松本清張「史観宰相論」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42605-5, \900
matumoto_seityos_essay_on_japanese_prime_minister.jpg
 政治家の評価ってぇのは難しいモンだなぁとツクヅク思う。いや,個別の政治家が好きだ嫌いだと床屋政談レベルであれこれ言うのは簡単だが,歴史的に長いスパンで,かつ「日本の国益」に寄与しかどうかを判断基準にしてきちんと評価しようとすると,誠実に考えれば考えるほど分らなくなる。小村寿太郎なんてのはポーツマス条約直後にはロシアからの見返りが少ないと当時の国民からボロクソにこき下ろされたが,吉村昭が小説「ポーツマスの旗」でその業績を評価したら180度変わって名外相ともてはやされたり,井伊直弼に至っては二転三転どころではなく,結局今も統計的に確定した評価なんて存在しないのではないか。世の移ろいに従って「国益」の基準が変わってしまったり,評価する側の「常識」が変化してしまったりすると,政治家の評価なんてコロコロ変化するに決まっているのである。
 ましてや,政治家をテーマにしたノンフィクション書き物なんて,書き手の見方が変われば同じ人物を取り上げていても真っ二つの評価になることは普通にある。いや,同じ書き手でも「俺の筆先一つで善悪好悪は何とでも変えてみせるぜ」という筆先三寸な輩であれば,2パターン,いや何パターンの評価の異なった著作を作ることも可能だろう。大下英二ならやりそうだな。
 じゃぁ芯が通っている書き手であれば信用できるかというと,佐野真一のような文学的フレーズ表現に懲りすぎ,しかもその人物の生い立ちに寄りすぎた断定の多いライターだと,事実関係の記述は大いに参考になるが,肝心の評価については「?」をつけざるを得なかったりする。「凡宰伝」読んでいるときには引き込まれたけど,今になってみると,小渕恵三を「幼虫」と形容したのは何の意味があったのか,形而下的なことしか分らないカチカチ頭のワシにはさっぱり分らん。
 ということで,政治家の評価というものは,それなりに客観的・合理的な証拠に基づいた上で,個々人が判断し,それを各個人が積み上げてきた社会的ステータスも勘案して重み付けした上で統計的まとめを行い,そこに現れる「偏り」をもってようやく「まぁこの政治家はこういう評価か」と思うしかないものなのである。
 ・・・という結論を得た上で言うのだが,どーもそれはワシの好みではない。事実関係はきっちり調べて欲しいが,それはそれとして,結局その政治家がどんなことを政治的にやってきたのか「だけ」を取り上げて評価したものが好ましいと,ワシは思っているのである。「ちくま」No.462では佐野が小泉純一郎一家の,親権争いだの姉の別れた亭主の批判などを捕らえてとんでもない宰相だと批判しているが,そんなもの,政治家としての評価と何の関係があるのか,まるで意味不明である。小泉への批判は,国会議員となってつい先日の解散時に引退するまで,特に総理大臣在籍時の政治的振る舞いに力点を置いた政治活動に基づいて「だけ」で行うべきであって,不倫しようが離婚しようが「よっしゃよっしゃ」と言おうが目白に御殿を建てていようが芸者に金をばらまこうが,そんなプライベートなことはどーでもいいのである。ゲス的な調査はゴシップとして面白いからそれはそれで結構であるが,何を行い,結果として何が起こったのか,そこは揺るぎなく捕まえた上で良いだの悪いだのを言って欲しい。それがワシが好む「政治家談議」である。
 本書はそんなワシ好みどんぴしゃりの,大久保利通から鈴木善幸まで扱った「日本の宰相論」である。松本清張は本書の意義をこのように述べている(P.8)。

本文はどこまでも雑談ふうな史的宰相論である。ここにとりあげる人物が宰相の適格者だとはけっして思っていない。あるいは「悪宰相列伝」かもしれない。だが,現実性のない理想像的宰相論を言うよりは,曾ていくたびか変遷した組織の上にたしかに存在し,史的評価も与えられている「宰相」を見る方が,まだしも将来の理想像をさがす手がかりとなろう。

