山本直樹「レッド1」「レッド2」講談社

「レッド1」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-372322-9, \952
「レッド2」[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375527-5, \952
red1_yamamoto_naoki.jpgred2_yamamoto_naoki.jpg
 山本直樹にはその昔,大変お世話になった。
 無論,夜のオカズとしてだ。
 山本直樹のSEX描写は,ちょうど性のリビドー真っ盛りのワシの脳天を直撃したのだ。
 確か,ビッグコミックスピリッツだったと思う。「極めてかもしだ」には大変お世話になり,大変記憶に残る漫画になったのである。
 山本のSEX描写の一番の特徴は,SEX後の空白表現にあるとワシは考えている。それは,射精後に性も根も尽き果ててしまう男の感性の忠実な表現である。か細い女体が喘ぐ描写と,この空虚感の落差を最初にメジャーな漫画雑誌にもたらしたことで,山本直樹は日本の漫画を,後戻りを許さぬ表現の高みへ連れ出してしまった。
 しかし革新者はその後必ず自らの成功に悩まされることになる。SEX描写が売り物だった山本直樹は東京都から有害図書指定される「栄誉」を得るに至るが,そこに安住することは許されなくなっていった。そしてその描線からは生気が抜け,コンピュータを使いながらものっぺりテカテカのレイトレーシングとは逆方向の,パサパサの乾燥した表現へと移行していった。それは古さから脱却であると共に,時代から「湿り気」が抜けていったことと連動していた。感性に忠実なSEX表現から,方向性の定まらない現代の不安な,それでいてウェットな関係性が完全に崩壊した現代の,忠実な空気の表現を希求した結果が今の山本の描線なのである。
 その山本は,とてつもなく青臭くじっとりしていた1970年代を,乾燥した筆致で描くことを選択した。それがこの「レッド」である。
 当然,今の山本にはその時代の空気を描くことはできないし,それをしようとはしていない。「赤色軍」(赤軍派がモデル)に参加した若者たちの運命をあらかじめ丸付き数字で頭に刻印しておき,ジリジリと警察から追い込まれ自滅していく様を乾いたタッチで淡々と描くことに専念している。この先,3巻で描かれるはずの「地獄めぐり」(第16話)をことさら非人道的に描くのを避けるためか,赤色軍のメンバーたちの言動は,普通の大学生のサークル活動のノリ,そのままである。このあたり,「死へのイデオロギー」を読んだものとしてはちょっと違和感を禁じえない。しかし本作は連合赤軍事件のリアリティを描くことを目的とした作品ではないのだから,その程度の違和感が生じるのはやむを得ない。死んでいく人間は死ぬための準備を万端整えて死ぬわけではなく,普段の生の延長上に死があるだけなのだ。山本が描きたいのは,そのような死のリアリティなのだろう。
 交番を襲撃しようとする人間もその直前まで談志の落語を楽しんだり,赤城の山に籠って「総括」に加担する人間も女性とすき焼きを食った後に同衾したりする,そんな生のありようこそが死のリアリティに直結することを,山本は熟知しているのだ。その卓抜した表現能力は,大学生だったワシにさんざん精液を吐き出させたSEX表現の延長上に磨かれたものである。バブリーな時代から遠く離れて長期低落のあきらめが満ちている昨今,時代の熱気を取り去り乾ききった滅びゆく赤色軍を描くことで,山本自身が生を実感しようとしているのかもしれない。

