[ Amazon ] ISBN 978-4-04-726899-9, \740
ワシは文学に暗い。芥川龍之介なんて,せいぜい国語の教科書に載っていた「杜子春」「鼻」ぐらいしか読んだことはない。本書のタイトルだって「すみえどうしゅじん」と読んでいたぐらいだ。正しくは「ちょうこうどう」であるらしい。従って,この主人公たる「澄江堂主人」,すなわち芥川龍之介をモデルにした本作に,どこまで山川の「創作」が混じっているのかを判断するだけの知識をワシは持っていないのである。だもんで,以下のうだうだは全て純然たる山川直人のマンガとしての記述である。文学史的なウンチク話はよその誰かにお願いしたい。
で,山川直人だ。古くから創作系同人誌即売会「コミティア」では異彩を放っていた作家である。プロデビューも1988年と古く,実力は古くから一部では知られていた・・・筈であるが,少なくともつい最近になるまで,ワシはあまり興味がなかった。ペンによるカケアミを多用した温かみのある画面に,ビンボ臭い2頭身キャラ達が物憂げに人生を送っている,という文学的童話に似た作品は,つげ義春を知ってしまったワシにとってはちと物足りないものを感じさせたのである。つげ作品が「悲惨な街の安全運転」(by 赤瀬川原平)と形容されるのであれば,山川作品は「暖かい街で飲むほろ苦いコーヒー」という「程度」なのである。どちらがいいというものでもないが,ある程度以上の年齢の大人が安心して読める読み物としては山川作品に軍配が上がり,もっと「深淵」を覗きたい向きが否応なく求めてしまう「文学」がつげ作品なのだ,と,ワシは感じているのである。
とはいえ,山川作品は,同じペン画であるにしても,つげ作品にはない暖かさと豊かさを感じさせる独特の魅力的な画を持っていて,これが一番の強みであることは確かだ。近著である「ハモニカ文庫」は,掲載誌が生ぬるい4コマ雑誌だから仕方ないとは言え,ちと甘すぎかなと思えたけど,「ほろ苦さ」は効いており,そこそこ面白く読める。・・・なんかワシ,持って回った言い方で微妙に批判をしてしまうなぁ。しかし,実際,いまいち物足りないと感じているのだから仕方がない。どうも,山川直人の作風は,今の日本の重苦しさに比して「軽い」と感じてしまうワシがいるのである。だもんで,いまいち,エンターブレインから刊行されている作品集にも手が出なかったのだ。
今回,山川が差し出してきたこの「澄江堂主人」,いつもの山川作品集ならスルーしていたところであるが,一見して手にとって書店のレジに差し出したのは,帯にある「芥川龍之介」の文字が決め手となったのである。自殺した文学者を描いたドキュメンタリータッチの,シリアスな作品に挑んだのだとワシは思ったのである。
で・・・読んでみたら,う~む・・・確かに「芥川龍之介」がモデルになっていけれど,これは純然たるいつもの山川ファンタジーではないかと,ちょっと拍子抜けしてしまったのだ。どん底に陥らないという安心感漂う,温かみのある物語になっている・・・少なくとも,この「前篇」と銘打たれた本書を読む限りは,そうなのだ。ぼんやりした不安感が主人公・芥川に付きまとっていることは説明としては理解できる。しかし,幻影として芥川自身が,そして周囲が見る「死」の表現は,どこかユーモラスなのだ。いい枝ぶりの木で縊死している芥川の姿には「ぶら~ん」という能天気な擬音が付き,やせ細った姿を見た子供に「オバケ!!」と叫ばれた芥川は,おどけた姿で「ひょい」っと「オバケ~」とポーズをとって見せる。どれもジョークには至らない,ブラックユーモア「風味」なのだ。この表現は何なのだ? ・・・とワシにはまだ解せないものが感じられる。きっとこの先,中編,後篇(まさか完結編まで行くんじゃないだろうな?)・・・と物語が進展するにつれて,この明らかな作為の所以がワシら読者に示されるのであろう。現時点ではそう解釈しておくことにしたい。
そうそう,「作為」と言えば,最大のものがあった。この「澄江堂主人」に登場する明治・大正・昭和初期の文人たちは全員,「漫画家」なのである。「吾輩が猫である」も「羅生門」も漫画であり,短歌や詩は四コマ漫画に置き換えられている。今のところ,文学作品を漫画作品と置換しているだけのように見えるが,これも何かの仕掛け,なのであろう。その謎もそのうち明らかに・・・なるんでしょうね? 山川先生。