 阿刀田高は「松本清張あらかると」の中で清張の小説にはユーモアが全くないと指摘しているが,本書のような結構気楽に書き綴った(でも事実はきっちり調べた上で,だが)ようなエッセイでも,ほんっっとに読者をクスリとさせようと塵ほどもしていない。現実の宰相に理想なんて述べ立てたところでしゃーねーだろ,と一種の諦観というか達観というか,そーゆー冷めた視点のみが屹立しているという印象がある。結果として,日本の宰相の原型は内務卿・大久保利通がもたらし,そのくびきから現在に至るも逃れてられていないと断じることができたのであろう。
 本書では清張の興味を引かなかった首相はいとも簡単にすっ飛ばされている。東条英機なんて全く面白いと思っていなかったようで,近衛文麿が始めた「日本の破滅」(P.220)を行ったとして一言でまとめられているだけ。戦前の首相では,大久保・伊藤以降は政党嫌いだった山県有朋がいわゆる「統帥権」と,軍が天皇への直接意見具申が出来る制度「帷幄奏上」を創設したところから,近衛文麿が陸軍の「使用人」として終わるところまでを扱い,戦後はワンマン宰相・吉田茂を集中して述べ,それ以降の首相はさらっとした一口論評程度で終わっている。本書執筆当時の政治家が小物だということではなく,歴史資料の堆積のない最近の首相は書く意味がないと言っているようでもある。この辺は分厚い歴史資料好きな清張の面目躍如という感がある。
 きちんと取り扱っている宰相についての論評はほぼ的確,というか,資料の裏付けのある歴史的評価の定まった人物については,「ふーん,なるほど」と納得させてくれる記述をしている。ほめあげることは殆どなく,政治家として実行したこと・しようとして出来なかったことに対して少し辛口な論評を短くそっけなく行っている。ほとんど異論はないが,客観的すぎて作家と言うよりは学者の仕事という感じ。早大を出た石橋湛山に関する記述の中に,中年になって作家デビューするまで苦労した清張の「やっかみ」が見える記述(P.394)を見つけてホッとしたぐらいだ。高学歴の多い編集者に質問を浴びせてその無知ぶりを笑っていたという清張らしいが,ワシはこの子供じみた振る舞いに魅力を覚えるタチなので,もっと自分のことに絡めて語ってもよかったのではないかと思うのである。
 本書には,今度首相になる鳩山由紀夫の祖父・一郎についての記述も,現首相である麻生太郎の祖父・吉田茂の記述もそれなりの分量が割かれている。そしてその二人が登場するまでの歴史的経緯も明治以来厚く書かれている。戦後政治がどのような「源流」を持っていたかを知るには格好の一冊であると共に,今の政治も決してその源流とは無縁ではないどころか,太いワイヤーで繋がっているということを再確認する上でも役に立つ書である。ワシは政権交代が起った今こそ,本書が刊行された意味が出てきたと思っているのである。

伊藤理佐「あさって朝子さん」マガジンハウス

[ Amazon ] ISBN 978-4-8387-1961-7, \800
miss_asako_living_toward_the_day_after_tomorrow.jpg
 そうか,老舗女性誌・Hanako連載の名作漫画シリーズのバトンは伊藤理佐が受け継いだのか,と先日この新刊をgetした直後に気がついた。我が家にはちくま文庫に入っている高野文子「るきさん」と吉田秋生「ハナコ月記」があるのだが,数年後にはおそらくこの伊藤理佐の「あさって朝子さん」も,きっと,きっと,

