なかせよしみ「でもくらちゃん」リュウコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-19-950136-4, \571
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 先日,友人から「お前はしぶとい」と言われた。
 最初は意味が分らなかったが,言われてみれば,確かにワシは結構しぶといかもしれない,と今更ながら思い当たった。24歳で就職し能登半島に飛ばされつつ仕事と平行してDr.取って6年,それから間もなく静岡の方に転職して10年,合計16年もの間,何だかんだ言ってもコンスタントにダメダメなものとはいえ,アカデミックキャリアを積み重ねてきたのだから,自分の能力に比して,まぁよくやってきた方だよなぁと,自分の書き散らしてきたものを眺めながらシミジミしてしまうのである。大体このblogにしたって,自分用のメモ代わりの日記であって,まさか人様から多数閲覧してもらうようになり,批判までして頂けるようになるとはついぞ思ったこともなかった。ましてや,顔見知りの方から「blog読んだよ!」と面と向かって言われて肩身の狭い思いをするなんて,想像の外である。・・・そっか,ワシは案外「しぶとい」人間なんだと,四十路を迎えてようやく会得したのである。
 しかし,世の中上には上がいる。ワシより5歳も年長,四十路後半にしてComicリュウの新人発掘コンテスト「第4回龍神賞」に応募し,見事審査員の一人である安彦良和の推薦を得て銅龍賞を獲得した,なかせよしみである。
 名前と自画像(の長く伸びた後ろ髪)から女性だとばっかり思っていたら,受賞コメントに「家内が喜びました」とあって,ありゃ男性だったか,と知ったのである。どーりでコミティア50thプレミアムブックに堂々と生年月日が書いてある訳だ。応募当時で44歳,現在は45歳になる「新人」は,しかし正確に言うと既に1999年にデビューして現在も連載も持っており,その意味から言えば立派なプロである。リュウ・大野編集長はコミティアでなかせの同人誌も継続してウオッチしていたようで,期待が高いせいか,応募作については「評価は余り高くない」「線・構図などが,この段階で固まってしまっていいのか,という気持ちがある」と述べている。もう一人の審査員,吾妻ひでおの評価も「SFとしてはありがち」と,「水準以上ではあるけど,もっとオリジナリティというか,この作家特有のクセみたいなものを見せてほしい」とあまり高くない。
 再(再々か?)デビュー作「うっちー3LDK」はComicリュウ2009年4月号に掲載されているが,ワシが読んだ限りは,安彦良和の意見も,大野編集長・吾妻ひでおの意見もそれぞれ正しいところを言い当てているように思える。多分,多数決を取ったら大野・吾妻の評価を支持する方が多いだろう。しかし,少数派かもしれないが,安彦のように,なかせ作品がツボにはまる読者が必ずいると思われるのだ。このあたりの機微を大野がすくい取ったのか,それとも本人に発破をかけるつもりなのかは知らねど,昔から同人誌・商業誌で書き継いできたシリーズをまとめた単行本を先駆け的に出版したのである。それが本作,「でもくらちゃん」である。
 昭和20年の終戦直後に出茂倉(でもくら)家には双子が生まれ,昭和42年にその双子がそれぞれまた双子を生み,この4人から平成に入って3人ずつの娘が生まれた。つまり,1×2×2×3 = 12ということで,ちょうど1ダースの,個別認識が本人達にもヘアバンドの力を借りなければ出来ない娘の集団ができたというのが本作の基本シチュエーションである。で,画面に12人の子供がわらわらとゴキブリのように這い回る・・・というと気持ち悪そうだが,かわいさもプラスされているから,雰囲気は異様なれど,まぁ,普通のシチュエーションコメディとして読むことは出来る。この1ダースの娘集団の謎は,単行本の最後当たりで明かされるのだが,このきちんとした「オチ」のつけかたは,とり・みきの単行本とよく似ている。長期間にわたってあっちこっちの媒体に掲載されたバラバラの短編を編んでみて,足りなそうな所を書き下ろしで埋めたら,うまい具合にまとまりがでた,そんな感じのウェルメイド単行本なのである。これは結構マニアックなツボを刺激しているように思えるので,アリの集団に萌えるタチの方にはお奨めしておきたい。
 個人的には本作より,今シリーズ連作になっている「うっちー3LDK」が単行本としてまとまる方が楽しみなのだが,果たして大野編集長は,せめて原稿が一冊分溜まるまでなかせよしみをComicリュウ誌上で泳がせてくれるのであろうか? ワシ同様,細いながらもしぶとく商業漫画界に踏みとどまってきたなかせに,ワシは共感を覚えずにはいられないのである。

