よしながふみ「それを言ったらおしまいよ」太田出版

[ Amazon ] ISBN 4-87233-798-0, \650
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 マイケル・ジャクソンが突然の心不全で亡くなった(2009-06-26)。享年50歳。ワシは別段マイケルの熱心なファンというわけではないが,80年代にUSAヒットチャートを聞きまくって育った人間の一人として,耳馴染んだあの声の主がこの世から去ったことに対して,皆と同じような感傷を抱いてしまう。死因については薬物の影響も言われているようだが,何はともあれ,哀悼の意を表しておきたい。
 マイケルに限らず,音楽家にしろ物書きにしろ,常に他人からの歓声と批判と無視に晒されつつ,安定しない収入に依存して生活するというのは,誰しもできることではないようだ。第三者からの「評価」に対して超然としていればいいかというと,客商売ということを考えるとある程度は聞き入れた方が良い場合もある。では依存しまくっていればいいかというと,結果でしか評価されない商売である以上,いい作品を生み出すための「雑音」となってしまうようでは意味がない。どちらにしても,悩みは常に商売のネタである向こう側から間断なく押し寄せてくる訳で,ことに一時爆発的な人気を誇ったアーティストが早死にしがちというのは無理からぬことと言える。マイケル・ジャクソンについては90年代に入ってからの「奇行」が世間を騒がしていたが,ワシら常人には理解できないストレスを抱え込んでいたのだろう。そう考えると,近年の彼はどうにも痛々しい印象を与え続けていたことが納得できる。
 で,思い出したのがこの2003年に刊行された作品集に収められている「ピアニスト」という短編である。2009年度の手塚治虫文化賞を獲ったよしながふみの素晴らしさを今更語るのも面はゆいが,ま,良い機会なので,マイケルの追悼にこと寄せてまとめておきたい。
 本書はいわゆるBL(boys love)作品集ということになっているし,実際登場人物は一作品を除いて全員ホモだったりするので,その手の描写に免疫のない方々には読めないかも知れない。しかし,それではあまりにもったいない。男×男をの片方を女に置き換えても,本書に収められている作品は十分成立する内容だからである。つーか,BLはあくまでよしながの装飾趣味みたいなモンで,作品の構造は普通のマンガと変わらず,しかもかなり骨太,そして中年以降の人間にも読み応えのあるものになっているのである。
 さて,「ピアニスト」である。帯にある書き下ろし32ページ作品というのがこれ。主人公は,かつて世界的なコンクールで入賞したピアニストであったが,今は作曲した歌謡曲の印税で食いつなぐ落ちぶれた境遇にある45歳の中年男である。ピアノに対する情熱を失ったわけではなく,毎日8時間の練習は欠かしていない。しかし,「才能」という点では,体を許したピアノの師匠からも見切られてしまっており,自分でもそれは十分自覚している。・・・という境遇,ワシは絶妙だと思っているのである。
 よしながは「プロの矜持」というものを大事にしている作家だと感じる。「ピアニスト」の主人公が世界的に認められる技量を持ちながらも,実は才能がない分を人並み以上の努力でカバーしてきただけ,という設定はすごい。そして主人公の独白。

「自分をみっともない努力家だと
認めるぐらいなら
怠けて落ちぶれた天才のふりをして
忘れ去られた方がましじゃないか」(P.183)

 いやぁ~,これは40歳過ぎて,自分の才能という奴を自覚した段階になるとよく理解できる台詞ですね。更に言うと,一度は悩んだこの「みっともない努力家」という立場が,「みっともない努力」と同じことを「楽しみながらの試行錯誤」に反転することで,実はとても魅力的なものになり得るのだということも,よく分っているわけだ。もっともワシの場合は天才という立場にいたことがないので,「落ちぶれた」という境遇については理解が及ばないのが残念である。
 この短編の結末がどうなるかということは読んで確認していただくのがよろしかろうが,よしながは決して斜に構えた投げ出し方をしていないということだけは断言しておこう。
 手塚治虫文化賞を獲った「大奥」も含めて,よしなが作品の最大の魅力は,洗練された絵によって,SEXと愛情と常識的な社会人感覚が,解け合うのではなく固まりのままゴツゴツとぶつかり合っている様が描かれているという所にある。そしてぶつかり合う状態が大河ドラマを構成する重要な要素なのだと,自覚しているのだ。それを楽しんで描くためのツールが,BLという様式なのだろう。ホントに色気のある男を描くのが好きそうだもんなぁ~。きっと,「みっともない努力家」に陥らないための,仕事を楽しむためのツールとしてBL風味は欠かせないものなのだろう。
 そう,お客様あっての偉大なエンターテナーに必要なのは,まず,自分が楽しんでいること,なのである。マイケル・ジャクソンも相当額の印税が入る立場だったのだから,せいぜいうまく「落ちぶれ」つつ,うまく人生楽しむことができていれば,晩年を痛々しく感じさせることもなく長逝していたかもしれない。

