[ Amazon ] ISBN 978-4-10-130391-8, \514
今年(2010年)のNHK大河ドラマが,福山雅治主演の坂本龍馬だというので,ドラマ開始前からドカドカ便乗本が出版された。柳の下に何万匹のドジョウがいるのか知らないが,一応,出す側も少しは頭を使っているようで,差異化を図るべく,個性を出そうとしている様子は見られて微笑ましい。個人的に気になったのは,「坂本龍馬ってホントはどうだったの? 何をした人なの?」という素朴な疑問に対して答えるもので,結局ワシは買わなかったのだが,TBSラジオ Digでは2010年5月7日放送分のPodcastで聞いた,加来耕三さんの言説が面白かった。これ聞いていると,ちゃんと弾道計算が出来た理系頭のやんちゃ者ってイメージが生まれてきて楽しくなる。司馬遼太郎の小説で過大評価され過ぎって指摘はその通りで,それはやっぱり「龍馬がゆく」が小説として出来が良かったせいなんだろうなぁ。
でまぁ,その数ある便乗本の中で,群を抜いて下らない(褒め言葉です)ものが新潮文庫から出たので,忘れないうちにご紹介しておく。それがこの「サカモト」だ。新潮社の意図として,本書を刊行すること自体がギャグになっていることは間違いない。ワシは書店でこれが並んでいるのを見て心中大笑いし喝采を新潮社に送り,さっさとレジに運んだのである。
もともと新潮社には山科けいすけをしっかり押さえている編集者がいるようで,小説新潮で連載を持たせ,恐らくは全く売れなかった(と思われる)短編集「タンタンペン」も刊行している。ワシはこの,かつての大人マンガのナンセンステイストを保持しつつ,いしいひさいち以来のキャラ者ギャグも取り入れたセンスが大好きで,見かける度に読んでいたのだが,まさかこの「サカモト」が新たに新潮文庫から,新潮装幀室のデザインセンスを疑わせるダサい表紙でまとめ直されるとは思いも寄らなかった。ここで謹んで,NHKと福山雅治に感謝しておきたい。
内容はというと,トンデモ学説に染まった勝海舟に師事したピストルマニア・坂本龍馬が,サツマイモと金玉の大きさにしか興味のない西郷隆盛や,コスプレのために潜入生活を送っているとしか思えないデカ頭の桂小五郎(木戸孝允),バイセクシャル・土方歳三に言い寄られるデブの沖田総司らと縦横無尽に交わって幕末を混乱に陥れるギャグ4コマ作品である。・・・いや,何が何やら分からない紹介文だが,分からないなら読んで下さい。ともかく下らないので,ワシは大好きである。
・・・などと言いつつ,ワシはどちらかというと,戦国時代の武将たちを弄んだ「SENGOKU」の方が,ナンセンス度合いが高くて好きだった。キャラクターの数もイマイチ「SENGOKU」に比べるとこの「サカモト」は少ない。時代が近いせいでちょっと遠慮した・・・とも思えないが,ちょっとテンションが下がったような気がして,ワシは本書の前に刊行された竹書房バージョンの単行本は買わなかった。
しかし,このたび読み直してみると,これはこれで少し「枯れた」感じがあって,山科けいすけを初めて読む読者には向いているかもしれない,と思い直した。久々に読んだこともあって,この手のギャグをびしっと決めつつ,絶対にシリアスに流れない潔さを持った4コママンガ家は少なくなったなぁと,別の感慨も沸いてきた。いしいひさいちが新時代を切り開き,業田良家がドラマを持ち込んだ4コママンガの本流とは別に,山科けいすけはマイペースに自分の世界をギャグだけでコツコツ作り上げてきたのだ。細く長く,映画化ともアニメ化とも縁なく,淡々とプロの仕事を積み上げてきた山科の大人としての態度にワシは敬意を表するべく,このぷちめれをアップしておく次第である。
森毅「魔術から数学へ」講談社学芸文庫
[ Amazon ] ISBN 4-06-158996-2, \700
2010年,森毅が亡くなったので,何か追悼代わりにぷちめれを書こうかと思ったが,なかなか,愛読者としてはこれ一冊というのが絞れない上に,何を書いていいものやらまとまりがつかなくて困っていた。そんなときに,ちょっとTwitter上で絡んだ文章について,書いた方とのやりとりがあったので,これに絡む森の言説を引用しようと思いついた。
