シークレット・ラブ I [ Amazon ] ISBN 4-8322-3058-1, ¥552
シークレット・ラブ II [ Amazon ] ISBN 4-8322-3071-9, ¥552
シークレット・ラブ III [ Amazon ] ISBN 978-4-8322-3094-1, ¥552
いや〜,エロ特集をすると予告しておきながら,年末に入ってしまうとテンションが落ちてしまい,殆どらしいことが出来なかった。だもんで,最後に書きたいことを全部書いてしまうと共に,これだけは紹介しておかねばらならないという3冊をご紹介することで,お詫びに代えたいと思う。
最近の2次元フェチな若者どもがどんなエロマンガを読んでいるのかを知るため,それなりにこの分野のマンガを渉猟し,何冊かは買って読んでみたのだが,いや〜,なんつ〜か,やっぱこの分野,進化が早いというか,もはや中年親父のワシには付いていけない所まで逝っちゃっている。SEX中の男が透明人間になるとか,巨乳女性はもはやホルスタインの化け物のような肉の塊になっちゃっているとか,性器の露出が殆ど欧米並みになっているとか(秘宝館が廃れる訳だ),ともかく凄い。一体どうやったらこんなホラーみたいなマンガを夜のおかずにできるのか,おじさんにはさっぱり理解不能である。Web上では全世界規模で実物が拝めるので,フィクションの世界では極端に走らないと刺激が足りないのかしらん? 中には完全なラブコメ&スポ根マンガの構成でありながら,スポーツの代わりにSEXをしているというものもあって,著者の意図とは別に大爆笑しながら読ませて貰ったが,おっさんとしてはもはやこの分野,トンデモ的な楽しみ方をしないとついて行けない所まで逝ってしまっているのだ。
ただ,この極端な変化は男性向けのエロマンガに限られるようである。女性漫画家が担当することの多い女性向けエロマンガの方は,そこまでファンタジック(と言っていいのかどうか?)な進化は遂げていないようで,まだ何とか「実用」に耐えうる程度に留まっている(BLは別ね)。つーか,今時,恋愛の中にSEXが登場しないというのも不自然である上に,女性にとってのSEXはどうしても妊娠という可能性を孕むものだから,幻想の上に乗っかって射精だけしていればいい男とは違う,生々しい現実を伴うものなのである。それ故に,化け物同士のくんずほぐれつなんぞ見せられても困るのであろう。
従って,同じエロでも男性よりは女性の漫画家が描いたものの方が現実離れしていないのではないか。徹底して男向けに描いたとしても,どこか違和感を抱えてしまうのではないか,と思えるのである。で,その違和感に誠実であればある程,男性奉仕のための作品からは離れていくのが自然の成り行きなのであろう。男性漫画家でも,エロから入って徐々に普通のマンガへシフトしていった一群としては,吉田戦車,山本直樹,陽気碑などが挙げられるが,彼らもどこか単なるエロには飽き足らなくなっていたのではないか。女性ならばなおのこそ,と,ワシには思えて仕方がないのだ。
そんな一人がこの「シークレット・ラブ」というベタベタなタイトルの短編集を描いた,雅亜公(まあこう,と読む)なのだとワシは勝手に確信しているのである。もし男性だったらごめんなさい。女性同士が使うあだ名のようなペンネームと,単行本の著者コメントで判断する限り女性と思われるので,以下ではそう仮定してぷちめることにする。
さて,この3冊の単行本の表紙を見て(写真参照),これがエロマンガではないと思った人はいないだろう。ワシもそのつもりで(どんなつもりだ)買ったのだが,その期待は半ば裏切られたのである。半ば,というのは,確かに本書に収められている作品にはSEXが描かれているのだが,ストーリーが面白いため,SEXが単なるお色気成分に成り下がっているからである。つまり本書はSEXを見せることではなく,SEXにまつわる男女の物語を描くことが目的の作品群だったのである。
特に感心したのは,女性キャラの心理描写が巧みなことである。まあ女性が描いている(たぶん)のだから当然と言えば当然なのだろうが,掲載誌は「別冊週漫スペシャル」である。小汚いラーメン屋に置いてあるマンガ雑誌に,SEX後に雨の音を聞きながら男と語らう行きずりの女性を描いたり(第6話「雨宿り」),既婚女性が男からコートをかけて貰ったことに「こんなことしてもらうの何年ぶりだろ」「女の子扱いしてもらったみたいで何か嬉しいな・・・」と少しジンとしたり(第26話「アイ・ニード・ユー」)というような繊細な女性の心理描写が描かれている作品が掲載されているなんて,時代も変わったものだと思わざるを得ない。絵柄はデビュー当時の金井たつおを思わせる,端正なデッサン力と可愛らしさを伴ったもので,確かに男臭い雑誌に載っていても違和感はないレベルである。しかし,単行本3冊になる作品を描き続けられたのは,絵柄だけではない,ストーリーの持つ魅力があったからこそなのであろう。そして,その魅力は女性心理描写の巧みさがあったればこそなのであり,今はそれを週漫の読者が支持する時代になったのである。
