり絶望したりと,白い画面を有効に使って柔軟に動き回り,ストーリーを作っていく。読み終わってみると,実は二作とも馬鹿マンガ(by BSマンガ夜話)だと結論付けられるのだが,それ故に読了後の爽快感はなかなか心地よい。久々にヤラれたという気分を味わって,ワシは大変に嬉しいのである。
現在連載中の「ディエンビエンフー」はタイトルから分かる通りベトナム戦争が舞台の作品だが,これも含めて3作全て,舞台が破壊されつくした,あるいは破壊されつつある世界である。まあ小難しい評論だと色々理屈がつくのだろうけど,単なる中年の一おっさんとしては,バブル後の失われた十年世代の感覚なのかな,という気はする。そして,絶望の底にいる以上は這い上がるしかない,というストーリーも,そこに由来するのだろう。
何だこいつ,デザインセンスはあるし,動きはうまいし,デビュー後の活躍の舞台もちょっとマイナーだが注目されやすい所だし,すくすくとエリート街道まっしぐらの癖に,みょーにワシら馬鹿の琴線に触れる作品を描くじゃねーか。あっ,そこが「才能」なのかっ! こいつぁ,やっぱりサラブレッドなんだなぁ。
とゆー訳で,しばらくは西島大介の走りっぷりに注目,なのである。
3/14(月) 掛川・晴
寒いぞ。一時的に寒気が戻ってきたらしい。灯油の備蓄がなくなるのが早いか,それとも本格的な春が来るのが早いか。あと三日が勝負である。
某シンポジウムの登録受け付けCGIを設置した職場の外部Webサーバが,停電復旧後,早々にダウンしたらしい。復旧はいつになるやら。結構高いマシン(確かUltra Sparcを積んだ奴)を買ったのに。
前の職場でも,Compaq(現HP)のNetware Serverを導入したが,ワシが出て行ってから早々にダメになったみたいである。高いマシンを導入するのは故障が怖いからなんだが,いざ壊れてしまうと誰でもすぐに治せるというモンでないだけに,復旧に時間が掛かる。それを考えると,そんじょそこらにあるPCにLinuxでも突っ込んで,技量の範囲内で世話できるサーバを立てて置いた方がよっぽどマシな場合もある。メンテナンスの手間とコストを良く考えて,しかも実績のある業者に頼まないといかんのだが,さりとてこちらが余りにメンテ料金を値切ってしまうと,「安い客」扱いされて,ろくすっぽ勉強していない新人なんかを回されたりする。うーん,難しい。
別件で,久々に外部サーバのセッティングをしなきゃならない羽目になり,Vine Linuxを弄くり倒す。apt-getは便利なコマンドだが,結局/usr/localに突っ込まなきゃならないものもあり,updateは全て自動で,とはいかないところが悩ましい。今日はまとめてupdateかけて,iptablesやOpenSSH,apacheのセッティングは明日に回す。さて,出来るかな?
総務省の人口動向調査が発表される。ジワジワと人口ピラミッドがやせ細っていく様子が良く分かる。全国の都道府県で,人口が増えたのは関東・中部・関西地区を除けば,福岡県と静岡県だけ。周囲の地域からこの地域へ人口が移動しているだけなんだろうな。老後は東京で,という人も多いようだし,過疎=老齢化とは単純に結びつかない時代になってきたようだ。50過ぎたら,ワシも老人ホームを捜さねばいかんのう。
今日は炊きそこなったメッコ飯を食いすぎたので腹具合がよろしくない。さっさと寝て,明日に備えます。
武田徹「「隔離」という病」中公文庫
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-12-204492-8, \838
いやぁ,濃い内容の本である。が・・・ちょっと高くないか,中央公論新社さんよ・・・高々280ページの文庫本にしてこの値段である。「武田徹」というネームバリューに対する対価なのか,それとも売れ行きがあまり期待できないからなのか。多品種少量生産しなければならない出版社としては,台所事情も苦しいのだろうが,それは読者も一緒である。ご一考願いたい。
値段はともかく,本書は大変エキサイティングな内容となっている。つい先日,ようやっと法律的には解決したハンセン病患者の強制隔離問題を媒介として,全ての伝染病の罹患者に対する「隔離」の是非とその有様を検討する,という重厚な評論が展開される。しかしこれはアームチェア・ディテクティブ的な机上のものではなく,綿密な取材と資料探索に基づいて行われたジャーナリストの仕事なのだ。
ハンセン病問題を丹念に追っていくことでどのような論理が展開されるのかは,本書を丹念に読んで(著者に言わせると取材に費やした年数はかけて欲しいそうだが,そりゃ無理だ(笑))確認して頂くとして,一つだけ強調しておくとすれば,著者が問うているのは伝染病患者を隔離することの善悪ではなく,社会が「排除のメカニズム」を発揮しない隔離はどのようなものなのか,ということである。感傷的,あるいはイデオロギー的な信念とは別の位相で冷徹に「理想的な隔離」を追求しているのである。