つーことで,数ある著作のうち,一番,学者としての考え方に関して影響を受けた本書,「魔術から数学へ」をご紹介したい。
きっかけになったTwitterはこれ↓である。
議論の中身はいいんですが,結論の「科学の方が圧倒的に説明能力が高いのだから、私たちは科学の方を信じるべきではないだろうか」ってのは違和感が・・・。 ポパーの「反証可能性」と真っ向から異なるような? RT @apj: 自分用メモ。http://bit.ly/duhzf4
posted at 13:20:38
今から思えば突っかかるほどの内容ではないし,そもそもこれは結論の文章であって,そこに至るまでの解説は全面的に納得できるものであった。しかし,このTweetを書いた時点でのワシは「違和感」を持ったのだ。それは,本書の最初の方で述べられている下記のエピソードに基づいていると思われる(P.21~22)。
実際に,小学校の先生から,水と塩の足し算で相談されたことがあった。やけに暑い日だった。
「水に10グラムの塩を入れて,なんグラムになるか,言うたら,100グラムとちょっと,とても110グラムまではいかん,言いおるねん。それで,そんなら実験して見せたる,でやったんやけど,そのときの子どもの反応が,『インチキや』『手品や』言いおるねん」
「へェー,おもろいもんやな(それにしても,暑いな)」
「こんなん,どないしたらええねんやろな。ケッタイやけど110グラムになる,ちゅうことなんやろか」
「なるほどケッタイと思いおるか。ケッタイやと思うもんは,そらしゃあないことで,まあ,ケッタイなことに110グラム,でええのんと違うか(どうにも,暑い)」
「そしたらやねえ,その子が大きくなって学校の先生になるとするわな」
「フン」
「そのとき,ケッタイやけどこないなっとる,ちゅうて教えるのん?」
「(暑い,ヤケクソや)そや,断乎として『ケッタイやけど110グラムになる』いうて教えるんや」
あとで考えてみると,この時の問答は当日の気温に左右されていたようでもあるが,案外に正解を言っていたような気がしないでもない。少なくとも,「110グラムになるというのは,自然の真理であって,真理の前には何人も拝跪せねばならない」なんて,真理のオシツケをするのは,いちばんよくないことだ。
で,この後,110グラムになるとういうことを納得するための「イメージ」が,原子論に基づくもので,それを知識として持っているからこそ納得できるのだという解説が入る。
はんなりした関西言葉のせいもあるだろうが,ワシはこの会話がとても印象的だった。「ケッタイやけど」という接頭語は生徒個人の拭いがたい感想,しかし理論的にも客観的にも「正しい」ことが示されている事柄はきちんと伝えなければならない。感想はそのままにしておけ,という著者のメッセージは重要なことで,本書のタイトルである「魔術から数学へ」に込められた,近代数学概念の形成の鍵となるものなのだ(以下,P.25)。
塩も水も,鉛も団子も,ものみなすべて,共通の尺度ではかれて,その<物質>の量を重さで考えられる世界,それが<近代>なのである。抽象的な表現をすれば,<普遍的尺度の支配する世界>が,最初からあるわけではなかった。中世にあっては,事物はもっと固有の事件と結びつき,固有の質と密着していたのだ。塩には塩の世界があり,水には水の世界があり,そして塩水には塩水の世界がある。
もちろん,人間はさまざまな事柄を,いくつかのコアのまわりに分け,いわば分節化しつつ,そこに普遍的なものを見ようとはしていた。たとえば古代の元素説。(中略)しかしそれは,近代科学ではない。<水>とか<火>とか<土>などのメタファーに,森羅万象を関係づけようとしただけだった。
