[ Amazon ] ISBN 978-4-10-1166442-1, \438
昔々,世間では泡(バブル)が大いに盛り上がっていた頃,首都圏の大学生どもは必ず小脇に「ぴあ」を抱えていたものである。その頃は「大学はレジャーランドである」という,日本の高度成長期に培われた良き常識が残っており,講義には出席していなくてもサークルの部室には必ず顔を出す,というのが普通の大学生のあり方であった。ワシもご多分に漏れずそのような大学生活を送っており,講義中こそ控えたものの,休み時間には必ず友人たちとカードゲームに勤しんでいたものである。教科書?予復習?なんだそれ?という感じであった。それが今ではグローバル化の大波に洗われて日本社会から余裕というものが失われ,「大学では勉強せよ」と世の親も教師も叫ぶようになってしまった。嘆かわしいことである。一体全体そーゆーことを言うお前らこそ,どんな大学生活を送っていたのかと小一時間問い詰めてやりたい。今の大学生諸君,反撃したいなら「バブルでGO!」は必見ですぜ。
さて,教科書よりも大事な「ぴあ」は,レジャーランドに通う若い頃のワシらにとって必須の情報ツールであった。世間で何が流行っているのか,どんなイベントがどこで行われているのか,それはすべて「ぴあ」に掲載されていた。いや,「ぴあ」に載っていないものは世の中には存在しないも同然だった,と言うべきなのかもしれない。今ではすっかり東京ウォーカーに部数で抜かれ,Webからキーワード一発でググるだけで済むようになってしまっているが,泡絶好調の時代はあの及川正通の精密な著名人の似顔絵を冠した紙の束が指し示す情報が,ワシらの大学生活の全てだったのだ。
そんな「ぴあ」だが,情報の狭間で密かに「サブカル」を育てていたのだ。「はみだしぴあ」という,記事ページの左右マージン部分に小さく縦長に印刷された小粋(死語)な文章。ワシはあれが大好きだった。そこでは常連も生まれ,号をまたいで密かなコミュニケーションも図られていたのだ。
そしてもう一つ,時期は判然としないのだが,大変に気になる,絵の下手なマンガがいつの間にやら掲載されるようになっていた。題して「微笑家族」。表情の全く変わらない,顔のコピーを貼り付けた,作画に関しては手抜きとしか言いようのない白黒1ページの地味なマンガで,その下には申し訳のように「カネテツデリカフーズ」の宣伝ページであることが分かる文章(といっても宣伝臭は皆無であったが)が付記されていた。
絵については褒めようのないマンガであったが,つい読まされてしまう不思議な磁力が働いていて,ワシはいつしか情報よりも「はみだしぴあ」とこのマンガを目当てにしてぴあを購入していたような気がする。例えて言うなら中崎タツヤやいましろたかしの描くダウナー系マンガの元祖のようなものであった。
それが「中島らも」との最初の出会いだった。たぶん,同じように中島らもとこの時期に出会った人は多いと思う。その証拠に,この啓蒙かまぼこ新聞は程なくして中島らもの著作としてまとめられ,今またこうして新潮文庫から編み直されて21世紀もしぶとく残っているのだから。ワシは広告の歴史にはトンと疎いのだが,中島らもは「自己表現としての広告」を開拓した先駆者に数えていいのではないかな。
その中島らもが52歳で,ほとんどアルコールに飲まれるようにしてこの世を去ったのはつい最近(2004年)のことだ。ニュースを聞いたワシは,驚くより「やっぱり」という感想を持った。それは周囲の人たちから断片的に伝わってくる情報や,らも自身が執筆したエッセイから知る普段の生活ぶりからして,遠からず破綻しそうな予感がしていたからである。ワシは中島らもの小説はほとんど読んでいないが,エッセイは「しりとりエッセイ」以来,特に1990年代に出版されたものはたいがい目を通している。そのエッセイの文体も,どんどん構成が「緩く」なっていき,晩年に近い時期のものは,正直言ってかなり密度が薄く感じられるようになっていた。これがアルコールの影響によるものか,意図的にやっていたものなのかは分からないが,少なくともワシが好きだった中島らもからはどんどん離れて行ってしまったのである。
