[1/4] J-.M. Muller et.al, “Handbook of Floating-point Arithmetic”, Birkhauser

[ Amazon ] ISBN 978-0-8176-4704-9, \13666(2010年4月現在)
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 う~ん,パラパラとめくってみただけの段階であるが,これを紹介しておかないと寝覚めが悪いのでさっさと記事を書いて公開しておく次第である。
 本書はO先生からのメールで,”Elementary Functions: Algorithms and Implementation“を書いたMullerがまた本を書いたらしい,と知らせて頂いたことでその存在を知ったのである。で,慌ててAmazonから注文したのだが,全然在庫がなかったらしく,到着まで一月待たされてしまった。しかし時代はThe Internet,到着以前に,著者のページとか出版元のページを眺めて前書きをざっと訳してみたりと,予備知識の習得ができたのである。
 ・・・とゆーことで,本書の中身に言及する前に,前書きの翻訳を先にご紹介しておこう。まずそれを読んで,どんな本であるかを知っていただきたい。 →[2/4]につづく

上野健爾「数学の視点」東京図書,E.Artin(アルティン)/寺田文行・訳「ガロア理論入門」ちくま学芸文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-09283-0, \1200, E.Artin「ガロア理論入門」
[ Amazon ] ISBN 978-4-489-02057-9, \1800, 上野健爾「数学の視点」
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 現代の代数学は抽象度の高い難解な学問(への入り口)として,理工系,特にガシャガシャ解析的計算にかまけていたい向きには忌避されがちなものに成り下がってしまっている。逆に,離散的構造には慣れっこになっている情報系の人間にとっては,剰余類が代数系になっているとか,多項式が体(field)の上に成立する代数系になっているという程度の現代代数学の知識は当然知っていないとヤバいものである。だもんで,一口に理系と言っても,「代数学」って奴を知らずに済ませられる分野と,必須知識になっちゃっている分野でかっきり分かれてしまっているように思われる。・・・いや,知らずに済ませたい人と,知らずにはいられない人に分かれる,と言った方が良いのかな。何せ,思想的史には重要な「構造主義」の原点になったのが,現代の抽象度の上がった代数学における「構造」のとらえ方なのである。寄せ集めの大量の要素からなる「集合」を漠然と眺めるだけでは飽きたらず,そこに寄せ集めの「構造」を知りたい,知ったことで要素の扱い方も見えてくるだろうと知った好奇心旺盛なインテリ人たちがこぞって構造主義→現代代数学に向き合うことになったのは当然の流れであった。
 しかし・・・この「構造」を主軸に据えた代数学を勉強するのは結構大変だ。何せ,高校までの「計算=数学」としか思っていない大多数の馬鹿ども(かつてのワシも含む)にとっては思考のコペルニクス的転換を図らねば,理解の土台にすらたどり着けない代物なのである。ワシの経験では,大学学部時代にはさっぱり理解できず(まぁ,定期試験をクリアするぐらいの丸暗記的「知識」はついたけど),自分で教えるようになってから改めて勉強し直して「あ,な~るほど」と膝を打っているという有様である。計算とか具体例とかから個別の概念の積み上げによって下から高みに登っていくのが解析学系統の数学だとすれば,抽象的=一般的な概念を提示して「上から」具体例を捕捉していくように知識の整理をしていくのが「現代の」代数学系統の数学ということになる。高校・大学学部教養レベルではそもそも整理するほどの数学知識がないので,まずは増やすことに専念する必要があるから前者のようなやり方が相応しいが,学んだ知識を整理して体系化し,新たに登場する未知の事象に向き合っていこうとすると,どこかの時点で後者のやり方も学んでおく必要がある。汎用性の高い「考え方」を血肉にするには,一度ぐらいはちんぷんかんぷんの森を彷徨わねばならないのである。