「ケッタイやけど110グラムになる」という言葉は,素朴な直感に由来する古代の考え方をぶら下げつつ,近代に確立した「理論体系」に依拠した事実を伝えるものだと,ワシは解釈したのである。森は古代の考えを「真理のオシツケ」で否定したりしない。古代には古代なりの合理性があってその概念を育んだのであり,論理的な繋がりを整えようという歴史的努力の中で徐々に否定・修正され,近代の概念が形成されてきたのだ。そんな歴史的な歩みを本書で噛んで含めるようにワシらを「説得」してくれるのである。「ケッタイやけど」という接頭語は,そう思った本人が成長するにつれて徐々にこの近代への歩みを知り,あるいは追体験することで溶解し消えていくものだ,という妙に若い世代の自主性を信用した物言いを,ワシはとても好ましいものと思ったのである。前述のTweetも,「科学の方を信じるべき」という言い方に引っかかりを感じたために発言したものだが,それはこの森毅の「オシツケ」を排する態度に共感していたから,なのである。そもそも現在の科学は「真理のオシツケ」で成立したものではない。個別に,個人が客観的事実と,それを成立させる理論体系を交互に関連させて理解し,それらをまとめて社会的に共有化し,構築「されて」きたものなのだから。
本書は本文220ページと,とてもコンパクトなものでありながら,的確かつ大雑把なまとめ的文言に満ちていて,読み返してみると,改めて,自分の口で常々喋っていることの多くが本書由来のものであることを思い知らされる。
例えば,日本において和算が明治に至るまで「近代数学のような成熟をとげなかった」(P.116)理由を,妄想的な世界観の欠如によるものだとして,次のように説明する(P.117)。
和算の未成熟の原因は,普遍理念よりは個別的現実を重視した東洋文化の一種の現実主義から,コスモモロジーにいたる妄想力が欠如したからではなかったか。和算の場合,数学が世界観に及ぶとは,おそらく考えられなかったのだ。
ヨーロッパでは,ギリシャ学にしろ,スコラ学にしろ,なにより世界観学だった。コスモスを構想するものとして数学を考えること,それはいかに妄想であろうとも,学問の性格をすっかり違うものにする。その意味で,神秘主義的妄想家であったぶんだけ,いわば中世人であったぶんだけ,ケプラーは新しい時代にふさわしかったのだ。
近代への架け橋は,前近代の遺物によって渡される,という一見矛盾しているようでいて,実は当たり前の歴史的事実を,すらっと短く,それでいてむやみに簡素化せずにまとめているのは,今読んでみてもすごいと感じる。もちろん,ここでいう「世界」ってのは,自然科学全体で支えていたもので,数学だけ取り出してんなこと言っていいんかいという批判はあろうけど,概ね,この理解は正しいと言えるのではないか。こういう文言は,豊かな教養主義に支えられた京都学派の中で育まれたものなんだろう。ワシの見立てでは,研究者系列としては山口昌哉が育てた一派が,今の日本の数理科学の理論面を支えているように思えるのだが,その一端は間違いなく森毅にも繋がっているのだ。
数学という学問の性格上,どうしても哲学との関係が深くなる。つまり,論理体系を作ると同時に,その論理体系を支える「論理学」の素養も必要となる。概念構築の土台を絶えず気にしながらその上に数学という建屋を造るということになる。 ワシは残念ながら数学も論理もろくすっぽ習得できずに今に至っているが,せめて既存の構造物ぐらいは理解したいなと思っている。
今,トンデモ学説と呼ばれているものの大多数と,怪しげな星占いにも凝ったケプラーや錬金術にも執念を燃やしたニュートンとの違いは,その時点で知られていた学問の土台を踏まえているかどうか,その一点に尽きる。残念ながら,数学に限らず現在の自然科学は「事実」もさることながら,それを支える論理体系,それも,大学基礎教養レベルの連続・離散数学知識の習得が不可欠で,それを無視してはまともな学問扱いされない。ケプラーやニュートンが,現代の目から見て怪しげな部分を抱えていたのは当然で,現在のワシらだって,何十年,何百年後の学者から見れば,何を馬鹿なことをやっているのかと嘲笑されるものを持っている筈なのだ。それでも,その時点においてはまぁこのぐらいの学問レベルは習得していて,それを踏まえて研究活動をしていますよ,ということは,ワシらだって,もちろんケプラーもニュートンも胸を張って宣言できる。