魔夜峰央「魔夜峰央のまどろみ日記 本日も異常ナシ」秋田書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-253-10713-6, \800
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 デビュー以来三十ウン年,永遠の28歳ミーちゃんの自伝的(?)エッセイマンガである。既に白泉社からは娘さんと息子さんをネタにした親バカマンガシリーズ「親バカ日誌」「親バカの壁」「親バカ輪舞」「親バカの品格」が刊行されているが,秋田書店からは初のエッセイマンガである。ワシもマンガ読みキャリアは三十ウン年を超えているので,昔から読んでいる子育てエッセイマンガではボチボチお子さんが大学入学だの就職だのというエピソードが描かれていて,愕然とさせられることがある。いやぁ,月日の経つのは早いモンですなぁ~・・・と人ごとのように(人ごとなんだが)つぶやきつつ,自身の年齢をシミジミと噛みしめることになるのである。
 ミーちゃんのエッセイもそうで,娘さんも息子さんも2009年には成人になっていと聞くと年が・・・いや,ミーちゃん,28歳でいつもお若いことで結構でございます。ワシは既に四十を超えて寄る年波には勝てず,白泉社の丹○さんや白○さんのように,ひとりものにもかかわらず,マンションを買っちまいましたよええ,当分,つーか下手すりゃ一生ひとりものですけどいいんですほっといて下さい(号泣)。
 ぐすん・・・って何の話だっけ? ああ,ミーちゃん,秋田書店初刊行の自伝的エッセイマンガのことでしたな。話を戻しましょう。ぐしっ。
 まぁ,美人の奥様(マライヒのモデルとしか思えない美人)と仲むつまじいご家庭をお持ちであることはゲップが出るほど親バカシリーズで見せつけられたのだが,ご本人の生い立ちについては触れずじまいであった。まぁ,ちょうどお子さんが大きくなっていく時期のものだし,奥さんお子さんを書くのが楽しくて仕方がないという風情であったから(あーごちそーさま),自分のことを描くことには思いが至らなかったのだろう。本書ではお子さんが完全に親離れしつつある時期に描かれており,「親バカの品格」にも本書のしょっぱなに述べられている一戸建てへの引っ越しについてのエピソードが載っている。いーなー,地下のバレー教室付き一戸建て,ご家族揃ってうらやま・・・いや,いかん,羨ましがっているだけでは先に進めんではないか。
 で,引っ越しの話の後に,どーゆー脈略なのか,交通事故で亡くなられたご母堂の思い出話につながり,貧乏だった子供の頃の話,ご両親の故郷・佐渡島での思い出話に繋がっていくのだ。このゆらゆらさ加減,それでいてちゃんと読者に面白く読ませる力量は,さすが手塚治虫のジェラ心(P.12)を浴びただけのことはある。
 もともと脈略のないエッセイマンガということもあって,ご家族の写真が巻末1ページにあったりする他は,独特なスタイルの漫画家・魔夜峰央の誕生に繋がる漫画史的なエピソードは描かれていない。まぁ永遠の28歳であるからして,この先まだまだご活躍されることは間違いないので,これからボツボツ,「ひとりジャンル・魔夜峰央」(by 夏目房之介)誕生の秘密なども描いていって欲しいものである。