全頁オールカラーで


収録されるに違いないのである。いいや,間違っても本書のように

最初の15ページ分だけがカラー,残り153ページまで全部白黒


などという,伊藤理佐の画力が放つ魅力を半減させるような,営業暴力的な単行本にはならないはずなのである。いいか,定価が高くなっても全頁オールカラーで文庫化するのだぞ>筑摩書房
 高野文子・吉田秋生・伊藤理佐に共通する,Hanako名作漫画シリーズの特徴は
 ・オールカラー,見開き2ページ連載
 ・ちょっとトウが立った三十路以降の女性が主人公
 ・現実味のある女性の色気が匂い立つ絵の魅力がある
 ・よくあるホノボノ漫画に堕落しない,笑えるユーモアとペーソスに溢れている
というものである。作り込んだギャグではなく,実体験が滲み出てほどよく蒸留された,「そうそう,そういうことってあるよね」という共感を覚えるエピソードが積み重ねられていくのである。
 伊藤理佐の場合,特に本作には,さすが吉田戦車の子を孕むだけのことはあって(何の関係があるのか),「やっちまったよ一戸建て!!」から「おんなの窓」「女のはしょり道」に至る一連のエッセイ漫画と同質の笑いが詰まっているのである。主人公である「朝子」は,はるばる田舎から上京し,アパレルメーカーの一広報部員(だよな,たぶん)として東京で日々豪快な社会人生を歩んでいるのであるが,どこか作者・伊藤理佐を彷彿とさせるエピソードが描き連ねられているのである。
 出張先で肌にどんぴしゃりのリンスインシャンプーと洗顔フォームを見つけた(と思った)とか(伊藤の肌は敏感),二日酔い明けの水道水はジョッキ生ビールと同程度にうまいと感じたとか(伊藤の飲み助ぶりは有名),どんぴしゃり,作者本人を想起させるものもさることながら,他の全ての作品でも,一作ごとに設定される一つの中心テーマはエッセイ漫画と全く同じ「質」のものなのである。朝子を伊藤と置き換えても全く違和感のない作品になるのだ。これは伊藤が細く長く漫画家をやってきた結果,辿り着いた一つの到達点故の相似なのだろう。芸のない芸人は命の危険も顧みずマラソンにチャレンジしたり,大したおもしろみのなさそうな冒険に出たりするものだが,そういう輩は面白い「ネタ」が非常な体験を通じてしか得られないと勘違いしているのだ。優れた芸人は「感性」を磨くことで,どんな些細な日常生活からでもネタを仕入れることが出来る。伊藤も読者や編集人・漫画家との付き合いを通じて「感性」を磨き,笑えるエピソードを拾い出すことができるようになったのだろう。
 しかし,特筆すべきはネタの面白さ以上に,へろへろな線で描かれる朝子をはじめとする女性陣に色気が満ちあふれていることだ。彼氏と5年つき合ってアパートの更新ついでに結婚した女性も,四十路越えで時たまカラスに変貌する女性も,皆例外なく可愛らしい。これで全頁カラーだったら・・・とワシが喚きたくなるのも当然なのだ。白黒ページが多数を占めてしまう編集によって,伊藤理佐の画力を存分に味わえなくなったことは,何度も言うが,返す返すも残念である。定価が倍になってもイイからマガジンハウスには頑張って欲しかったところだ。ちくま文庫に入った2冊は,その点,全頁あざやかなカラーが再現されていて,これがなければ「名作」の輝きに曇がさしていたこと間違いないのである。
 ということで,筑摩書房の皆様方におかれましては,是非とも是非とも,本作の

全頁オールカラー収録による文庫化


をお願いしておきたいのである。

おざわゆき「凍りの掌」Vol.1,Vol.2,Vol.3(完結), 同人誌&小池書院

[ 著者サイト ] 頒価 \1000(だったかな?)
[ Amazon ] ISBN 978-4-86225-831-1, \1238 (2012年6月発売)
frozen_hands_published_by_koikeshoin.jpg
frozen_hands_vol1.jpg frozen_hands_vol2.jpg frozen_hands_vol_3.jpg
 終戦記念日なので,何かそれにちなんだものを取り上げようと思ったときに真っ先に思いついたのがこれである。ということで,ワシが大好きな同人作家・おざわゆきのシベリア抑留マンガをご紹介したい。
 太平洋戦争における日本の「敗戦」を考える切り口は,ほぼ出揃っているように思われる。政治面では天皇の統帥権を盾に,いわゆる「城下の誓い」に至らしめるまで,次から次へと内閣を翻弄してきた帝国陸軍の責任を第一に考えるべきであるし,しかしそれを支え続けたワシら国民の責任というものも同程度に考える必要がある。戦中,東京で少年時代を過ごした吉村昭は「私の文学漂流」で,世に認められるきっかけとなった作品「戦艦武蔵」の土台となった資料である「『武蔵』の建造日誌から立ち上る熱気」を受け,「私が少年時代に感じた戦時の煮えたぎっているような空気」を思い出して次のように述べている(P.217)。

