1/5(水) 掛川・晴

 ああ,正月休みも終わってしまった。今日は会議があり,明日はセミナーがある。明後日からは東京である。
 今回の年の瀬から正月を振り返ってみると,テキスト執筆は前半ちみっとやっただけでストップ,最後の最後にGladmanさんに連絡を取ったぐらいで,ろくな仕事はしていない。それでも例年に比べれば体調も悪くならず,TVもロクに見ず(録画分は良く見たが),この日記もぷちめれも一杯書けた,特に後者は約束通り一日も欠かさず7冊紹介できた。よって,1勝1敗,まあまあといったところであろうか。
 これから先も,間が空いたり,と思ったら毎日書き込んだりと,不定期にボチボチこのWeblog(すっかりBlogという言い方が定着しているが)を続けていく予定である。今年も宜しくお願いいたします。
 ではそろそろ職場に行きますか。

1/4(火) 掛川・晴

 普通なら今日は仕事始めなのだが,うちの職場は明日からである。ちょうどいい機会なので,今日は銀行やら買い物やら雑事を済ませておくことにする。今週末には忘年会転じて新年会が東京であり(オスの負け犬脱却予定者1名とオスの負け犬2名しか集まらんが),HPCS2005(HPC研究会のトップページ,いつになったら直るのか),HOKKE2005,FIT2005・・・と,これから年度末にかけてのドタバタを乗り越える前哨戦として,まずは資金(学会年会費+自動車税)と当座の食料を確保しておこうという作戦である。
 燃えるゴミの初回収日なので,年末から正月にかけて溜まった生ゴミ二袋を抱えて徒歩10秒のゴミ集積所へオスの負け犬は歩いていたと思いねぇ。折悪しく,「クリーン推進委員」なる蛍光色の帽子をかぶったおじさんが自転車で到着し,わしに話しかけてきたのである。「(地響きのような低周波で)むーん,まーったく困った奴があるもんだ・・・(集積所の外に放り出してあったゴミ袋を指して)時間前に出す奴がある・・・」と恨めしそうに言うのであった。この台詞,ワシには次のように聞こえたのである。「大体,こういう礼儀知らずはあんたのアパートに住んでいる奴に決まっているんだ。いい加減,何とかしてもらいたいが,出入りの激しい所だし,住民同士の連携なんて全く期待できないから,あんたに言っても詮無いけどね・・・何とかならんかね・・・」。
 どーもすいません,その通りでございます・・・と内心ヘコヘコしつつ,クリーン推進員のおじさんから解放してもらってこれを書いているという次第である。
 うーん,(NHK朝のニュースを見ながら)吉永小百合も還暦かぁ・・・どう見ても40代にしか見えんがなぁ・・・壇ふみ言うところの「化け物」の見本みたいな人である。
 Gladmanさんからすぐさま返事が来る。おーし,オーケーが出たぞ。さて明日にはWebページにアップするか。
 正月休みの最後は,ゆとり教育批判への嫌味で締めることにする。

戸瀬信之「数学力をどうつけるか」ちくま新書

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-06190-8, \700
 本書は二つの意味で失敗作である。長年,数学力低下を憂い,率先してその危険性を訴えてきたグループの強力な一員が書いた本であるだけに,そしてその内容の多くに首肯できるだけに,誠に残念である。筑摩書房はどうしてこのような本を出版してしまったのだろうか,もしかして,本書で批判されている,同じちくま新書から一足先に本を出している市川伸一の援護射撃になることを見越した上で,編集者はこの本を出したのではないか・・・そんな下種の勘繰りをしたくなるぐらいの失敗作である。
 まず,本書はタイトルで失敗している。本書の大部分は「ゆとり教育批判」であり,もちろんその結果として「(これから成人となる日本人の)数学力」をつけることになる訳なので,読了した後にはタイトルの深遠さが理解できるのであるが,営業的には如何なものか。ワシが本書を買ったのは,著者名ではなくタイトルに惹かれたからである。それは,ハウツーものとしての「数学力のつけ方」を伝授する本だと思っていたからである。日々教育に悩む同業人として何か参考になるところがあるかな・・・と軽く考えて買ってしまったのである。装丁で分かるような単行本ならともかく,装丁はちくま新書全体で統一されたものであり,腰巻に「日本の学力を立てなおす!」と書いてあったって,それはいつもの営業的壮語だな,と一顧だにしない訳で,こんなに壮大な数学教育論ならもっとふさわしいタイトルを付けるべきであった。この点,分かりやすい単刀直入なタイトルである「学力低下論争」に負けている。
 そしてこれが肝心なところだが,市川伸一の批判をするならもっと敵を知ってからやるべきであった,ということが挙げられる。まあ,市川が討論会での戸瀬の発言を捻じ曲げた,なんていうレベルのことに終始しているのなら別段構わなかったのだが,ゆとり教育論者,というより,日和見主義者として批判(P.184~191)しているのである。そうなると,本書より先に「学力低下論争」を読んでいたものとしては,市川のこの文章がどうしても思い出されるのである(「学力低下論争」P.190から)。