怪しげな部分を持っていても,いや,持っているからこそ,学問の土台に乗っていれば,その「上に」積み重ねが可能になる,ということを伝えてくれる本書は,ワシの数学史の参考書であり,これからもたびたび引用していくことになる筈だ。
(暑い,ヤケクソや)と言いたくなる猛暑が続く2010年8月である。謹んで,森毅先生に哀悼の意を表し,このぷちめれを締めることにする。合掌。
今日マチ子「cocoon」秋田書店
[ Amazon ] ISBN 978-4-253-10490-6, \950
読了後のワシの感想は,「な~るほど・・・そうきたか」,である。詳細は述べないが,本書は「面白いマンガ」である。ある種の「道徳」「イデオロギー」を説くにはまるで役に立たない,エンターテインメント作品である。
以前,おざわゆき「凍りの掌」を紹介した文章でも引用したが,第2次世界大戦における日本の敗戦時の出来事を題材に取った「作品」を評価する軸として,いしかわじゅんの提示した「基準」がある。ここでもう一度繰り返して引用しておく。
いしかわじゅんは「いわゆる反戦漫画とか戦争漫画を」「あまり読まない」と言う。その理由はこうだ(「秘密の本棚」小学館,P.369)。
その多くが,苦しいと描いてしまうからだ。痛いと,辛いと,悲しいと描いてしまうからだ。現実の大きさに甘えて寄りかかり,表現することから逃げてしまっているものが多いからだ。
大きな事件があって,それを克明に描いていけば物語の形にはなる。傷を負って痛いと描けば,痛みはわかる。愛する人を失って悲しいと描けば,もちろんそれは伝わる。しかし,それは表現ではない。これを耳が痛いと感じる人もいよう,ヒドイ言いぐさだ,戦争の悲惨さから目を背ける口実に過ぎないという人もいよう。
しかし戦後64年も経っているのだ。直接その被害を受けた当事者が言うならともかく,間接的にその話を聞き取り,それを「表現」しようというのであれば,少なくともそれをどのように読者に伝えるべきかは表現する者が真剣に考えるべきだ,と,いしかわじゅんは主張しているのだ。ワシはこの意見を支持する。
さて,本作「cocoon」だが,舞台となった場所や,主人公が女子学生たちであることから,明らかに沖縄戦におけるエピソードに基づいて創作されたものだと判断される。しかし,作中では一切,状況説明がなされないのだ。恐ろしい状況下で煩悶し,倒れていく人間たちを描きながら,主人公・サンのモノローグだけが白い画面に響くのだ。
これは,少女マンガだ,とワシは気がついた。成長する若い血潮を極限状況で迸らせる青春「恋愛」マンガなのだ。戦争は舞台に過ぎない。今日マチ子はサンとマユと中心とした女子学生のグループを巡る物語を語るに相応しい舞台として,沖縄戦を選んだのだ。
してみれば,本作は戦争マンガの範疇に入れて良いものかどうか,ちょっと悩んでしまう。それぐらい,よくある「メッセージ」は全く語られないのだ。206ページもの物語をすれっからしのマンガ読み中年に一気に読ませてしまう力業を持った本作は,間違いなく,いしかわじゅん言うところの「表現」に昇華していると言える。
本作を読みながら,ワシはアニメにもなった絵本(つーより漫画作品だが)「風が吹くとき(When the wind blows)」を思い出した。あの作品も,ト書きによる状況説明は一切なく,ただ,核戦争が始まったという「ニュアンス」だけを描写しつつ,人の良い老夫婦が放射能に冒されていく様を描いたものだった。あの作品が全世界で話題になってから既に20年以上経っていることを考えると,戦争という悲惨さを描く技術はどんどん進化し,ワシらの日常感覚にジャストフィットするリアルさを獲得しているのだなぁと,つくづく思い知らされる。