 戦後,戦争は軍部が引き起こし持続したものだ,という説が唱えられ,それがほとんど定説化している。しかし,少年であった私の目に映じた戦争は,庶民の熱気によって支えられたものであった(太字はワシによる)。

 ナチス・ドイツ同様,そういうものが成立する土壌はポピュリズムにあるのだということは,洋の東西を問わない事実だ。しかし民主主義がそれなりに回っていくためにはポピュリズムの力を利用しなければならず,結局の所,政治家がその他大勢の国民を煽ったり騙したりなだめすかしたりしながら,ある程度長期的な観点に立って合理的な方向性を探っていくほかないというのもまた事実である。その意味では,ちょっと合理性を欠いた行動をし過ぎたな,と言わざるを得ない時期が昭和初期~20年8月15日ということになろう。そして,合理性を無視し続けた結果,敗戦後に国民が支払わねばらならなかった「代償」は,64年経った今に至るもワシら国民を色々な意味で「屈折」させ続けているのである。
 大きな「代償」の一つが,植民地・満州国崩壊によって引き起こされたものである。邦人引き上げの際の混乱によって残留孤児問題が引き起こされ,近年まで毎年のように肉親捜しが続けられたことは多くの人が記憶していよう。ワシが一番好きな竹宮惠子の作品は「紅にほふ」であるが,満州花柳界で育った3人姉妹(血は繋がってないが)それぞれの人生が時に優しく,時に残酷に描かれる入魂の作品である。当然,日本への引き揚げの苦労も描かれるが,この3姉妹はまだマシな方だったようで,悲惨きわまりない事件も多数あったこともちゃんとモノローグでは述べられている。残留孤児問題はそんな事件の一つであった。
 さて,満州国崩壊と共に,ここを実質的に抑えていた関東軍がソ連軍に連行されてシベリアで過酷な肉体労働をさせられるということが起こった。これがシベリア抑留事件である。本書は著者の父が体験したこの抑留経験に基づいた漫画作品である。
 つげ義春の作品を表して,赤瀬川原平は「悲惨な町の安全運転」と言った。けだし名言である,とワシは感じた。その意味は「つげ義春コレクション 大場電気鍍金工業所/やもり」の解説を読んで頂きたいが,おざわゆきのシリアス作品も,意味は多少違えど「悲惨な町の安全運転」めいたところがあるように思えるのだ。
 おざわゆきの作品については,竹宮惠子が的確な解説をしているので,まずはそれを引用しておこう(「竹宮惠子のマンガ教室」筑摩書房,P.199)。

 絵は三頭身ぐらいのバランスで,卵のような丸い顔の中に,大きな目が半分くらい描いてある,全然シリアスな雰囲気じゃない絵なのに,その絵のまま,戦争で難民になってしまって,放浪している間に自分の身を売って家族を助けていく,というドラマチックな話を,こんな薄い同人誌の中で描いている人がいるんです。本当に枝葉の部分を全部そぎ落として,話の骨子だけを伝えているんですけれど,それはそれですごいというか,読んでしまえばすごいドラマだった,そういう描き方をする人もいるんですね。