 「人が論争に多大なエネルギーをかけるときというのは,一つには何らかの利害意識がからんでいるとき,そしてもう一つは,「自分がこれを主張しなければ,だれが言うのか」という使命感にも似た役割意識をもっているときではないかと思われる。その両方がある場合には,論者は惜しみないエネルギーを論争に注ぐ。しかし,それらは議論の表に「論点」としてあがってこない。そんなことを直接的に言ってしまえば,「あの人は自分のために議論しているのか」と言われるだけである。
 学力低下論の場合も,これらの意識が入り混じっているように思える。ここで,利害というのは,けっして経済的利害ばかりでなく,自らの学問の繁栄,自分の存在価値といったような心理的なものも含まれる。理数系の研究者の場合,本書でもすでに述べてきたが,そうした利害があるのは明らかである。」

 さて,本書には,もう戸瀬の怒りというか憂いというか,そういう感情の発露が散見されて,それはルサンチマン人間のワシにとっては程よいユーモアとなって誠に気持ちがいいのであるが,上記の市川の文を念頭において読むと,その感情の発露部分は全て市川の言う「利害関係」を証明する証になってしまうのである。勿論,この「利害」には,情報処理の,特にアルゴリズムを考え,プログラミングを行う,真の意味での情報技術リテラシーを普及させるという大義名分があるのだが(戸瀬もその点は軽く触れてはいる),そこを理解していない人に,「語学だけで大丈夫?」(P.128~131)にあるような他分野を攻撃する所を見せてしまったら,「ああ,戸瀬は自分の職場を確保したいだけなのだ」と冷ややかに突き放されてしまうに違いない。これは致命的な失敗である。
 これはあたかも,学力低下論争という舞台で,戸瀬という武士が大剣を振り回して市川という曲者の悪代官に切りかかったら,返す刀でばっさりやられてしまったというところであろうか。舞台には上がれないが,戸瀬に共感して客席から見ているワシとしては,この語学教育批判を読んで,「ああ切られてしまった・・・」とガッカリさせられたのである。まあ幸い,PISAの学力テストの結果が出て,日本の子供の学力低下は完全に認知され,文部科学省も見直し作業に入ったようだから良かったものの,論争を吹っかけるのならもっとやり方を考えて欲しかった,というのがワシの正直な感想である。
 例を挙げれば,志賀浩二のように教科書を作ってみせる,つまりもっと具体的な,ハウツー的なところから積み上げていって,いかに数学が現代の科学技術を習得するには必要な知識であり鍛錬になるかを示す,といったやり方がある。人文的な論争をするよりもそっちの方が,ずっと世間に対するアピールができるはずである。そして,失われた学力を取り戻す手立ては,もはやそれしか方法がないのである。
 一連の学力低下論争で気に食わなかったのは,その点である。なんか論争ばっかりやっていて,「これから先,必要となる数学知識とは何か」という具体論の話が全然聞こえてこなかったのだ,少なくとも観客たるワシには。小学校での算数には,特に低学年においては公文式の如く,ある程度の反復的計算練習が必要なことは異論はないが,じゃあ,高校生・大学生初年度に教えるべき数学は今のままでいいのか?という根本的な疑問については,あまりきちんと答えてくれていない。論争は敵を倒す,即ち十数年前までの世論をひっくり返すために必要なものであったことは認めるが,数学そのものの見直しは必要はなかったのだろうか? この問いに答えが出ない限り,やはり学力低下論争は利害関係の絡んだ単なる喧嘩であったと見られても仕方がない。そしてその問いに対して,本書が十分に答えているとはとても思えないのである。