「風が吹くとき」と「cocoon」は,老夫婦と女子学生という対比はありながら,戦争という極限状況を「利用」しつつ,「生」すなわち,生きる,ということを鮮やかに浮かび上がらせているという共通点がある。表現手段として戦争をあまり多用しすぎるのもどうかと思うが,表現が真摯であり,結果として面白い作品になっていれば,少々「あざとい・・・」とは感じつつも,同時に,「やられた!」とも思うわけで,読者にそう感じさせる出来であれば,ワシは大いに支持していきたい。
本作にはしかし,「風が吹くとき」にはない「仕掛け」があって,ワシはそこにも大いに感心した。ま,ミステリー好きの奴なら即座に見抜いてしまうものなのかもしれないが,今日マチ子が描きたかった,女子高生を包む繭(cocoon)をなす重要なパーツとしての機能もあるので,読了後は「なるほどね・・・」と思い知らされることになる。あまり描くとネタバレになるのでこのぐらいにしておくが,仮にこの仕掛けに対して「悲惨な沖縄戦を商売の種にしている!」と憤る純粋まっすぐ君がいたとしたら,「商売になるぐらい広く読まれることにこそ価値がある!」と擁護しておきたい。
松山ソウコ「さきがけ・松下村塾」リュウコミックス
[ Amazon ] ISBN 978-4-19-950195-1, \590
徳間書店唯一の男性向け漫画月刊誌「Comic リュウ」。SF崩れの中年オタクどもが何とか買い支えて創刊4年目を迎えようとしていることは,愛読者としては喜ばしい。・・・しかし,肝心のコミックスは未だドカンと一発当たったものが登場しておらず,書店の棚ではどこぞの馬の骨的な扱いを受けて,既刊本を取り揃えている所なぞ見たことがない。それでも新刊が平積みされていればまだ良い方で,いきなり棚に一冊だけ突っ込んである,なんてことも珍しくない。「シブすぎ技術に男泣き!」でブレイクし,今や技術系マンガ家として「工場虫」(今時珍しい純粋ギャグ長編,お勧め!),「なわばりちゃん お攻めなさい!」(SM本にあらず,バーチャル城攻め実用(?)書!)と立て続けにカラーA5サイズ本を刊行している見ル野栄司の単行本「敏腕編集インコさん」だってリュウコミックスから出ているのに,本誌の広告でも「「シブすぎ技術」は売れてるのに~」とぼやいているような有様らしい。・・・それって完全に自分(の出版社の営業力の無さ)のせいじゃん,と広告を見たワシは白けたものである。
つい先日も,こんなニュースが飛び込んできた。京極夏彦原作のコミカライズ作品「ルー=ガルー」は,創刊号依頼の目玉連載で,生き生きとした娘さん達の活躍を楽しく読ませて貰った力作であったが,このたび映画化ということもあってか,講談社にまるごと移籍してしまうらしい。メディアミックス販売の絶好の機会を分捕られるあたり,何というか,出版界における徳間書店の「無力さ」を思い知らされる出来事であった。
そう,つまりは,徳間書店には,リュウコミックスには,「営業力」が全く欠けているのである。コミックナタリーの記事をずらりと並べてみれば,その無力さがよく分かる。話題になるのはすでに著名な作家の作品の単行本が出たり作品が掲載されたりした時のみ。一番笑ったのは,ようやく発掘した新人・つばなが,またぞろ講談社の雑誌で作品を掲載することを報じるものであった・・・何だよ,結局,リュウが話題になるのは既存作家のネームバリューと大手他社の営業力の「おまけ」としてかよぉ~・・・と,一ファンとしては歯がみしたくなるのである。
そんな無力なリュウコミックスであるが,めずらしくド新人の単行本なのにも関わらず,コミックナタリーの記事になったのだ。それがこの「さきがけ・松下村塾」である。記事に取り上げられた理由はさっぱり分からないが,この作品の連載が突然何の脈略もなく始まったのを見た時,大野編集長には申し訳ないが,ワシの頭には「苦し紛れ」という単語が浮かんできた。それぐらい,「歴女」は「SF中年オタク」雑誌とは縁がない。いろいろ大変なことはあると思うが,それにしてももう少し購読者層を考えて作品を載せろよな・・・と言いたくなったのは当然のことなのである。
しかし,この作品,のっけから歴女妄想力全開で,美しく整ったキラキラ少女漫画絵柄(リュウでは浮いてるよな・・・)で,一応史実に基づいた前振りを作者が行った後には,山県有朋が墓下で号泣しかねないような松下村塾のドタバタ4コマがハイテンションで繰り広げられるのだ。