本書を読んで,マンガの持つおもしろさは,馬鹿でバブリーな大学生だったワシが感じたものと変わらないことが分かった。純粋にダウナー的センスだけで勝負していたことで,20年以上も前の作品なのに全く古びていないのだ。しかしそこに添付された文章は,構成がかっちり決まった密度の濃い初期の中島らものエッセイそのもので,ワシは面白さよりノスタルジーを感じてしまい,少しほろりとしてしまったのである。
本書には,ワシの大好きだった中島らもが詰まっている。永久保存版として,大事にしていきたい。
関口知彦・鈴木みそ「マンガ 物理に強くなる」ブルーバックス
[ Amazon ] ISBN 978-4-06-257605-5, \980
丸善丸の内本店とか三省堂本店とか八重洲ブックセンターのようなでかい本屋に出かけると,必ず理工系の棚を眺めることにしている。以前はIT関係の棚も見ていたのだが,プログラミング関係の情報は古いものやWebで事足りるので,行かなくなってしまった。だから今は理工系,特に数学関係の所のみを見るようにしている。大学院修士の時から今までずーっと続けている慣習だから,もう15年ほど,定点観測をしているわけだ。
その結果,次のような変化が見受けられる。ま,あくまで私見ですけどね。
1.「やさしい」「初心者(初学者)のための」というタイトルが増えた。まだマスマーケットが存在する層に売り込むべく,内容のわかりやすさを競うようになっているらしい。「マンガで読む」ものが増えたのも,そのせいだろう。
2.微分積分,線型代数の入門書が多いのは相変わらずだが,もっと低レベルの高校数学以下の内容をフォローするものと,統計学(確率も含む)の入門書が格段に増えた。統計については,ExcelやRのように使いやすいツールが登場して当たり前のように大量のデータの解析ができるようになったという環境の変化が寄与しているのだろうが,それ以上に,微積分・線型代数のように計算主体ではなく,統計的「概念」の理解が必須であるという事情が大きいように思われる。計算はソフトでなんぼでもできるけど,計算結果が何を意味しているのかが読みとれないようだと話にならないからね。
さて1についてだが,こと「マンガで読む」入門書に関しては,概念理解の手助けはできても,他の分野への応用が可能となる,ある程度深い理解を得ることは相当難しいのではないか,と思うのである。
断っておくが,ワシはいわゆる学習マンガが大好きで,内山安治や篠田ひでおが執筆していた学研のシリーズはほとんど揃えていたし,今でもあさりよしとおの「まんがサイエンス」は愛読している。そのワシの経験から言って,結局,この手のマンガ入門書はワンテーマの概略理解には極めて有効だが,本格的学習には全く使えないもの,と言わざるを得ない,とっかかり以上の効能が望めない代物なのである。
何故か? それは他の「やさしいなんちゃら」も含めて,優しく語れる部分だけを抜粋して編んだ本であるからであって,そんなもん,ワシに言わせりゃ,それなりに専門教育を受けた,人並みにプレゼン能力のある人間なら誰にでも書ける代物に過ぎないのだ。マンガ入門書にしても,日本の優れたマンガの表現能力と学習マンガのノウハウの蓄積を持ってすれば,どんな内容であれ,読みやすいものに仕上げるのはそれ程難しいことではないだろう。むしろ,原作がヘタレであっても,優れたマンガ家が付けば,よりかみ砕いたネームに仕上げてくれる訳で,制作するのは普通の入門書より楽かもしれない。何にしろ,基本的に,この手の入門書はワンテーマ理解の手助けをしてくれるもの,と割切って楽しむのが吉である。