 今なら西原理恵子に似た画風,といえば当たらずといえども遠からず,ではあるが,納得して頂ける方が多いだろう。ただ,叙情と根性に頼った短編が多いサイバラと決定的に違うのは,竹宮が言うように,おざわは骨太で重厚なドラマを展開するストーリーテラーであることだ。そしてその物語は悲惨な状況であっても,パンドラの箱に唯一残った「希望」を感じさせるものである。これはオザワ流の「安全運転」=「ハッピーエンド」なんだろうなぁと思えるのである。ワシは宗教には全く疎いのだけれど,業田良家の「自虐の詩」の幸江が辿り着いた境地と同じ,「悟り」というものがオザワにもサイバラにも共通してあるような気がしているのである。そしてそれは悲惨さが自尊心をズタズタにするような経験によって得た,いつまでも尾を引く疼痛を抱えたものであるように思えるのである。
 オザワ作品は以前,「才能とは何か?」というテーマで谷口ジロー作品とまとめて論じたが,ワシはあの作品,かなり実体験に即したものだと思い込んでいるのである。で,ワシの感性をヒリヒリと刺激した,あの作品に描かれた世間との軋轢は,現在でも大なり小なり,誰しも世間に出る時には感じさせられる通過儀礼なのだと気がついた。
 現代は教育の場であれ会社であれ役所であれ,効率化を求められる時代である。故に,誰しも他人から「評価」されることになる。客観性のある評価であれば個人はそれに従うほかなく,自尊心との齟齬がどうしても生じてしまう。それに甘んじるのか不満を述べ立てるのか,評価を上げる努力をし続けるのかは人それぞれであるが,ある程度飯が食える状況に持って行ければそれなりの「悟り」の境地に達することが出来る。しかしそこに至るまでには通過儀礼としての「痛み」が誰にでも生じざるを得ない。優れた作家はその痛みを読者に「共感」させ,一種のコミュニケーションツールとして利用し,自分の表現を伝えるのである。BSマンガ夜話用語である「あざとい」というタームも,多くの読者にこの共感作用を呼び起こしたという肯定的な意味で使われているが,その意味ではオザワも十分「あざとい」作家であると言えよう。
 そう考えると,父君の体験とは言え,シベリア抑留をテーマに作品を創ったおざわゆきの意図は明白である。作家の直感として,これは自分の持つ資質と呼応するテーマだと断じたのだ。自分が描くべき物語だと,135ページものネームをバリバリと切っていったのである。本作は,右翼がソ連の横暴さを非難するためのものでなく,左翼が戦争の悲惨さ/愚かさを訴えるためのものでもないのだ。ただ,オザワが描くべき作品だったというものなのである。
 それ故に本作は,誤解を恐れずに言うが,面白い作品なのだ。井伏鱒二の「黒い雨」が優れた文学作品であるという以上に,面白い作品であるのと同じ意味で,エンターテインメントとして優れているのである。
 いしかわじゅんは「いわゆる反戦漫画とか戦争漫画を」「あまり読まない」と言う。その理由はこうだ(「秘密の本棚」小学館,P.369)。

その多くが,苦しいと描いてしまうからだ。痛いと,辛いと,悲しいと描いてしまうからだ。現実の大きさに甘えて寄りかかり,表現することから逃げてしまっているものが多いからだ。
 大きな事件があって,それを克明に描いていけば物語の形にはなる。傷を負って痛いと描けば,痛みはわかる。愛する人を失って悲しいと描けば,もちろんそれは伝わる。しかし,それは表現ではない。

