山本直樹「レッド3」講談社

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375722-4, \952
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 やぁあっと出ましたよ,「レッド」三巻目。で,一,二巻を読んで久しく待ちわびた所にこれ読んで・・・みんなどう思うんだろうな? ワシの感想は
 「あさま山荘は遠そうだ」
というものである。何せ,本巻だけで1971年の5月~6月分にしかならないんだから。壮絶な「アレ」を期待していた向きには残念に思われるかも知れないが,ワシは逆にこの先の展開に期待を持ってしまった。単純に「じらす」というより,この後に来る,登場人物の頭にくっついている番号順に行われる筈の「事件」への伏線が張りまくられている,と感じたからである。実際にその伏線がどう今後のストーリーに反映されてくるのかは,多分,2010年に刊行されるであろう4巻を読まなければ何とも言えないが,ワシは期待しているのである。・・・ここまで引っ張っておいて,外したら怒るよ>山本直樹先生
 さて,これからのお楽しみが増えただけの本巻の内容については,ネタばらしになることもない分,これ以上語ることもない。だもんで,普段はやらないんだけど,作品とは別に感心したものがあるので,それについての感想を述べることで本巻のぷちめれに代えることにしたい。
 「レッド」は学生運動が盛り上がった1960年代~1970年代初頭の事件を題材にしているので,ワシらのように,それ以降に生まれた人間にとってはどーもその時代背景が分りづらい。本巻ではそれを補うために,ワシより更に二つも若い紙屋高雪が書いた解説「なぜ彼らは<革命>を信じられたのか?」が巻末に付いている。二巻では山本と押井守との対談が載っていたけど,「アレじゃこの登場人物達を押し立てていった時代の熱情が理解できん!」という読者の声でもあったのかなぁ? 少なくともワシはそこんとこを含めてこの事件をチャンと理解したくて,スタインホフの本とか若松孝二の映画とか見ることになったのだ。結果として,この事件そのものについてはよく分ったものの,時代背景を「どう理解できるか?」ということについては,以前に読んだ森毅の自伝的エッセイ「ボクの京大物語」の方が雰囲気はつかめたなぁ,というのが実情だ。
 現代の左翼を自称する紙屋にしても事情は同じであるようで,14もの参考文献やドキュメンタリー映像を渉猟し,引用文を交えながら何とか彼らを持ち上げた時代を「解説」しようとしている。大体ワシの理解と一致しているし,ワシと同時代人が自分の言葉で語っているので,その内容はすんなりワシの頭に入ってくる。まずはこの名解説をまとめた労に対して敬意を表したい。
 もう一つ,この解説に感心したのは,紙屋がきちんと自身が肯定する左翼思想と,「レッド」の登場人物達が行動の土台とした思想との共感ポイントを隠さずに吐露していることだ。紙屋は赤軍派と一緒にされてはたまらないと思いつつも

「しかし,それでも自分は最初の頃,そういうものに惹かれた。そうである以上,ぼく個人についていえば,まったく自分とは隔絶された無関係な存在として考えるのではなく,できるだけその論理や心情によりそいながら,そのうえで自分がどこで袂を分かったかを示したいと思った。」

と述べている。
 ワシ個人の感想は,この「レッド」に描かれている事件,そしてこれから描かれるであろう悲惨な「同士討ち」が,彼らが左翼故に起こったものと理解するのは大間違いだ,というものである。ある種の強い思想を持って寄り集まった小さいグループが,抑圧的な状況下で集団生活を長期間過ごせば大なり小なり「同士討ち」が起こるものだ。1995年のオウム真理教事件をリアルタイムで知っている人間なら,アレが左翼思想とは全く関係なく起こったことを理解していよう。そして「レッド」の「状況」がアレとそっくりだった,ということも覚えているはずだ。右翼とか左翼とか宗教的とか,そんなことは事件の「様式」にしか関係しない。「同士討ち」に至る道は,あくまで思想とは関係のない「状況」に依存しているのである。真面目な人間ならば,いや,真面目であればあるほど,自縄自縛的に追い詰められたあげくにレゾンデートル維持のために,組織や思想という「名目」を盾にとって近しい人間を虐待しかねないのである。
 紙屋がオウム事件を引き合いに出すことなく,ストレートに「レッド」の登場人物達の「論理や心情によりそいながら」時代解説を行ったのは潔いなぁと,ワシは感心しているのである。経済的には落ちていく現代日本の行く末を導く考え方は,右翼なワシとは相容れないところがあるが,逃げずに「レッド」と向き合っているところは,左翼も棄てたモンではない,と思わせてくれる。
 ・・・と,作品ではなくその解説をぷちめれしてみました。ま,たまには良いかっつーことで一つご勘弁を。