残念ながら,この教祖様の5年ぶりの新刊も,その「ワンテーマ理解の手助け」の域を超えていない。少なくとも第7章までは完全にそうだ。古典力学の基本中の基本の解説の域を出ていない。いくら教祖様が「物理は難しくありませんよ」(P.273)と力説しても,「そりゃ難しくないところだけを解説されてもねぇ・・・」と苦笑するほかないのである。なかなか「とんでる力学」のような,一見やさしい語り口ながら,もんのすごく高度なことを解説している本というのは現れないものなのだ。
・・・とまぁ,本書から得られる物理知識の「量」だけで言えば,こういう身も蓋もない結論になってしまうのだが,じゃあ本書は物理のとっかかりで躓いている高校生にだけ有用なものなのか,というと,実はそうではなかったりするのだから,教祖様の漫画力はさすがというほかないのである。
どこが違うのか。それは一通りの解説を終えた後,第8章で起こるキャラクター同士の議論が象徴している。あまり詳しく述べるとネタバレになって教祖様の家計を逼迫させかねないので概略だけにするけど,ここでキャラクター達は第7章まで営々と積み上げてきた学習の「方法」の正否ついての議論を展開するのである。各キャラクターの意見そのものは常識的なもので,この手の議論は昔も今も展開されている手垢の付いたモノであるけれど,このあとの2章で一気に特殊相対性理論のとっかかりへ進んでいくための跳躍版の役割を果たしているのである。従って,この8章以降では,本書が示している知識の内容全体が,壮大な物理学という学問の,ほんの初歩にすぎないということを,著者自身が吐露していると見ることができるのだ。
本書の見所はもう一つ,物理学をメタ的に見た視点が最初の1,2章に入っていることである。「日常感覚を疑え」「常識を疑え」(P.45)と読者に迫るところは一番迫力があって感心させられた。つい最近も日常感覚「だけ」に基づいたトンデモ相対性理論批判本があったけど,本書がもう少し早く出ていたら,このトンデモ本の著者も恥じ入って出版を取り止めたかもしれない。学問の重要なポイントは不要な「直感」を排除して「正しいスジ道」(P.36)を追い求めることにある,ということを知らしめてくれる本書は,高校生のみならず大人にもお勧めしたくなるものなのである。
コンピュータが我々の日常生活に完全に溶け込んだ昨今だからこそ,人間に求められるのはそれを使いこなすための知恵である,と,誰でも言う。しかし,その知恵を学習するための書物は,残念ながら大量の入門書が溢れる現状ではあまり多くない。そんな中で,本書は知識レベルでは入門書の粋は出ないが,「知恵」の部分はメタ的に重要なことを教えてくれている貴重なものと言える。前作「マンガ 化学式に強くなる」はおぼこい理系クンに迫る女子高生の恋愛マンガとして楽しめたが,化学入門書としては・・・というところがあったが,今回はお色気ゼロで,純粋に「学習」するためのマンガとしてチャレンジしており,前作よりも売れ行きはともかく内容としては,高校物理の基礎を知るだけでなく,それを学ぶ際の態度も同時に学べる分,よりお勧めできるものとなっている。
さて,化学,物理と来れば,次はやっぱり生物,ということになるのだろうが,何せ本書は前作から5年かかっての書き下ろしだから,この分では次作が出るのは相当先になること間違いない。それならいっそ,どっかの学習雑誌かマンガ専門誌に連載してもらえないかなぁ,と思う。どーせ部数激減,商売になる単行本のストックとして機能しているのが今の雑誌の状況なのだから,マンガ専門誌でも「マンガ 生命現象に強くなる(仮称)」を掲載する価値は十分にあるだろうし,何せ書いているのが「銭」の著者だ。ストーリーも面白くなるだろうし,何より定期的に掲載していけば,何年も待たされることなく次作がまとまるに違いない。さてどっか話に乗ってくれませんかねぇ。講談社も,どーせ雑誌の整理をするのなら,この手の学習マンガを掲載するものを作ってくれてもいいように思う。
いっちょ,やってみませんか?>講談社様
高世えり子「理系クン」文藝春秋
[ Amazon ] ISBN 978-4-16-370510-1, \1000