従来の山川作品に満足していなかったワシを,どう引き回してくれるのか,それとも「やっぱりいつもの・・・」で終わるのか,その帰趨を見るためにも,ワシは続刊を3年ばかり追いかけてみようと思っているのである。結論は,完結した後に書くことにしたい。
平川克美「移行期的混乱 経済成長神話の終わり」筑摩書房
[ Amazon ] iSBN 978-4-480-86404-8, \1600
一気通貫・・・にはとても読めなかった。読了までにひと月以上かかっている。読書の時間が取れなかったという事情もあるけど,それはいつものこと。読み始めて「これは面白い!」と思えば,全ての用事をほったらかしても読み終わるまでは本に噛り付くのだが,本書はそーゆー読み方ができなかった。面白いことは面白いのだが,読み進むにつれてこちらの気分が重くなってくるのだ。陰鬱な時代の空気を反映していることは確かだが,本書の書きぶりはそれ以上に厳しい「自省」を強いるのである。以前読んだ釈徹宗の著作もそうだし,江弘毅にもその気があるのだが,どうも内田樹系列の書き手は自己批判を織り込んだ物言いをするので,まことに信頼がおけると同時に,読者にも自然と自省を強いることになる。プロパガンダとは正反対の抑制的な物言いは,高揚感とは逆のベクトルの重苦しい自省をもたらす。本書は,それゆえに現在の日の本の過去・現在・未来を荒っぽくも的確に表現したデッサンであると言える。
以前にも述べたが,評論家の物言いの癖として,「悲観論テンプレート」なるものがある。未来予測を楽観的に述べると外れた時の批判がきつくなるので,ついつい悲観的な予測を言ってしまうというアレである。本書がその中の一冊かどうかというと,そうとも言えるし,そうでないとも言える。しかし今の日本の置かれた経済的・国際的・国内的状況を鑑みて,高度成長期のような高揚感を伴った楽観論を語れる人間は皆無だ。客観的に見て,積みあがった膨大な国債を前に大丈夫何ともないと一言で切って捨てられるのは亀井静香か小林よしりんぐらいだろうし,人口抑制策が効いているとはいえ,経済力の成長に伴って国家主義も膨れ上がってパンクしそうな中国と隣国として付き合っていかねばらないのも,やりきれない気分にさせられる(あちらもそう思っているかもしれないが)。高齢化は進む一方で労働力は減る一方,ゆとり教育の影響で若い奴らの学習意欲は下がる一方だと喧伝されれば,まぁ明るい未来を思い描く方がバカ扱いされても仕方がない。著者もそのような日本の状況を次のように述べている。
高度経済成長から相対安定成長期までの戦後の半世紀とは,下層中流の人々が一生懸命働いていればそれなりの恒産ができるようになるまでの時間であった。
(略)
90年以降の日本は,都市化,民主化,消費化の頂点に向けてひた走っていたつもりが,前世代の築いてきたものを文明の進展と同じスピードで蕩尽してきたかのようにさえ思えるのである。(P.259)
荒っぽいけど,正確な現状の「デッサン」であると認めざるを得ない。
本書で著者が言いたいことはただ一つ,現在の日本の状況はどの文明であれどの国であれ普遍的に起こる不可避な「移行期的混乱」であり,過去の成功経験を繰り返すだけで乗り切れるような代物ではない,ということである。基本的にはエマニュエル・トッドの著述から得た見解をベースに,日本の状況に当てはめてごく控えめに,そして内省的に応用展開を図っている。根拠となる客観データは第1章にまとめられていて,ワシもどこかで見たことがあるようなものばかりだ。重要なのは図表1の日本の経済成長率の推移,そして図表4の日本の人口予測カーブである。これらに基づいて,日本のこれまでの状況とこれからとるべき「態度」を,内省的な書きぶりで,著者の生い立ちとビジネスの経験を踏まえてつづっているのが本書なのである。 だから,読み進むにつれて陰鬱な気分に陥るのも当然なのだ。
かてて加えて,平川の書きぶりの根本には「原理的な問題」を探索しようというぶれない軸が存在する。これが更に「重苦しさ」を増しているのである。何故ならば・・・
原理的な問題には,答えというものがない。ただ,永遠に繰り返される問いの変奏があるだけである。それでも,自分たちの生きてきた時間の証として,新たな問いの変奏を付け加えることには意味があると思って作業を続けてきたのである。(P.8)
