[ Amazon ] ISBN 978-4-478-00376-3
わはははははははははは。久々に爽快な笑いを提供してくれる本にぶち当たって,ワシはサイコーに幸せである。それもこれも全てはヴィレッジヴァンガード札幌平岡店の陰謀によるものなのだが,一昔前の「サブカル」的ガジェットにあふれた店内で,本書は斜めに立てかけられたベニヤの一枚板に縦5〜6列,横4列の二次元平面的に飾られていたのである。その割には殆ど売れていないようで,発売以来2ヶ月ばかりそこにずっと置かれていたような感じであった。その証拠に,本書は万物に対して垂直下向きに等しく作用する重力によって,少し型くずれしていたのである。そんな本そのものが醸し出すそこはかとない悲しみは,どこかアンニュイな表紙の高田純次に通じるものがある。もっとも本書の腰巻きを外した途端に爆笑に変わってしまうのであるが。
真面目な話,高田純次は真剣に「適当男」を演じているな,とワシは感心しているのである。島田紳助だったか,明石家さんまだったかは忘れたが,今一番いい仕事をしているな,と感じるのは高田純次だ,と言っていたのが高田の真剣さをよく物語っている。ワシも「天才たけしの元気が出るテレビ」で売れ出した頃の高田のインタビュー記事を読んで以来,その印象が張り付いてしまっている。進研ゼミに載っていたものだが,至極真面目な記事だったのだ。何が書かれていたか,全く覚えていないが。
本書は2007年1月から12月までの高田純次の日記という体裁を取っているが,いつもの適当な受け答えで満ちあふれた本である。内容的にはかなり薄いが,それだけにバラエティ的な演出で補う必要があって,至極読みやすく楽しめるようになっている。ワシみたいなスノビッシュでないベタな読者にとっては素直に笑える文句が多数で,ちょっと土屋賢二的な捻りが感じられる。本人がウリにしている下半身ギャグも多く,下らないことといったらない。しかし多忙な芸能活動の中,映画の試写会に足繁く通っている所など,やっぱり真面目さの片鱗は隠せない部分も見られるのだ。ま,本人に言わせればそこも含めて殆ど嘘ということになるのかもしれないが。
ホントにしろウソにしろ,虚実に関係なく楽しめる内容であることは間違いない。これからも同種の本は多数出版されていくだろうが,現時点でどれがいいか,と言われれば本書を推薦する。何せヴィレッジヴァンガードとワシの気まぐれ感覚の両者がタッグを組んで選んだのだ。信憑性は,高田純次の精液の濃度よりも高いに決まっているのである。
内田樹「ひとりでは生きられないのも芸のうち」文藝春秋
[ Amazon ] ISBN 978-4-16-369690-4, \1400
昨年逝去した作詞家・阿久悠は,今の流行曲と自分の書いてきた歌詞についてこんなことを述懐していた。曰く,今の歌は『わたし』なんだね,ぼくのは『あなた』なんだよ,と。
本書を一言でまとめるならば,このような「あなた」から「わたし」への行き過ぎた世の流れに棹さす現代批評集,ということになる。
ま,そんなもの,blogにも書籍にも雑誌にも山ほどあるさ,とお思いになったあなた(お,早速出た),ま,ちょいとお待ちなさい。本書に掲載されている短文は著者本人のblog記事が元になっているが,毎日それをウオッチしているワシも,改めて感心しながら読んじまったぐらい,本書は面白い読み物になっているのだ。
どこが面白いかってぇと,まず内容が「常識的」なことが挙げられる。以前,著者・ウチダはデカルトの一文,理想郷を探索中であるなら,まずは現在自分が生きている社会とそこに根付いている常識に身を委ねておきましょう,という意味のものを引用していた。しかし,最終的にはイデアを希求していたデカルトとは異なり,ウチダの論法は歴史的構築物である「現在地」こそが最終的な着地点であるという揺るぎない確信に支えられたものなのである。古今東西論客の信頼の置ける文献に依拠しつつ,決して純粋すぎる方向には向かわない謙虚さと常識性を兼ね備えているのである。
次に,好奇心が旺盛で,かつ体力に溢れているご仁であるため活動が多岐に渡っており,いわゆるアームチェア・ディテクティブのような眼高手低的文章にはなっていない,ということが挙げられよう。大学内では役職を大過なくこなし,新聞連載をこなし,合気道の鍛錬に励むと共に,長期休暇(っても教師にはやることが山のようにあるのだよ)には様々な論客と対談をしたり各種媒体からインタビューを受けたりしつつ,箱根に籠って麻雀三昧の日々を過ごしたりするのである。疲れねーかふつー? こんなアクティブに他人と熱くコミュニケートする人間の書いた「ひとりでは生きられない」というメッセージを込めたものであるから,自らは沢山の弟子や信奉者に囲まれて過ごしているくせに「一人で老後を過ごすのは楽しい」的な自己チュー本を書く奴よりはよほど信用できるというものである。
