榎本まみ「督促OL修行日記」文藝春秋

[ Amazon ] ISBN 978-4-16-375650-9, \1150
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J-CASTで連載されていた「債権回収OLのトホホな日常」はワシの愛読コラムの一つだった。それがこの度単行本としてまとまり,女性向けエッセイを次々にベストセラーとして世に出している文藝春秋から刊行された。誠にめでたい。ワシは谷島屋書店呉服町店にて本書を購入し,2時半ほどで読了。神さんにも勧めてみたところ,あっという間に読んでしまった。「途中で止められない」という評を頂いたので,ワシの目は確かだなぁと悦に入っているのである。ま,そーゆー読者が日本国内にごまんといたからこそ,紙の束として全国に配本されているのであるからして,面白いことは皆が認めているのであるが。J-CAST連載時と異なり,本文が「ですます体」から「である体」に書き換えられている点,むしろ読みやすさは増していると感じた。Webだけで留まっている方は誠にもったいない,是非とも買って読み直してみるべきである。
 面白さの一番のポイントは著者の等身大の書きっぷりにある。恐らく作者の榎本,もといN本(えぬもと)は自分の文章がうまいなどとは思っていないだろう。言いたいことをを訥々と語るその文体は,読む人間に意味を考えさせる余計な思考ベクトルを与えない。読み取った文字をスキャンするようにすらすらと頭に入ってくるクリアな文体は,背伸びをしようとしてもできなかった自身の「至らなさ」故に培われたものなのだろう。やたらと関係代名詞や余計な修飾子を使いたがって文章が長くなるワシなぞは大いにN本を見習うべきなのだ。
 そのN本は,文章を読む限り,ごく普通の人間だ。道を歩けばキャッチセールスにとっ捕まってしまうあたり,結構可愛げのあるちんまい女性なのではないか。そんな女性が凄腕のサービサーとして辣腕を振るう(?)に至る過程を書いた本書,実は凡百の人間に思い当たることばかり書いてある一種の仏教書のような人生訓に満ちあふれているのである。
 債権回収業というのは過酷な商売だ。ヤクザのように「返す金がないなら内蔵売れや,娘売れや,人から借りたモンは死んでも返せっ,それが人の道じゃろうがっ」と恫喝出来る時代ではないし,そもそもN本の会社は真っ当な信販会社である。ヤクザに頼むより,法律に則って粛々と「借りたモンを返させる」方がよっぽどリーズナブルである。大体,弁護士に依頼しなきゃいかんような面倒なトラブルはマレ。ついうっかり支払いを忘れて口座入金を忘れてしまったり,金にだらしない輩が払えるものを先延ばししまくるというケースが大半であるらしい。しかし前者はN本らが催促すればさっさと返済してくれるのに対し,後者はくせ者揃い。人から金を借りといて怒鳴り散らす輩が後を絶たないようだ。
 しかし,よほど悟り済ました人格者でない限り,自分に非があり,それを意識している時ほど他人からそれを指摘されると逆ギレしてしまうもの。ワシだってそうだし,ま,大概の人にはそーゆー「内心忸怩たる思い出」に苛まれているんじゃないかな。借金人間が返済の催促を受けてぷちんと切れてしまうのも宜なるかな,という気がする。
 ・・・とゆー人間的な憤りは理解できても,理不尽なものは理不尽である。ましてやN本のように,自社が貸した金の取り立てを穏便に電話を介して行おうとしているのに怒鳴り倒されればヘタってしまうのは当然だ。ましてや,大学卒業したての若輩者にとってはこれぐらい辛い仕事はない。N本の回りの優秀だった同僚や先輩はドンドン退職していき,N本自身も体調を崩してしまって初年度は激やせした上に化粧をする気力もなくしたそうである。正にブラック職場,こんな仕事なんか絶対したくない!
 しかしN本は転職を意識しつつも,日々こつこつと目の前の問題への対処法を身につけていく。何故債務者は怒るのか,そして何故怒鳴られた自分は凹むのか。それは「人間には自尊心があるからだ」(P.139)ということに気がつく。そして「自尊心を埋める」決意をして学びの場に出向いていくのである。
 本書の一番の読み所は,凡人の覚醒がどのようにもたらされるか,その全過程を,サービサー業務を通じて得た人間観察の蓄積も含めて開示している所だろう。それを胃の腑に落ちる言葉で簡潔に表現している本書は,長時間の座禅の合間に強制される禅問答を通じて少しずつ開眼していく臨済宗の修行の描写のようである。そう,本書は紛れもなく,優秀でもなく地道にやるしか能のない大多数のサラリーマンにとっての仏教書なのである。