本書を読みながら,ワシは推理していたのである。表紙に登場する二人のカップルが通っていた大学はW大かKO大か?・・・と。「分散処理記述言語のランタイムを作っていた」(P.17)とか「ベンチャー」「FreeBSD」という(P.32)という言葉からして,どーも雰囲気としてはKOっぽい,というのがワシの一応の結論なのだが,違っていたらごめんなさい。しかし分散処理記述言語って華々しい成功を収めたモンが少ないよな,結局今でもMPIとかPthreadとか良くてOpenMP,ヘタすりゃ今でもソケットライブラリレベルからシコシコ書くしかないんだからメンドっくせぇ~・・・はっ,イカンイカン,ついついワシも「理系的妄想」に填り込んでしまった。本書はそーゆー「妄想くん」,イマドキの恋愛テクニカルタームで言うところの「草食系男子」を彼氏に選んだ文系女性の「未知との遭遇」を描いた傑作エッセイマンガなのであるからして,ここは一つ,ぐっと理系専門用語を使うのを抑えて内容の紹介に努めることにしたい。
作者の高世えり子を知ったのは創作系同人イベントの草分け,コミティアのWebに掲載されたエッセイマンガである。一目見て,これはプロ級だなぁと思っていたのだが,やっぱりプチコミでデビューされていた方だとWeb経由で判明した。コミティアの新人発掘能力の凄さを改めて思い知らされたわけだが,まだデビューから日が浅いので,単行本が出るのは随分先なんだろうなぁ~と思っていたところ,本書が8月に出版されると知り,先頃ようやく入手できた次第である。しかし,デビューした小学館とは別の,しかもマンガではコミックビンゴの蹉跌以来,殆ど新刊を出してこなかった文藝春秋から出たという経緯がよく分からない。ご存じの方教えて下さい。
それはともかく,本書は目出度く旦那様となられた「理系男子」との恋愛記録であると同時に,大学入学まで接することのなかった人種の有り様を学んでいく「学習マンガ」でもあるのだ。しかし・・・いや,齢40にもなれば分かってはいるものの,ワシらのようなタイプの「理系クン」がそれほどまでに特殊な,そして世の失笑を誘う特性を持っているとは,若い頃には想像もしなかったのである。世の女性方には伏してお詫び申し上げる次第である。しかし,近頃は「草食系男子」なる存在が認知されつつあるようなので,その一類型として寛容に扱って頂ければ,それなりに日本社会の維持と,女性方の幸福な(?)夫婦生活の構築にはお役に立つに違いないのである。だから・・・オールド「理系クン」であるワシとしては,是非とも本書が世の女性達の啓蒙書として広く流布されることを願わずにはいられないのだ。
「理系クン」の特性については,既に「プログラマの妻たち」(ビレッジセンター)や,マイコミ「理系のための恋愛論」である程度認知されていると思うのだが,おもしろおかしく描いてくれる著者の実体験エッセイマンガは恐らく本書が初めてだろう。しかもハッピーエンド。よって,世のオクテな理系クン達には朗報・・・とすんなりいけば,ラッキーだ。しかし逆に,世にはびこる女性たちの持つ共同幻想を打ち砕いてしまい,理系クンから手を引いてしまう結果になりはしないか?・・・という,一抹の不安を拭えないのだ。
帯の文句にある「理系クンは浮気をしない」云々の格言は,本書に挟まれる「理系クン観察レポート」から抜粋されたモノであるが,宣伝文句としてはしゃーないとはいえ,いいとこだけをより抜きすぎているきらいがある。実はもっと沢山のネガティブな特徴を高世は見抜いているのだ。曰く,
・「女性の欲しいモノが分からない」(P.85)
・「女性への免疫がない」(同)
・「いつも忙しい」(P.130)
・「メールが事務的」(P.151)
等々。これらは全て実際に高世が経験し,本書に描いたマンガから得られたものであり,ワシから見ても,ただ一項目を除けば,正しいものばかりである。もちろん,女性と接することでこれらの欠点を補正できる奴も皆無ではないが,大部分は修正できないまま人生を終えることになるのだ。これはつまり,そういう人格を育んでしまう学問的な特性があるからとも言えるが,ワシが見る限り,高世が挙げた37の項目に当てはまる人間的素地がもともと備わっていた奴が「理系クン」になる,という方が正しいように思われるのだ。