 これを耳が痛いと感じる人もいよう,ヒドイ言いぐさだ,戦争の悲惨さから目を背ける口実に過ぎないという人もいよう。
 しかし戦後64年も経っているのだ。直接その被害を受けた当事者が言うならともかく,間接的にその話を聞き取り,それを「表現」しようというのであれば,少なくともそれをどのように読者に伝えるべきかは表現する者が真剣に考えるべきだ,と,いしかわじゅんは主張しているのだ。ワシはこの意見を支持する。
 おざわゆきが書き下ろした本作が,いしかわじゅんの言う「表現」になっているか,と言えば,いしかわの意見は知らねど,ワシ自身は十分それに叶っていると,この2冊を読む限りは断言する。抑留そのものが国際法に則って正しいとはとても言えないことぐらいは主張しても良さそうだが,それもかなり抑制的。ソ連兵による扱いが非道であることを声高に主張することもあまりなく,ひたすら過酷な収容所生活が描かれるだけだ。それはオザワが描くべき所がそこにあるからなのであって,別紙でオザワが主張するように,シベリア抑留を告発することが目的ではないからである。そしてこの重苦しい,いつ終わるとも知れぬ極寒の地における過酷な労働生活は,「読ませる」物語になっているのである。
 本作は3部作だそうで,多分今年(2009年)には完結すると思われるが,ワシはまだ未見である。それを楽しみにしている,というと悪趣味なようだが,面白い作品なのだからしゃーないではないか。大体,戦争漫画が面白くて何が悪いか,とワシはいしかわじゅんに成り代わって叫びたいぐらいだ。まぁそのうちどっかのプロパガンダに利用される可能性はあるけど,そうなったらなったで良いではないかとも思うのだ。たとえ思想のフィルタがかかっても,物語の面白さに違いはないのだから,どーせ使われるなら面白いものの方がイイに決まっている。原爆の悲惨さを伝える作品として丸木位里・俊の絵が今も流通しているのも,圧倒的な迫力があってのことだ。吉村の言う「煮えたぎるような熱気」の源泉を肯定的に描いた小林よしのりの「新ゴーマニズム宣言 戦争論」がベストセラーになったのも,左翼の反発を呼び起こすだけの圧倒的な表現のエネルギーがあったればこそだ。「表現」として優れていて,ワシの共感を呼び起こす「あざとさ」を持つものであるなら,ワシは積極的にその作品を支持していきたいと思っているのである。そして優れた「表現」が右にも左にも氾濫することで,「屈折」が複雑さを増して強固な地盤となり,現代日本の長い「戦後」が豊かになるとワシは信じているのである。
 是非とも完結した本作を読んで,このエントリにその感想を追加したいと念願しつつ,コミケにも行けずにいじけている終戦記念日のワシなのである。11月のコミティアか年末のコミケには何としても出かけて3作目を読みたいぃ~ぞ~っと,オスの負け犬が掛川から遠吠えをお届けした次第である。
[2010-09-01 追記] 2010年8月15日付で完結編のVol.3が発行され,ワシは8月29日のコミティアにて入手した。3冊の中で一番分厚く,111ページの力作。収容所での共産主義洗脳活動のリアルな描写があって,骨組みとしての知識はあったものに「肉付け」される感じがして,このVol.3だけ取り出しても十分「面白く」読むことができた。
 刊行が一年遅れたこともあって,民主党政権のもと,「戦後強制抑留者特別措置法(シベリア特措法)」が2010年6月に成立(朝日新聞)。洗脳された帰国者の共産主義活動が問題視されたことも,成立が遅れた原因であるらしい。そのことの是非は置いておくとして,ちょうど法律が成立した年に本書が刊行されたのは,意図せぬ偶然とはいえ,救済に間に合わずに亡くなった抑留者の慰霊としても相応しい。
[2012-06-26 追記] 小池書院から3冊分の同人誌を纏めた単行本が刊行されたので,そのデータを追加した。