いしかわじゅん「吉祥寺キャットウォーク 1」エンターブレイン

[ Amazon ] ISBN 978-4-04-728199-8, \740
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 今一番面白い漫画評論を書く人物を上げるとすれば,まず真っ先に名前が挙がるのがいしかわじゅんであろう。その彼にしても,自分の作品を他の作者の作品同様面白く語ってくれるかというとそれは無理というものである。これが誠に残念無念,本作こそいしかわじゅんにたっぷり語って欲しいところ,多少なりとも足しになれば・・・いやそれはおこがましいな,もっと面白く語れる人物に「この程度のレビューでいしかわじゅん的漫画批評など片腹痛い,それならばワシが!」という意欲を掻き立てるための呼び水になれれば幸いである。
 漫画家としてのいしかわじゅんを知ったのは「うえぽん」である。リアルタイムで接していたのは,ギャグ漫画家としての頂点は極めた後の作品のみ。正直,漫画家というよりは新潮文庫版の「デキゴトロジー」の小洒落たキャッチーなイラストレーターとしての存在の方が大きかった。
 その後のかっちりした文章でユーモア溢れる,イラスト同様小洒落たエッセイを量産する文筆家としての活躍ぶりはご承知の通り。「漫画の時間」「漫画ノート」「秘密の本棚」の三冊と,BSマンガ夜話の水戸黄門的コメンテーターとしての断言ぶりによって,漫画家としての視点を生かしつつ,的確な批評眼で漫画を語る人物として世評が定着し,今に至っている。
 しかし,漫画家としてのいしかわじゅんを,特にギャグ漫画家としてより,叙情的作風が定着して「枯れた」漫画家として的確に表現した文章をワシは読んだ事がない。どうも盛りを過ぎたギャグ漫画家としてしか語られてこなかったように思えるのだ。もちろん全盛期の勢いを知っている人にとって,それは無理もないことではある。しかしワシは幸い(?)その時期の作品は知らないし,正直,今読んでもそれ程面白いとは思えない。むしろ,枯れてからの少しひねた叙情性に惹かれ,それ故に「うえぽん」や「薔薇の木に薔薇の花咲く」を面白く読んだ口なのである。そしてその延長上に,小説「ファイアーキングカフェ」が生まれ,恐らくは数多い友人との交流から得たナマの人生を元ネタにして発酵させた結果が本作,「吉祥寺キャットウォーク」なのである。
 眼高手低,という言葉がある。目利きになった故なのか,実践はさほどではなし,という意味で使われる。いしかわじゅんに対しては,逆に,数々の漫画を的確に評し続けた結果,眼高手高になったと言えるのではないか。イラストレーターとして活躍していた頃の小洒落さを演出していたかっちりしていた線は荒々しくなり,退廃的な感も漂わせる。本作で描かれているのはオシャレな吉祥寺ではなく,屈託を抱えて苦み走った人生を歩んでいる多くの登場人物達の「切なさ」であり,それ故に醸し出される人生の豊かさなのである。猫一匹通る事がやっとの狭い一本道,即ち,「キャットウォーク」に凝縮された豊かな叙情と人生の滋味を,短編を積み重ねる事で薫り高いものに仕上げていったのである。
 説明的なモノローグが皆無の本作は,キャラクター同士の会話とストーリー展開だけで状況が何となく読者に伝わってくる。誠に渋い,古典映画のような漫画である。何百万の読者を熱狂させるエネルギーを伝える少年ジャンプ的な指向とは真逆の,落ち着き払った本作の「苦み」を面白く感じる読者は,おそらく,ワシのように全盛期のいしかわじゅんを知らない世代には一定数存在するであろう。いや,してほしい。コミックビームの奥村編集長が見切らない程度にこの単行本が売れて,第2巻が出る事がワシの切なる願いなのである。