 「現代」の代数学がこのように抽象的な「構造」を扱うようになったのは,もともと「代数」ってのが計算操作そのものを指していた時代にぶつかった難問の解決にそれが不可欠だったからである。その難問とは「5次以上の代数方程式の解の公式を見つけること」であった。
 結論から先に言うと,有理数べき乗と四則演算を有限回適用するだけでは5次以上の代数方程式の解の公式は得られない。4次代数方程式までは存在する「解の公式」が5次になってしまうと途端に見えなくなってしまう。16世紀に4次まで解けたものが,100年以上も試行錯誤して5次方程式が解けないまま停滞していたのだ。結局,19世紀初めにアーベルとガロアが登場してようやく5次以上になると「解の公式が存在しない」という結論を得る。
 ・・・が,問題はこの先である。
 結論は得られたものの,それをすっきりわかりやすく提示するための体系,すなわち「ガロア理論」がきれいに整うのは20世紀に入ってからである。そして整った体系は,方程式を解く計算手法を解説したかつての代数学を根底から変えてしまい,代数系(algebraic system)だの群(group)だの環(ring)だの体(field)だのという,方程式とその解が依って立つ抽象的な「構造」を説く「現代の代数学」になってしまったのである。それをコンパクトにまとめたのがE.Artin(アルティン)の「ガロア理論入門」である。・・・あ~,いつも以上に前置きが長くてすまん。
 「入門」という名前になっているが,原題には入門の文字はない。一応,学生向けの講義をまとめたものに基づいて1959年に原書が出版されているから,わかりやすい「筋立て」ではあるものの,れっきとしたガロア理論の解説書であり,「やさしい」と言えるかどうかは疑問だ。ましてやワシも含めて数学知識はかつてのエリート学生に比べて格段に落ちるから,そもそもアルティンが前提としている複素関数の基礎知識も怪しい。従って,これを理解しながら読み通すには,別の参考書が必要になりそうである。
 つーことで,アルティンの本を読み通すために,座右に置いておくのが相応しい参考書が上野健爾の「数学の視点」である。・・・しかしさぁ,これ,本のタイトル,ちゃんと考えて出したのか?と文句をぶーぶー言いたくなる。帯に「ガロワ(ガロア)理論」って書いてあるから内容が類推できたけど,「数学の視点」じゃぁ・・・アルティン本の知識を補ってくれる具体例満載の参考書だってことがさっぱりわからん。まぁ,線形代数やら複素解析やら代数系やら・・・解析学的な具体的知識の積み上げの末に,ガロア理論ができあがってきたというバックグラウンドを解説するのが目的だから,そこに見えてくるたくさんの「数学の視点」を提示したのだ,ってことなのかもしれないが,せめて副題にはガロアの文字が欲しいよね~・・・というのがワシの意見。
 矢野健太郎の「角の三等分」の議論は,この2冊の本で語られている理論体系に包含されるものなので,ヤノケン本では物足りない,食い足りないと思った人は,是非,アルティン本を追いかけつつ,上野本の助力を受けて是非とも「5次以上の解の公式が存在しない」ことを結論づけてしまった現代代数学の体系,ガロア理論を学んでいただきたい・・・ってエラそーに言っているワシも,これから学ぼうとする素人の一人に過ぎないのであるが。

