10/16(木) 掛川->東京

 今日はこれからHPC研究会。たまたま講義のない日に当たったので出席するのである。ヘタレ研究者であるわしは,常に他人から刺激を受けていないと仕事をしないのであるからして,スケジュールにちょっとでも空きがあればいそいそと出かけることにしている。逆に,平日のみ数日間の泊まり込み研究会なんてのは,よほどのことがない限り出席しなくなってしまった。多分,来年以降も数値解析シンポジウムには出席しない。・・・他にも原因はあるけど,ね。
 藤田香織さんの新刊は,早くても今月末の出版だそーで,ちょっとがっかり。でも,買っちゃったらその日一日は仕事にならないだろうから,ちょーどテンパってるこの時期に出なくて幸いかもしれない。
 その代わりというわけでもないだろうが,山田ズーニーさんの新刊が筑摩書房から出版されるようだ。毎回,自分の感情の動きを偽ることなく表現し続けてきた人だから,ほぼ日のコラムも大概読むようにしている。どーも自分が感情多寡の人間なので,「わし」の出てこない論理一辺倒の文は好きになれないのだ。その点,ズーニーさんのはちゃんと自我が出ていて,それでいて合理的な結論を導いている,その思考の過程が素晴らしいと毎回感心しているのである。
 今回の新刊の装丁は,ちくまではおなじみの南伸坊さん。江口寿史は湯村輝彦から「センス」というものを学んだと言っていたが,わしの場合は伸坊さんからそれを教わった。確か日下潤一だったかが「南さんの装丁は,何もしていないような印象を与える」と言っていたが,全くその通りである。それでいて,「あ,これは伸坊かな?」とすぐにピンとくるデザインになっているのが「センス」なんだよね。このレベルになると,真似しようという気には全くならず,脱帽する他ない。
 おお,うだうだ書いているうちに新幹線の始発の時間が近づいているぞ。ではこの辺で。

10/15(水) 掛川・晴

 朝からピーカン晴れ。でも日中はせいぜい20℃程度しか気温が上がらないとのこと。秋深し。
 ふーん,BOINC(ボインク?)ってのがあるんだ。これは使えそうな・・・。某が来れば,真面目に考えてみよう。
 ○○行列の論文,下書きをなんとかでっちあげる。明日,大師匠と相談。
 寝ます。

10/14(火) 掛川・?

 あー,日が変わってしまった。仕方がないので,火曜日の日記として書くことにする。
 BNCpack & MPIBNCpack Tutorialは70ページを越えたところで小休止。かなり荒っぽいけど,first approximationなんだから,まずは書くだけ書かないと。一日潰した甲斐があり,何はともあれ完成が見えてきた。来月初旬にはupする予定。ふぅ,予定外の仕事だが,今は手持ちのタマを増やして何でも出来るように自分の能力を貯金しておかないといけない。これが終わったら,ScoreOpenMPの勉強が必要になるのである。頑張らnight(誰の真似だ)。
 Tutorial執筆のためにMPI Forumの文書を眺めていたが,来年にはMPI 1.0リリースから10周年なのねん。何かお祝いでもやらないのかしらん?

高安正明「マイコンヒストリー」ソフトマジック

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-86122-001-7, \1500
 まず,1500円も読者からぶんどっておいて,こんだけ誤植(つーかタイプミス)をほったらかしにしている本も珍しい,という事実は指摘しておかねばなるまい。それでも,さすがに本職のライターが書いただけあって文章は読みやすい。しかし流れるように読める筆力があるだけに,タイプミスでその流れが引っかかってしまうのは皮肉である。もし第二刷が出るならば,それを修正した上でお願いしたい。そして私も人に勧めるのはそれを確認してからにしたい。
 前書きで著者が述べているように,本書は客観的な事実に基づくマイコン→パソコンの歴史書ではない。あくまで著者の主観に基づくエッセイであり,かなり重要な事実もすっぽり抜け落ちている,なんてことも多い。DDDはどこ行った?とか,Free UNIX Compatible OS は完全無視か?とか,The Internetの歴史は?等々。しかし,そんなことは著者は百も承知で書いている(よね?)。むしろ,殆ど同時代のユーザとして過ごした私としては,第一章から第五章の記述のあらすじが殆ど自分の記憶と一致していることに驚いている。本書は確かにユーザの主観を記述した歴史書として意味がある。
 しかしそれ故に,学問的には本書はかなり疑義を持って睨まれるべきものである。その時々における社会情勢の記述も,客観的データも,参考文献も皆無である。ラストの第六章の記述にアトムを持ってくるなんてのも,朝日新聞社じゃあるまいし,手垢にまみれた論考である。
 コンピュータってものが,恐ろしく高速な制御機械であり,その枠を外れて使われたことは一度もない,単なるでくの坊である,という事実を,著者は意図的に忘却し,愛着のあるペットとして愛撫している,そんなキライがある。ガクモンとしてはいかがなものかとは思うが,一人の同時代人ユーザとしては,その偏愛のありかたには同情してしまう。中年ヲタクが思い出にふけるネタとしてはよくできた本である。そう思えば,多分,タイプミスにも愛着が持てるかしらん?

内田樹「子どもは判ってくれない」洋泉社

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-89691-759-6, \1500
 「ためらいの倫理学」(2000年)以来の3年分のエッセイを集めた単行本。オトナのために,オトナの思考法を「うじうじと」述べた文章が満載されている。といいながら,読んでいて爽快感がわき上がってくる辺り,文才があるんだよね,きっと。ああ羨ましい。
 「ためらいの倫理学」では小田嶋隆の影響が色濃く刻まれていたが,これはすっかりそーいったレトリックからは開放されており,50過ぎのオジさんがじっくりと腰を据えて,複雑な世の中の仕組みを省略することなく複雑なまま語ってくれている。
 著者は小林よしりんが嫌いなようであるが,随分と共通している所があるのは,どっちも現実を見据えようという気構えがあるせいだろう。感情的な行き違いはあれ,世間でそれなりにステータスを築いていけば,自ずと同じ世の中の仕組みを知ることになるから,申し述べる事柄も似通ってくるのである。
 わしが一番感銘を受けたのは,「ハラスメント」を考察した「呪いのコミュニケーション」(P.132~142)と「ヨイショと雅量」(P.154~159)である。特に後者は,「ほめて育てる」ことの重要性を指摘しており,何事に付け,人の足下を掬ってやろうとしている腹黒い教師としては,誠に恐縮する次第である(改めるつもりはないけど)。
 今後ともWebを初めとした様々な媒体で作品を発表され続けるであろう,著者の今後の活躍に期待。いやぁ,小谷野先生に続いて尊敬する書き手と巡り会うことになろうとは思わなかったな,うん。