P.G.Steinhoff, 木村由美子・訳「死へのイデオロギー 日本赤軍派」岩波現代文庫

[ [Amazon](http://www.amazon.co.jp/gp/product/4006030843?ie=UTF8&tag=pasnet-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4006030843) ] ISBN 4-00-603084-3, \1100
deadly_ideology_japan_red_army.jpg
 つい最近まで気がつかなかったのだが,産経新聞で「さらば革命世代」という連載がなされている。現代から1970年代の大学紛争を当事者の証言を得ながら振り返るという記事だが,まあこれだけ否定的な内容も珍しい。結果として,その時代に騒ぎまくった「全共闘世代は理屈をこね回していただけで、上の世代の敷いたレールを忠実に歩いてきたに過ぎなかった。政治も経済も行き詰まる中で、新たな日本型システムを提示することもできなかった」(第1部(10)「過去を振り返れない人たち」より),というのが連載全体のトーンである。産経新聞という媒体の性格を差し引いても,当たっているところが多いとはいえ,なんだか自虐的だなぁという感じがする。若い時分に馬鹿げた行動に出たり青臭い議論にうつつを抜かしたりなんてのは誰でもフツーにあることで,ましてや日本に留まらず,全世界的にリベラルの風が吹いていたのだから,自己卑下はほどほどにしておいたらどうか・・・と,ゼンキョートー世代なんてのは馬鹿老人の掃き溜めみたいなもんだという持論のワシでも弁護したくなるほどである。
 しかしその過剰なまでの自己卑下の背景には,ある種ヒーロー的な役回りを担っていた一握りのグループが行った一連の犯罪行為がある。赤軍派と総称されるそのグループは,ワシみたいな市井の一般人はもとより,学生運動の中心にいた人々までも戦慄させる行動をとった。一つはあさま山荘事件の少し前に終わった「総括」という名の粛清行為,もう一つはパレスチナ解放戦線の活動の一環としてのテルアビブ空港襲撃事件である。本書によれば,同じ仲間が引き起こした「総括」事件によって,パレスチナに飛んだ岡本公三らは無差別テロに参加せざるを得なくなったというから,結果だけ見れば「赤軍派」というグループは一括して救いようのない自滅的テログループということになる。そして大学紛争を支えていた無数の学生たちには,自分らの活動の中から赤軍派を出してしまったという重石がのしかかることになったのだろう。
 ハワイ大学で戦前の日本における共産党員の「転向」を研究していた著者は,テルアビブ空港での事件の後,夫の助言に従ってイスラエルの首相に手紙を書く。純然たる学術目的で,テロ後に生き残っていた犯人グループの一人,岡本公三にインタビューしたい・・・と。その願いはかなえられ,テープレコーダーも許可されない環境において,ロングランのインタビューをイスラエルのラームレ刑務所で行うことになる。それが著者と赤軍派の最初の接点であり,1991年に塩見孝也・高沢皓司らとあさま山荘周辺を訪れるまで,長い付き合いをすることになるのだ。
 本書の特徴は,同じ1970年代リベラルの風を受けていたとはいえ,米国人が執筆した「学術書」であることだ。共産党員の転向がなされた環境,米国人の生活習慣などを例に引きつつ,何故,岡本がイスラエルでマシンガンをぶっ放すに至ったのか,本人や家族へのインタビューを行いつつ,その背景にある社会情勢を述べ,赤軍派が第一世代の幹部逮捕によって第二世代へと移行していく過程を解説し,最後は連合赤軍事件の真相に迫っていく。結果として,あさま山荘からテルアビブ空港は一連の思想的背景があることが明らかとなるのである。そして,赤城山中で行われた「総括」のメカニズムも,しつこいなぁという程のねちっこい記述によって読者の脳に語りかけてくる。読んでいるワシの方が感化されそうなぐらいである。そうはいっても,その記述はあくまでアカデミックなものだ。
 それによると,最初の脱走者の処罰による殺害事件は別として,その後行われた「総括」は,いわゆる粛清とはタイプが違うものらしい。あくまで本人の反省を引き出すための行為にすぎず,それがあまりに過酷だったために,結果として殺人になってしまった・・・と,端的にまとめるとこうなるわけだが,読みながらワシは思いっきり突っ込んでしまった。まあ確かに突っ込みを入れるはずの「外部」が存在しない山の中の出来事とは言え,どうやったら「共産主義」の理念強化活動が,風雪吹きすさぶ山小屋の外に縛り付けた揚句に全員でぶんなぐることになっちゃうのが,
さっぱり理解できない。しかも死んだら「敗北死」だぁ? 死ぬのが当然だろうがっ! ・・・と。
 しかし,Steinhoffはこの行為がなされた原因は確かにあり,それは日本的集団合意のあり方に起因するものだとしてこう述べている(P.167)。
>  日本社会でよく見られるように,共同参加の意思表明を迫る強大な組織の圧力のもと,この新方針(注:「総括」行為に参加すること)はメンバーをジレンマに追い込んだ。それは,イデオロギーを巧みに操る森(注:森恒夫)の才能によって,いっそう力を得ていった。エスカレートしていく暴力に戸惑いを感じている人間も,弱気な姿勢を少しでも見せることは,自分の非革命性の指標になるのだとすぐに気がついていく。誰もが共産主義化を獲ち取ることを心から希求していたから,自覚した欠点がそれがどのようなものであろうと,克服するように努めようと決意していたのである。したがって,不快に感じる暴力にも駆り立てられるように参加していった。それは自分が次の(注:「総括」の)ターゲットになるのを恐れてであると同時に,不快だと思う気持ちが怯えからきていると自覚したからだった。
 もちろん著者は日本的なるものがなければ「総括」のエスカレーションもなかったと言いたいのではない。あくまで,この暴力行為は日本的なるものと無縁ではない,ということを主張しているだけである。そしてワシらはその時の赤軍派メンバーの心証を,好むと好まざるとに関わらず理解してしまうのである。実際,「そんことしちまったら死んじまうぞ」と,素朴な常識に従って止める回路が働かない状況であったからこそ,よく分からない森恒夫の屁理屈で死人が続出することになったのである。そして,彼らがひれ伏した屁理屈は,あさま山荘にこもった際に人質の管理人夫人を丁重に扱うという行為の合理的な説明にもなっているのである。
 本書は日本的なる文化背景を血肉として持っていない米国人が,同じ米国人に対して誤解の入る余地がないほどねちっこく「赤軍派」の思想と犯罪行為を解説したものである。それ故に,ワシみたいな全然その世代のことを理解していない人間でも分かりやすい内容になっている。しかしそれでも,ワシが1970年代にいたとして,赤軍派に肩入れしたかどうか,となるとかなり疑問である。
 たぶん,ホリエモンやコイズミを支持したようにはいかなかったろう。追い詰められたインテリの行き着く果ては遠く見送り,ポピュリズムを指向する権力者の尻馬に乗る方がマシと考えるのが今のワシだ。金融肥大化の経済の先行きは危ういとはいえ,グローバルスタンダード化が進んだ日本も含むこの世界のルールは所詮,思想なきゲームにすぎない。しかしゲームのコマの一つ一つ,目を示す情報ツールではない実体としてのサイコロですら,ワシにとっては愛おしい。思想がどれほど高邁であったとしても,目前の生きた仲間を抹殺するような行為に走るような集団が信奉するものからはできるだけ離れて生きていきたいというのが,今のワシが愛してやまない「馬鹿さ加減」なのである。