大塚英志「大学論 いかに教え,いかに学ぶか」講談社新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-288043-5, \740
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 今の大学に奉職して11年目を迎える区切りの日,2009年度の最後に本書を読了したことはワシ個人にとって大きな意味を持つ出来事だった。大塚英志がComic新現実で「シュートに教える」と宣言してからはや5年,神戸の私大で最初の卒業生を送り出すまでの経緯を大塚自身の学問における師弟論を交えて熱く語ったこの新書は,人間社会における「教育」の原点を問い詰めてくれるだけでなく,そこそこ教育経験を積んで「惰性」に流されつつある一教師を鷲掴みにして揺さぶったのだ。教育のミッションを完遂するため,学生と正面から向き合ったのか?・・・しばらく自問自答の日々が続きそうだ。
 早くから予測されていたことではあるが,少子化という現象が起こって以来,ことに私立の高等教育機関は入学生の減少→経営難という現実的な問題を手っ取り早く解決する手段として,様々な組織改編に乗り出している。大学では資格取得に直結する医療看護系に乗り出すところあり,そして京都精華大学や大塚のいる神戸芸術工科大学のように,マンガ・アニメのコンテンツ制作教育に乗り出すところあり,意味不明だがイメージだけは未来的という学部・学科名を冠するところあり・・・まぁほんとにみんな苦労しているなぁと感じる。もちろんワシだって当事者の一人だから,他人事のような感想を言って済ますわけにもいかないのだが,コンピュータと数学の教師が年度明けには文学の先生になるということは知識的にも文科省的にも不可能なので,自分の知識の及ぶ範囲でゼミとか講義の内容を改変する程度の「お付き合い」をするだけである。既存の学問に乗っかって既に教員になっている一個人の変化は普通,その程度だ。
 しかし,マンガ,しかもプロの漫画家になるための教育を,漠然とした将来への希望しか持たない若年者に対して行うという前代未聞の試みにチャレンジするとなると,教える方は相当苦労することになる,というのは誰の目にも明らかだ。いくら教える側にプロ作家や編集者を入れるとしても,アシスタントを養成するようなOJT的なやり方ではうまく行くはずがない。編集部に持ち込みに行く,プロ作家のアシスタントに応募する,という時点で既にその人間には動機もテクニックもある程度備わっていることになる。大学で教えるのはそれ以前の,漫画を描く動機づけも方法論も持たないド素人なのだ。大塚に言わせるとそのような人間は「それが不確かなものでしかないから彼らはここに来た」(P.16)のである。しかも大塚のやり方ときたら,既存の芸術学部だってデッサン力のチェックぐらいはするというのに,AO入試では表現者=「こちら側の人間」かどうかという,質問してその回答を聞くだけで判断する極めて主観的なチェックしかしないというのだ。
 大塚の「シュートな」教え方は,マンガを構成する方法論を体に叩き込ませた後で,自分が表現したいものをその方法論を使うことで引き出させる,というものである。絵を描く細かいテクニックは一切教えない。そんなものは安彦良和・多田由美・菅野博之ら教員(すんげぇ豪華な教員陣!)と学生の合作「8105スタジオ」の作品を葛藤しながら描いたり,プロの編集者とのやりとりの過程でしか身につかない,というのが大塚の持論である。プロの漫画家になるという決意をさせれば「こちら側」の人間であり,こちら側の人間であれば細かい作画テクニックは誰でも身につく・・・これは大塚だけでなく,他の編集者も「絵は誰でもある程度は上手くなる」と言っているから,漫画編集者の共通認識なのだろう。
 大塚英志が実際にどんな喋り方で学生を指導しているのか,ワシは知らない。しかし本書の記述を読む限り,適度に距離とり,大塚の基準である「卒業」をするまではこまめに学生の相談に応じたり,アドバイスを与えたり,時には突きはなしたりしているようだ。今の大学ではアタリマエのことだと言われそうだが,はたして大塚並のケアをしている教員がどれほどいるか,「下流大学」でもちょっと怪しい気がする。よくもまぁあれだけの漫画原作を連載し,東京と神戸を往復しながらそこまでやるもんだと感心させられる。
 流石に同居人(白倉由美)からも,「大学の先生になったはずなのにまるで毎日,高校の先生みたいなことをやってない?」(P.62)と言われてしまう。大塚の答えはこうだ。