・・・いやぁ,まことにスカッとしない物言いである。しかし正しい,としか言いようがない。現代の論理を支える哲学の根本原理がトートロジー,すなわち同語反復だけに依存している,ということを文学的表現に「変奏」するとこういう文章になるのだろう。故に,本書は原理的な問題への追及を止めないのだ。追求し続けること自体が「意味を持つ」と言うが如くに。
本書の主張は,聡明な経済学者や社会学者,評論家が述べていることに共通するもので,それ自体に新味があるというものではないし,それは平川が目指したものではない。原理的な問題を掘り進めていけば,それはそんなに沢山あるものではないし,自然,他の論者と論点の共通要素が多くなるのも当然である。「問題山積国家・日本」という主題に興味を持つ読者なら,本書の主張はすんなり受け取れるだろう。
しかし本書がたくさんの読者に支持されているのは(既に3刷だそーで,めでたい),主張そのもの以上に,その主張を述べるこの平川の「態度」こそが,共感を得ているからに他ならない。「こういう物言いをする人の言うことなら信用しよう」という読者も多いだろうし,そこから「こういう物言いをする人になりたい」という新たな市井の論者も誕生することだろう。そうなれば,あけすけな物言いの中にブラックユーモアを織り交ぜたりして社会のトランキライザーとして機能する人々が増える筈だ。適切に自己の感情をコントロールして,社会システムのスタビライザーとなる人々がこの日の本に点在することになるのだ。
「原理的な問題」をどう考えるか,どうしてそれを考えることが大事なのか・・・そんな当たり前のことを訥々と語る「大人の態度」というものを再認識させてくれる本書は,年末の慌ただしい時間を過ごした後に,ヒートアップした頭と体をクールダウンさせるにはぴったりの漢方薬として機能することだろう。
殿山泰司「JAMJAM日記」ちくま文庫
[ Amazon ] ISBN 978-4-480-03155-6, \950
映画「三文役者」に入れ込み,原作である新藤兼人「三文役者の死」(岩波現代文庫)でさらに感動を深めたワシであるが,「三文役者」たるご本人・殿山泰司の書いたものを読んだことはなかったのである。ジャズやミステリーが好きで,エッセイも書きまくっていた殿山の著作は何度か書店では見かけているので買う機会はあったのだが,三十路台の時は特に関心も払わずスルーしていた。だもんで,この度,筑摩書房が品切れ状態だった文庫を一気に50点,読者のアンケート結果に基づいて復刊させた中に本書が入っていたのを機に,ワシは殿山泰司ご本人の文章と初対面したのである。
結論から言うと,大変面白かった。本書はタイトルに「日記」とある通り,1975年(昭和50年)11月から77年3月まで,日々感じたことを躍動感のある文体でつづったエッセイである。初単行本化が1977年,1983年に角川文庫に入り,1996年にちくま文庫へ移籍,それが2010年に3刷として復活し,ワシの手元にある。大体,一日1~2ページの分量でコンパクトに印象的な出来事が殿山文体で描かれている。論理的な繋がりよりは感性重視でドカドカ突き進み,時々感極まって「ヒイッ!」とか「ヒヒヒヒ」とか「バカヤロ!!」という,自身に対しての罵倒のようなトノヤマ的「独り言感嘆詞」が挿入される。これがいいリズムになっていて,多分,ジャズの影響なんだろうなぁ,いい具合にスウィングしているのだ。
そんな生きのいい文章は,殿山泰司の人柄もよく伝えている。新藤兼人は殿山を「三文役者」,すなわち,向上心,野心というものを持たない分をわきまえたバイプレイヤーと見ているが,それは殿山自身の性癖によるもので,だいぶ若いころから「なすがまま」を体得していたと思える。それは全く努力をしていない,ということではなく,仕事となれば全力で当たり,監督から求められている「絵」をきちんと差し出している。本書の最初でも大島渚・監督作品「愛のコリーダ」の撮影で奮戦する様が得意の感情表現入りで語られているが,依頼された仕事はきっちりこなすプロ根性を「含羞」で包んでいるような感じがする。面白いのでこの箇所を引用しておこう(P.22)。