連合赤軍事件について(言い訳)

 元々は,山本直樹の漫画「レッド」(2008-12-28現在,1,2巻が発売中)に手を出したのがきっかけである。連合赤軍事件について興味を持ったのは。
 詳しくは「レッド」のぷちめれに記す予定であるが,実はこれを読んだとき,内容に魅了されたのはいいとして,同時に,少し違和感を覚えたのである。ホントにこんな「ノリ」で赤城の山に籠ったのか?
 ということで,いくつか連合赤軍事件を扱った映画とか本を読んでみようとは思っていたのだが,警察側からあさま山荘事件を扱った「突入せよ!「あさま山荘」事件」は,どーもあんまし面白くなさそう・・・つーか,どういう内容になるか予想できているというところがあって,視点は共感できそうだがどーにも食指が動かなかった。まだ若松孝二の「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」の方が,青臭そうだけど泥臭い感情を突き動かしてくれそうなところがあったので見ようかな~・・・と思っていたら全然上映日程がワシと合わず,DVDが届くまでお預け状態となっている。「光の雨」?・・・ん~,立松和平は読む気にならんので映画も原作もパスです。
 つーことで,映画は未見,本はというと,あれこれ読もうかな・・・と思って最初の一冊,「死へのイデオロギー」を読んだらもう他のものに手を出す気が失せてしまったのである。その感激は・・・,まあしばしお待ちいただくとして(これから書くのよ),現時点では,ワシにとっての「連合赤軍」というものはこの一冊で尽きていると言っていい。あとは「レッド」に描かれる予定の乾いた描線による「地獄めぐり」の様相をエンターテイメントとして楽しみに(悪趣味だが)待つだけとなってしまった。
 以上,何でノンポリかつ癒しウヨクなワシが「連合赤軍」なぞに興味を持ったか,その言い訳を述べてみた。現在の社会状況と重ね合わせてどーのこーのと根拠なくべしゃることはなんぼでもできるが,あえてそれはやらないことにする。何せ今はグローバルスタンダードが体液として全世界に染み渡っているし,ワシ自身もそれをよしとしている。そんな状況において,1970年代の時代の風を今に持ち込むことの意味は全く見出せないからだ。そーゆーことは,これから年金をもらいながら政府の悪口をブーブー述べ垂れるだけの馬鹿老人どもにやらせておけばよい・・・そんな風に,ワシは冷やかに年寄りどもの甘えっぷりを横目で眺めている。「連合赤軍」関連のものに少し触れることは,そのような馬鹿老人どもを育てた時代状況を理解する一助にはなるかもしれない。