冬目景「ももんち」小学館

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-182550-6, \743
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 もも,かばぃ~いぃ~ん(by 唐沢なをき)。ああもう可愛いったら可愛いっ! 愛らしい愛らしい~(と,本書を抱えて床を三回転)~なんて可愛いんでしょう~。
 ・・・で終わっちゃうとまずいか。でもあんまし語ることないよな。マンガ論的分析とか冬目景の画力の源泉とかは,その手の議論が好きな方にお任せして,本書で描かれていることだけ,短くまとめておこう。
 家族愛に囲まれた奥手な主人公「もも」が,「恋愛」にステップするまでの一年間を,静謐な絵で淡々と描いているのが本書である。近頃は少女コミックスでもアケスケなSEX描写が普通になっているが,その手の色気は本書には一切描かれない。男性向け「サービスカット」も皆無だ。ひたすら,「描写」のみ。しかしももの愛らしさは筆舌に尽くしがたく,か~わ~え~ぇ~・・・はっ,元の調子に戻ってしまったわい。
 あーもーこの辺で生真面目で野暮な解説は止めヤメ。

 もも,かわいいっ!

 ↑これを連呼するだけで,ワシ的にはもう十分なのである。

小島貞二「高座奇人伝」ちくま文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-480-42615-4, \950
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 古谷三敏「寄席芸人伝」を読んで以来,芸人のエピソード集で面白そうなものがあれば読むようにしている。芸人・学者・教師には奇人変人が多いと言われているが,実際その通りで,ことに現代のようにモラルのない人間があっという間に排除されるようになる前は,よくもまぁこんな生活ぶりができたモンだと呆れかえる事例が結構ある。実際,これが身近な知人とか肉親に居たならたまらないだろうが,火の粉の降りかからない距離から遠目で見ている限りは,「ああまたやってるよ」と気楽な見せ物のように楽しめる。もちろん,「楽しめる」なんてものではないレベルまで逝っちゃっうこともあって,本書で言うなら「気○い馬楽」の生活ぶりがそれにあたる。そんなトンでもない噺家でも,死んだ後で二十日祭が開かれたり,故人を偲ぶ地蔵まで造られるんだから,人の評価ってのはスッキリといかないもんだなぁとシミジミ思う。