山岸凉子「押し入れ」講談社,同「白眼子」潮漫画文庫

押し入れ [ Amazon ] ISBN 978-4-06-375680-7, \648
白眼子 [ Amazon ] ISBN 4-267-01740-9, \571
the_closet_by_ryoko_yamagishi.jpg coldly_treated_person_by_ryoko_yamagishi.jpg
 夏なので怪談ものをご紹介・・・と思ったのだが,ワシはドーモここんとこ,怪談とは相性が悪い。何年か前は,「ほぼ日の怪談」に集まった投稿を読んで結構怖い思いをしていたのだが,先日読んでみたら,怖いという以前に,怪談の構成があまりにも良くできていることの気がついてしまい,どっと白けてしまった。それもこれも稲川淳二が悪い。というより,口コミで伝承され素朴に怖がっていた民間伝承である「トイレの花子さん」的怪談を商売のネタとして取り上げ,ワシらに消費させ続けてきたマスコミが悪いのである。ああいうものは,そもそもワシら日本人の土俗的な道徳観念に根ざしたものであり,因果が巡って人に祟ったり,恨みを持って亡くなった人が化けて出たりする話を聞くと,そこがじわっと刺激されて怖くなるというものなのだ。日常生活においては,ごくたまに,しかも整理されていないしゃべりを通じて聞くからいいのであって,マスコミから工業製品のごとく整理され演出されて出てきたものは,あくまでエンターテインメントの要素のみを取り出したものでしかなく,土俗的精神構造をチクチクする怪談とは別物なのである。
 山岸凉子の「押し入れ」は,その点,きちんと「因果応報」を踏まえた短編が納められていて,どれもこれも普通に怖い。単に怖いだけではなく,「ああ,こういうことをしちゃいけないな」という気も起こさせてくれるほど,本書に収められている4つの短編は古いタイプの民間伝承に基づいたストーリーになっている。「夜の馬」では薬害を引き起こした大御所の医者が地獄に引きずり込まれるし,「メディア」では子供に執着しすぎた母親が現実に子供に「祟る」し,表題作「押し入れ」は美内すずえのアシスタントが経験した,よくあると言えば良くある「事件」をネタにしているし,最後の「雨女」では,次から次へと女性を食い物にしていく男が「因果」を引き摺っていく様が描かれている。怖い思いをして読了した後には,「悪いことはしないほうがいいな・・・」と身に染みて感じさせる土俗的作用があるのだ。もちろん,山岸独特の儚げな描線と吸い込まれそうな白いバックの作用によるところも大きいのだろうが,それよりも山岸自身の,とても素朴だが太古から積み上げられてきた,誰しも共通して持っている伝統的道徳観念への敬意というものが大きいように思われる。
 山岸の,道徳観念への敬意は「白眼子」を読むとよく分る。ワシはこの作品が今はなき「コミックトムプラス」に連載されていたのをリアルタイムで読んでいたのだが,戦後の札幌が舞台ということもさることながら,戦争孤児だった主人公を狂言回しにして語られる,不思議な能力を持つ盲目の「白眼子」という人物の持つ土俗的思想に感動したことを今でも覚えている。いわゆる「霊能者」という部類に入るのだろうが,依頼人のごく素朴な願望,死んだ息子の今際の様子を知りたいとか,死んだ母親の成仏状況を知りたいという要望にはきちんとした回答を与える一方,白眼子の姉の「旦那」の運命についてははかばかしい予言はせず,二人の旦那は破産したり実子に殺されたりするのである。
 白眼子は言う。「幸と不幸は皆等しく同じ量」なので,「必要以上の幸運を望めば」「すみに追いやられた小さな災難は大きな形で戻ってくる」。自分の能力についても「せいぜい小さな災難を小さな幸福に変えるぐらい」と言い,「災難は来る時には来る」ので「その災難をどう受け止めるのが大事」と主張する。多分,こういう台詞は誰しもどこかで聞いたことがあるものだろうが,それだけ素朴だが重要な人生訓=伝統的道徳観念であると言える。こういう哲学を持ち,周囲に対してセンシティブな神経を持った人物が古代におればキリストや仏陀のような宗教的主柱となったかもしれない(なだいなだ「神,この人間的なもの」(岩波新書)参照)。そして現代でも,こういう人物は,安らかな人生を送れるに決まっているのである。
 科学技術がどれほど進展しても,いや進展したからこそ,ワシらには分らないことが増えるばかりであり,予測不可能な未来が待ち構えていることは昔よりも明白となっている。となれば,日々の生活においては,太古から積み上げられてきた伝統的美習,「足を知る」とか「礼儀を重んじる」とといった生活習慣を重んじて生きていく他ない。たまに無軌道な振る舞いに及ぶことも「祭り」「ハレの日」という伝統に組み込まれた行事の頻度程度にしておくのがイイに決まっている。山岸の著したこの2作には,書物というものがワシらの日常生活において果たしてきた,こういった伝統的美習を伝えてきたという役割を再確認させてくれているように思えるのだ。