とにかく(出演作の「愛のコリーダ」が)ハード・ポルノですからね,チャンとやらなければいけないんだ。出演の諸兄姉がチャンとやっておられるのにはつくづく感心した。オレのその乞食の役は,アレがチャンとなってはいけない役なので,チャンとならないようにチャンとやらないと,チャンとやったことにはならないことになる。そのためにオレは,値上げになった新幹線や値上げにならないオレのギャラのことなど,頭の中で回転させたが,その必要のないほどチャンとならなかった。だからチャンとやれたことになる。チャンチャン!! よくわからんなア。
本人は勢いだけで書いているのだろうが,この短い文の中にトノヤマの人柄がぎっちり詰まっているように,ワシには思えるのだ。自分の奮闘ぶりを描きつつ,それでいてバイプレイヤーとしての弁えと共演者への気遣いは失わず,諧謔的にまぜっかえしつつも待遇への不満を混ぜ込んだりして,なかなかの名文家であるなぁと,ワシは感心したのである。他にも,桂米朝のラジオ番組で「いつもオンナのハナシばかりされているから,きょうは芸談でもお聞きしたいんですがね」と言われて仰天し,「ボクは芸談なんかやれる役者じゃないですよ,芸談ならボクが師匠におききしたいなア」(P.64)と遠慮したりと,殿山の「前に出ない」人柄が伝わってくるエピソードに事欠かない。そりゃ,こーゆー可愛げのある人物は,女性から好かれるに決まっているワイ,アンタ,還暦過ぎてオンナもアソコもダメになったって言ってるけど,いい意味のスケベ心は失っていませんな,それをイヤミなく吹聴して人を楽しませるリッパな芸をお持ちじゃないですかア,ヒヒヒヒ・・・なんて言いたくなってくる。
いや全く,読んでいて楽しくなるエッセイである。癖になりそうだ。殿山死んでもエッセイ残す,21世紀も文章で魅了するのであるなぁ。いや,筑摩書房,いい本を復刊させてくれました。投票で選ばれるのも当然だけどね。
石村園子「やさしく学べる離散数学」共立出版
[ Amazon ] ISBN 978-4-320-01846-4, \2000
今の職場で離散数学の入門クラスを教えていることを共立出版の営業さんにお伝えしたところ,毎年のようにこのテキストを送って頂いている。実際,本書を使って講義を行っている教員も本学にはいるし,掛け値なしにいい本であることはワシも認めるし,実際よく使われているようだし(2007年出版,2009年で5刷になっている),共立さんがプッシュする理由はよく分かるのだが,正直,今のワシとワシの講義の受講生にとって,本書がふさわしい,とは言えないのである。毎年律儀に本書を贈呈してくれている共立さんに申し訳ないので,ここで何故本書をテキストとして採用しないのか,ということを縷々説明しておきたい。
理由は大きく3つある。最初にそれを提示しておくと
1. ワシの講義の受講生の多くは本書の導入部分以前のところで躓いている。
2. ワシが狙いとする,受講生に学んでほしい「数学的概念」の習得には説明が冷たすぎる
3. ワシにとっては「離散数学」はコンピュータというものを理解し使いこなすための道具にすぎず,目的ではない。本書の記述はコンピュータとの接点が少なすぎる。
となる。
まず1について。本書に限らず「離散数学(discrete mathematics)」の定義は曖昧模糊としている。微分積分に代表される解析学ではない数学的概念全部じゃねーかというぐらい,対象が曖昧模糊としているのだ。だもんで,ちみっと大規模書店(じゃないと数学書なんて扱ってないのよ昨今は)の数学書コーナーで「離散数学」という単語を含んだ入門書をパラパラめくってみれば,集合・写像・関係ぐらいはほぼ共通,グラフ理論・命題論理・ブール代数や述語論理・代数系・デジタル論理回路まで来ると,だいぶ選択肢が広がって,扱っているものもあれば扱っていないものもある。それ以外となると,もう著者の好き好きで決定されるとしか言えないほどバラエティに富んでいて,画像処理に繋げるものもあれば,Prologなどの言語系に繋げるものもあれば,高度なグラフ理論とそ応用(サーチエンジンとか)に繋げるものもある。まぁそれだけ便利にいろいろな分野で使われている概念であることは分かるのだが,正直,高校数学をしっかり学んできたとは言い難い学生には,ことに高校数学との接点が薄いこの分野の学習は相当の「飛躍」を要求することになる。