恵比須半蔵(原作)・ichida(漫画)「うちの会社ブラック企業ですかね?」彩図社

[ Amazon ] ISBN 978-4-88392-869-9, \952
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 ブラックユーモアとは何か?ということは既に阿刀田高の「ブラックユーモア私論」を引きつつ紹介した。これを簡単にまとめると次のようになる。どうにもならない状況下にある人間が,一種の自己防衛として,自身を客観視する「高み」におきつつ自分をネタにしたギャグをボソッとつぶやく・・・それがブラックユーモアである,というのがフロイトの定義であるらしい。その結果,精神的なゆとりが生まれ,多少なりとも心理的な恐怖が軽減される,とも。
 してみれば,政治も経済も先行き不透明で,若者は正規職を探して四苦八苦し,中高年は給与カットとリストラと老後の年金システムの崩壊におびえ,老人は安らかな死に際を求めつつ介護システムに不満を持っている・・・という老若男女がフラストレーションを抱えている今の日本の状況下においては,ブラックユーモアこそ一番有効に働くものなのである・・・筈なのだが,その使い手は殆どいない。一応,綾小路きみまろにはその欠片が混じってはいるようだが,つまりは,その辺りが大衆に受け入れられるブラックさの限界ということなのだろう。有効であるに違いない状況下においてもまだ,ブラックユーモアを自分の持ち味として活用できる人材は殆どいない,ということは,それだけ敷居が高く,かつ,ポピュラリティを得るには難しい題材なのだという事を示している。
 そんな難物を易々と使いこなす人材が,最近目立つ活動を始めている。それが本書の漫画を描いたichidaなのである。今回は少し長めに,この希少な人材を語る事で,何がブラックユーモア普及の障壁になってきたのか,そしてichidaはその障壁をどう乗り越えてきたのかを考えてみることにしたい。
 漫画家としてのichidaを知ったのは虚構新聞に連載中の四コマ漫画を読んでからである。群を抜く絵のセンスに加えて,ブラックな味付けにワシは魅了されたのである。
 虚構新聞と言えば,つい先日の騒動で一気に知名度を上げたジョークサイトであるが,記事だけでなく,広告部分にチマチマと挿入された漫画のセレクトがなかなか独特なのである。恐らくは社主の趣味なのであろうが,一言で言うと,今風の絵柄で突き放したような怜悧な視点を持つ作品を取り上げることが多いように思えるのである。ichidaに漫画連載を依頼(?)したのも,そんな社主の嗜好が独特の作風にジャストフィットしたせいなのであろう。
 虚構新聞4コマ漫画のバックナンバーをざっと読んでみると,ichidaの漫画を一言で分かりやすく表現すると「ブラックユーモア」ということになるのだが,それだけで括るには乱暴すぎ,魅力を正しく伝えていない。いしいひさいちの進化形,という言い方も別方向に乱暴すぎのような気がするが,まだマシだ。いしいひさいちは今の4コマ漫画家の中で,強度なら植田まさし,精度なら小坂俊史,難度ならオレ,という言い方をしている(「総特集・いしいひさいち」P.20)が,ichidaの作品はその三つがバランス良く含まれているように思えるのだ。
 突出して感じるのが精度,つまりブラックユーモアテーストであることは間違いない。しかしそれだけではない。生のブラックユーモアを「ユーモア」として理解する事を困難な状況下で行える人間はそれ程多くない。むしろ「図星突きやがって!」と怒り狂う事が多いのではないか。他人から自分の事を指摘されたとなればなおさらだ。本来のブラックユーモアは自分で自分を笑いのめす「自虐ネタ」であるが故に仕方なく受け入れられるものだからだ。