 本書は1979年に出版されたものを文庫化したものである。時期的に見て,多分,寄席芸人伝のネタもとの一つじゃないかなあと想像する。実際,「気○い馬楽」も含めて,「あ,これはあの話に出てきたエピソードだ」と気がついたものが結構ある。さすがウンチクマンガを標榜するだけあって,古谷先生,勉強していたんだなぁと感心する。もちろん,エピソードがそのままストーリーになっているわけではなく,きっかけとして使っているものばかりである。
 本書は,初代三遊亭円遊,三代目蝶花楼馬楽と同時代の柳家小せん(「め○らの小せん」),柳家三亀松,二代目三遊亭歌笑の評伝を中心に,小さな噺家・芸人のエピソード集を挟んで編まれている。単純に面白い小説としてではなく,噺家がその時代にどんな芸を見せ,それが現代にどのように繋がっているかも記してある点,歴史読み物としても役に立つようになっている。が,中心はやっぱり噺家の生き様と死に様だ。その中でも,やはり馬楽のそれは図抜けている。
 芸人として優れていたことは本書の中核であるこの五人に共通している。しかし,女性からはもてなかった円遊は円満な夫婦生活を送り,道楽が過ぎて三十路になった途端に失明した小せんも夫人に助けられて有料落語指南所を営み,三亀松は遊びに狂っても最後は夫人に看取られて死に,歌笑は夫人にぞっこんだったことを考えると,この四人は常識人と言えるが,馬楽の晩年は完全に破綻している。最初の師匠をしくじって破門になるわ,博打中に警察に捕まって監獄にぶち込まれるわ,生き別れになった妹を取り戻した途端に売り飛ばすわ,あげくに頻繁な吉原通いが祟って明治末に発狂する。何度か発作を起こして入退院を繰り返した後,肉親にも見放され,最後の頼みの吉原(最後の頼みがこれかよ)も炎上し,失意と孤独のうちに五十一歳で死ぬ。まぁ,今なら妹を売り飛ばした時点で犯罪人だ。それも東北の貧しい農家がやむを得ず,というのとは正反対で,単純に遊び金欲しさというんだから,非道というほかない。
 それでも死後に故人を偲ぶ集まりがあったり,馬楽地蔵ができたりするのは何故なのか? 芸人として優れていたことは確かだが,愛される要素があったからとしか言いようがない。そしてその要素は,この破綻した生活ぶりにあるのだ。
 馬楽にはもう一つ,インテリという側面もあった。仲間から蚊帳を買うために集めた金を「三国志」の本を買うために使ってしまう。そして狂ってからも漢詩を書いちゃったりするのだ。こういうメンを勘案すると,総じて「その知己やよし」と,芸人仲間からは愛されていたとしか言いようがない。
 おもしろうてやがて悲しき・・・というのは,破滅型芸人の人生を描写したような文句である。本書の表紙は南伸坊の,一見ユーモラスな噺家の絵だが,本書を一読した後に見ると,ピントの定まっていない描線と出っ歯が目立つ大口が何やら不気味な印象を与えている・・・ように見えてしまう。本書で小島が語った芸人,特に馬楽は,非道な馬鹿,と一言では片付けられない人間に潜む魑魅魍魎を体現しているように思えてならない。