だから! ここは世の女性達に声を大にして言いたいのだ。「理系クン」を根本的に矯正することは不可能であり,こーゆー輩と人生を共にしようというのなら,高世が辿り着いた一種の「諦念」が不可欠である,と。あとり硅子が作品を通じて発していた,あの重要な観念を持たねば,理系クンとのお付き合いはできないが,しかしその引き替えとして,平穏無事な家庭を長期に渡って(恐らくは「死が二人を分かつまで」)維持することが可能となるのである。ここの所をきちんと読み取って貰えれば,女性の「私に奉仕してくれる一方の男」なる共同幻想を砕いてくれる共に,理系クンの価値を認識して貰えるはずである。諸刃の剣だが,ワシは後者の効能を期待したい。
惚れた振られたを繰り返す波瀾万丈の人生を選択するのもアリなんだろうが,恋愛期間中からDVに走る男にとっつかまる危険を冒すことが果たしていいことなのかどうか。どーも酒井順子はそれが原因で「負け犬」になってしまったようなのだが,人生のどこかで「理系クン」っぽい男を,「宇宙人」などと毛嫌いせずに諦念を持って受け入れていればあんなベストセラーを書くハメ(?)にならず,平穏無事な人生を送れたろうにと思うのである。反面,高世は,もともと理系クンを受け入れる性格的素地があったとは言え,彼とのつき合いを通じて理系クンを学習し,早々と二十台でゴールインした上に,その学習成果をネタとして咀嚼し,魅力的な絵で本書を書き下ろすことに成功したのだ。ワシとしては更にこれが「負け犬の遠吠え」並に売れることで,理系クンを含む「草食系男子」の価値を喧伝する効果が高まることを期待するのである。
ちなみに,ワシが「違うな」と感じた理系クンの特徴の一つは
・「自分の分野の専門用語を説明しないで一般人に使う」(P.39)
である。まあ若いうちにはそーゆー奴も中にはいるんだろうが,専門外の人たちへのプレゼン能力が求められる昨今では,それなりにかみ砕いた説明をしなければならない機会は増えているので,難解なテクニカルタームは極力回避するように訓練されている筈だ。高世が面食らったP.26~27の理系クンの解説,実はかなり「かみ砕いた説明」になっているので,この辺誤解なきように。更に言えば,それを心がけているこの理系クンことN島さんは,かなりコミュニケーション能力が高い方なのだ。その辺りも,世の女性達には誤解なきように願いたい。典型的な理系クンは,有能な奴ほど,もっと「とっつきづらい」人間だったりするのである。
谷口ジロー「冬の動物園」小学館,おざわゆき「邯鄲の花」同人誌
[ Amazon ] 冬の動物園,ISBN 978-4-09-181850-8, \1000
[ HomePage ] 邯鄲の花(同人誌)
久々に声のぷちめれ。纏まりがないのはいつものことで。
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言及している「海の花」はこちら。「竹宮惠子のマンガ教室」でおざわゆきさんに言及しているのはP.199〜200です。
とり・みき,唐沢なをき「とりから往復書簡 1」リュウコミックス
[ Amazon ] ISBN 978-4-19-950091-6,¥933
それにしてもまぁ,とり・みきほど漫画家同士のコラボレーションが好きな漫画家は珍しい。一本立ちしている他の漫画家とコラボした作品集はこれで3冊目になるのだから。
最初は原田知世ファン続きの畏友・ゆうきまさみとの共著,「土曜ワイド殺人事件」,「新・土曜ワイド殺人事件」である。これは,とりがコンテを起こし,ゆうきがそれを土台に下書きを入れ,とりがペン入れをして原稿を完成させるという,原稿を持って往復する編集者泣かせの手順で作成されたギャグシリーズである。後述するが,とりの絵に現れてきたシャープな線と抑揚は,本作でゆうきから影響を受けて形成されたモノではないか?