この作品群は3冊の単行本にまとめられているが,1巻よりは2巻,2巻よりは3巻に感心させられるストーリーが増えている。女性心理描写が巧みなのは全てに共通しているのだが,その上に構成させるシチュエーションが段々凝ってくるのである。
ワシが一番感心したのは,3巻巻頭の第21話「言えなかった言葉」である。これは電車の中で痴漢行為を働いてしまった男が主人公で,その男が好きになった相手が実は痴漢の相手だった・・・というものである。男にとって一方的に都合のいいエロマンガばかり読んでいる輩には少し苦いものを残すかもしれないが,それ故に,ワシはマジにこの作品,道徳教材として使えるのではないかと思っている。純粋エロを求めて買ったワシにとっては意外だったが,マンガとして楽しめたのに味を占め,この漫画家の作品を全部買ってしまったのは当然の成り行きと言えよう。
雅亜公の最新作「ラビリンス Vol.1」は,「シークレット・ラブ」の一短編を拡大したような不倫ものの長編であるが,ベタなタイトルが相変わらずなのはいいとして,今のところは間延びした作品という印象が強く,切れ味という点では短編の方がお勧めである。まだ始まったばかりなので,これについては今後に期待することにして,今は在庫がある「シークレット・ラブ」3冊で楽しむことをお勧めしたい。
福満しげゆき「僕の小規模な生活 1巻」講談社
[ Amazon ] ISBN 978-4-06-375417-9, \743
ガロの流れをくむ異端マンガ雑誌・アックスに掲載されていた福満のマンガを最初に知ったのは,多分,フリースタイル Vol.3掲載のいしかわじゅん×南信長対談だったと思う。その後,吾妻ひでおの日記でも好意的に取り上げられていたのを読んで興味を持ち,そろそろ購入すべきか,と考えていた矢先に出たのが本書である。しかもメジャー出版社。でも装丁はまるっきり青林工藝舎。普通のA5サイズコミックスに比べて価格も高めだし,つまりは,そーゆースタイルで売り出した方が得策だと講談社サイドは考えたということらしい。うーん,最近は小学館でもIKKIなんてマンガ雑誌が出るぐらいだし,飽和したマンガ市場で利益を上げるにはニッチなマーケットも確保しておかねば,と,大手出版も考えを変えたってことなんだろうか。この辺の動向はぜひ中野晴行さんに分析していただきたいところである。
そのニッチなマーケットにあって,それなりに利益が上がりそうだ,と目をつけられたのが福満しげゆきという存在だった,と勝手に断定することにして,さてこのマンガのどこが良かったのか? そこんところをつらつらと自分勝手に考えることにする。
2007年12月現在,福満のマンガはWeb上でも読むことが出来る。本書でも語られているが,ご本人のWebサイトも存在している(奥さんが作ってくれたものらしい)。福満を知らない方は,まずそれをご覧頂きたい。
読んだ? では,話を続けよう。
本書は青林工藝舎「僕の小規模な失敗」の続編・・・というか,現在進行形でこの日本の首都・東京に住む福満自身とその奥さんを中心とした生活を語る,エッセイマンガの体裁を取っている。いつも目の下にクマをはやし,自意識過剰気味な性格がもたらす額の脂汗を流しつつ,少し猫背気味の姿勢で漫画を書き,妻との間合いを取りながら時にはバイト生活を送っていた福満自身が主人公だ。が,双葉社と講談社から同時に連載の依頼を受け,メジャーの道を走り出したところが本書の後半で描かれているので,そろそろマンガだけで食える状況になってきたようである。なんか,水木しげるの自伝を読んでいるような気分になってくる。ガロ→講談社(少年マガジン)というルートを辿った水木と,アックス→講談社(モーニング)&双葉社(アクション)というルートを確保した福満,将来が楽しみである。
それはともかく,本書はエッセイマンガの形態を取っているし,福満自身もここで描かれているような惨めったらしい存在だと認識しているのだろうけど,それを額面通りに受け取るのは果たしてどうか,という気がする。実際,いしかわ×南対談においても
いしかわ「(略)とにかくこの粘着質はすごい。手紙を書きまくって,携帯書きまくって,通話料金が十二万だっけ。(笑)」
南「毎日手紙書きまくったあげく,「お願いだから控えてください」って言われる。敵に回したくないタイプです(笑)。でもこのひとはものすごく極端だけど,ある部分はわかるなぁ,というところがありますよね。十七,八歳で将来に不安を持つというのは誰にでもあることだし,もっとダメな人って世の中にいっぱいいる。無気力でダラダラしててなにもやらない人とか。それに比べたらこの主人公はものすごくアクティブ。マンガを書くこともそうなんですけど,向上心がある。」
いしかわ「前向きだよね。でも暗〜い前向き。粘着質で暗い前向きなんだよ(笑)。」
・・・と指摘されている通り,実はこの福満という男,サイバラや得能史子と共通するまっとうな夫婦生活を送るための常識,相当の根性,プロ的視点,の持ち主とお見受けする。
