唐沢なをき「怪奇版画男」小学館文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-196030-6, \600
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 本書は1998年に出版され,世の漫画家をして震え上がらせた怪作,「怪奇版画男」を文庫化したものである。ワシはオリジナルの単行本も買ってあったが,人に貸したら戻ってこなかった。以来,枕に涙して暮らす日々を送っていたのだが(嘘),本年,この怪作が再び世に出たことを弥栄弥栄と喜び,いそいそとレジに本書を運んだのである。
 無駄な努力というものが,これほどの衝撃,いや笑撃を与えてくれるモノだとは,本書のオリジナル単行本が出るまで知らなかったのだ。漫画作品これ全部,台詞まで含めて全部手彫りのアナログ作品の手間たるや恐ろしい程である。オマケに,文庫化に当たって新たに付け加わった京極夏彦の解説,あとがき,そして帯や奥付に至るまですべて版画。全くこの資源と労力の無駄遣いっぷりは凄まじい。原稿料が規定通りとすれば,恐ろしいほどのコスト超過。これ以降,版画マンガにチャレンジする漫画家が出現しないことは当然のことなのである。・・・と,今気がついたが,畑中純だって全編これ版画という作品は少なかったよなぁ。まぁ,無理もないのである。これに引き続くコスト超過マンガといえば,梅吉の切り絵マンガ以外に思いつかない。それほどの快挙なのである。
 ・・・とまぁ,費やされた労力だけでも凄いのだが,それ以上に「版画」というアナログな表現手法の持つ力強い線の魅力がまたいいのである。表現として優れているってのは,版画男のオリジナルたる棟方志功の作品を見れば一目瞭然だ。長部日出雄の解説によると,棟方の作品の多くは日本的な題材だが,所謂それを売りにしたジャポニズムではなく,もっと原始的で人類共通の美術表現になっているのだという。実際,欧米にも棟方のような平面的かつダイナミックな簡素表現作品があるんだそうな。
 その棟方の描く顔に岡本太郎を混ぜたような版画男が縦横にギャグを展開する白黒(カラーもあるけど)の画面の力強さはどうだ。これを昇華させると畑中純の芸術作品になるのだろうが,そこまで行っちゃうとギャグとしては成立しない世界になる。その手前に留まってギャグに徹する潔さ(単にメンドクサイだけなのかも)がワシらの感動腺を震わせ,費やされた労力を想像する回路に繋がって脳髄をショートさせるのである。
 つーことで,本書は永久保存品として確保されたのである。もう誰にも貸さないからね。読みたければ,買え。

津野海太郎「ジェローム・ロビンスが死んだ なぜ彼は密告者になったのか?」小学館文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-408660-7, \657
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 書店の平台に本書が出ているのを見た時にはちょっと感動してしまったのである。小学館文庫ってのは,ワシにとって永らく初版絶版オンパレード文庫だったのだ。殆ど買うに値しないエンターテインメントや時事ネタ本しか出ないモノだと思っていたら,最近は「パイプの煙」リイシューを出したりして,流石に少しは反省したのか,はたまた行き詰まったあげくの苦肉の策なのか,少しは資料的価値のあるモノを出すようになっていたのだな,と気がついたのである。
 で,本書だ。津野海太郎の単行本を文庫化するなんて,筑摩書房以外ではあり得ないと決めつけていたのである。それが小学館文庫とは,なかなかやるな,小学館にも目利きはいるのだと感服したのである。ワシが即レジに本書を持って行ったのは言うまでもない。しかも,読み始めたら一気一気,あっという間に読み終えてしまった,いや読み終わらされたのである(変な日本語)。ちょっといやな気分が残るのかなぁ~,という一縷の危惧もあったが,それはナシ。爽快,とは行かないけれど,「人間社会ってこうだよな」と胃の腑に落ちる名解説を受けた感じなのである。
