Preface in Japanese : R.P.Brent & P.Zimmermann, “Modern Computer Arithmetic” Ver.0.5.1

 現物は著者のページから見て欲しい。以下の前書きは0.5.1版からの訳出である。
—————-
まえがき
 本書は数値演算のアルゴリズムと,現代のコンピュータ上でそれを実装する方法について解説したものである。我々はどちらかというとハードウェアよりソフトウェアの方に興味があるので,コンピュータのアーキテクチャとかハードウェアのデザインについては本書では触れていない。その手のトピックを扱った良書がすでにいくつか存在しているからでもある。その代わりと言っては何だが,加減乗除といった演算を高速に実行したり,それと関連したモジュラー演算,最大公約数計算,高速フーリエ変換(FFT),特殊関数の計算のようなトピックに焦点を当てて解説を行っている。
 本書で示したアルゴリズムは,任意精度演算向けのものがメインである。つまり,32ビット,64ビットというコンピュータのワードサイズに固定された桁の計算ではなく,メモリと計算時間の制限内でできる限りの桁数の計算に対応している。整数演算だけでなく,実数(浮動小数点数)演算についても述べてある。
 本書の構成は4章+短い1章(実質的には付録扱い)から成る。第一章は整数演算についてであるが,これについてはもちろん,いろんな本や論文で扱われているものである。しかし,公開鍵暗号研究における貢献によって,近年著しく進展している分野であるため,多くの既存の本の記述は一部,時代遅れになっていたり,不完全になっていたりする。我々は,この進化した部分について,なるべく簡潔に記述しようと試みた。同時に,必ずしもこの分野に精通していない読者にも,自学自習ができるような自己完結した入門編となるよう心がけた。
 第二章は,モジュラー演算とFFT,コンピュータ演算への応用に関することを扱っている。さまざまな数の表現方法,高速乗算・除算・べき乗算法,中国剰余定理(CRT)の使用方法について議論している。
 第三章は浮動小数点演算を扱う。ハードウェアで提供されている精度(IEEE754 53ビット倍精度など)では不十分な場合に,より高い精度の浮動小数点数演算をソフトウェアで実装することを考える。この章で扱うのは,IEEE754規格を任意精度浮動小数点演算に拡張した,”正確な丸め”(Correctly Rounded)を可能にするアルゴリズムである。
 第四章では,べき級数や連分数で定義される,任意精度の初等関数(sqrt, exp, ln, sin, cosなど)の計算法を扱う。特殊関数は膨大なボリュームのあるテーマなので,部分的に取り上げるだけにしてある。任意精度計算に相応しい,高性能な計算方法のみに集中して解説した。
 最終章は,実装されたソフトウェア,有用なWebサイトやメーリングリストなどを紹介している。最終ページでは,有用な”aide-memoir”となるべく,「計算量のまとめ」を行っている。
 以上の章は,それぞれ章ごとに自己完結しているので,どういう順番で読んでもらって構わない。例えば,第四章を第一章~第三章より先に読むこともできるし,いつも第五章だけを参照する,という使い方もできる。Newton法のように,いくつかのトピックは,複数の章で異なる取り上げ方をしていたりすることもある。また,相互参照は必要な場所で適宜行っている。
 あえて飛ばした詳細については,参考文献と同様,各章の”Notes and References”でその情報へのポインタを示してある。できる限り本文がすっきり読めるよう,注釈や参考文献を使用しているので,ほとんどの参考文献は”Notes and References”の節に押し込めてある。
 本書は,高性能なコンピュータ演算の設計に興味のある人だけでなく,もっと一般の数値計算アルゴリズムを高性能にしたい人も対象として書かれている。読者個人が好きなコンピュータ言語を使って実装できるよう,できるだけ抽象度を上げて記述し,具体的に,特定マシンに依存するような記述は避けた。アルゴリズムのアルファベット順のリストは索引に載せてある。
 本書は特別,教科書を意図して書かれたものではないので,数学専攻,コンピュータ科学専攻の大学院生レベルでないと難しいように思われる。扱っているトピックも長々と解説したりせず,演習問題として各章の最後にまとめてあるが,この難易度は恐ろしいほど幅があり,簡単なものから,ちょっとした研究プロジェクトレベルのものまであるが,それを順位付けしたりはしていない。演習問題の解答を知りたければ,著者である我々に連絡をして頂きたい。