松下村塾を切り盛りする吉田松陰は美しき令嬢(女装癖による)として描かれ,高杉晋作は未だ童貞のボンボン,久坂玄瑞は反対に女っタラシのムッツリスケベ・・・。松山が楽しんで描いていることだけは誰しも認める本作に,ワシは連載初回で引き込まれ,リュウが出るたびに「とりから往復書簡」に次いで本作を読むようになったのである。
とはいえ,全部が全部妄想というわけではなく,新撰組の3人組(近藤・土方・沖田)や坂本龍馬の描き方は,割と史実に忠実(本編の4コマエピソードはともかく)だったりして,歴史読み物としてもそれなりに「使える」ものにもなっている。ちなみに,松山が批判するかっこいい新撰組のイメージを根本から覆したければ,水木しげるの「劇画 近藤勇」(ちくま文庫)を読むのが良い。
単行本としては121ページと薄いのは,連載がずいぶん早いうちに終了してしまったせいである。理由はワシには分からないが,ゲスの勘ぐりをあえてすると,パワーのある妄想フィクションと,この史実忠実解説とのバランスの取り方が,読者には中途半端と受けとられたのかなぁと想像するのだが,どうなんだろう? せっかく華麗な絵柄があるのだから,妄想4コマだけで突っ走るか,本書のあとがき(書き下ろし)のように歴史的知識の解説に徹するか,どちらかにしておけば,単行本にしたときの「まとまり」も良かったように思える。ワシとしては妄想4コマの方が好きだったので,この真面目なあとがきは少し残念だった。歴史解説なら「風雲児たち」という史実忠実路線の大河漫画作品が既にあるので(完結しそうにないけどな)そちらに譲り,次作は是非ともドガチャカになった長州藩上層部とか,童貞喪失の反動で勢いづいた高杉晋作率いるハチャメチャ騎兵隊,女ったらし・伊藤博文首相が率いる明治政府・・・等を,きらびやかに,そして軽やかに描いて欲しいものである。
吉村昭「桜田門外ノ変 上・下」新潮文庫
上巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-111733-1, \552
下巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-10-111734-8, \590
今回,職場内の印刷物に本の紹介をする短いコラム(400字程度)を書けと言われたので,本書を取り上げることにした。職員全員に配られるものなので,立場・専門・興味は各人バラバラ。あんまし「ガロアの群論」みたいな理系色全開な本でもマズいし,かといってワシの趣味全開なマンガ「ネム×ダン」でもちょっとなぁ,というところがあるので,少し固めの時代小説が無難なのではないか・・・ということで吉村昭の出番となったのである。映画化が決まって,水戸市の湖畔にオープンセットが組まれていたことは,2010年3月の水戸コミケの際に見聞してきたので,その予習にと原作である本書をほぼ一気読みしたのである。
日本の歴史を習う際には,明治維新の直接の切っ掛けとなった「桜田門外の変」,即ち大老・井伊直弼襲撃暗殺事件,を必ず扱うが,短くまとめすぎると,事件の全貌がよく分からない。事件の基本構造が忠臣蔵と類似している点もあるので,「吉良上野介が悪い」→「井伊直弼が安政の大獄を引き起こしたから悪い」と単純化されすぎて伝わっているきらいがある。ワシも中学校でこの事件を教えられた際には,「暗殺されるほど強烈な弾圧をしたのだな」としか感じなかった。
しかし,政治的な事件というものは概ね,事件が起こるまでの背景と経緯というものがあり,原因を追求していくと様々な人物・事象が積み重なっていることが分かり,「鶏が先か卵が先か」という堂々巡りに陥ってしまうことがよくあるのだ。今のアフガニスタンやイラクに米軍が駐留している理由をきちんと説明しようとしたら,ソ連のアフガン侵攻から説き起こすことになってややこしいことこの上なく,更に言えば,なぜソ連が侵攻したかといえば米ソ冷戦の話をせねばならず,最終的にはイスラム教とキリスト教の起源まで遡ってしまうのである・・・ってのは行き過ぎだが,歴史的経緯というものはかくも複雑でメンド臭いシロモノなのである。