現状,ワシが教えている1年生前期の「情報数学基礎」の内容は,本書の第1章「集合と論理」,第2章「関係と写像」を薄くして半期の2/3以上を費やしている。学生のレベルが低い,と言うのは簡単だが(いいよな定年まで数年を切った年寄り連中は無責任でよぉ!),どうも聞いてみると,高校以前の教育に手抜きが横行しているせいではないかという感もある。できない学生にはできないなりに手をかける(内田樹流にいうなら「おせっかい」する)必要があるのだが,お前さんは簡単な「計算操作」だけやっていればいい,と,早期に仕分けられてしまったような感じがするのだ。だもんで,まず本書に入る前段階の,本来の意味での数学とは理論体系であって,計算操作はその一端にすぎない,というパライムシフトの必要性から解説し,その思考のシフトに必要不可欠だが高校以前の数学で欠落している知識を必要最小限フォローアップして教え込む必要がある。本書はその要素が決定的に欠落していて,いいよなぁ~,千葉工業大学の学生さんはレベルが高くってさ~・・・と嫌みの一つも言いたくなろうというものである(いやお前ん所が低すぎるんだと逆襲されそうだな)。
これだけ言えば2の指摘はご理解頂けるだろう。ちゃんと読めば本書の解説はとても親切で親しみやすいことがは分かる。このようにきっちり初学者向けの解説書がワシの大学生の頃にあればなぁ~・・・と嘆息しちゃうぐらいなのだが,しかしそれは上記のような学生にとってはまだまだ敷居が高く,こういう「語り口」ではダメだと,少なくともワシはそう思っているのだ。もっと泥臭く,数学的思考というものがアカデミックな土壌に必要な理由を具体例から掘り起こさないと,救い上げは困難を極める。大体,今まで「数学はいいから(やさしいレベルの)計算操作だけやってなさい」と放置されてきた人間に,「理論体系」なんてものの存在を認識させなきゃならないんだぜ? たくさんの知識があるからこそ体系化の必要性が理解できるのであって,いきなり「体系がこれだから覚えろ」って言われても,それは単純作業としてしか認識されてこなかった,狭い意味での数学だけを扱っているのと大差ないじゃないの? ましてや,計算操作より先に敷居の高い「概念理解」を要求する離散数学とあっては,ちと厳しいと言わざるを得ないのである。
だもんで,ワシが望むとすれば,とぉおっても現実的で身近な事象から語り始めて,その中から「概念」を引っ張り出し,その概念を意味づけする定義とか定理は一番後にくる,いわば高校数学以前の教科書と同じ形態のものなのである(これは某出版社長の入れ知恵なんだけどね)。
・・・ってことを現実化するために,現在鋭意自分なりに工夫した(しすぎたかも)「情報数学基礎」のテキストを共著で執筆中なのである。敷居は思いっきり下げて,中学レベルの数学をこなしてきた,漢字かな交じりの日本語が読める我慢強い人間なら少なくとも解説部分は理解できるよう,咀嚼して咀嚼して咀嚼しすぎてゲロになっちゃたような記述がてんこ盛りなので,読者はともかく(ともかくなのかよ),書いた本人はすっきりしちゃっているのだ。気分としては飲み屋でトイレに駆け込んだ後に「さぁ吐いた分飲み直してやるっ!」という感じ。・・・いやまぁ,石村先輩(学部違うけどな)の端正で的を射た解説とは逆方向のねちっこい関西風味のテキストを書いてしまったのであるが,それは本書みたいな「ちゃんとした入門書」があってこその余芸なのである。
ワシ(ら)のテキストではついでに,どーせねちっこく解説するなら,コンピュータとの絡みを解説したコラムを書いてしまえと,離散数学の知識をコンピュータと絡めて覚えられるような解説も加えた。この辺も,純粋に数学的知識を解説した本書とは別のベクトルを持っている。3で述べたような不満を覚えたことに対する,自分なりの回答のつもりなのである。「何の役に立つの?」という絶対に出てくる疑問にはちゃんと答えておかないのいけない。離散数学の場合は「コンピュータ」という代物の理解には不可欠だから,まだ分かりやすくていいけど,この機会に自分の言葉で書いておきたかった,ということもある。