 そんな咀嚼が難しいネタを心地よく受け渡すための媒介となっているのが図抜けた画力センスであり,強度としての「立ち位置」なのである。
 絵に関しては,作品群を見れば分かる通り,簡素な線で構成された乾いたデザインが読者の胃の腑をすっと撫でてくれる効果を与えている。か弱い女性や子供を魅力的に表現する画力でもって,ダメなキャラクターを的確に表現する表情は何とも凄い。
 そんな画力を持ちつつも,ブラックなネタを更に突き詰めるように,ichidaはの視点は俯瞰を突き抜けて「不条理」へと突き進むのだ。ここが一番の強み,即ちichidaの「強度」なのであり,ともすれば「難度」を感じさせる所以なのである。
 本作で言えば,原作のテイストはよく知らねど,どの収録作品も実話ベースの体験談に基づくものばかりであるが,一つ残らずichida流の不条理さに満ちたものに仕上がっている。そこが本作の最大の魅力であり,一種のブラックユーモアによって何が「ブラック企業」なのかがまるで分からなくなる,というところが素晴らしい。それでいて読み手の経験に照らして「あるある!」と共感を得る程度の大衆性を勝ち得ているのだから,「これでこそichidaだ!」とワシが驚喜したのも無理はないのである。前作の「家に帰ると妻が必ず死んだふりをしています。」「同2」は,今ひとつichidaの不条理性が生かせていない「緩さ」があり,ワシとしてはイマイチ不満だったのである。・・・我ながら歪んどるなぁ。
 あんましネタバレしてもいかんので,作品紹介は控えめにしておくが,本作に納められている24つの仕事のうち,ワシの実体験からみて「あるある!」とドキドキしたWork16「(あんまし偏差値の高くなさそな)大学キャリアセンター職員」を取り上げよう。ここに登場する,一見真面目そうな学生は,社会経験もないくせにWebで検索した2ちゃん情報に振り回されて,あの企業もブラック,あの職種は将来性がないと愚痴ばっかりこぼす。正直そんな学生は結構いる上に,過去を振り返ってみると,「自分もそうだったな~」と感慨に耽ってしまう訳で,実際,学生の就職指導をやってみると,割と穏当にバカな妄言を修正させ,就職への意欲を削がない程度に(嘘付けと言われそうだが自分としてはそうなのよ)前向きなアドバイスをしていることに気がつくのである。そう,ここに登場するキャリアセンター職員のおばちゃんの気持ちは,全くよく分かるのである。
 ichidaはこの真面目だが年相応にバカな学生とは対照的に,本格的にバカなチョーシこき親のすねかじり学生を登場させる。真面目さが空回りしている学生の就職が不調なのに対し,親の会社にスンナリ入社するバカ学生・・・しかしどっちが本当に「バカ」なのか,「優秀」とは何を意味しているのか,本作を読んでしまうとよく分からなくなる。ichidaの1回半ひねりツイスト的描き方に巻き込まれたワシら読者は,笑いながら一読した後,世の不条理さに気づき,めまいがしてくるという仕組みなのだ。
 他の23作品はさらに過激なひねりに満ちている。何がブラック企業で何が優良企業なのか皆目不明五里霧中・・・しかし,単行本を何度も読んだワシは不思議な酩酊感と何か心地よい安心感を覚えているのだ。これはつまり,本作が現代日本に欠かす事のできないブラックユーモア作品であることを示す証拠に相違ないのである。