 コメントやバグの報告はいつでも歓迎したい。著者のどちらかに送って頂ければ幸いである。
Rechard Brent
Paul Zimmermann
キャンベラとナンシーにて
2010年2月
—————-
 多倍長計算向けのアルゴリズム本って,少ないんだよね。1.0を楽しみに待ちたい。

いしかわじゅん「ファイアーキング・カフェ」光文社

[ Amazon ] ISBN 978-4-334-92710-3, \1600
fire_king_cafe.jpg
 出張先の福岡,ブックスタジオ博多駅店にて一冊だけ棚に刺さっていたものを購入,仕事が終わって帰宅するために乗り込んだ新幹線のぞみ62号車中で読了した。
 本書は沖縄・那覇に集った,いわくありげな本土人(やまとんちゅ)の人生のごく一部を切り取って描写した6編の短編をまとめた連作集である。南国の高温多湿な空気の中にいるとだんだん脳細胞がぼや~っと弛緩してくるものだが,読了後のワシもその例に漏れず,「あ~,そ~,ゆ~,ことも,あるよねぇ~」と寝惚けた感想しか言えなくなってしまった。イカンイカンと空気を払い,あらためて6編の,6人の主人公たちの人生の断面を振り返ってみると,世間的にはありふれた出来事でありながら,個人が社会に向き合うためには不可避である「切り傷」を積み重ねていくというイタイものであることに気がつく。その切られた痛みを読者に声高に訴えるのではなく,淡々と南国の大気に乗せて告げていくという著者・いしかわじゅんの静かな筆致は,ギャグの至高を目指して一度破綻し,「まぶやー」を落とし,叙情的な画風に落ち着いていった体験がもたらしたものなのだと,ワシは勝手に結論づけている。
 沖縄という地域についてのワシの知識はかなり限定的で,数え上げてみると三つしかない。
 一つは,わしの前の職場で得た豆知識。前職は現・厚生労働省管轄の独立行政法人に在籍していた時のものだ。短期大学校という位置づけの職場だったので,毎年度,全国の校長を集めて卒業生の就職率を報告・講評するという会議があったらしい。組織柄,職安とタッグを組んでの就職活動を展開するものだから,大体90%を超える数字が報告されるわけだが,沖縄だけは,確か40%以上も低い数値になっていて,苦言を呈される役回りになっていた。しかし,沖縄担当の校長曰く,沖縄県内ではこれでも相当高い数値であり,お褒めの言葉まで貰っているのに,全国の集まりでは必ず怒られてしまう,とおカンムリであったそうな。それを聞いてワシは,沖縄って独特なんだなぁ~と感心したものである。
 二つ目は,小林よしりんの「ゴーマニズム宣言・沖縄論」を読んで得たもの。大ベストセラーかと思いきや,数あるゴー宣シリーズの中でも全国的な売上はさほどでもなく,沖縄県内でのセールスが凄いと,よしりん自身が言っていた。全くもったいない,普天間問題がヒートアップした今こそもっと読まれてもいい作品だとワシは思う。ことに,この中で描かれていた沖縄の左翼的空気,そしてもっと驚くのはその同調圧力の物凄さ。この二つはもっと知られるべき情報だ。ひめゆりの塔とか米軍基地問題などの一般的な知識は広く知られるようになっているが,沖縄という独特の「地域性」がこれ程とは,ワシも本書を読むまで全く知らなかった。
 三つ目は,宮台真司の言説。ほとんどビデオニュースのマル激を通じてのものだが,今回の普天間基地移設問題では最初から辺野古沖への移設しか解はない,と明言していたのが宮台だった。日本の防衛システムと駐留米軍の位置づけの重要性,自民党政権での交渉過程における試行錯誤,そして沖縄独自の地縁と経済との複雑な関係性,この3点を考えると辺野古沖という唯一解しか存在しないと言い,実際,鳩山政権では,たぶん良心的な熟慮と試行錯誤の挙句,その通りの結論に至ってしまった。それを補強する情報は守谷・元防衛事務次官が出演したマル激から得ることができる。
 以上,この3つしか,ワシの沖縄についての知識はない。だから,ここには生身の沖縄情報が欠落しているのだ。「沖縄論」でも宮台の言説にも,実はもっとディープな,根本敬的カルチャー情報が背後にあるはずなのだが,直接的に語られることはあまりない。「因果鉄道の旅」じゃあるまいし,特定個人名をモロに書かれても平然と日本社会を生きていける人物は一握りだ。プライバシーに関わる個人情報,その生き様を語れば語るほど,それは生の沖縄を知る重要な手がかりにはなっても,その個人が沖縄という地域で生活してくのは困難になるだろう。結局,知りたければそこに住むしかない。長く住んで徘徊して人々と交流して,太陽がジリジリと照りつける空気の中で生の知識を収集しないと,たぶん,真の沖縄を知ることはできないのだろう。