既に一人暮らしを始めて20年以上にもなろうかという中年ひとりもののワシであるが,最近ますます「ひとりでは生きられない」という当たり前の事実を身に染みて感じさせられることが多くなってきた。本書を他人にお勧めしたくなっているのも,そうした身に染みて感じる同等の寂しさがそうさせているのかなぁ,と思う。願わくば「プロジェクト佐分利信」(P.63〜67)の成果に一縷の望みを託したく,これからのご活躍を祈念したいのである。ぐっすん。
小島茂「学位商法」九天社
[ Amazon ] ISBN 978-4-86167-209-5, \2500
Degree MillもしくはDeploma Mill(以下,本書に倣ってDMと略記)と呼ばれる,未認定の学位を発行して利益を上げる団体の存在を初めて明確に認識したのは小谷野敦のエッセイを読んだ時である。突撃型の体験エッセイという感じのものだったが,スパムメールの一つに「学位を差し上げます」というものがあり,それに応じて先方と連絡と取ったところ,何やら怪しげな団体だということが分かってすったもんだする,という内容だった。カナダに留学経験のある小谷野のことだから,エッセイのネタになると思ってあえて突撃してみた,ってことなのかもしれないが,ひょっとしてホントにDMの存在を知らなかったのかもしれない。当然ワシも全く知らなかったので「へぇ〜,そーゆー所もあるんだねぇ」と感心した次第である。そーいや,海外から山ほど届くスパムメールには何とかdegreeとか書いてあるよなぁ,今も昔も変わらず,ね。
しかしまぁ,スパムを送ってくる所はまだ怪しげさに可愛げがあっていい。いや,もちろんこれにだまされる人も多少はいるのかもしれないが,毎日何万通も未承諾広告を送りつけてくるような輩を信用する奴は,まあ自業自得である。問題は,対外的にはもっともらしいWebページや活動内容を喧伝していながら,実は全く設置地域の政府や公共団体からの認証を受けていないDMの存在である。昔,三遊亭楽太郎が博士号を取ったと宣伝していたことがあったが,今から思うとあれもDMだったかな,と思う。楽太郎は知人の社長(?)から,論文を送付するだけで博士号が取れるという話を聞き,様々な人の助けを借りて博士号を取得したと言っていたが,結局はDMの広報塔として利用されたということなんだろうなぁ。まあ芸人としては正式なものであれ,騙されたものであれ,どっちにしてもネタにはなるので,損にはなっていない。社会的な影響はともかく,本人としては「シャレ」の一言で済んでしまう話である。
しかし,ご立派な認可大学の教員が実はDM博士号保持者だった,となるとシャレでは済まない。文科省の調査よって全国の国公私立大の約50名がDM学位を持っていることが判明しているが,本書の著者,静岡県立大・小島茂によれば,実体はもっと多いらしい。小島の地道かつ真摯な学術的研究活動の結果,DMの存在が広く知られるようになり,ヤバいと思ったDM教員は学位を取った大学名を隠すようになってしまったのだ。週刊現代には公になったDM教員のうち,コメントが取れた約半数の実名リストを記事に掲載しているが,これはまだ氷山の一角に過ぎないってことになるのだろうか。ホント,シャレにならない事態である。以前にも書いたが,安くない公金がつぎ込まれている教育活動に従事する教員は,一人残らず経歴と博士号取得大学を明記する責任があるだろう。
本書はそんなDMについての知識を一通り授けてくれる貴重な一冊である。何せ現在進行形でDMからの攻撃にさらされつつ,果敢な広報活動を続ける著者が書いたものだけに,説得力が違う。それでいて,DMの定義,DMの行動様式,世界各国におけるDMの活動状況,DMへの対抗策がきっちりとした資料引用に基づき,冷静な筆致で述べられている。様々な形で難癖を付けてくるDM相手にマスコミもbloggerも及び腰になっている(実はワシもその一人だ)中,現在入手できる最高の一冊であることは間違いない・・・つーか,一冊しかないんだなこれが。その辺が日本の言論界の情けない所だが,いまいち世間的な盛り上がりに欠ける理由も本書には述べられている(P.107〜P.112)。