水島新司「野球傑作選1 くそ暑い夏」ヤングジャンプコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-08-877651-4, \562
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 水島新司のマンガを購入して読むのは久しぶりだ。実家には叔母から譲り受けた「ドカベン」(チャンピオンコミックス)が揃っているが,読み返すことは余りない。大体頭に入っているし,読み出したら止まらなくなることが分っているからである。特に不気味な高知代表(土佐なんとか高校だったか)との死闘は一番心に残っているもので,あの憎たらしい笑い方をするチビが最後の最後でボールを取るところなぞは,思わず頑張れと心中で叫んでしまう・・・ああ,かように読むどころか語り出しても止まらなくなってしまうのである。
 加えて,近頃ようやく引退が決まった「あぶさん」(ビッグコミックス)なら,たいていどこのラーメン屋でも床屋でも病院の待合室でも揃っていたりするから,わざわざ購入して読む必要もない。どこから読み始めても,「ああ,あぶさんも歳だなぁ」とか,「ハゲチャビン親父がマンガに出てくれたら面白いのになぁ」(もう出ているかな?)などと思いながら楽しい時間を過ごすことが出来るのである。
 そう,水島新司のマンガは,日本人の親父ならなら誰しも一度は目にしたことのある普遍的な共有物であり,いつ読んでも期待を裏切られることのない希有なものなのである。
 久しぶりに読んでみようかとワシが手に取った本作は,ビジネスジャンプに連載されている短編シリーズである。共通するのは夏の甲子園球場で活躍する高校球児が主人公というのみ。一作ごとに異なるキャラクター達が,さわやかな活躍を見せてくれる。それでいて,老練なストーリー展開と描写力によって,一作一作が短編とは思えない程の読み応えがあるのだ。「短編小説とは人生の断面を切り取って提示するものである」ってのはどっかの作家が言ったことらしいが,水島のこの短編シリーズはまさしくそのお手本と言うべき,若い高校生達のみならず,周囲の大人達の人生の切り口も提示して豊かな世界を築き上げているのである。
 本作には,鈍くさいけどチームの要になる奴,心に負い目を持ったかつての剛速球投手,力量ではピカイチだが運や人間的魅力に欠ける奴,ちょっと間が抜けているけど巧みに試合を運んでいく奴等々が登場する。彼らが紡ぐ物語はとても魅力的で,そして唸るほど巧みに編まれている。今は日本各地にマンガを教える大学や専門学校があちこちにあるようだが,本作は実作の教科書として,すぐには到達し得ないけど目標とすべきものを次世代の作家達に提示してくれるものとワシは確信しているのである。

今野浩「すべて僕に任せてください 東工大モーレツ天才助教授の悲劇」新潮社

[ Amazon ] ISBN 978-4-10-314761-9, \1500
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 本書が世に出ちまって,東工大がひっくり返ってないかどうか,ワシはマジに心配しているのである。いや,本書が単なる「暴露本」なら,無視すればいい話なのだが,本書はそういうよくあるタイプのゴシップ集ではない。白川浩という,夭折したサブタイトル通りの「モーレツ天才助教授」(ただし,晩年は教授に昇進している)へのはなむけとしてのノンフィクション読み物なのである。しかも執筆者は「カーマーカー特許とソフトウェア」でワシを虜にした,数理計画法&金融工学(本人は「理財」工学と呼んでいるが,ここは通りのいい名前を使わせて頂く)の権威・今野浩。その今野がストレートな大学・学会・文科省とのやりとりといった内部事情を何のてらいもなく書きまくっているのだ。このドライブ感溢れる文章からは,「全てを正直に語らねばならぬ」という白川の執念が乗り移ったかのような情熱がほとばしっており,ワシは秋葉原から新幹線で掛川へ移動するまでの間,本書から一時も目を離すことができなかった。
 結論を言おう。
 本書は大傑作である。
 まるでエンターテイメントと見まごうばかりの「読ませる」文章の見事さ,そして,大学や学界に接したことがある人間なら誰しも知っている,建前に覆われた真の人間関係とシステムをぐうの音も出ないほど正確に描いた恐ろしいほどの誠実さは,本書が歴史に残る快著であることをイヤというほど知らしめてくれる。応用数理(応用「数学」でないことがポイント)学会やオペレーションズリサーチ学会の関係者なら,本書を苦笑や苦痛,そして白川という人物への同情なしに読むことは出来ない筈である。