だから,本書のように,集合と命題論理から語り起こして代数系からグラフ理論まできちんと(一定以上のスキルのある学生にとっては)分かりやすい解説書が存在することで,ワシ自身は存分に遊ばせてもらい,自分が今対面している学生向けにどう離散数学の基盤的知識を教え込めるかを追求できたとも言える。今の日本の大学の現状から言うと,地方国公立大以上,私大ならMARCH以上のレベルの学生なら,本書はいい入門書と言えるのではないか? 線形代数とか微分積分なら石村先輩のこのシリーズはうちでも結構使えるものなのだが,どーもこの離散数学だけは敷居が高く感じられる。それは学生のレベルもさることながら,最初に述べたように,「離散数学」そのものがとても広い漠然とした数学領域を示す言葉であることも影響しているのかもしれない。
田丸浩史「ここ10年分のヒロシ」富士見書房
[ Amazon ] ISBN 978-4-04-926268-1, \1200
もうここでは何度も何度も何度も何度も書いたが,ほんっっとに日本のエッセイ漫画の殆どは「ダメな自分を笑って下さい」という判で押したような体裁を取っている。そういう姿勢の方が読者の共感を得やすく,妙な嫉妬心を刺激することなく「ばっかで~ははは」とか「そうそう俺(私)もそう思うし」という無害な小市民的連帯感だけを掬い取ることができる,ということもワシはここでは何度も何度も何度も何度も書いてきたわけである。つまり一言でいえば,そーゆー体裁を取ることが「ベタ」なのであり,それこそが日本のエッセイ漫画の「王道」でもあるわけである。
しかしそんな態度を取れるのは新人のうちだけだ。だんだん冊数を重ねるにつれ,つまりは,冊数を重ねるほどの売り上げと人気を誇るようになってくると,そんな態度にも綻びが生まれ,ついには隠しきれなくなる。なおもダメさを強調するとそれこそが痛々しい,とゆーか,そらぞらしい,ということになり,開き直って金を使いまくる様を描いてしまったりするようになって,中村うさぎが生まれたりするのである(マンガじゃないけど)。
しかし,彼らにも同情すべきところがないわけではない。どれほど長期間活躍しようと,どれほど自著が売れようと,売れない頃に抱えてしまった劣等感からは逃れられず,ついつい福満しげゆきのように,どうかblogとかにこの漫画の感想を書いて下さるとありがたい,ってなことをあとがきに書き続けてしまうのであろう。綺麗な嫁さん貰って大手雑誌の連載2本抱えて子供まで作って都営住宅からも離脱した立派な社会人のくせに,いつまでもいつまでもいつまでもいつまでもうじうじと「下から目線」的物言いを続けてしまうのは,まぁ,仕方のないことかもしれない。あのエッセイスタイルが定着してしまったからには,開き直った福満など,誰が読むもんかと言われかねないところもあるしなぁ。
にしてもさ,田丸浩史ってちと微妙なところにいるよなぁ,と思うのである。「オナホール=田丸浩史」というほどロリコンダメヤンキー系漫画家として定着した田丸であるが,さすがに40歳近くまで途切れずに雑誌連載を抱え続け,2010年夏コミではカタログ表紙まで描いてしまうほどの人気(?)を誇るようになってしまうと,自分でも「ダメ」を売り物にするのがいい加減限界だということに気付いていると思うのだが,どうか? 本書「ここ10年分の」田丸浩史を読む限り,「オナホは親の仇なのでサイン会持ち込み禁止」(2009年11月)ときっぱり断言するまで「成長」している訳で,231ページにおいてはさりげなくパツキン(かな?)のこじゃれた女の横に小さく「彼女」と書いているのを見つけたダメ田丸の愛読者だった奴はここで本書を壁に投げつけたに違いないのである。
つまり,「ここ10年分」ですっかり大人,っつーか,オヤジ化している田丸を本書ではジワジワと見せつけられるのである。
良いことである。
人間たる者,社会の中でもまれ続けている限り成長してしまうものなのだ。田丸はとうとうオナホールを捨て,真のお(省略)に目覚めたのである。祝おうではないか諸君,未だにひとりお(略)から脱しきれない「童貞コジラシ組」なキミ,田丸とともに,そして「おもちゃのさいとう」に集うヤンキー舎弟達とともに,エアロバイクで腹回りの脂肪を減らしつつ,大人(オヤジ)の階段登ろうではないか。そしてヘルメット内側にこびりついた加齢臭をくんかくんかしようではないか。
それにしても,この入手した単行本,発売1か月半で再版されたものであることを考えると,日本にはいかにダメ田丸の愛読者が多いかを思い知らされる。彼らが田丸同様,オナホール呪縛から脱しきれるかどうか,今後の日本社会における若い男子の動向をしばらく眺めていたいものである。