 本書はフィクションであり,地名と登場人物以外の固有名詞は架空のものだ。そこで起こった数々の出来事もたぶん殆どモデルなしの創作だろう。
 しかし,リアルなのだ。ワシは南国の大気を感じながら,感心していたのだ。感心しながら,数少ない沖縄に関する3つの知識の断片がズルズルと繋がっていく快感を覚えていたのだ。それぐらい,川島トオルのミニ出版社での「苦闘」も,カフェマーケットでバイトする涼子ちゃんの「ふるまい」も,ダリアちゃんの「家庭」も,ハニー&ミルクちゃんの「職場」も,ワシの知識を補間するには十分な程,リアルだったのだ。大いなる誤解かもしれないが,ワシは本書で「那覇支店」を構えたいしかわじゅんからリアルディープな沖縄を教わったと思っている。そしてこのリアルさが「南国の大気」の正体だったのだ。
 リアルな沖縄の空気にまぶした,人生における「切り傷」を描いた本書は,漫画家・いしかわじゅんが実在する固有名詞に託した細かな描写に支えられて,独特な叙情的作品としてここに結実した。売れ行きはさほどでもないだろうが,南国文学の傑作,池澤夏樹「マシアス・ギリの失脚」と共に,バーチャルに熱帯の空気を感じられる作品としてワシは大いにお勧めしたいと強く思っているのである。

[4/4] J-.M.Muller et.al, “Handbook of Floating-point Arithmetic”, Birkhauser

[ Amazon ] ISBN 978-0-8176-4704-9, \13666(2010年4月現在)
handbook_of_floating_point_arithmetic.jpg
 本書の第5章でやたらに派手にFMA演算(Fused Multiply-Add)の宣伝をしている。日本語で言うと複合積和計算というべきなのかな? C99以降では
 fma(a, b, c) = a * b + c
という計算をしてくれるfma関数が備わっているが,これをCPUのネイティブコードで実行できるようになるってのがMullerらの主張だ。IEEE754-2008規格にも入っているし,Intel/AMDでもSSE5転じてAVX命令セットが次のCPU coreから導入されるとアナウンスされているので大いに活用しましょうって事らしい。
 んじゃ,現状どうなっているか,ちと調べてみた。その結果,現在ハードウェアレベルで実装してあるものは多くない。英語版のWikipediaの記述を読む限り,現状だとSPARC64が一番身近(?)かな? 建設中の次世代スパコンでは使えるみたいだから,大いに活用してもらいたいものである。
 で,そーゆー「一番を目指しながら「2番じゃダメなんですか?」と助け船を出してもらった」豪華絢爛お金持ちマシンとは縁遠い一般ピーポーなワシらはどーなるわけ? これは前述した通り,Intel/AMDのx86_64 CPUで次のSandy Bridgeから取り入れられるAVX命令にFMA演算が入る予定らしいので,それを待つしかない。ただそれも確定事項ではないようで,FMA命令が,AMDでは使えるけど,Intelではダメ,という事態もあり得るし,FMA命令に互換性がなくなっちゃう可能性もないわけではなさそう・・・となると,Mullerらの主張にはちょっと首をかしげてしまう。IntelにしろAMDにしろ富士通にしろ,所詮はマーケットが要求して需要がコストに見合えば実装するし,見合わなければ実装しないというだけのことだろう。ま,使いたければ待つほかない訳だ。
 調べている途中,ちょっと気になった記述があったので最後の最後に紹介だけしておく。詳細をご存じの方は是非ともご一報いただきたい。
 どうやら,x86互換CPUを作っているVIAがx87命令にFMAをサポートする特許を取っているらしいのだ。
 その後出荷されたVIA Nanoプロセッサに搭載されたIsaiah命令セットにはFMA演算について記述がある(このPDFファイルのP.10)
 引用すると

The multiply unit also has a fused floating-point multiply-add function that is used by the transcendental algorithms.