TOBI「眼鏡とメイドの不文律」フレックスコミックス,アサミ・マート「木造迷宮」リュウコミックス

* 眼鏡とメイドの不文律 [ [Amazon](http://www.amazon.co.jp/gp/product/4797351640?ie=UTF8&tag=pasnet-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4797351640) ] ISBN 978-4-7973-5164-4, \560
* 木造迷宮 [ [Amazon](http://www.amazon.co.jp/gp/product/4199500766?ie=UTF8&tag=pasnet-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4199500766) ] ISBN 978-4-19-950076-3, \552
unwritten_law_about_eyeglasses_and_maids.jpg
wooden_labyrinth.jpg
 他愛もないラブコメは今でも好きである。読者としては「ああ,これはいつぞや読んだラブコメと同じだな」と思って安心してしまうので,逆に著者としてはその「期待」を裏切りやすい。その逆に,ストーリーが類型的であればあるほど,そこに埋め込まれているディテールの読み取りが容易くなる。著者が意識していようといまいと,それは個性という奴に他ならない。よって,こうしたblogのネタにしやすいのであるな。もっとも時間の無い時には「そんなコマけーこと,書いていられっかいっ!」となってしまうから,あくまで暇な時専用のネタではある。
 つーことで,純然たる「他愛もないラブコメ」2冊をまとめて紹介することにする。といっても,ストーリーがありきたりであることは面白くないということと同義ではないので,その辺誤解なきように。
 この2冊を取り上げたのは,どちらもデビュー間もない新人の作品であるということもある。何せワシは齢四十路を越えようという兼業マンガ読みであるから,近頃は新人を発掘している暇がなく,どうしても既読の作家のものばかり読んでしまう。だもんで,なるべく銭に余裕があればジャケ買い,ペラ買い(めくってみて自分との相性のみをチェックする)もするようにしている。といっても出版不況の昨今,少部数で膨大な点数の新刊書が出ているわけで,とてもじゃないが新人に限っても無作為抽出レベルのチェックもできやしない。従って,この2冊が選択されたのはホントに偶然,しかし殆どの漫画単行本はたぶん,どれをとっても数万単位の方々に気に入られるレベルのものばかりなのだ。それだけ,日本の漫画文化は古びてきたとはいえ,相当な厚みをもっているのである。
 まず,「眼鏡とメイドの不文律」から行こう。単行本はこれで2冊目,初単行本は「[眼鏡な彼女](http://www.amazon.co.jp/gp/product/4797347058?ie=UTF8&tag=pasnet-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4797347058)」であるらしい。・・・前作はまだ読んでないけど,このベタベタなタイトル・・・いや,著者の眼鏡っ子に対する愛は分かる,分かるが,ふつー,もう少しひねるもんだろう。そして2冊目が「眼鏡っ子」と「メイドさん」である。ベタにも程があろうというものである。でも可愛いから許す。ま,著者も「いい加減にしろと言われそうですが」(著者挨拶)と自覚はあるようだし。
 この単行本の大部分を占める「MAID DE NIGHT! — メイドでないと!」を強引に一言で言うと,「押しかけラブコメ」という奴である。短く収めた「ああっ女神さま!」みたいなもんか。早い話が,オクテかつモテナイ男が抱きがちのファンタジーである。そのせいか,どーも男の子が無個性過ぎて物足りない。絵のトーンがまだ固まりきっていないのか線がへろへろで,緩やかな雰囲気作りには役立っているが,全体的に軽い感じがする。まあそれを言うと「ヘタリア」なんて鉛筆書きだから尚更なんだけど,今風ではあるんだろうが,オッサンマンガ読みにはちと感情が込めづらいトーンではある。でも可愛いから許す(そればっかりや)。
 画風で言うと,真逆なのが,アサミ・マートの「木造迷宮」である。筆で描いたような,くっきりしたタッチの一本線で,画力は相当ある。コミティアからコミックリュウ編集部が引っこ抜いてきた新人の一人で,中野晴行さんお気に入りの坂木原レムも同様の経緯でデビューしたようだ。二人ともゲーム会社に勤務していた経験があるようなので,ひょっとして顔見知りなのかな? 社会人経験がある分,年齢はTOBIよりワシに近いぐらいであろう。ワシには大変しっくりなじむ描線は,古い木造建屋の表現とマッチしており,ストーリーより絵に興味のある人なのかな,という感じがする。一人暮らしの冴えない中年物書きオヤジのところに割烹着の可愛い女中さんがいて,あれこれ世話を焼いてくれるというストーリーは,もう独身男の妄想でなくてなんであろう。ワシはメイド喫茶ブームに対して,何故日本のよき伝統である女中(もう差別語ではなくなったのか?)を置かないのか!,と憤りを感じていたので,なおさら共感して読んでしまった。ヤエさん,可愛いです(バカ)。
 ということで,メイドと女中という和洋の違い,画風も正反対な新人作家の作品ではあるが,末永くご活躍して頂きたいものである。