小林よしのり「ゴーマニズム宣言Special 天皇論」小学館

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-389715-0, \1500
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 先ほど,この記事を書くためにAmazonの情報を見ていたら,売り上げ順位23位(2009-06-23現在)だった。村上春樹ほどではないけど,相変わらず売れてるなぁ~と感心。熱心な小林よしりんファンの存在に加えて,「天皇」を真っ正面に据えたタイトルと内容だから,人目を引くのは必然ではある。でまぁ,そーゆー内容の本を買い込む人種にはさわやかな読後感を与えてくれるとなれば,この順位も妥当なんだろうなぁ。
 ワシがゴー宣を愛読していたのは幻冬舎時代の「わしズム」初期の頃までである。以前にも何度か書いている通り,小林の「思想」が固まってきてからは,同じ文句の繰り返しを聞かされているような記述が増え,その精神には共感するものの,エンターテインメントとして楽しみたい人間には説教臭く感じるようになって次第に距離を置くようになってしまったのだ。
 以来,ゴー宣の連載をまとめた単行本は完全スルー,「沖縄論」や,イデオロギー臭皆無の「目の玉日記」を読む程度のおつきあいになってしまった。逆にA級戦犯無罪論なんてのはちょっとなぁ・・・と完全に読む気が失せたものである。東京裁判そのものは問題が多いとはいえ,敗戦の責任の所在を霧散霧消させるような論にお付き合いする気はなかったからである。
 ・・・と,自分と小林とのお付き合いを振り返ってみると,ワシが年を取るごとに共感の度合いが薄れていき,是々非々的な読み方をするようになってきたことに気がついた。それでも根本部分の所でワシの精神と共通するところが今も多く,何だかんだ言って,このblogでの「ワシ」という言い方も含めて,随分と小林よしりんには育ててもらったんだなぁとシミジミ思う。どうもお世話になりました。
 で,今回の「天皇論」である。
 ワシが高校生か大学生の時,天皇暗殺をテーマとするフィクションが話題となったことがあった。ワシも読んでみたけど,期待したほどのスリルもサスペンスもなく,「で,暗殺が成功したらどうなるの?」という疑問だけが残る,ワシにとっては豆腐のような作品だった。多分,「天皇」という言葉に反感を抱く向きにはカタルシスを与えるものだったんだろうが,普段のワシの生活には殆ど関わりを感じさせない存在に対してそんな感情をワシが持てるはずもない。本書でも触れられている,初期ゴー宣「カバ焼きの日」を単行本で読んだ時にも,何が問題なのかさっぱり分らず,「不敬だとか言って出版社に押しかける人間を恐れてのことか?」程度の認識しかなかった。ロイヤル爆弾なんて大して面白いギャグとも思わんかったし。
 つまりは,本書の序章で描かれている若い頃の小林と同じ程度の認識しか,「天皇」という存在には持っていなかったのである。小林と異なるのは,今もあまり変わらず,当今のむつまじい夫婦のお姿を見て,「結婚ってのもいいもんなんだろうなぁ」と思わせる程度の敬愛しかない。・・・何かすげー不敬なことを書いているような気がしてきたが,ホントなんだからしゃーない。
 さて本書では「天皇」というのが日本にとってどんな存在なのか,歴史的経緯と,特に昭和天皇と当今の事跡を辿りながらネッチリと約380ページを費やして語っている。天皇が歴代権力者に一種の免状を発行して生き残ってきたということは,みなもと太郎「風雲児たち」でも語られていてよく承知されている事実だろうが,小林の論ではそこが,皇帝ごと移り変わってきた中国と異なり,日本において大殺戮が起こらなかった理由だと熱く語るのだ(第17章)。この辺,ワシはちょっと違和感があり,大殺戮が起きづらい風土だったから天皇も廃されずに残ってきたのでは?・・・と思うところもある。
 他にも,「うーん・・・?」と感じるところがあって,全面的に賛成と言いかねるところがある。それでも全体的に,小林が「天皇」に関する事跡や論を集めて紡いだ熱くて厚い「物語」には,やっぱり感動してしまうのである。50を過ぎて洗練された絵を維持し,SAPIO誌連載分と同量以上を書き下ろして繋がりに違和感を持たせない本書は,語られている内容とともにこの「物量」をもって人を圧倒してしまう力がある。その意味で,やっぱり小林は希有な力量を持つ漫画家であることは間違いない。ホント,50過ぎてよくこんなに描けるよなぁ~。
 本書では特に原武史が批判されているので,ワシみたいに小林の「物語」に違和感を持つ向きは読む価値があるような気がする(まだ未読)。読んだ結果,論としては本書を蹴飛ばすことになるかもしれない。ただ,蹴飛ばすにしても受容するにしても,ワシにとっては重要な楔を打たれたことだけは確かなようである。
 しかしまぁ,400ページ近い単行本が1500円か。安いよなぁ・・・最初から「売れる」という見込みがなければこの価格にはなるまい。現状では小学館のこの見込み,ばっちり当たっていると言わざるを得ない。蛇足ながら,愛国的商売の上手な小学館の営業戦略の確かさにも感服しておこう。

小谷野敦「東大駒場学派物語」新書館

[ Amazon ] ISBN 978-4-403-23113-1, \1800
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 本書を読了し,つくづく感じたのは

小谷野先生,フケましたねぇ~!