 高校時代に少し風変わりの社会の先生がいて,目から鱗が落ちるようなことを教えてくれたモノである。その先生が,日本国憲法制定時のドキュメント再現ドラマを見せてくれた時,「GHQの将校達はインテリで,その頃のインテリはみな社会主義思想に嵌まっていた」という解説をしてくれた。その時は特に気にせず聞き流していたのだが,本書でジェローム・ロビンスがアメリカ共産党活動に関わったということを知って,なるほど,共産主義ってのはロシア革命以来,全世界を巻き込んだ一大潮流思想だったのだなぁと改めて思い知らされたのである。
 本書のタイトルである「密告者」とは,戦後アメリカに吹き荒れたアンチ共産主義運動,マカーシズムの果てに行われた「赤狩り(Red Purge)」において,共産主義者の仲間を公表した人間であることを意味する。アメリカ議会下院の非米活動委員会主導で開催された公聴会において,ハリウッドの著名振り付け師・ジェローム・ロビンスは8人,共産党時代の仲間の名前を挙げている。彼が行った「密告」は公開の場で行われており,特に法的な拘束力があるわけではないが,時代の圧力がアメリカ社会を覆っていた時代に共産主義者のレッテルを貼られることは,即,社会的地位を失うことになる。流行に敏感なインテリ揃いのハリウッド著名人は格好の赤狩りのターゲットとされ,一番有名な密告者・エリア・カザンが名指しした俳優は仕事から干されてしまう。ロビンスが挙げた者も同様の憂き目に遭い,ロビンス自身もカザンと同じく「密告者」として,死ぬまで不名誉なカテゴライズから逃れることは出来なかった。友人を売ったのだから当然・・・という断を,しかし,津野はそうやすやすとは下さない。ここからが本書の面白いところなのだ。
 津野は証言台に立ったロビンスの証言が「軽すぎる」といぶかしむ。底には何か理由があるのではないか・・・津野の調査活動が始まるのだ。つーても,資料を渉猟するのがメインなんだけどね。赤狩りについては張本人のマッカーシーが没落して以来,民主主義国家アメリカの汚点として分厚い資料が残されているし,ロビンスの自伝も刊行されているようだ。資料には事欠かない時代になったってのはありがたいことだが,じゃぁそれを全部読めるのかというと,一般大衆にそんな時間は無いのである。そこに津野のような知性と力量の両方を備えた書き手が必要となる所以なのだ。
 結果として,ロビンスが一時期関わったアメリカ共産党の活動状況やそれが可能だったニューディール時代の雰囲気,そしてロビンスを初めとするアーティストが活躍できる場を提供したWPA(Work Projects Association),そしてその反動としての非米活動委員会の成り立ちまで,アメリカ合衆国の戦後史が,マイノリティーだったロビンスの成り上がりぶりとともに,怒濤のごとく語られることになるのだ。ワシが高校時代に聞きかじった知識が,本書の説得力ある文章によって歴史の潮流に触れる糸口になったことを実感したのである。
 ロビンス自身にとって,もちろん「密告者」というレッテルは決して良いモノではないが,しかし,本人は密告後も活発な芸能活動を展開し,20世紀末に天寿を全うした。カザンと比べても随分幸せな生涯を送ることが出来たのは,二重のマイノリティー(意味は本書で確認してね)を抱えてロビンス自身が煩悶し続けたことを周囲の仲間達がよく知っていた,ということも手伝っていたらしい。そしてそのことがまた「密告者」たらざるを得なかった原因だった・・・となると,石持てぶつける気力も失せるというモノである。
 しかしまぁ,人間社会って奴はつくづく不合理なモノを含めたダイナミックなファシズム的圧力,社会運動を内包したガイアだなぁ,とため息が出てくる。本書を読了して得られるのはある種の諦観,そしてまたマイノリティという存在を出来るだけ許容しようという僅かな希望なのだ。どちらが欠けてもワシらの社会は成り立たず,そしてその社会を生きようという気分にもならない。チャンドラーじゃないけれど,「タフでなければ生きられない,やさしくなければ生きる資格がない」,それがワシら人間社会のありようなのである。折角のクリスマス,ロビンスの「踊る大紐育」のように浮かれるだけじゃなく,津野の本を通じて少しは内実のある思索に耽ってみるのは如何?