っつーことで,三角関数の計算に活用する目的で入ったようだ。ただしこの記述だけでは,ハードウェアの機能としてFMA演算は使っていたとしても単独のInstructionとして提供されているかどうかは不明。あったとしても所詮は互換CPUなので,使用されていない可能性もある。・・・まぁ,使えたとしてもNanoで数値計算をバリバリやりたいというユーザは少ないだろうけどねぇ。
 ・・・以上をもって,書評にあるまじき長さのぷちめれ(どこが「ぷち」なんだか)を終わることにする。是非ともどっかの出版社で翻訳してくんないかなぁ~,させてくんないかな~・・・とおねだりもついでにしておこうっと。

[3/4] J-.M.Muller et.al, “Handbook of Floating-point Arithmetic”, Birkhauser

[ Amazon ] ISBN 978-0-8176-4704-9, \13666(2010年4月現在)
handbook_of_floating_point_arithmetic.jpg
 ・・・就寝前の寝ぼけ眼でアップした前書き部分を今読み返していたら,気になる箇所がぼろぼろ出てきた。な~んか非常にみっともないなぁと思いつつ,上げちゃったからしゃーないか,という境地に約1分を要してたどり着いた。つーことで,過ぎ去った過去のことはきれいさっぱり忘れることにして,以下では本書の内容について,ざっと目を通してみた感想を書き付けることにする。
 前書きにも書いてあるように,本書は現在の浮動小数点演算(Floating-point arithmetic, 以下FP演算と略記)の有り様を本文528ページというコンパクトなハンドブックの形でまとめたものである。その内容は次の6部に分割されている。
第一部 浮動小数点事始め,基礎定義,技術標準
第二部 浮動小数点演算の賢い使い方
第三部 浮動小数点計算の実装
第四部 初等関数
第五部 浮動小数点演算の拡張
第六部 結論と今後の展望
 9人の共著とは言え,FP演算や初等関数近似の数学的理論からソフトウェア環境のことまで,よくもまぁこれだけ射程の広い内容を一冊の本にまとめてしまったものだと感心する他ない。当分の間,ワシはFP演算の細かいことを質問されたら本書を紐解いて「Muller本の~ページにこう書いてあるぜ」とエラそーに能書きをたれることにしようと思っている程である。とはいえ,ざっと眺めてみると,ざくざくと山道を造ってくれた偉人達に,「あ,その道ちょっと曲がってますよ」とか「まだこのあたりに草が残ってますよ」的なチマチマした文句を言いたくなってしまった。以下,惰弱な追随者が,この6部の内容について紹介ついでにちみっとブーたれることにする。もちろん屈強な山男達に「細かいこと言ってんじゃねーよ」とタコ殴りされることは覚悟の上だ(ドキドキドキ)。
 第一部は浮動小数点演算の歴史(第1章)から入り(つーても細かいことはKnuth本を参照せよとなっている),第2章で丸め・誤差・FMA演算・区間演算を定義し,第3章でIEEE754-1985とIEEE854をくっつけて新たに制定されたIEEE754-2008規格の解説・FPA演算環境チェックツール(MACHARとかparanoiaなど)の説明を行っている。他の部は必要があるところだけ参照する程度でも,ここは一通り目を通しておいた方が良い。特に精度保証(この用語も誤解を招きやすいので何とかして下さい>九大・早大グループの方々)を志そうという物好きな人には丸め誤差について,やたら細かいけど必須の事柄を解説しているので必読である。ULP(unit in the last place)に2種類の定義あるって初めて知ったワイ。