「まあ,何にせよぼくがなったのは学校の先生だからね」

 自分がホントに「学校の先生」であったか,ワシを揺さぶり,この疑問が頭から離れなくなったのは,この大塚の言葉を通じて本書全体に通じる「熱」が伝播したからである。
 「教育」の原点を再確認したい人は,是非ご購読頂きたい一冊である。

内田樹・釈徹宗「現代霊性論」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-215954-8, \1500
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 いや~,面白かった。ほぼ一気読み。といっても本文A5版300ページの厚さの単行本,内容も濃いので東京往復の新幹線では読み切れず,ベッドの中でも読み続けてようやく終わった。数々の思想書をblog更新と共にコンスタントに生み続ける内田樹と,「不干斎ハビアン」で仏教・キリスト教に関する深い知識に基づいて個としての宗教人=野人を評価した釈徹宗,この二人の掛け合い漫才による現代人の霊的考察講義録,もう話があっちこっちに飛んでいくのでこんなblogの記事で全部の内容に触れることなぞできやしない。せいぜい全体的な印象をざっと述べて,面白かったところ,印象深かった部分だけ抜粋してご紹介するぐらいしかできない。本書は講談社の単行本で現在(2010年3月14日)Amazonで119位という売り上げ順位であるからして,遠からず文庫化されるに違いないから,それを待って買おうという人向けの部分的な予習としてお役に立てれば幸いである。
 2005年の後期に神戸女学院大学・大学院で行われた,内田・釈による掛け合い講義「現代霊性論」が元になってできたのが本書である。高々14回の講義でこんな密度の高い話をしたんだから,まぁお二人とも元気ねぇとつくづく感心する。講義内容の主導権を握るのは内田で,時には釈から「さっぱりわからないですね(笑)」(P.164)と言われてしまうようなメタ的言説をまき散らしながら聴衆を引きずり回す。そのような駄法螺とも思えるウチダの問答に対し,一つ一つ丁寧に,古今東西の宗教に知悉した釈が解説を加え,ともすれば虚空に飛んで発散しそうな会話をがっちりと現在の「霊性(spirituality)」につなぎ止めてくれるのだ。一読した印象では,著者並びとは逆に,釈による現代人の宗教論,という感じがする。
 衣食足りて礼節を知る・・・はずだったのが,どうも「衣食が足りた」現代はこの「礼節」の部分が実はよく分からなくなっているのではないか・・・という認識はグローバルに共有されている。本書は,「霊性」がとうとうWHOでも人間の健康の定義には欠かせないものではないか?,と議論になった,という釈の話から始まる(P.14~P.17)。もちろん本書はオカルト現象そのものを扱うのではなく,そのようなものを感じる人間の精神のあり方を論じるものである。死者を奉ったり,世の不条理に悩む現代人が求めたりする宗教的な儀礼・宗旨といったものを含む「霊性」というものを多面的に,そして理知的に語ってくれているのだ。
 例えば,江原啓之・細木数子といった,ちょっとうさんくさい目で見られている民間霊能者についても,もてはやす人々が少なからず存在することに対して,「いつの時代においても教団宗教とともに,常に機能してきたと僕は思います。この(注:民間霊能者の)系譜をまったく排除して宗教を語るわけにはいきません」(P.73)と釈は断言する。教団宗教が苦手とする,目の前にいる相手を精神的に救う,という役割を民間霊能者が担ってきたというのである。精神科医であるなだいなだも,宗教家でしか救うことのできない領域があることを指摘していたが,精神医学が発達した現代においてもなお,江原や細木のような存在が必要であることを,自身が浄土真宗という教団宗教の僧である釈はあっさりと認めているのだ。そーいえば,鏡リュウジも「占星術」を科学的でないと認めながら「役割」があるのだと説いてなかったっけ? たぶんそれは,この民間霊能者としての機能だったのだなぁ。
 本書全体を通じて,ウチダも釈も,「霊性」の重要性を説きながら,そこにまつわる危うさもきちんと指摘している。カルト教団の害に悩む人には,カルトが生じる原因をうまく言い当てている本書は,一つの指針を与えてくれるだろう。
 「「ポスト新宗教」は自分の体験を重視する傾向が強いです。オウム真理教もそうでしたが,神秘体験を大変なことのようにやたら言うんですけど,これにパッチワーク教義が合わさると,危険は倍増する。たとえば禅や瞑想(メディテーション)を実践すると,幻視や幻聴,まばゆい光を見る,何かの掲示を得るなど,神秘体験的な現象が起こります(注:「坊主DAYS」でも「魔境」として紹介されている)。でも,それは生理現象として必ず起こるものやから,そこに本質はないから気にせず捨てていけ,それに足をすくわれちゃいけないと,ちゃんと教えます。きちっとリミッターが利くようになってるんです。」(P.109~110)
 なるほど,伝統は伊達ではないのだなぁ・・・と,普段,実家が檀家となっているお東さん系のお寺に支払うお布施の金額に疑問を抱いているワシも,ちょっとは浄土真宗を見直した・・・かな?
 「なぜ人間は宗教的なるものを求めるのか」という根源的な公案に対して,自分なりの回答を得るため導入として本書を読む,という使い方ができる良書,一読しておいて損することはない。ウチダ本に飽きてしまった方にも,ウチダ本のようなふりをした釈メインの本書なら,万全の自信を持ってお勧めできるのである。