西尾鉄也・押井守「わんわん明治維新」徳間書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-19-950280-4, \800
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 「押井節」という言葉が意味するモノがなんなのかの議論はマニアの方々に任せておくとして,ワシにとってのそれは「徹底したリアリズムに基づいた批評眼が語らせる長ゼリフ」のことである。復刊が当初予定より3ヶ月後ろにずれて青息吐息のComicリュウに連載されていた大演説「勝つために戦え!」を堪能してたワシは,リュウの休刊前に始まったこの連載も楽しんでいたのである。その連載を纏めた本書は,今やみなもと先生生存中の完結を絶望視されている「風雲児たち」のダイジェスト版として,押井守のブツブツグチグチにまみれながら,明治維新の立役者のピリ辛論評を西尾鉄也の端正な絵で楽しめるのだから,大変お得な一冊なのである。
 西尾と押井の掛け合いで人物評を語るエッセイマンガの体裁だが,その中身は本当にリアルかつシニカルな視点で統一されている。とかくロマンと感情論に流されがちな人物伝とは180度異なる。それは作中何度も繰り返される「表現者は自己実現に生きてもいいけど革命家はダメ」「革命家は生き残って歴史を作ることが主題なんだから」(P.150)という押井の持論が貫徹されているからである。それだけ聞くと,暑苦しいおっさんの繰り言っぽくてイヤだなぁと思う向きもあるかもしれないが,そこは心配ご無用。容赦ない西尾の突っ込みが清涼感を与えてくれるようにできている。この両者の掛け合いがうまい具合にリズムを与えていて,躍動感溢れるエッセイマンガに仕上がっているのだ。ま,押井守を引っ張り出してきた大野・元リュウ編集長の助言も大きいようではあるが。
 「風雲児たち」のように,長く続いた大河マンガはどうしても作者の成長と老いが作品の勢いを削いでしまいがちになる。最初にもくろんだ意図が知識の習得とともに変化し,違和感が出てくるということもある。それはそれで仕方ないし,そこが長い作品の魅力の一つではあるのだが,やはり読者としてはコンパクトに歴史上の人物を語って欲しいという向きが世間的には多いはず。司馬遼太郎のように,結局何を言っていたんだっけとなってしまう,文学的に曖昧模糊としたものを読むよりは,本書のように押井節で貫徹したショートエッセイマンガで概要を知る,ということも時には必要だ。少しずぼらでシニカルになった中年以降の人間にとってはマイルドな読後感を,「龍馬が行く」に感動したての熱血青年にとっては愕然とする効果を期待できる本書は,年末の喧噪の最中に「革命」の本義を考える時間を与えてくれる良書なのである。

シギサワカヤ「さよならさよなら、またあした」新書館

[ Amazon ] ISBN 978-4-403-62129-1, \590
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 ワシにとって,シギサワカヤはエロ漫画家だった。シギサワの柔らかい描線は,プニプニしている裸体を白く輝かせ,紙面から浮き上がらせる。それは読者の健全な性感帯を挑発せずにはいられない。2009年から刊行されている女性向けエロ恋愛漫画アンソロジー「楽園」で,創刊号から最新Vol.7まで途切れなく表紙絵を担当しているのも,その描線が醸し出す上質なエロさがキャッチーだと編集者が判断したためであろう。
 そのシギサワが新書館という緩くてお堅い出版社から初単行本を出した。それがこの「さよならさよなら、またあした」である。「楽園」愛読者であるワシが,その先入観から何を期待して本書を買ったかは言うまでもない。
 結論から言うと,その期待はある部分満たされた。しかし,全く予期しなかった新鮮な驚きも与えてくれたのである。それは今までシギサワに感じてきた,表面的なエロさを支える「土台」が何であったかを確信させるものだったのだ。まだ2011年が10日も残っているこの時期,早々に今年のマンガを総攬するムックを出版している宝島社とフリースタイルには大いに反省して頂きたいものである。今年一番の収穫物を逃したよ,と。