 第二部ではFP演算を活用した計算アルゴリズムの紹介をしている。解説だけでなく,打ち込めばそのまま実行できるソースコード付きなので,FP数(Floating-point Number)を繋げて4倍,8倍・・・精度演算をしようという人,精度保証付き(って言い方好きじゃないんだけど)線型計算をしたい人にとっては必読。オタク的なFP演算求道者じゃないソフトウェア屋さんでも,今のFortran, C, C++, JavaでどのようにFP演算が扱われているかを知るために第7章をざっと眺めておくのは良いことなんじゃないかな~。
 第三部では基本的なFP演算の実装方法を解説している。まず第8章で四則演算,平方根,FMA演算の,IEEE754-2008規格に基づいた実装方法を解説している。第9章ではハードウェアを用いたデジタル回路での実装について,第10章ではソフトウェアとして実装するための解説とソースコード例が示されている。現在これだけIEEE754-1985規格を搭載したFP演算Unit搭載CPUが普及してしまうと,既存のCPUメーカー,Intel, AMD, SUN, IBMが高速かつ精度拡張したFP演算を実装して高速化してくれる,なんてことはこの先あまり期待できない。明確な応用目的を持った個々の研究グループ・企業が独自に開発を担わねばならないとなれば,この第三部の解説は彼らに対して重要な知的基盤を提供してくれるだろう。
 第四部では初等関数の近似手法についての解説だが,唯一,この部分はあまり感心しなかった。ことに第12章で数表作成者のジレンマ(Table-Maker’s Dilemma, 以下TMDと略記)の議論に一章費やしているのはともかく,Mullerの前作をコンパクトにした内容を期待してたら,そこが全部すっ飛んじゃったという感じである。初等関数近似手法としてRemez法の説明が第11章でなされている以外,あまり有用な情報はない。オタク的な興味のある人以外は,関数近似手法を知りたいならMullerの前作を入手することをお勧めしておく。・・・ホント,このフランスグループってのはTMDが好きだよねぇ~。ま,Lefevreさんの趣味なんだろうけどさぁ~。
 第五部は完全にこの方面の研究者向けという内容・・・かな? 第13章では精度保証(ホントにこの用語何とかした方がいい)を拡張して形式的証明問題に応用しようというお話くさい。カレントテーマってことは知ってるけど,ワシは興味ナッシングなので詳しい人に解説は任せた。でもGappaってのはちょっと興味が沸いたかな? 第14章は多倍長計算のお話。第二部第4章のアルゴリズムの解説を受けて,既存の倍精度FP数を並べて4倍,6倍(倍精度の3倍の精度の意味ね)計算のアルゴリズムを説明している・・・けど,GMPのように整数演算ベースの多倍長計算のお話はあまりない。多倍長整数演算の高速化アルゴリズムの解説を知りたければGMPとかMPIRのマニュアル(PDF)を参照して欲しい。ちなみに,P.511でARPRECも”Large Precision Relying on Processor Integers”で語られているけど,少なくともmp_realはdouble型の拡張だったはず・・・ちょっと誤解を招きそうだ。
 第六部はざっとしたまとめと今後の展望と付録。しかし・・・IEEE754-2008規格が今後実装されていくという方向は認めるとして,その歩みが速いかどうかは疑問である。後述するFMA演算実装状況を考えると,著者らの認識はちと楽観的すぎるような気がする。 
 ・・・とまぁ,かなり大雑把に本書の内容の「印象」をまとめてみた。ワシの持っている本書は,第13章に第12章の最後がくっついた第五部が重複して掲載されているという乱暴な代物だし(「落丁」じゃないから文句を言う筋合いではないけど),一部「言い過ぎ」「言い足らな過ぎ」って箇所もあるので,どーも,本書をFP演算の「聖典」と言い切るには至らない。しかし,それもこれもこのMullerを中心とするフランスグループの力強さの現れと思えば,本書は彼らの力業による「力作」であることは間違いない。13000円の価格は確かに高いけど,この分野に興味があってそこでおまんまを食っている人間がその経済力の一部を振り向けて彼らに喜捨するのだと思えば,お安いものではないだろうか?