山本直樹「レッド3」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375722-4, \952
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 やぁあっと出ましたよ,「レッド」三巻目。で,一,二巻を読んで久しく待ちわびた所にこれ読んで・・・みんなどう思うんだろうな? ワシの感想は
 「あさま山荘は遠そうだ」
というものである。何せ,本巻だけで1971年の5月~6月分にしかならないんだから。壮絶な「アレ」を期待していた向きには残念に思われるかも知れないが,ワシは逆にこの先の展開に期待を持ってしまった。単純に「じらす」というより,この後に来る,登場人物の頭にくっついている番号順に行われる筈の「事件」への伏線が張りまくられている,と感じたからである。実際にその伏線がどう今後のストーリーに反映されてくるのかは,多分,2010年に刊行されるであろう4巻を読まなければ何とも言えないが,ワシは期待しているのである。・・・ここまで引っ張っておいて,外したら怒るよ>山本直樹先生
 さて,これからのお楽しみが増えただけの本巻の内容については,ネタばらしになることもない分,これ以上語ることもない。だもんで,普段はやらないんだけど,作品とは別に感心したものがあるので,それについての感想を述べることで本巻のぷちめれに代えることにしたい。
 「レッド」は学生運動が盛り上がった1960年代~1970年代初頭の事件を題材にしているので,ワシらのように,それ以降に生まれた人間にとってはどーもその時代背景が分りづらい。本巻ではそれを補うために,ワシより更に二つも若い紙屋高雪が書いた解説「なぜ彼らは<革命>を信じられたのか?」が巻末に付いている。二巻では山本と押井守との対談が載っていたけど,「アレじゃこの登場人物達を押し立てていった時代の熱情が理解できん!」という読者の声でもあったのかなぁ? 少なくともワシはそこんとこを含めてこの事件をチャンと理解したくて,スタインホフの本とか若松孝二の映画とか見ることになったのだ。結果として,この事件そのものについてはよく分ったものの,時代背景を「どう理解できるか?」ということについては,以前に読んだ森毅の自伝的エッセイ「ボクの京大物語」の方が雰囲気はつかめたなぁ,というのが実情だ。
 現代の左翼を自称する紙屋にしても事情は同じであるようで,14もの参考文献やドキュメンタリー映像を渉猟し,引用文を交えながら何とか彼らを持ち上げた時代を「解説」しようとしている。大体ワシの理解と一致しているし,ワシと同時代人が自分の言葉で語っているので,その内容はすんなりワシの頭に入ってくる。まずはこの名解説をまとめた労に対して敬意を表したい。
 もう一つ,この解説に感心したのは,紙屋がきちんと自身が肯定する左翼思想と,「レッド」の登場人物達が行動の土台とした思想との共感ポイントを隠さずに吐露していることだ。紙屋は赤軍派と一緒にされてはたまらないと思いつつも

「しかし,それでも自分は最初の頃,そういうものに惹かれた。そうである以上,ぼく個人についていえば,まったく自分とは隔絶された無関係な存在として考えるのではなく,できるだけその論理や心情によりそいながら,そのうえで自分がどこで袂を分かったかを示したいと思った。」

と述べている。
 ワシ個人の感想は,この「レッド」に描かれている事件,そしてこれから描かれるであろう悲惨な「同士討ち」が,彼らが左翼故に起こったものと理解するのは大間違いだ,というものである。ある種の強い思想を持って寄り集まった小さいグループが,抑圧的な状況下で集団生活を長期間過ごせば大なり小なり「同士討ち」が起こるものだ。1995年のオウム真理教事件をリアルタイムで知っている人間なら,アレが左翼思想とは全く関係なく起こったことを理解していよう。そして「レッド」の「状況」がアレとそっくりだった,ということも覚えているはずだ。右翼とか左翼とか宗教的とか,そんなことは事件の「様式」にしか関係しない。「同士討ち」に至る道は,あくまで思想とは関係のない「状況」に依存しているのである。真面目な人間ならば,いや,真面目であればあるほど,自縄自縛的に追い詰められたあげくにレゾンデートル維持のために,組織や思想という「名目」を盾にとって近しい人間を虐待しかねないのである。
 紙屋がオウム事件を引き合いに出すことなく,ストレートに「レッド」の登場人物達の「論理や心情によりそいながら」時代解説を行ったのは潔いなぁと,ワシは感心しているのである。経済的には落ちていく現代日本の行く末を導く考え方は,右翼なワシとは相容れないところがあるが,逃げずに「レッド」と向き合っているところは,左翼も棄てたモンではない,と思わせてくれる。
 ・・・と,作品ではなくその解説をぷちめれしてみました。ま,たまには良いかっつーことで一つご勘弁を。

冬目景「ももんち」小学館

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-182550-6, \743
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 もも,かばぃ~いぃ~ん(by 唐沢なをき)。ああもう可愛いったら可愛いっ! 愛らしい愛らしい~(と,本書を抱えて床を三回転)~なんて可愛いんでしょう~。
 ・・・で終わっちゃうとまずいか。でもあんまし語ることないよな。マンガ論的分析とか冬目景の画力の源泉とかは,その手の議論が好きな方にお任せして,本書で描かれていることだけ,短くまとめておこう。
 家族愛に囲まれた奥手な主人公「もも」が,「恋愛」にステップするまでの一年間を,静謐な絵で淡々と描いているのが本書である。近頃は少女コミックスでもアケスケなSEX描写が普通になっているが,その手の色気は本書には一切描かれない。男性向け「サービスカット」も皆無だ。ひたすら,「描写」のみ。しかしももの愛らしさは筆舌に尽くしがたく,か~わ~え~ぇ~・・・はっ,元の調子に戻ってしまったわい。
 あーもーこの辺で生真面目で野暮な解説は止めヤメ。

 もも,かわいいっ!