 本書は一人の病弱な少女が大人になるまでを,4つの異なる視点から描いた短編を編んだものである。病名は明らかにされないが,主人公の持病は結構深刻な難病であるらしく,両親は彼女のために郊外にどーんと一戸建てを購入,入退院と手術を繰り返しつつも,高校卒業の日を迎えることができた。その彼女が卒業記念(?)にとった行動は,軟弱そうな理科の教師に結婚を申し込むことであったのだ。
 ・・・と書くとシリアスな難病少女の恋愛物語と取られそうだが,そうではないのだ。いや,確かにシリアスさは確固としてあるのだが,軽いのだ。かっとんだギャグトーンが随所に織り込まれ,主人公に至っては自身の難病すら,級友との話のネタとして使い倒しているのだ。
 深刻ぶらない病弱ストーリー・・・とは違うことは確かだ。人間は誰しも死ぬ,遅いか早いかだけだ,というセリフのオリジナル出典は知らねど,これは事実。それを深刻に考え込まず,そ知らぬふりしてやり過ごしたりして「日常」を生きるのが「普通の人」なのだ。そしてこの病弱主人公もそんな「普通の人」の一人なのだ。普通の人だからこそ,病気も性癖も恋愛もセックスも織り込んだ「日常」を過ごす術に長けているのだ。本書で描かれるのはその「日常」であり,「普通の人」の普通たる所以がエンターテインメントになっているのである。
 シギサワの既存作にはさまざまな男女の人間模様が描かれる。セックスが重要なアイテムであることは確かだが,それは必ずしも甘美なものではない。男性向けエロ漫画の大半ががオナニーのための道具であるのに対し,シギサワのエロは女性向けの,ある種の深刻さをはらむ痛々しい側面を持つものなのだ。語り口がギャグ調からシリアスに転じるテンポの見事さは,めまぐるしく変化する事象とそれに応じて振り回される人間の感情の正確なデッサンなのである。シギサワはその事象にセックスを大胆に取り入れつつ,刹那的なエロさが日常に溶け込んでいく様を描くのが抜群にうまい。本書収録作には直接的なエロい肉体表現は皆無だが,「エロさ」は十分盛り込まれている。このあたりが緩い新書館向けに合わせたかなぁ,と思われるが,それを一つのチャレンジとして見事に昇華させているのはさすがである。
 本書の場合,タイトルである「さよならさよなら、またあした」というのがまた秀逸なのだが,それは読んだ人のお楽しみとしておこう。・・・ありふれている? 確かにそうだが,そのありふれたことを胃の腑に落とすシギサワの「説得力」を堪能できるってのがいいんだよ。シギサワに馴染のない方でも,シギサワのエロさがお好きな向きも読んでみませう。新しい年を迎えるこの時期に相応しい一冊である。

石原繁・浅野重初「理工系入門 微分積分」裳華房,石村園子「すぐわかる微分積分」東京図書

「理工系入門 微分積分」 [ Amazon ] ISBN 978-4-7853-1518-4, \1900
「すぐわかる微分積分」 [ Amazon ] ISBN 978-4-489-00406-3, \2200
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 あーめんどくさ。複数の教員が担当する「微分積分/演習」のテキストを統一するための会合があり,何だか知らないけれどワシが議長役をしろということになった。
 で,大もめ。
 元々,ワシ自身がリーダーシップを取るつもりもなく,現状,テキストが統一されていない状況を理解するためのご意見拝聴に相務めようという態度で臨んだせいなのだが,その煮え切らない態度に怒った方がいらっしゃるのは当然として,そもそも今まで培ってきた教育手法も考慮せずに統一なんて乱暴極まりないというご意見の方もいらっしゃって,面白かった・・・のだが,正直疲れた。政府の審議会で喧々囂々の議論を纏めるなんて良くやるよなぁ・・・ホント,議論ってのはタフじゃないとやってられないなぁとつくづく感じた次第である。
 で,そこで出たテキストの候補がここで取り上げる2冊なのである。石原・浅野の「理工系入門 微分積分」(以下,「石原・浅野本」と称する)は,矢野健太郎の流れをくむ正統派テキストの簡易バージョン,石村園子の「すぐわかる微分積分」(以下,「石村本」)は,共立出版の「やさしく学べる」シリーズ(ここでも離散数学テキストを取り上げたことがある)と双璧をなす,「すぐわかる」シリーズの一冊で,穴埋め形式の演習問題の解答法まで教授してくれるバカ学生向けテキストである。両者とも,一変数関数の微分積分から二変数関数の微分積分までフォローしており,石原・浅野本が常微分方程式まで扱っている点を除けば,ほぼ守備範囲は一致している。
