Wingmp is a static library for Visual C++ 6.0, which is based on gmp-4.1.2 with mpfr and C++ Class libraries.
Wingmp beta with a check program of MPFR
Our binary use “mpn/generic” codes. If you need well-tuned mpn codes for specific CPUs, we recommend to refer Brian Gladman’s Web page.
Last Message in 2003
本年は,Webサーバ移転,Weblog開設を行いドタバタしたが,どうやら認知されたよーで,トップページだけでも7500アクセスを稼ぐまでになった。来年もこの調子でウダウダと続くよう,ホドホドに頑張りたい。
西原理恵子「できるかなV3」扶桑社
[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-594-04256-2, \952
結局ロクに仕事できそうにないので,せめて年末最後ぐらいは貯まりに貯まった読了本の中からお勧めを引っ張り出して紹介することにする。担当編集者のインタビューはこちら,著者本人のインタビューはこちらから読むことが出来る。
今更ではあるが,やっぱり西原理恵子は面白い。本書は噂で聞いていた「脱税できるかな」を期待して買ったのだが,読了後に残るのは「ホステスできるかな」であった。
前者は,まあ自営業者なら大なり小なりやらかしていることを大々的に実行し,しかも作品にして公開してしまった,という所が目新しいと言えば目新しいが,それ程ではない。無論,爆笑しながら読んだので,面白くない訳ではないのだが,どーにも落ち着かないのである。こちとら,しがないリーマンだから,トーゴーサンの法則通り,100%所得が税務署に筒抜けで,毎日かあさんのように値切ることは出来ない。そのジェラ心が,あの中村うさぎから尻子玉を引っこ抜いた程の「脱税できるかな」を好意的に評価できなくさせているのだろうか。
しかし,後者は嘘偽りなく感動した。最近のサイバラ作品に良く出てくる,泣き笑い感動をまぜこぜにしたテイストが全開である。やっぱり池袋の業界は作者の血肉にジャストフィットしたのだろう。体張って生活を支える女性達の生きる世界は,土佐女の作品世界そのものだしね。
最後に,本書にまつわる悲劇を記しておきたい。
どういうわけか,うちのページはいつの間にやら「山田参助」でGoogleされるようになっていたのである(号泣)。その問題作も本書に収録されている。・・・ああ,せっかく,あかでみっくで,おっさーれ,かつ,どっくたーな雰囲気を作り出してきたのに,サイバラさん,あんたのおかげで,うちの,うちのページは台無しです・・・花田さんもイイ作家とつるんでいるよな・・・ぐっすん。
12/31(水) 掛川・曇
どんより。まるで翻訳の状況を示すが如く,曇天。大丈夫じゃなかった。翻訳,順調に中断中・・。
12/30(火) 掛川・晴
ピーカン。年内最後のゴミ収集日につき,燃えるゴミを一括して放り込む。
さて,本日の翻訳は正念場である。気合いを入れて一気にやんべぇ。
・・・と,ナガーイ一休み中。大丈夫か>漏れ
逃避中につき,あれこれうだうだってみよう。
以前にも書いたが,お休み中のお供はもっぱらLAUNCH。無料の”Awesome 80’s”を流しっぱなしにしている。あ,Chicagoが終わってしまった。
日本でも同様のサービスを期待したいのだが,音楽関係団体がon the Internetにはまだ消極的なようで,曲ごとにいちいち許諾を取らねばいけないらしい。CCCD(我が家には出入り禁止だ)なんぞで自分のクビ絞めるぐらいなら,さっさと許可してライセンス販売に勤しめばいいのに。
敬愛する(何人目だよ)武田徹さんが,科学ジャーナリズムについて書いているのを読む。イチイチ頷く。
一応,そっち方面の内部に身を置く者としては,も少し「政治家を見るように」科学者も見て欲しいって所は確かにある。文系理系というカテゴライズの仕方は乱暴なところもあるが,学問的な相違点が多いのは確かで,日本的文化背景をorしてやると「理工系学科・学部・大学の教授会は概して静か」という所まで行き着いてしまう点など,も少し「予断を持って」「色眼鏡で」科学技術報道をしてもいいのではないか。
あまりにもトンデモな言説を振り回す理系学者の様を見て,安野光雅が知人の科学者に嘆くと,その人曰く,「科学者がみんな科学的とは限らないよ」。これは正しい。っていうか,自分も顧みて,結構「だまされる」ことが多いんですよ。経験を積めば「声の大きいだけの言説」に振り回されることは少なくなるが,割と「流行に流される」ことの多い業界だけに,道を誤ることはしょっちゅうである。んが,流行もある程度はWatchしていないと不安になるし,やっていることが全く時代から乖離してしまう危険性もあり,いやいやなかなか「ギョーカイの雰囲気」との距離の取り方は難しいのである。
そーゆー「雰囲気」を体感しつつ,部外者の観点ならではの無責任性を最大限に生かして報道して頂ければ,ありがたいよなあ・・・我ながら勝手なことを言うとるのぅ。
情報関係だと,オープンソース運動ってのが一大ムーブメントになり(なりかけた?),経産省も法的問題についての検討を行った(これは以前引用したな)が,果てさて実際問題,商売となるとなかなか難しい面がある。
大体,人間の善意に大半を依存したシステムって,長続きしないケースが多いんじゃないの? わしみたいな陰険ジジイだからハッキリ言うが,「ソースコードをオープンに」と声高に叫ぶ連中の胸の内は,「タダで使えるシステムが欲しい~」ってのが本音じゃないのかね? 「苦労してコード書きたくない」からだろ?GNUだって,Stallmanの「やせ我慢」があるからこそ続いているのであって,彼が死んじゃったら胡散霧消しかねない危うさがある。
その点,商売するならWindowsの方が,「バイナリパッケージを売る」という慣習が定着している分,やりやすい面がある。M$の商売のやり口が汚いとか汚いとか汚いとかって話は良く聞くしその通りと思うが,じゃあLinux他のUNiX & UNiX Compatible OSがその代替となりうるかというと,現状では甚だ怪しいと言わざるを得ない。個々のアプリは随分良くなったし,Kernelの安定性については昔から折り紙付きである。しかし,主要アプリケーションの「厚み」という点と,アプリ間の「連係機能」については,正直,GNOME or KDEではまだ辛いと感じる(逆にサーバ機能については,「Windowsなんて使ってられっかよ」なんだけどねぇ)。
FreewareだろうがSharewareだろうがPackageだろうがOpen Sourceだろうが,最終的には市場において機能と価格の最適化が行われて,選択と淘汰が行われるのである。技術を磨くための肥沃な土壌としてOpen sourceが機能した中で,Proprietary softwareがバンバン生まれ,そこで稼いだゼニが一部のcomponentと共にopen Sourceに返る,という循環型共生システムってのが自分としての理想なんだけど,甘いかしらね? Open Source softwareは「イイとこ取り」されてしまう危険が高いので,商品としての魅力には欠けるが,「うちはこんなもんも作れまっせー」という広報活動の手段としてはかなり使える。Open にして広報パンフレット代わりにしつつ,日々の糧を得るためにProprietary softを作ったり,Serviceを売ったりする,と。CathedralとBazaarってのは元々共生関係(上下関係はあるんだろうけど)にあるんだし,どっちが欠けてもまずいだろうから,お互いに競争しつつも,相互メリットを生かす手段をもっと増やすべきだろう。
・・・何書いているんだか。さて,翻訳に戻ります。