 他の分野はよく知らないが,ワシが依拠する応用数理&情報処理の分野の,ことに一流どころの研究者という人たちは例外なくよく働いている。働きすぎて過労死じゃないのと思われるような夭折な方々も結構な頻度で見聞する程である。
 ワシがよく知る方は,ホントに死ぬんじゃないかというほど論文を書きまくり講演をしまくり研究会の座長だのなんだのと引き受けまくっていた。たまたま研究会で同じエレベーターに乗ったときに「そんなに仕事して倒れないんですか?」と聞いたら,「あ~,そろそろダメになるかもね~」といつもの調子で淡々と述べられたので呆れたことがある。幸いその方はまもなく定常状態で落ち着いたようで,日本の数値解析研究の先行きに暗雲が立ちこめることなく済んだのだが,ワシが見る限り,ホントに死ぬほど働いている方々は例外なく,頭もさることながら性格がイイ。図抜けて良い,というべきか。この世界のことだから,まぁ,頭の良い人間はザラにいる。しかし,本書でも今野が再三強調しているように,性格が良い人間はそうはいないのである。ワシのように,教授が研究室に訪ねてこようモンならあからさまにイヤな顔をして,「何の用ですか?」と地獄の底からにじみ出るような声で応答する人間が普通なのだ(いいすぎ?)。まぁ,そういう奴にはそんなに「雑用」は回ってこない。
 しかし前述した方や,白川浩のような「イヤと言えないいい人」のところには大量の仕事が回ってくる。研究会の幹事だの科研費プロジェクトのとりまとめだのという仕事の場合,その人しか勤められないというケースが多い。自身の研究もそこに載っかって進められていくことになれば,高い評価を受けるようになればなるほど仕事が仕事を呼ぶことになってしまう。結果として,評価の高い人間的にも優れた研究者には「体力」が必須のアイテムとなるのである。
 白川は東工大の助手時代,確率論を駆使した難解な金融工学の理論をドカドカと吸収し,世界の一流どころから認められる論文を書くまでに成長する。そして最期は東工大の金融工学研究の中心となるセンターの中核となって馬車馬のように働き,40代早々に経営システム工学科の教授になるのだが,既にそのときには病魔が本人の体をむしばんでいた。将来有望な白川だったが,業績の「量」という点ではイマイチだったのは,彼のキャリアにおいて多数の人間が白川の面倒見の良さにつけ込んであれこれ仕事を押しつけたことと,本人が生真面目すぎて仕事を一人で抱え込んでしまうということが原因だったようだ。研究テーマを与えて学生が仕上げた卒論や修論をベースに論文を書くことすら「搾取だ!」と拒否し続けていたというぐらい潔癖だった白川は,その純真さが徒となって,元々丈夫でなかった肉体を毀損することになってしまったのだ。今野はこのような白川の歩いてきたキャリアを,その才能に幾分かのジェラ心を抱きつつも,愛情を持って語っている。
 資金提供者にも上司に当たる教授にもアケスケな物言いをする白川に対しては軋轢も多かったが,一度懐に入ってしまえば悪意がないということが理解できるようで,友人や指導を受けた学生からは好かれていたようだ。その悪意のないストレートな意見を吐いてきた白川の人生を語る際に,教員採用基準はあくまで公募による公明正大なものだとか,論文査読はどのような研究者に対しても平等に開かれているとか,政府予算の配分は平等に行われるだのといった,誰しもそんなものは建前に過ぎないと分っている物言いを使うことは決して許されることではないし,建前で塗り固めてしまえば,そもそもなぜ前途有望な若手研究者が志し半ばで物故せねばならなかったかの説明が不可能になる。今野の文章に鬼気迫るストレートさが貫かれているのは,それこそが白川という人物を語る上では欠かせないアイテムだからなのだろう。
 それ故に,本書は一研究者の伝記という以上に,日本の,いや,世界の研究者世界というものがどのような人間くさいダイナミズムを抱えているのかを雄弁に物語っているのだ。物語りすぎて,ワシみたいな三流どころの研究者には耳の痛い文章も多いが,そこがまた本書の語りの「誠実さ」の証拠でもある。山口昌哉とか伊理正夫とか森口繁一といった,ワシにはなじみ深い大御所の名前がたくさん出ていることもさることながら,本書前半には,今野が筑波大から東工大へ異動した際に属した人文・社会学系の話も登場する。いや,大体知っては居たけど,教官のポストって,こんなに厳格に決まっているモンなんだなぁと,正直呆れる程である。何だか言いたいことが多すぎてうまくまとまらなくなってしまったが,兎にも角にも,本書は,「理工系研究者の世界ってこんなモンだよ」と説明するにはうってつけの真実の書であることは断言しておきたい。この方面の知識が皆無な読者にも,晦渋な技術の解説が皆無な本書は面白い読み物となる筈だ。