ということである。もう少し穏当な言い方をすると,「老成した」ということになろうか。いや,ワシもあと七年したらこういう境地に辿り着きたいものだ,と,本気で思っているのである。
 ワシは小谷野に言わせれば三流大学の出であるから,東京大学というエリート様の集う大学のことをワシの経験から類推すると怒られるのかぁと昔は常々思っていた。が,一応学者になって十数年経ってみると,東大出といってもいろんな人がいて,大学出てから十年スパンでがんがん活躍している人というのはそんなにいないということが分ってきた上に,まぁ大学というもののめんどくさい人間関係は似たところがあるんだなぁということも知るようになってきたから,本書に綴られている教員同僚間,師弟間のいざこざについては「あんな感じか」と具体的事例に当てはめつつ解釈してもいいだろうと判断しているのである。で,そーゆー経験を経てから読むと,本書は真に面白いだけでなく,時には我が身に「痛み」が降りかかってきたりして,大変スリルとサスペンスにあふれている「私小説」(特に「間奏曲」以降)として楽しめるのである。
 普通,東京大学と言われて思い浮かべるのは,三四郎池のある本郷キャンパスだろう。こちらは日本最初の帝国大学以来の伝統があって,緩やかな傾斜がある広大な敷地を初めて歩いたときには「明治村(行ったことないけど)みてぇ」と感動したものである。今はだいぶん建て変わっているけど,明治~大正期に作られたとおぼしき古い建物が多く,旧跡マニアなら散歩するだけで楽しめる。
 しかし,東大にはもう一つ,旧一高の流れをくむ「駒場キャンパス」がある。まぁつい最近は「柏キャンパス」なんてのもできたけど,あれは大学院だけなので(悪い意味で)別格である。教養部のある駒場には,ワシは一度しか行ったことがないのだけれど,本郷とは違って,学生さんが多くて賑やかだけど,何だか「ふつ~の総合大学」っぽいなぁという印象しかない。
 本書はその,東大の中心からはちょっと外れているという意味を持つ「駒場」という地名のキャンパスに本拠地を置いた大学院の,「比較文学専攻」という,比較的小さな「学派」の生い立ちから現在に至るまでの歴史を,そこに集った教員と学生(院生)の業績とイベントといざこざを描くことで語っている。「ゴシップ」というにはかなり上品なエピソードが多くて,もっとドロドロした(あ,今の職場にはありませんよ,念のため)話を見聞きしてきたワシなどは,「ふ~ん,やっぱり東大は上品なんだなぁ」と思いそうになったが,まぁ筒井康隆の「文学部唯野教授」を「悪ふざけが過ぎる」と言った小谷野先生の書くことだから,そこそこ抑制が効いているのかなぁ,とも思う。その辺を割り引いたとしても,ふん,やっぱり腐っても(失礼)東大というだけのことはあるな,と改めて認識した私大,じゃない,次第である。
 上品,と感じたのは,描かれているコンフリクトが殆ど学問に関するものだからである。学者なんだから学問のことで議論するのは当然でしょうと考える純粋無垢な方は今時いないだろうが,実際,大学といえども,まぁ普通はどっかの会社と変わらぬ個人的な性癖や思想の違いがいざこざの元になっているのである。ワシはゲスだしエリート大学出身ではないからまぁいいとしても(良くないか?),ご大層な大学出身者だって,あれこれ理屈並べた理論武装は見事だったりするけど,内実はワシ以上のゲスだったりすることも少なくない。学問思想上の衝突なんてのは,あったとしても限られた小数の方々だけで行われるに過ぎない。大体,衝突するほどの業績もないというのが大多数なのである。
 それに比べると,やっぱり東大,特に四天王(芳賀徹・平川祐弘・小堀桂一郎・亀井俊介)のうち,前者の御三家間のコンフリクトは,気性の問題もあろうけど,かなり学術上のまっとうなやりとりが多く,頭の良さってのはこういう所でも分るモンなんだなぁと感心する。文学に暗いワシには内容のことは分らねど,腐っても(しつこい?)東大というブランドを背負っているだけのことはしてきたということは確かだろう。
 本書では,学者としての小谷野の仕事の見事さも際立っている。自分が見知ってきた記憶以外に,おそらく相当の資料を渉猟しているものと思われる緻密な事実の積み重ねがある。内部に詳しい人なら突っ込みどころの幾つかは見つけるのかもしれないが,ワシには隙が見えなかった。あるとすれば,せいぜい小谷野の個人的印象に基づく記述への突っ込みぐらいだが,それも良い具合に練れていて,昔の激しい感情の発露に比べると,ほどよいエスプリに消化している。特に「間奏曲」に描かれている,比較文学専攻に進学するまでの「私小説」は,自分のダメさ加減を自覚した世代の人間なら思い当たることが多くて,「痛がゆい」刺激を与えてくれるだろう。ここらあたりも,様々な議論・軋轢を経てきた故に得た「味」なんでしょうな。これを「老成」と言わずしてなんと言えばいいのだ。47にしてにはちと早いような気もするけど。
 凡人が書いたなら単なる個人の思い出本に堕してしまうものを,楽しく読めるエンターテインメントにも,学問上も無視できない優れた資料にもなっていることを考えると,ワシにとっては現時点での小谷野本のナンバーワンが本書である。「小谷野敦(トン)」という人物の形成を知る上でもお奨めの一冊である。