小谷野敦「文学研究という不幸」ベスト新書

[ Amazon ] ISBN 978-4-584-12264-8, \752
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 だんだんこのblogのぷちめれ,マンガ,数学,コンピュータの本を除けば,内田樹と小谷野敦の著作で埋まりつつある。それも当然で,今の時代,あんまし自分に耳障りの良い言論ばっかり読んでいても,それが真実である気が全くしないのだ。TVを見なくなってしまったのも,時間が取れないこともあるが,一部の報道番組やドキュメンタリーを除けば,何だか庶民派を気取った「生ぬるい癒し」的コメントに満ちていて欺瞞的だと感じ始めたからでもある。国債発行残高は世界一,そのくせ少子高齢化の進展も世界一のスピードで進んでいて,社会システム,とりわけ税金の使い道については縮小均衡を目指さねば日本が持たないという状況なのだから,そうそう癒しばっかり求めていても問題の解決には繋がらないのは当然である。
 その点,ネットの動画コンテンツやニュースサイトの情報,個人blogやTwitterでは,玉石混交なれど,結構真実味のある耳の痛い意見がたくさんあって,こっちを見聞きしていた方がよっぽど面白いし刺激的だ。とりわけ愛読しているのが内田樹小谷野敦。ウチダの言論が自省的・メタ的な志向を持っているのに対し,コヤノのそれは実証主義的文学研究の延長線上でひたすら現実的・他罰的という,対照的な論者がこの二人なのである。一般にはコヤノの短兵急な批判文の方が耳に痛く感じられるし,それを武器に盛んにあっちこっちの論者に噛み付いては無視されまくっているようだが,人の悪さはウチダの方が数段上,ウチダ的構造主義に基づく怜悧な文は,時に罵倒よりもきっつい絶望に落とし込むこともある。商売のウマさではウチダはコヤノとは格が違うので,絶望の谷に突き落とすのではなく,谷底を見せつつ,向こう側の「希望」にうまくロープを渡してくれるから,読後感は爽やかである。しかし渡った後には「絶望の谷底」があることをワシらいたいけな読者に植えつけてしまうのである。ま,普通はこれを「達観」と呼んでいるようだけど,ね。
 小谷野敦の言説は,「中庸,ときどきラディカル」という著作があるように,現実を見据えた中庸的なものがほとんどで,理想主義的なところには決して流れない。その分,客商売としては最低なところがあって,「もう少し愛想があっても良いじゃないの」と思わないではない。ファンタジックなメタ的思考は皆無で,「証拠はこれとこれとこれだ,なにか文句あるか」という言い回しが多い。本書でもこれでもかこれでもかというぐらい,文学研究者の実名とその有り様を挙げ,「だからぁ,実態はこんなもんなんだって」という愛想のない記述がひたすら続くのだ。これが有名な「小谷野節」なのである。
 しかし,ワシにはこの小谷野節が痛快なのだ。愛想のない文章は,裏を返せば,地に足の着いた懇切丁寧な記述とも言えるし,何より,メタ空間に逃げないところが潔い。例として,読む人が読んだら激怒しそうな記述(P.103~104)を挙げる。

 要するに,文学部は一流大学(注:旧帝大・早慶クラス)にだけあればいいのである。同じく(注:文学研究のための)大学院も一流大学だけにあればいい。もっとも,本当は,二流大学以下の大学に学んで医者になるだのというのは,人命にかかわるだけに問題なのだが,国民全体に行き渡るほどに優秀な頭脳が存在しないのだから,仕方がない。これは高校や中学校の教師もおなじで,もし一流大学卒の人たちだけが中学校や高校で教えていれば,生徒の学力ももっと向上するだろうが,それだけの量の頭脳が存在しないのだから仕方ない。理工学部とかの「実学」は,さほど頭が良くなくても,工程さえ分かればいいので,二流大学でも,まあ意味はある。

 普段から小谷野の文に接しているワシなぞは,いつもの論が出たなと思うだけなのだが,真面目な人であれば口角泡を飛ばして反論してきそうだ。しかし,三流大学出のワシとしては,教師生活16年の経験を踏まえると,この文章は統計的に見て概ね「正しい」と認めざるを得ないのである。怒る気には到底ならず,むしろ,口は悪いが世の真実を淡々と語ってくれているように感じるのだ。
 本書全体で,小谷野は,大学という場に雇用されながら文学研究を行う人間は少数でいいと主張し,過去から現在に到るまで,文学部における人事や論争のゴタゴタを述べ立てる。ワシの乏しい知見では,たとえ実学的な学部でもこの手の議論や出来事はついて回るし,むしろ「実学」と絡むだけにメンドクサイ出来事は文学部より多いんじゃないかという意見も出てきそうだ。
 その意味で,小谷野の個人的な恨みつらみがドライブして出来上がってきた本書は,何故か,「文学」を「工学」でも「理学」でも「農学」でも「医学」でも置き換えたところで,概ね成立してしまう不思議な汎用性を備えている。多分,これは小谷野の実証的な物言いが功を奏しているのだろう。学問の相違はあれ,大学なんてのは人間がゴチャゴチャとより集まって行われる営みの一つに過ぎないのだから,事例をかき集めてみれば共通部分が多いのは当然と言える。従って,本書は,どんな学問であっても「研究という不幸」はついて回るという,ごく当たり前の「中庸」的なことを主張しているに過ぎないのだ。