1/3(月) 掛川・晴

 がーん,訳のわからないメモリリーク問題があっさり解決する。馬鹿^\infinity おでのばがぁ~~(Echo)。あんなに悩んだのにぃ~,mpfrのソースを見たらあっさり解決してしまったぁ~。
 でもまあ,これでデモの準備も出来たからいいやね。デモ用のでかい液晶NotePCは先立つものの関係上,用意できなかったから,Let’s Note Rで我慢するしかないけど。
 さて,GladmanさんにWingmpのバイナリ公開をお願いしよっかなぁ。
 気が抜けたので寝ます。

ease [ イーズ] Vol.1

[ BK1(リンク見つからず) | Amazon ] ISBN 4-7767-1455-8, \667
 雑誌大不況時代である。出版大不況時代という言い方もあるが,単行本に関しては「売れない→多品種生産→一冊あたりの売れ行きが落ちる→ミリオンセラーを狙って更に多品種生産→・・・」という悪循環に陥っているが故の,いわば自業自得であるからあんまし深刻とも思えず,しかも多品種生産だから,ワシ好みの,あんまし一般受けしない作家や漫画家の本が沢山出るようになって,かえって嬉しい悲鳴を上げたいぐらいであるが,雑誌に関しては相当深刻らしい。まあねぇ,これだけWebや携帯(Free contents through the Internet)が普及して情報がそこから得られるとなれば,読んだら捨てるだけの紙媒体を買おうとは思わんでしょう。大体,これだけゴミ収集が厳しくなっている状況ではおいそれと分厚い雑誌を買うわけにはいかない。掛川市では古雑誌・古新聞回収は月イチしかなく,しかも雨天延期である。新聞なんてとんでもない,雑誌も月刊誌どまりであり,ジャンプだのマガジンだの新潮だの現代だのといった週刊雑誌なんぞ,ゴミ出しを考えたら定期購読する気には,とてもならない。昔はアエラを読んでいたが,静岡に来る際に購読を止めてしまった。
 そんな時代であり,有能な編集者の多い出版界であるから,あの手この手で既存雑誌の目減りを食い止めようとしているようだ。一時期目に付いたのは,カリスマ的な個人を編集長にして雑誌を作るという動きで,青木雄二,さくらももこ,松山千春,桃井かおり,小林よしのり,大塚英志(編集者だから意味合いがちょっと違うかな)・・・が引っ張り出されていたが,「頓知」にさっさと見切りをつけた筑摩書房が太田垣晴子を連れてきて「O(オー)」を発行させたあたりで,そろそろ種が尽きた感がある。で,次は何が出るのかなぁ,と思っていた所に出てきたのが本書である。
 ISBN番号が付与されているので区分としては単行本だが,「まあ,売れなきゃすぐに止めるし・・・」的なムック形式の雑誌と見て差し支えないだろう。表紙は志村貴子の描くモノクロの女性のアップで,「女性のための雑誌」とはどこを見ても書いていないが,まぎれもなく二十代から三十代にかけての女性向け(負け犬予備軍向け?)の内容になっている。第一特集が「見栄(みえ)」であり,第二特集が「ペット」,そのテーマに沿ったショートコミックとエッセイ(ツチケンや藤田香織さんまで!)がてんこ盛りである。谷島屋でこれを見て「新しい百合雑誌かぁ?」と思い,手にとってパラパラとページをめくったエッセイ好きのワシが反射的にレジに持っていったのは無理もないのであった。
 しかし,ワシは一抹の不安を禁じえないのである。かつて同じような体裁のムックが何冊か出版されているが,どれもこれも長く続いたためしがないのである。たとえばコミックaria(光風社出版・成美堂出版)しかり,Short Stories(白泉社)しかり,である。このease(イーズ)は前者のようにエッセイも載せ,後者と同じ版形である。なんか「いつか来た道」を歩んでいるように思え,ワシとしては絶対に末期の水を取るまで付き合おうと決心しているのである。さて,「O」と「ease」,どっちが長く続くのか? 8:2のオッズで誰かワシと勝負しませんか?