 だから東工大の皆様,本書に対してはご寛容かつ冷静な態度を取って頂きたく,切にお願い申し上げる次第であります。

William J.Cody, Jr & William Waite, “Software Manual for the Elementary Functions”, Prentice Hall

[ Amazon ] ISBN 0-13-822064-6, \?
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 ワシの手元にあるものは1992年に御茶ノ水の丸善で購入したもので,当時でも14790円だった。Amazonを検索してみると,古本でも万単位の値が付いているから,結構貴重なものなのかも知れない。もちろん,購入当時は「珍しい本があるもんだ」ぐらいにしか思ってなかった。本書のFirst authorが数値計算ソフトウェアの大御所であるとはこの度の訃報を見るまでは殆ど知らずに過ごしてきたのである。詳細はC.Molerの記事中にあるインタビュー記事を参照されたい。以下,この記事中にある情報はそれを斜め読みして得た知識が殆どである。
 オープンソースの源流というのを辿っていくと,これは殆ど誰も言及していないようなのだが,数値計算ソフトウェアの配布という「習慣」に行き着くことが多い。1990年代までは,日本でも数値解析シンポジウムとかでソフトを配布するということが普通に行われていた。その大本を辿っていくと,どうやらこのCodyが行ってきた研究活動に行き着くようなのである。
 朝鮮戦争から戻ってきたCodyはオクラホマ大学の数学科で修士号を,ノースウェスタン大学でPh.Dを取得して,原水爆の研究で有名なロス・アラモス研究所で仕事をした後,1991年に引退するまでアルゴンヌの国立研究所で研究者として過ごした。1960年代から,シュレジンガー方程式の計算をするうちに既存の初等関数に問題が多いことを知り,1964年に論文「CDC-3600向け倍精度平方根計算」(“Double Precision Square Root for the CDC-3600″, ACM Vol.7, 1964, pp.715-718)を掲載,ここから初等関数・特殊関数の計算法の研究を本格的に開始することになる。CDCやIBMのマシンを使いつつサポートもする必要があったため,互換性を重視しつつ性能を落とすことがないよう,マシンごとの特性を事前にチェックするサブルーチン”MACHAR” (Machine Characteristicの略?)を作成したりと,地味だが重要な仕事をしてきた。後にEISPACK(行列固有値計算サブルーチン集)の開発も手伝い(というよりコードはかなり書いたみたい),これが連立一次方程式解法ライブラリLINPACKと統合されてLAPACKとなる。で,今もMACHARはBLASに残ってたりする
 Cody自身の仕事として誇れるものは,このMACHARと特殊関数ライブラリSPECFUN,実数関数ライブラリELEFUNT, 複素関数テスト用プログラムCELEFUNTということだそうだ。IEEE754-1985や854の規格制定では議長として場を仕切っているが,W.Kahanの発想を生かしただけと控えめな感想を述べている。
 話が横道に逸れてしまったが,SPECFUN, CELEFUNTは論文のページからソースコードが今でも無料でダウンロードできるし,LAPACKは言わずもがな。この源泉は,Codyが計算センターでサポート業務の一環としてプログラムを配布していたことにあるようだ。本人曰く,「税金で造ったものはpublic domainにすべき」というポリシーだそうな。これは本人の性格もさることながら,Abramowitz & Stegunの”Handbook of Mathematical Functions“がそうであるように,アメリカ合衆国の理念に通じるところがあるように思える。国家が造ったものはpublic domainにすべきって考え方,USA発祥・・・なんでしょうか? この辺になるとワシもよく分らないが,どうも本人の意志によるというよりごく当たり前の常識ということなんじゃないかと思える。もちろん,数学理論には特許が降りないためにビジネスとしては成り立たなかったから,という事情も手伝っているとは思うんだけど,どーもソフトウェアは望む人にタダで配るという伝統はこのあたりから始まっているんじゃないのかなーと思えるのだ。山形浩生さんとか八田真之さんあたりが調べてくれないかしらん?