 ↑これを連呼するだけで,ワシ的にはもう十分なのである。

小島貞二「高座奇人伝」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42615-4, \950
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 古谷三敏「寄席芸人伝」を読んで以来,芸人のエピソード集で面白そうなものがあれば読むようにしている。芸人・学者・教師には奇人変人が多いと言われているが,実際その通りで,ことに現代のようにモラルのない人間があっという間に排除されるようになる前は,よくもまぁこんな生活ぶりができたモンだと呆れかえる事例が結構ある。実際,これが身近な知人とか肉親に居たならたまらないだろうが,火の粉の降りかからない距離から遠目で見ている限りは,「ああまたやってるよ」と気楽な見せ物のように楽しめる。もちろん,「楽しめる」なんてものではないレベルまで逝っちゃっうこともあって,本書で言うなら「気○い馬楽」の生活ぶりがそれにあたる。そんなトンでもない噺家でも,死んだ後で二十日祭が開かれたり,故人を偲ぶ地蔵まで造られるんだから,人の評価ってのはスッキリといかないもんだなぁとシミジミ思う。
 本書は1979年に出版されたものを文庫化したものである。時期的に見て,多分,寄席芸人伝のネタもとの一つじゃないかなあと想像する。実際,「気○い馬楽」も含めて,「あ,これはあの話に出てきたエピソードだ」と気がついたものが結構ある。さすがウンチクマンガを標榜するだけあって,古谷先生,勉強していたんだなぁと感心する。もちろん,エピソードがそのままストーリーになっているわけではなく,きっかけとして使っているものばかりである。
 本書は,初代三遊亭円遊,三代目蝶花楼馬楽と同時代の柳家小せん(「め○らの小せん」),柳家三亀松,二代目三遊亭歌笑の評伝を中心に,小さな噺家・芸人のエピソード集を挟んで編まれている。単純に面白い小説としてではなく,噺家がその時代にどんな芸を見せ,それが現代にどのように繋がっているかも記してある点,歴史読み物としても役に立つようになっている。が,中心はやっぱり噺家の生き様と死に様だ。その中でも,やはり馬楽のそれは図抜けている。
 芸人として優れていたことは本書の中核であるこの五人に共通している。しかし,女性からはもてなかった円遊は円満な夫婦生活を送り,道楽が過ぎて三十路になった途端に失明した小せんも夫人に助けられて有料落語指南所を営み,三亀松は遊びに狂っても最後は夫人に看取られて死に,歌笑は夫人にぞっこんだったことを考えると,この四人は常識人と言えるが,馬楽の晩年は完全に破綻している。最初の師匠をしくじって破門になるわ,博打中に警察に捕まって監獄にぶち込まれるわ,生き別れになった妹を取り戻した途端に売り飛ばすわ,あげくに頻繁な吉原通いが祟って明治末に発狂する。何度か発作を起こして入退院を繰り返した後,肉親にも見放され,最後の頼みの吉原(最後の頼みがこれかよ)も炎上し,失意と孤独のうちに五十一歳で死ぬ。まぁ,今なら妹を売り飛ばした時点で犯罪人だ。それも東北の貧しい農家がやむを得ず,というのとは正反対で,単純に遊び金欲しさというんだから,非道というほかない。
 それでも死後に故人を偲ぶ集まりがあったり,馬楽地蔵ができたりするのは何故なのか? 芸人として優れていたことは確かだが,愛される要素があったからとしか言いようがない。そしてその要素は,この破綻した生活ぶりにあるのだ。
 馬楽にはもう一つ,インテリという側面もあった。仲間から蚊帳を買うために集めた金を「三国志」の本を買うために使ってしまう。そして狂ってからも漢詩を書いちゃったりするのだ。こういうメンを勘案すると,総じて「その知己やよし」と,芸人仲間からは愛されていたとしか言いようがない。
 おもしろうてやがて悲しき・・・というのは,破滅型芸人の人生を描写したような文句である。本書の表紙は南伸坊の,一見ユーモラスな噺家の絵だが,本書を一読した後に見ると,ピントの定まっていない描線と出っ歯が目立つ大口が何やら不気味な印象を与えている・・・ように見えてしまう。本書で小島が語った芸人,特に馬楽は,非道な馬鹿,と一言では片付けられない人間に潜む魑魅魍魎を体現しているように思えてならない。