西原理恵子「毎日かあさん 5巻 黒潮家族編」毎日新聞社

[ Amazon ] ISBN 978-4-620-77058-1, \838
be_mother_everyday.jpg
 今更サイバラ漫画,しかもベストセラー(2008-12-24現在 Amazonで4位)になったものを褒めちぎっても,Webの海にゴミを増やすモンだと思ってから本書についてはスルーするつもりでいた。いや,もちろん今まで以上に面白いのであるけれど,サイバラ漫画の新展開がっ!・・・というものでは決してないので,お勧めの言葉は今まで書いた記事で尽きているのである。
 しかし,一つだけ,これはワシにとって,いや,日本男児の根幹にかかわる重大トピックが本書に取り上げられていたを見つけたので,以下,そこに焦点を絞って本書のぷちめれに代えたい。
 それは,「洋式トイレ問題」である。まずはこの読売新聞の記事をご覧頂きたい。ワシはこれを読んでウヨクな頭が沸騰してしまったのである。

座って小用を済ますなぞ,日本男児の恥である!


便器は西洋列強に倣えども,日本の侍の魂はすっくと立ち上がって尿をジョロジョロと排出する行為に宿るのである。それを世の女どもは分かっとらんっ! 男児が座りションベンするためには,ペニスを股に挟んで下に向けねばならんのだ。これは

負け犬がしっぽ巻いて逃げる


のと同じ屈辱感を覚えるポーズに他ならない。いや,大の時は必然性があるからいいのである。大便をひりだす必要がないにもかかわらず,女どもはワシらに自分らと同じ行為を強要する,これが日本男児の魂を破壊する行為でなくてなんであろう。
 ・・・と,ワシは確信していたのである。自分の家の新品のトイレが臭くなるまでは・・・。
 さて,ここでもう一つ,産経新聞の記事を読んで頂こう。右翼ポーズで有名な産経であるからさぞかしワシの気持ちを代弁してくれるんだろうと思っていたらさに非ず。文句の言いようもないぐらい合理的な研究結果に基づいて,男子の立ちションがトイレの悪臭の根源であることを語っているではないか。
 ああ,これだったのだ。ワシの全財産を叩いて購入した新築マンションのトイレが臭くなってしまったのは・・・。いや,ワシはちゃんと掃除はしていたのだ。どこが汚れているんだか分らない便器をピカピカに磨き,床には掃除機をかけていたのだ。
 しかし死角があったのだ。
 壁である。
 壁をふき取ることなぞ,想定外だったのだ。新品の洋式水洗トイレからアンモニアの臭気が発せられるようになったのは,実は壁に飛び散った尿の飛沫によるものだったのだ。それも,ワシが日本男児の根幹と信じる行為によってもたらされたものだったのだ。
 毎日かあさんは世の女性を代表してこうのたまうのである(P.45)。

 毎日自分で掃除してから言え
以上

 と。
 日本男児の伝統を守るには,風呂掃除の他に,毎日の便所掃除を男の仕事に追加する他ないのである。サイバラにまた一つ大事なことを教えて頂いたことに謝し,深く首を垂れ,臭いトイレを何とかしようとワシは心に誓ったのであった。