 で,本書である。あの気むずかしなKahan先生もテキストとしてご愛用したという本書は,ELEFUNTの解説本という位置づけになっている。初等関数の計算法は様々なものがあるが,本書で述べられているのは最良近似多項式に基づくものが殆どである。最新の研究結果はMullerの本にコンパクトにまとめられているが,そこでomitした近似多項式の係数表はCodyの本とかに譲るとしている。本書では平方根から始まって,log, exp, power, sin/cos/tan, asin/acos/atan/atan2, sinh/cosh/tanhの計算法が章ごとにフローチャート付きで解説されている。最良近似多項式は固定小数点数,浮動小数点数,10進,10進以外の場合と細かく分類されて提示されており,もー細かい細かいノウハウがぎっちり書き込まれていて,とうてい自分で造ろうという気分にはさせてくれない代物である。使用する固定・浮動小数点数の桁数に応じて近似多項式の係数も2~3パターンで提示されていて,全てHorner法を使って最小の計算量で済むよう計算せよと書いてある。・・・お見それしましたとしか言いようがない。和書でも山下真一郎によるものとか浜田穂積によるものもあって,まー,細かい細かい。その細かさの源泉はCodyにあるんだなとよく分ろうというものである。
 何でこんなに厳密かつ多項式計算一つにもこだわんなきゃいかんのかというと,プログラムによる計算の正確さと計算速度が初等関数のそれに大きく依存しているからである。角度計算一つとっても逆三角関数が不正確ではどうしようもない。呼び出し回数も多いから高速であることが重要。現在のCPUではハードウェア内部でマイクロコードによって初等関数は計算されるが,Intel CPUですら普通の四則演算より数十倍の計算時間がかかるのが普通である。高速性と精度維持が必須の機能を担っている初等関数の計算とCodyが格闘せざるを得なかったのは,コンピュータ黎明期においては必然だったのかもしれない。本書では関数のチェック方法についても細かく記述があり,これは類書では見あたらない貴重なものである。カシオさんとこのチップはちゃんとこのテストはクリアしているのかしらん? 10進ベースの係数表はホント,貴重ですから揃えておいた方が良いですぜ。
 墓石には「Family man」と刻んで欲しい,と言い残して世を去った穏和な研究者に,哀悼の意味を込めてこのぷちめれを東洋の片隅からお送りしたい。

よしながふみ「それを言ったらおしまいよ」太田出版

[ Amazon ] ISBN 4-87233-798-0, \650
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 マイケル・ジャクソンが突然の心不全で亡くなった(2009-06-26)。享年50歳。ワシは別段マイケルの熱心なファンというわけではないが,80年代にUSAヒットチャートを聞きまくって育った人間の一人として,耳馴染んだあの声の主がこの世から去ったことに対して,皆と同じような感傷を抱いてしまう。死因については薬物の影響も言われているようだが,何はともあれ,哀悼の意を表しておきたい。
 マイケルに限らず,音楽家にしろ物書きにしろ,常に他人からの歓声と批判と無視に晒されつつ,安定しない収入に依存して生活するというのは,誰しもできることではないようだ。第三者からの「評価」に対して超然としていればいいかというと,客商売ということを考えるとある程度は聞き入れた方が良い場合もある。では依存しまくっていればいいかというと,結果でしか評価されない商売である以上,いい作品を生み出すための「雑音」となってしまうようでは意味がない。どちらにしても,悩みは常に商売のネタである向こう側から間断なく押し寄せてくる訳で,ことに一時爆発的な人気を誇ったアーティストが早死にしがちというのは無理からぬことと言える。マイケル・ジャクソンについては90年代に入ってからの「奇行」が世間を騒がしていたが,ワシら常人には理解できないストレスを抱え込んでいたのだろう。そう考えると,近年の彼はどうにも痛々しい印象を与え続けていたことが納得できる。