 では乱暴さの一部をここでご紹介して,中締めとしよう。
section_12_5_in_chapter13.JPG
mutiple_part_vs.jpg
 最後に,FMA演算の現状についての小文を掲載しておく。→[4/4]へつづく

[2/4] J-.M.Muller et.al, “Handbook of Floating-point Arithmetic”, Birkhauser

[ Amazon ] ISBN 978-0-8176-4704-9, \13666(2010年4月現在)
handbook_of_floating_point_arithmetic.jpg
 上記,”Handbook of Floating-point Arithmetic”の前書き部分を翻訳したので以下に提示する。
——- ここから ——–
初めに
 浮動小数点演算(Floating-point arithmetic)は,現代のコンピュータ上で数値計算を行うために,実数演算を近似する手法として,最も広範囲で利用されているものである。浮動小数点演算をざっくり述べるには短い言葉で十分だ。即ち,ある数xは,基数(radix)βの浮動小数点演算において,符号部(sign)s,有効小数部(significand)m,指数部(exponent)eを用いて,x = s×m×β^eと表現される。とはいえ,この演算を実装し,高速で可搬性のあるものにしようとすると,大変面倒な仕事をする羽目になる。少し拡大解釈すれば,浮動小数点演算という概念は(60進法ではあるが)古代バビロニアで発明されたとも,計算尺を使った計算にもその萌芽があるとも言われているが,最初の現代流の実装はコンラッド・ツーゼ(Konrad Zuse)が開発した5.33Hz駆動のZ3コンピュータ上でなされたものである。
 多種多様な浮動小数点演算の実装が大量に登場したのは1960年代から1980年代初期の頃である。その当時は基数も(2, 4, 16, 10が想定されていた),小数部の桁数も,指数部の長さも標準化されていなかった。丸め方式やアンダーフロー,オーバーフロー,やってはいけない計算(5/0や\sqrt{-3}など)の扱いも,コンピュータ間の互換性は殆どないに等しい状態。標準的な実装が存在しないことが,数値計算ソフトウェアの信頼性や可搬性を向上させることを困難にしていたのだ。
 プログラマには有用であり,浮動小数点演算の実装者にとっては現実的な解決をもたらす,核となるコンセプトをもたらしたパイオニアは,ブレント(Brent),コーディ(Cody),カーハン(Kahan),九鬼(Kuki)といった科学者たちである。彼らの努力によって,2進ベースの浮動小数点演算であるIEEE754-1985規格ができあがったのだ。その後,IEEE854-1987という「基数に依存しない浮動小数点演算規格」もできた。この規格化を指揮したのはカーハン(William Kahan)で,プログラマが利用できる計算環境の質が向上したのは,このIEEE754-1985規格のおかげなのである。近年ではさらにこの規格が改良され,新しいバージョンであるIEEE 754-2008規格が2008年8月にリリースされている。
 このIEEE754-1985規格が浮動小数点演算の挙動を思慮深く規定しているおかげで,研究者が非常にスマートで可搬性のあるアルゴリズムをデザインすることができるようになっているのだ。例えば,非常に精度の高い和の計算や積和計算が実行できるし,プログラムの重要な部分を形式的に証明できたりするのである。ただ不幸なことに,あまり知識のないユーザにはこの規格の精緻なところが殆ど理解されていない。更に憂慮すべきは,こういう部分がコンパイラの制作者にもしばしば見落とされていることだ。結果として,浮動小数点演算が曲解されることもしょっちゅうで,その性能を十分発揮し得ていないことも起きてしまう。