西炯子「ひとりで生きるモン!」3巻,徳間書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-19-960412-6, \657
single_life_is_beautiful_vol3.jpg
 数年単位でチマチマとまとめられてきた本書,出る度にごくごく短い感想とも言えないつぶやきを書いてきたが,今年もまた,同じように自虐ネタを書くことになった。それは最後に取っておくとして,まずは,本書のタイトル「ひとりで生きるモン!」という,ひとりもの(=負け犬)が強がって叫んでいるような文句は,果たして平成の奇書(by 林真理子)・酒井順子の「負け犬の遠吠え」より先に出来たのかどうかを検証した結果をご報告したい。
 結論を簡潔に言うと,圧倒的に「ひとりで生きるモン!」の方が,「負け犬の遠吠え」より時期が早い。小学館パレット文庫しおりに「魂の叫び」の如き4コママンガが印刷されるようになったのは1997年11月から,単行本1巻が徳間書店から出版されたのは2003年1月(販売は2002年12月かも)。酒井順子がひとりものとしての生き方を肯定的かつ自虐的にIN☆POCKET誌上で描き始めたのは2002年1月号から,単行本にまとまって出版されたのが2003年10月,ちなみに文庫化されたのは2006年になってからである。
 つーことで,「負け犬」というひとりものの新たな概念提示より5年も前に,西炯子は「ひとりで生きるモン!」と強がりつつ,肩で風を切っていたのである。ひとりものの強がりをエンターテイメントにした先駆者として,大いに称揚しようではないか,負け犬諸君!
 ・・・ということで,本書に納められてるエキセントリックな4コマの紹介を兼ねて,ちみっとアレンジした4コママンガのシナリオをお届けする。適宜,西炯子の華麗なる描線を脳内に思い描きながら読んで頂きたい。
—————————-
「BLアプローチ大作戦」
 (1コマ目) ベッドにて,男子高校生がぼんやり考え事をしている。
 モノローグ:「彼女にアプローチするためには」「共通の趣味を見つけること・・・」
 (2コマ目) 授業中の教室にて。隣には彼女の座席がある。
 男子高校生:「・・・」
 (3コマ目) 同。
 男子高校生:「年上は受に決まっているよね」(ボソッと)
 (4コマ目) 同。
 両人,力強く握手。
 モノローグ:「やった!」「・・・のか?」
—————————-
「私の彼はムダマン」
 (1コマ目) ムダマン!(「ドギャーン!」という派手な擬音と共に決めポーズ)
 (2コマ目) 高校生のT.Kouyaが授業中に考え事をしている。
 モノローグ:「・・・・人生の目標・・・・」
 (3コマ目) 同。
 モノローグ:「・・・・安らかに過ごせる有料老人ホームに入ること・・・・」(←事実)
 (4コマ目) ムダマン!(「ズドーン!」)
—————————–
「life is beautiful」
 (1コマ目) 仕事中のT.Kouya。
 モノローグ:「酒もタバコもやらないし」「自炊の飯が一番うまい」
 (2コマ目) Web画面を見ながら和むT.Kouya。
 モノローグ:「本音のところ,彼女も必要ないし」「仕事してれば特に不満もない」「本当の癒しは女子ビーチバレー試合中の選手の写真」(「はぁ,いやされるぅ~」という台詞付き)
 (3コマ目) 天真爛漫な表情の学生のアップ。
 学生:「先生は,何が楽しくてそんな人生を過ごしているんですかぁ?」
 (4コマ目) コンパ中の一コマ,俯瞰で。
 モノローグ:「そんなことを無邪気に言いつつ」「全然単位が揃わないお前の×××を××することだよ」「と,言いたいが言わないよ」「大人になるってこういうことかも,T.Kouya,教師生活16年目」
——————————-
 「何が面白いのか全然分らない」という方は,本書を買って実物と触れることで理解をして頂きたい。
 「とても笑った。」という方は,本書を買ってもっと客観的な視点を作品から得て,更に爆笑して頂きたい。
 「T.Kouyaの人間性に疑問を持った」という方は,本書を買う以前に人間を観察する目を養って頂きたい。その上で本書を買って研鑽を深めて頂きたいものである。