 で,思い出したのがこの2003年に刊行された作品集に収められている「ピアニスト」という短編である。2009年度の手塚治虫文化賞を獲ったよしながふみの素晴らしさを今更語るのも面はゆいが,ま,良い機会なので,マイケルの追悼にこと寄せてまとめておきたい。
 本書はいわゆるBL(boys love)作品集ということになっているし,実際登場人物は一作品を除いて全員ホモだったりするので,その手の描写に免疫のない方々には読めないかも知れない。しかし,それではあまりにもったいない。男×男をの片方を女に置き換えても,本書に収められている作品は十分成立する内容だからである。つーか,BLはあくまでよしながの装飾趣味みたいなモンで,作品の構造は普通のマンガと変わらず,しかもかなり骨太,そして中年以降の人間にも読み応えのあるものになっているのである。
 さて,「ピアニスト」である。帯にある書き下ろし32ページ作品というのがこれ。主人公は,かつて世界的なコンクールで入賞したピアニストであったが,今は作曲した歌謡曲の印税で食いつなぐ落ちぶれた境遇にある45歳の中年男である。ピアノに対する情熱を失ったわけではなく,毎日8時間の練習は欠かしていない。しかし,「才能」という点では,体を許したピアノの師匠からも見切られてしまっており,自分でもそれは十分自覚している。・・・という境遇,ワシは絶妙だと思っているのである。
 よしながは「プロの矜持」というものを大事にしている作家だと感じる。「ピアニスト」の主人公が世界的に認められる技量を持ちながらも,実は才能がない分を人並み以上の努力でカバーしてきただけ,という設定はすごい。そして主人公の独白。

「自分をみっともない努力家だと
認めるぐらいなら
怠けて落ちぶれた天才のふりをして
忘れ去られた方がましじゃないか」(P.183)

 いやぁ~,これは40歳過ぎて,自分の才能という奴を自覚した段階になるとよく理解できる台詞ですね。更に言うと,一度は悩んだこの「みっともない努力家」という立場が,「みっともない努力」と同じことを「楽しみながらの試行錯誤」に反転することで,実はとても魅力的なものになり得るのだということも,よく分っているわけだ。もっともワシの場合は天才という立場にいたことがないので,「落ちぶれた」という境遇については理解が及ばないのが残念である。
 この短編の結末がどうなるかということは読んで確認していただくのがよろしかろうが,よしながは決して斜に構えた投げ出し方をしていないということだけは断言しておこう。
 手塚治虫文化賞を獲った「大奥」も含めて,よしなが作品の最大の魅力は,洗練された絵によって,SEXと愛情と常識的な社会人感覚が,解け合うのではなく固まりのままゴツゴツとぶつかり合っている様が描かれているという所にある。そしてぶつかり合う状態が大河ドラマを構成する重要な要素なのだと,自覚しているのだ。それを楽しんで描くためのツールが,BLという様式なのだろう。ホントに色気のある男を描くのが好きそうだもんなぁ~。きっと,「みっともない努力家」に陥らないための,仕事を楽しむためのツールとしてBL風味は欠かせないものなのだろう。
 そう,お客様あっての偉大なエンターテナーに必要なのは,まず,自分が楽しんでいること,なのである。マイケル・ジャクソンも相当額の印税が入る立場だったのだから,せいぜいうまく「落ちぶれ」つつ,うまく人生楽しむことができていれば,晩年を痛々しく感じさせることもなく長逝していたかもしれない。