香山リカの解説も含めて本書を読了して感じたのは,21世紀の現在においては,いわゆる「専門家」に対する疑いの目が「排除のメカニズム」に組み込まれており,それについての言及を武田も香山もしてないなあ,ということである。ハンセン病患者の強制隔離が積極的に行われた戦前ならばいざ知らず,薬害エイズ問題やオウム事件を経験してきた日本社会は,科学的言説を「権力」として振り回す専門家に対して距離を置いた見方が出来るようになっている。センセーの言うことはなんでも鵜呑みにしてしまうよりは良いこともあるが,いくら科学的に正しいことを主張しても簡単には受け入れてくれない,という状況は怖いところもある。個人的にはその点についても答えて欲しかったところである。
何はともあれ,力作であることは変わりないので,新刊で購入するには価格的にちょっとためらわれる向きには,是非ともしばらく待った後にBook offを探索されては如何であろうか。
3/12(土) 掛川・晴
雲が大目の空の隙間から太陽がちらちらと見える。もう朝方でもそれほど寒くない。春の様相。花粉も絶好調のようである。
お,Gladmanさんのソースキットがupdateされたか。後でチェックせねば。
昨日は,メール未読大王から完成原稿を奪取する予定であったが果たせず。本人曰く,作業用の不安定なPCから原稿ファイルを移動したNote PCもおかしくなり,現在打ち直し中につき,明日(つまり本日)午前11時に改めて渡したい,ということである。大事な原稿のバックアップぐらい取って置けよ,んっとに。
で,今日の午前中が勝負というわけである。さてどうやることやら。
こんなに立て続けにPCがおかしくなるのは,まあ運が悪いとしか言いようがないが,バックアップを取っていなかったことがまず致命的な間違いであり,猛省をお願いしたいところである。更に,いろいろ聞くと,Windows 2000を使っていながらロクにWindows Updateもしていないようで,もうなんというか,トラブルの原因は自分の行いにあるとしか言いようがない。
しかし,これって,PC利用者の大半に当てはまりそうな怠惰である。ワシも自宅マシン(今これを書いている奴)はWindows 2000 Proであるが,このインストールには一日を費やしている。インストール作業そのものは2時間ほどで終わるが(Pentium IV 2.8GHzマシンだし),その後のWindows Updateで膨大なパッチを導入せねばならず,そっちの方に大部分の時間を取られるのである。SP4を入れてもなおそんな有様であるから,まあWindows Updateの存在は知っていてもついサボってしまいたくなる気持ちはわからんではない。
また,バックアップについても,順調にPCが動いている限りはついサボりがちになる。・・・ま,痛い目に遭えば人が代わったように十重二十重とバックアップをとりまくるのであるが(ワシのことだ)。ワシの場合は,普段は職場で別ハードディスクと外部のftpサーバにバックアップを取り,重要かつ持ち出しても問題のないものは自宅でもftpサーバを介して保存しておく,という三重体勢である。更に,年度末に一度,CD-R, DVD-Rに一括してその年度に作成したファイルを必ず2枚バックアップを取っている。従って,過去のワシのデータは五重,もしくは最低でも二重に保存してある。これだけあっても,東海地震が起きればどうなるか分からない。某プログラマさんは,ソースコードをCD-Rに焼いて銀行の貸し金庫に入れて置くそうである。完全を期したいなら,そこまでやる必要があるのだ。
そーゆー,普段の利用方法についての講義や実習も取り入れないと,これからのコンピュータリテラシ教育は単なるアプリケーション実習に堕してしまうんだろうな。
本日は卒業式につき,ボチボチ出勤します。続きはまた後で。
ただいま。原稿はもらえた。完成度はイマイチだが,日本語は完璧・・・でもない。こりゃぁ,直しが大変だぞ。シャカリキで頑張らねば。
紀要のClucster論文,2分割しろという査読者からの指示があったので,さっさと取り下げる。またぞろ論文を仕立て上げる時間もないし,あえて分割する必要もないと感じたので,論争するよりは取り下げた方が無難と判断したのである。大体,既に一本acceptしてもらっているものがある上に,また2本も掲載して合計3本,こちとらそんなに業績に飢えているわけではないのに,そんなに書いてどーするんじゃ。とはいえ,折角書いたのを埋もれさせてももったいないので,こっちに置いておくことにする。
あとはぷちめれ書いて,翻訳チェックして寝ます。