日本の大学,特に理工系以外の分野では歴史的に博士号の所持が重視されておらず,最近になってグローバルスタンダードの風を受けて学位が大学内では重要視されるようになり,日本の欧米変調の風潮もあいまって,DMが現役教員にも浸透してきた・・・が,世間的には大学の勉強なんて不要,という認識が強く,いまいちDMへの危機感が薄い,ということのようである。困ったことだが,DM学位を持つ判事が蔓延って,結果的に裁判で有罪判決が覆ってしまったイランの例,DMが政府高官に食い込んでしまったカンボジアの例などを読まされる(P.31〜32)と,これは本書副題「教育汚染」という文句が大げさではなく,背筋が寒くなる話であることが分かる。前述の通り,全大学教員の履歴の全面開示を義務づけ,DMへの監視の目を厳しくすることを国家レベルで行わなければ,日本の国力も世界的な信用も失ってしまう事態になりかねないのである。
ということで,教育関係者,特に教員採用に関わる方々には必読の書である。大学に一冊ぐらいは常備しておきましょう。
ついでに言っておくと,もう少し組版のレベルを上げてくれ>九天社&デザイナー 誤字脱字はないが(小島先生の尽力か?),段落組違いとか,文字間隔の不自然なばらつきが散見され,内容はいいのに外見で損をしている。ここは小林よしりんの名言,「技術の上に念を乗せろ!」を噛み締めて頂き,次版の改善に期待をすることにしたい。
群ようこ「音の細道」幻冬舎文庫
[ Amazon ] ISBN 978-4-344-41096-1, ¥457
まずは上の写真を見て欲しい。あなたはこれを見て,違和感を覚えるだろうか? いや,地縛霊とかそーゆー話ではない。・・・分からない?
無理もない。
確かにこの写真だけではよく分からないだろう。しかし,手にとると・・・おおっ,これは!・・・となるのである。
ワシはいつもの群ようこエッセイを読むつもりで買っただけなのに・・・。それが,一冊の文庫を巡る,ミステリーの始まりだったのです(大げさな)。
本書は幻冬舎の広報誌「星々峡」に連載されていた,音楽にテーマを絞ったいつもの群ようこエッセイ集である。大体は連載時にリアルタイムで読んでいたのだが,この度文庫化されたのを機に購入したものだが,今回は内容ではなく,本書の外観のみ語ることにしたい。内容なんて,群ようこであるから,今更ワシがあれこれいうこともないっしょ(なげやり)。いや,面白いのは確かなので,その点は誤解なきようお願いしておく。
掛川の書店の文庫新刊コーナーに平積みになっていた本書を手に取り,レジに向かう途中,ワシは違和感を覚えたのである。
違う。何かが違うぞこの文庫。
あれ・・・?
小さ・・・い?
いや,文庫だもんなぁ,そんなことないよなぁ。各社統一サイズだし,ワシの感覚が狂ったのかな?
・・・と,まあ自分を納得させて,家に戻ったのである。
しかし,枕頭に置いて寝る前に読み始めると・・・やっぱり変なのだ。明らかに・・・小さいのである。で,実際に他社の文庫と比べてみると・・・
ああっ,何ということだ! 文庫が,文庫が・・・・
まずは,論より証拠。これをご覧あれ。比較対象に使ったのは集英社文庫の森まゆみ「寺暮らし」である。これも面白いちゃぶ台エッセイなので是非お勧め・・・ってそれはそれ,これはこれ。話を戻す。
高さはご覧の通り,同じである。
しかし,正面から見ると・・・
あ,ずれてる。
更に拡大してみると・・・
やっぱり,横幅が5mm程足りないのである。うーむ,伊達に十数年間に渡って文庫を読んでいなかったのだな。持っただけで違和感を覚えたワシの感性は鋭い。褒めて欲しい。
しかし謎だ。単に造本が間違っているという話ではない。平積みになっていたこの文庫は皆同じサイズだったように記憶している。幻冬舎文庫はあまり買う機会がないのだが,皆このように横幅が狭くなっているのだろうか? 今度本屋で試してみよう(迷惑な奴)。
しかし謎である。あの見城徹のことだから,コレも何かの仕掛けなのかな,という気もするが,意図がさっぱり分からない。どなたか事情をご存じの方に,是非教えて欲しいものである。
一本木蛮「戦え奥さん!!不妊症ブギ」小学館
[ Amazon ] ISBN 978-4-7780-3501-3, ¥952
単なる偶然ではあるが,本書が発売されてすぐ,ある人気女性シンガーが深夜番組で「35歳をまわるとお母さんの羊水が腐ってくるんですよね」と発言したことが事件になった。この発言事件の前に厚労大臣の失言が国会等でやり玉に挙がったが,その時は概して世間の反応は冷静だったのに対し,今回の事件は市井の人々の中に相当な深い傷を残したようで,そのシンガーの活動は当分自粛,担当ディレクターも処分を受けるという,関係者一同総懺悔という状態になった程である。