「桜田門外の変」もその例外ではない。確かに井伊直弼という人物の個性がなければ,「大獄」と呼ばれるほどの苛烈な水戸藩や攘夷派志士への弾圧は行われなかったかもしれない。しかし,第14代将軍世継問題が慶福派と一橋派に分裂してあれほど紛糾しなければ,そもそも,井伊直弼が大老に就くこともなく,ことは穏やかに済んだかもしれない。しかし,ペリーが来航して鎖国の扉をこじ開け,ハリスが強硬に通商条約締結を主張して成し遂げるという対外圧力がなければ,開国(やむなし)派と鎖国(維持すべし)派の対立が起こることもなく,そもそも世継ぎ問題も勃発することなく済んだかもしれない。しかしそもそも水戸光圀が御三家の一つのくせに尊王精神を主張していなければ・・・とまぁ,キリがないのである。
吉村昭の長編小説は緻密な取材に基づいた事実の積み重ねを土台とし,透明な文体で淡々と「描写」するところに特徴がある。本書「桜田門外ノ変」も,事件全体としてはせいぜい数時間,襲撃そのものは井伊直弼の首が有村次左衛門によって高々と掲げられるまで,ごく短時間で終了している。しかし,水戸藩士を中心としたグループが事件を起こすまでに至る経緯を,上巻全部を費やして「描写」しているのだ。水戸藩における改革派と門閥派の対立,そもそも水戸で攘夷思想が培われた地理的要因,襲撃計画をすすめるグループの諸国漫遊(「坂本龍馬」の名前もちらと登場)・・・を,襲撃グループの中心人物・関鉄之介を中軸に据えて書き連ねている。これは,重い。井伊直弼らの開国&慶福派が,尊皇攘夷を現在の過激右翼以上に強硬に主張する水戸老公・斉昭を毛嫌いするに至る経緯もきっちり「描写」しているから,読者は単純な肩入れができなくなる。幕末の動乱期に頻発する暗殺の連鎖がここから始まったということを考えると,下巻で描かれる襲撃後の関鉄之介の逃避行を助けた人々と世間という「土壌」こそが,一面非難されるべき所業でもそれが成立するためには必要な条件であったことを確認させてくれるのである。小林よしのり命名の「純粋まっすぐクン」的思考だけでは,歴史の重大事件という「点」の近傍に寄り添うことしかできず,点に至る「線」と,線を載せた「平面」に思いを馳せることはできないのである。
吉村昭は,薩長同盟締結における坂本龍馬の役割についても,完全否定していて,次のように発言している。
「薩長同盟というと,坂本龍馬が斡旋したことになっているのですが,坂本龍馬は土佐藩の藩士ではなく,郷士です。坂本龍馬が両方を仲介して薩長同盟を結ばせたといわれていますけれども,そのようなことは史実にないのです。
一人の人間が薩摩と長州,今のアメリカとソ連のようなものですが,それを中に入って話をつけるなどありえない。一番最大のものは武器なのです。武器で合致してしまった。
それでこの薩摩・長州が新鋭銃,新鋭の大砲,これを(注:イギリスから)輸入して,そして幕府と対抗する。鳥羽伏見の戦いで,幕府軍は1万5千人,薩長の方は4,5千なのですね。それで圧勝してしまったのです。なぜかというと武器なのです。武器の勝利なのです。」(「ひとり旅」文春文庫,P.200)
・・・とまぁ,あくまでもプラグマティックな考えを貫いているのである。司馬史観に色濃いロマン主義・個人主義的なものとは対極にある透徹した現実主義,これを描く文体は,乱反射することのない無色透明なものである必要があったのだ。
さて,こういう原作からどんな映画ができるのか? 以前,NHKでドラマ化された「ポーツマスの旗」は随分リアルで地味なものであったが,逆にそれが小村寿太郎再評価の後押しに繋がったように思える。映画を見た観客が徳川斉昭,井伊直弼の評価をどのように下すのか,アンケートを取って,原作ファンとの比較対照をしてみたいないなぁと思うのである。
・・・で,これをどうやって400字に押し込んだものやら,ワシは更にめんどくさい作業を背負い込むことになったのであった。