 このIEEE754規格,そしてその改良版の存在が,浮動小数点演算に関する膨大な知識の中から一部を抜粋して本を編むという決断を我々にさせたのだ。本書は数値アプリケーションのプログラマ,コンパイラ制作者,浮動小数点アルゴリズムのプログラマ,演算回路の設計者,そして浮動小数点演算を操るツールをもっと正確に理解したいと願っている学生や研究者にも役立つように構成されている。本書の執筆中,我々は,コーディングや設計のためにより直接役立つ使い方を示せるよう,記述したテクニックを実際のプログラムを使って説明するよう,できうる限り心がけたつもりだ。
 本書の第一部では,浮動小数点演算の歴史と基礎概念(フォーマット,例外処理,正確な丸め等),そしてIEEE754, 854規格とその改良版の規格について様々な事柄を述べている。第二部ではこの浮動小数点演算規格の持つ性質がどのようにして,スマートだが分かりづらいアルゴリズムを開発するのに役立っているのかを解説する。加算,除算,FMA(fused mutiply-add)演算を用いた平方根のアルゴリズムも説明する。そして第三部では,浮動小数点演算が,(整数計算プロセッサ上の)ソフトウェアと(VLSIもしくはリコンフ回路といった)ハードウェアを使ってどのように実装されているのかを説明する。第四部では初等関数の実装方法を述べ,第五部では浮動小数点演算の精度保証や多倍長精度化といった,浮動小数点演算の拡張方法をご覧頂く。最後の第六部は全体のまとめ・今後の展望(perspective)と付録に充てた。
謝辞
 本書の準備段階の原稿の作成に当たっては,世界中に散る同僚と,上級エコール・ノルマル・リヨン校(Ecole Normale Superieure de Lyon)とリヨン大学(Universite de Lyon)の学生たちに読んでもらい助力を請うた。ニコラス・ボニファス(Nicolas Bonifas),ピエール-イヴス(Pierre-Yves)・デイビッド(David),ジーン-イヴス・レクセレント(Jean-Yves l’Exellent),ワレン・フェルガソン(Warren Ferguson),ジョン・ハリソン(Jon Harrison),ニコラス・ハイアム(Nicholas Higham),ニコラス・ルーヴェット(Nicolas Louvet),ピーター・マークステイン(Peter Markstein),エイドリアン・パンハルー(Adrien Panhaluex),ギラーム・レヴィ(Guillaume Revy),そしてジークフリード・ルンプ(Siegfried Rump)。彼らの助言と好奇心に感謝する。
 出版元であるバーカウザー(Birkhauser)・ボストンとの共同作業は非常に楽しかった。特に,トム・グラッソ(Tom Grasso),レジーナ・ゴレンシュテイン(Regina Gorenshteyn),そしてトリー・アダムス(Torrey Adams)の協力に感謝したい。
 ジーン-ミッチェル・ミュラー(Jean-Michel Muller),ニコラス・ブリスベア(Nicolas Brisebarre),フローレン・ド・ディネティン(Florent de Dinechin),クロード-ピエール・ジーネロッド(Claude-Pierre Jeannerod),ヴィンセント・ルヴェブレ(Vincent Lefevre),ギラーム・メルクウィオン(Guillaume Melquiond),ナタリー・レヴォル(Nathalie Revol),ダミアン・ステーレ(Damien Stehle),サージ・トレス(Serge Torres)
フランス,リヨンにて
2009年7月
——- ここまで ——–
 ・・・いかがでしょう? つーことで,ざっと本書を眺めてみた感想を次に述べてみたい。→[3/4]につづく