ワシは本書を読了し,一本木蛮は今回の発言をどう受け止めたのか,それが一番気になった。今のところ特に公式な反応はしていないようだが,本書は続編が予定されているらしいので,ひょっとするとそこには掲載されるかもしれないし,スルーしているかもしれない。いや,一本木のような真面目な大人の女性のことだから,多分,反応したとしてもそれは怒りとしてではなく,深い悲しみを伴ったものになるのだろうと勝手に想像している。
それは本書で描かれている,長年に渡る不妊治療の悲喜こもごもを知れば,納得して頂けると思う。不妊治療に関する本や当事者の体験談などは既に山程出版されているに違いないが,ワシは生憎未見であるので,そういうものがどういう傾向を持っているかは全く知らない。しかし多分,その中でも本書は相当な異色作だと思われる。著者自身の体験談という以上に,優れたエッセイ漫画としてずば抜けた出来であるからだ。
一本木蛮のエッセイ漫画が面白いということは,「じてんしゃ日記」を競作した高千穂遙が保証している上に,「じてんしゃ日記」自体がそれを実証しているから,今更繰り返す必要もないだろう。しかしどこがどう面白いかはもう少し詳細に説明する必要がある。以下の記述はワシの主観に基づくものだが,なるべく大方の納得が得られそうな所を取り上げてみることにしよう。
第一に絵が魅力的だと言うことが挙げられる。ワシは一本木デビュー当時の少年漫画を読んだことはないのだが,丸っこく可愛い絵でありながら抑揚の強いペンタッチであるというのは,まさしく往年の少年漫画のそれである。漫画の絵からペンタッチが抜け,抑揚のない線が主流になってきたのは,とり・みきがサインペンを使い始めた1980年代後半からの流れだと思われるが,21世紀に入ってからは逆にペンタッチの抑揚が強まってきたように思われるのだ。その意味では,一本木の力強く,それでいて滑らかなペンタッチの絵は,流行の荒波の中を一回転して結構先端に押し出されたものになっているのだろう。
第二に,そういう可愛らしい絵で描かれる世界は極めて上品であるということが挙げられる。ワシにとってはケバいコスプレイヤーのねーちゃんとしての一本木のイメージが強烈だったので,ヤンキー系の人かと思っていたのだが,前作「じてんしゃ日記」も含めて,不良っぽい香りが全然しないし,スケベネタも健康的かつ健全なものになってしまっている。手塚治虫は矢口高雄の作品を評して「上品」と言っていたが,曲がったところが皆無な矢口の描く世界と,一本木の作品とは通じるところが多いように思われるのだ。
第三に,情報量の豊富さを指摘しておきたい。優れたストーリー漫画を描ける作家のものでも,ことエッセイ漫画となると情報量が極めて少ないスカスカの作品になってしまうことがある。白く抜けた絵で短いページ数で体験談を描けばエッセイ漫画になるという勘違いが原因だろうが,物語を進めることが目的のストーリー漫画とは質の違うものだという認識は最低限必要だ。読者はエッセイ漫画に「現実感」の皮を被せて読むのであり,作品はそこに寄りかかって構わないが,その現実感の導入の手助けをするための「情報」はふんだんに盛り込まねばならない。自分を中心としたしみじみエッセイなら周囲の景色を的確に描き,体験記なら5W1Hは不可欠だ。本書は一本木自身の不妊治療体験記であるから,不妊とはどのようなものか,夫婦,特にダンナはどのように協力すべきなのか,どのように治療されるのか,やれば必ず治癒,つまり妊娠できるものなのか・・・等々,描かねばならない情報は大量にあるが,本書にはそれがもうてんこ盛りに詰まっているのだ。てんこ盛り過ぎてちょっと重いかなとも思うが,それだけ本人も,同じ不妊に悩む女性もダンナも,知りたい,知らねばならないことが多いという証でもある。重いテーマをノンフィクションとして過不足なく描くための誠実さもまた,この情報量によって裏付けられているのである。
中年男のワシは,不妊治療というものが女性にとってどういう体験なのかということがよく分かっていないし,本書を読んだからといって,分かった,などと軽々しく言えるものではない。言えるものではないが,しかし,「軽々しく言えるものではない」ということは理解したつもりである。正直言って,この先,一本木夫妻に子供が授かるかどうかは分からないが,身を持って体験したことを優れたエッセイ漫画として世に出した功績に対してはそれなりの報酬があってしかるべきではないか,とワシは願っているのである。