卯月妙子「人間仮免中」イースト・プレス

[ Amazon ] ISBN 978-4-7816-0741-2, \1300
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 卯月妙子,という名前を初めて知ったのは,西原理恵子の「人生一年生2号」に掲載された座談会の記事からである。ウンコを食うAV女優,という触れ込みだったが,ずいぶん不幸そうな顔の女性であったという印象が強い。AV女優を営みつつ漫画家もやっているらしい,ということもその記事から知ったが,読もうという気にはならなかった。従って,本書で触れられている卯月の前著については全く知らない。画力がどの程度向上・・・いや,低下したのか,ということも全く分からない。
 本書の漫画の絵はひどいの一言に尽きる。褒めるところを見つけるのも大変なくらい下手糞だ。はっきり言って,今どきの小学生の方がよっぽどうまい絵を描くだろう。
 しかし本書の魅力は絵ではない。現実と妄想の境をさまよう主人公・卯月妙子の精神のありようをドライブする物語の力強さであり,還暦過ぎのやり手サラリーマン・ボビーさんとの愛の営みであり,そしてエキセントリックな生き方をせざるを得ない人間の魂の咆哮なのである。それらをこの下手糞な絵から読み取れるかどうか? それができない人には本書はお勧めしない。これからワシは本書をワシの神さんに読んでもらう予定だが,果たして結果は・・・? ワシはドキドキしているのである。
 それにしても,知識人と称される者たちの「聖なる売春婦」妄想ってどうにかならないものなのかな,とつくづく思う。小谷野敦が常々それを批判するのは当然だし,第三世界の現実を鴨志田譲と見て回ってきた西原理恵子も,売春というのは「最後の手段」であることを述べている。ろくすっぽ関係性を結んでいない男に肉体を売り渡して弄ばれ,一回こっきりでポイ捨てされて平気な女性はそれほど多くない,ということは,もっと広く伝えられるべきだと思っている。そして男優以外には直接肉体を弄ばれるわけでもないAV業界に集う女性たちも,基本的には思慮が足りないか,エキセントリックな精神状態を持て余した結果そうなっているのであって,基本的人権が配慮されるのは当然としても,それ以上に聖なるものとして「もてはやす」のは明らかにおかしい。以前,売春を肯定する書物を読んだことがあるが,それは自身の体験を語りつつ,感情のほとばしりが論旨をゆがめている,痛々しい代物だった。その時ワシは,売春なんてやるもんじゃないな,という確信を得たのである。
 本書を読む限り,卯月もその種の人間であるらしい。のっけから歩道橋を飛び下りるシーンから始まる,その痛々しい人生は,まともに語るとお涙ちょうだいの物語に成り下がる可能性もある。しかし,下手糞な絵とテンポの良いコマ運びが妙に明るいものをワシに授けてくれるのだ。それは多分,エキセントリックに生きざるを得ない卯月のカラッとした開き直りと,その精神を支える野太いエネルギーの発露がもたらす「生きる糧」なのであろう。ボビーさんという男気のある年寄りとの出会いと,そこから生まれた愛欲生活は,その結果として生まれた副産物のようにも思えてくる。これからの人生,そんなに長くないかもしれないが,ワシとしては折角助かった命に幸多かれと祈るばかりである。
 10年ぶりの単行本という本書,読む人を選ぶことは間違いないが,「選ばれた人」には卯月妙子の「生きる糧」が授けられること,間違いないのである。

クール教信者「旦那が何を言っているかわからない件」一迅社

[ Amazon ] ISBN 978-4-7580-1261-4, \952
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 あまあま漫画祭り,ラストを飾るのは妄想的かつ理想的なオタク夫&ツンデレ属性妻を描いた4コマ漫画である。かなり以前からネットの一部では評判になっていたようだが,ワシが本作を知ったのは中国嫁日記の作者・井上純一さんのTweetからである。だもんで,かなり遅れて公表されている作品を順次読んでいったのだが,気が付いたら完読していた。鉛筆画の荒っぽい絵だが,内容が抜群に面白い。「いちゃらぶ」と著者が呼ぶぐらい,あまあま夫婦生活ぶりが描かれるが,ギャグの切れ味は鋭いし,一話ごとにメリハリがまとめ方がされていて,デッサン力はともかく「漫画力」は相当高いレベルにある。一迅社の編集者が本作に目をつけて単行本化したのは,その人気もさることながら,この漫画としての完成度の高さ,ということも手伝ってのことだろう。
 精神科医・斉藤環が中国嫁日記の書評で「オタク的成熟」という表現を用いていたが,本作もまたその成熟を表現していること間違いない。オタク夫が2ちゃんねるのまとめサイト運営で生計を立てているとか,ダメ夫とはいいながら結構しっかり自己管理出来ていて,妙に達観したところがあるとか,一般人である妻がダメ夫のダメさ加減を叱りつけつつも,人間としては「オタク的成熟」を遂げていて愛するに足る人物であることを熟知している,というところが形だけではない内実を伴った「あまあま夫婦生活」になっている所以であろう。
 もちろん,著者の描く妻のかわいさ加減といったらもうキューっと抱きしめたいほどであるが,それは,ツンデレ属性を持っているというだけではなく,八重歯と三白眼が魅力的だというだけでもなく,オタク夫と夫婦になっている,ということだけでもない。全部まとめて乳鉢に放り込んですりつぶした結果,普通の夫婦生活(+オタクアイテム)を営んでいる,というところに昇華しているからこその魅力なのだ。
 我々21世紀の日本人が理想として頭に描いている,恋愛の延長上に成立した結婚生活が,「オタク的成熟」の結果得られる,ということをフィクションとはいえ,一冊の単行本として表現しえたこと,これこそが本作の最大の価値なのである。