 また,どちらもロングセラーで版数・刷数が半端じゃない。石原・浅野本は1999年初版で,2011年2月に第16版第4刷,石村本はその6年前,1993年に初版,ワシが貰った2008年のものは第37刷である。理工系大学生向けのテキストとしては間違いなくベストセラーと言える。両者とも,主たる使用者の大学教員に支持されているからこそこれだけ売れているわけで,それぞれのテキストに惚れるという合理的理由もちゃんとあるのだ。だから,この両者のどっちかを選べと言われると揉めるわけである。いいじゃんテキストなんて好きなもの使って,結果として微分積分が理解できれば問題なし,とワシ自身はそう考えるのだが,世の中そー考えない方もいらっしゃって,まぁめんどくさいことになってしまうのである。
 「やさしく学べる離散数学」でも述べたが,偏差値40前半以下の学生さんを相手にしていると,「数学」というものを根本的に勘違いしたまま教えられてきた,という事実に気がつく。彼らの多くは単なる記号操作(=計算手法)の暗記と訓練を数学と思っているのだ。まぁ,彼らを相手にしてきた高校の先生方にしてみれば,それで十分と割り切ってのことなんだろう。実際,二次方程式の解の導出方法なんかすっかり忘れ,解の公式だけ覚えている,なんてのが日本の標準的高校生の実態なのだから,標準以下の生徒は計算方法を習得しただけマシ,と割り切るのも無理もないことなのである。
 とはいえ,これだけフツーにコンピューターが氾濫し,スマホですらDual-core CPUを積んでいる時代になると,少々重たい記号処理操作でもソフトで易々と実行できてしまう。計算方法の裏に潜む理論体系を知り,理論に基づいた真の「数学」の運用こそが人間本来の仕事であり,ICT社会になった今こそ,計算は機械に任せて本来の仕事に勤しむべきなのだ。その点,日本の高校生(に限らないけど)の数学力は世界最低レベルと言えよう。何せ,計算機械の方が何万倍(どころじゃないか)も優れている操作を,超低速な人力で再現しておしまいってんだから。最低でも,所謂「応用問題」が出来なきゃ数学を勉強する意味が無い時代になったということは認識して欲しいものである。
 だもんで,大学教師は躍起になって本来の「数学」を教えさせられる羽目になる。いや,数学以前の国語も含めて,全部やり直しになるのだ。答案の書き方,論述の仕方,「式」が単なる記号ではなく,意味を持った「文章」なのだということ・・・,まぁメンドクサイったりゃありゃしない。しかし,これが重要,かつ,専門科目への登竜門となる学習内容なのである。理論体系の存在に気づき,「体系」に基づいた記述方法を習得できないと,彼らは「数学」を学んだことにはならず,コンピューターに取って代わられる存在に留まるのだ。
 で,その本来の「数学」を教えるための教材開発をせっせせっせと行ってきたのが,「大綱化」がなされて教養課程が崩壊した1990年代からの歴史なのである。同時に,大学も山ほど作られた結果,本来なら大学生とは呼べないレベルの人達も受け入れざるを得ない状況になった(大学もある,ということ)。そうなれば,ますます教材としてのテキストは多種多様なものが必要となり,それこそ「微分積分」と「線形代数」の入門書は佃煮に出来るほど出版されることになった。結果として,教員の教授法にあったテキストが選ばれて,熱心な教員ほどテキストに依存したノウハウが増えて執着度が増す,ということになるのである。そのような事情を無視し,十分なFD的議論もせずに無理して統一を求めれば,揉めるのも当然のことなのだ。石原・浅野本を好む向きは,説明が不足している分を埋める講義を熱心に行い,石村本を好む向きは,自学自習の共として演習問題の解答をこのテキストに従って書かせるのだ。どっちがどう優れているかなんて決めようがないではないか。学生の理解度に違いが出るとすれば,それはテキストのせいではない,教員の資質の問題なのである。
 ・・・とゆーことを全部報告書に書いたのでは字数がいくらあっても足りないので,オミットした歴史的経緯とテキストの紹介文についてはこちらに書いておくことにしたのである。