次は,とりと同じく秋田書店で活躍していた,おおひなたごうとの共著,「エキサイトな事件」(秋田書店)である。今では弱小に落ちてしまったポータルサイトExciteで細々と連載されていた四コマ(?)マンガを,西原理恵子担当者として名を挙げた,新保信長が編集し,コラムを追加して一冊にまとめ上げたものである。
そして今回,3冊目,唐沢なをきとの往復書簡,というより,受と攻の形式で原稿をお互いキャッチアップしながらコミックリュウに連載を続けている異色作が単行本として出版されたのである。それがこの「とりから往復書簡」である。
唐沢なをきがメジャーになって来た頃,等身の短いキャラクターといい,サインペンによる抑揚のない描線といい,無機質なギャグといい,その作品はとり・みきのものとよく見間違えられたものである。それも当然,唐沢なをきは,とり・みきの臨時アシスタントを務め,強く影響を受けているのである。本書に収められている対談でも触れられているが,その詳細は「マンガ家のひみつ」(徳間書店)で唐沢自身が語っている。ちょっとその部分を引用しておこう(P.138)。
唐沢なをき「それでとりさんのマンガを読むようになって,初めて感動したのが『ポリタン』と『ときめきブレーン』。このふたつは本当に泣けるほど感動しました。ああ,こういうのを許されている人がいると(笑)。しかもそういう人にネームを見せたら,すごい褒めてもらったじゃないですか。スゲェうれしかったですよ。なんだ,やっぱりこれでいいじゃん,という。」
とり・みき「悪いほうへ導いた(笑)。」
唐沢「それまで編集者にはケチョンケチョンだったのが,あ,これ面白いよ唐沢君って言ってくれたんですよ。あのひと言はなんかすごい支えになったなぁ。」
ということで,自信を失いかけていた唐沢を復活させたのはとり・みきだったのである。美談である。
しかし,一見すると作風が似ている両者だが,こうして一冊にまとめられたものを読むと,今ではかなり絵にもギャグにも違いが出てきていることが分かる。唐沢の絵は,とりが流行らせたサインペン調を保っているのに対し,師匠・とりの絵は,一度解体した抑揚のあるペンタッチが復活しており,デジタル処理を使いこなせるようになったことでシャープさがより増している。印象を一言で言うと,唐沢の絵には温かみがあり,とりの絵には冷たさを感じるのである。本書が心地よいハーモニーを奏でているのはそれが理由の一つなのだろう。
もう一つ,心地よいハーモニーの理由として,とり単独作品に比べてギャグの「毒」も「中和」されていることが挙げられる。この「毒」に関してはとり自身が自覚しているようで,おおひなたとの共著における対談でも「人が悪い」(P.134)ということを述べている。そう,とりのギャグにはかなり奥深いところを抉る鋭いものが秘められているのである。ちょっとこれは言わない方が・・・と思った所をズバッと言ってのけるところがあるのだ。
一番印象深いのは「愛のさかあがり」で使っていた
「いきなり自由落下がオッシャレーになってしまった」
というものである。これ,某人気アイドルが飛び降り自殺した事件を受けてのギャグなのだ。ワシはこれを最初に大判の単行本で読んだとき,ヒドイ,と思うと同時に,スゲェ,と驚嘆したものである。この辺のDNAはDr.モローにも共通しているようで,さっき買ってきた同人誌「フデコ伝説 XII」を読んでいたら,コミケ前代表・米澤嘉博の急死を受けて
「ヨネザワさんはアタシたちに身をもって教えてくれたのよ」
「やっぱりタバコは体に悪い」
というギャグをカマしていて,ひっくり返ったところである。これ,コミケカタログに掲載されていた漫画なんだが・・・。
そんな訳で,久々に集った師弟が共作した本書,とりの「冷たさ」と「毒」が程良い具合に唐沢によって中和された,万人にお勧めできる漫画エッセイになっているのである。連載はまだまだ終わりそうにないので,次の2巻が出るのも確実である。楽しみに待つことにしたい。