まず,マンガだけで食えない状況にあっても,きちんと結婚している,ということが挙げられる。この時点で萌える中年ひとりものとしてはジェラ心に火が付いてしまうのだが,それはこの際置いておくことにしよう(でないと話が進まない)。まあ,結婚までの経緯は色々あったとしても,本書で描かれている夫婦生活は相当まっとうなものである。稼ぎのない時は奥さんが働いて食い扶持を確保し,そろそろダンナにメジャーからお声が掛かるようになった頃を見計らったように奥さんは専業主婦化していく。働いている間はダンナを穀潰しとして叱咤し(激励の意味もあろう),福満もぶつぶつ言いつつもそれなりにバイトに精を出す。ビンボー夫婦生活を描いたエッセイマンガは,例えばここでも取り上げた「まんねん貧乏」「同2」があるが,稼ぎの範囲で生活をする,稼ぎに不足があれば自分が動く,という原則に忠実なところは福満も得能も共通している。高々数万程度の急な出費を補う貯金も出来ずにサラ金に走るバカどもは,福満や得能の爪の垢でも煎じて飲むがいい。ついでにサイバラから罵倒されてみろ,と言いたくなる。その意味で,福満の夫婦生活は理想的なあり方と言える。
次にいしかわ×南対談で挙げられていた「根性」についてだが,当然,メジャーからお呼びが掛かるまで地道にマンガを書き続けたことを挙げなければならない。その前に,原稿料が出ないアックス(やっぱり本当だったのか・・・)に「普通に読める」マンガを描き,単行本まで出していた,というステップを踏んでいたことがジャンプのきっかけとなったことは疑いない。それにしても,この陰気を地でいくようなねちっこい画風で,自意識過剰としか言いようのない鬱々した世界を書き続けたことは相当な根性とお見受けする。本書ではミュージシャンを目指しながらライブの一つもしようとしない知人を尻目に,福満自身が見事バンドを組んでライブを敢行してしまうエピソードも描かれているが,これも根性の証左である。そして,自分でどれほど意識しているのかは不明だが,ちゃんとメジャーどこからの要求に応えて何度もネームを書き直し,画風も段々軽やかになっていくのはたいしたものだと思う。それでいて奥さんは可愛く描いているし,エロいし(ああっ,太もも太もも!),ワシみたいなメジャーどころしか読まない普通の読者のツボも刺激してくれる。それもこれも根性の賜物,と言うほかないのである。
そして最後は,福満のプロ的視点だ。客観性,といった方がいいかな。自分が他人からどう見られているか,その上で,自分はどう行動すべきか,という悩み,それ自体が本書が一番エンターテインメントしているところなのだが,答えの出ないこの問題を,福満はねちっこく根性で乗り切ると同時に,相当考えた上で行動しているのである。そしてそれを本作に描くことで読者を喜ばせることができる,ということも福満はちゃんと意識しているはずである。自分の自意識が過剰であり,しかしそれこそが自分の持つ一番の「ウリ」であり,それを丁寧な絵と端正なコマ割に載せることで,読者を満足させることが出来るという確信が,福満にはある筈なのだ。そこにワシはプロ的視点,客観性を感じてしまうのである。笑われることは恥と考えるだけではなく,むしろそれを利用して,「どう笑われているのか」と意識し分析することで表現のステージを駆け上ることができる,ということを,福満は都営団地の一室でペンを走らせつつ確信しているのである。
本書を単なる「ダメ人間」のエッセイマンガ,として楽しむことは可能であるし,世間ではむしろそちらが多数派なのかもしれない。しかし,ワシにはとてもそうは思えない。少数派かもしれないが,福満に嵌る読者のある一群は,間違いなく「共感」しているのだ。共感する読者は,「ああ,ここにも同じ自意識に悩む人間がいる」と安心する。しかし,その上には福満がしっかりと監視の目を光らせ,「・・・よし(ニヤリ)」とほくそ笑んでいるのである。
恐るべし福満。メジャー二社を巻き込んで取り合いになる騒動を,悩みつつもネタにするねちっこい政治力とプロ意識,大いに見習うべきである。
水月昭道「高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院」光文社新書
[ Amazon ] ISBN 978-4-334-03423-8, ¥700
ちょっと前,「博士が100にんいるむら」というWebページが話題になった。ベストセラーになった本のよくあるパロディかと思って読み進んでいくと,ラストに衝撃的なオチがあるというものである。元ネタはこれであるらしい。
ポスドク(博士号取得済みの学生さん)の就職難という話は昔からある程度あったようで,人文系では40過ぎにようやく大学の常勤職に就けたというのがざらであり,理工系でも博士号取得後,ストレートに助手(助教)に就任,というケースはそれほど多くなかった。
しかし1990年代に入ってからの大学院強化という文科省の方針の下,全国の国公立大学だけでなく,弱小私立大学まで揃って大学院収容人数の増員が図られて以来,博士号保持者は増える一方,しかしそれに比して就職先は増えないどころか少子高齢化時代に入ってますます減る一方,という状況で,無職の博士は「無駄飯食い」というレッテルを張られ,ノラ博士とまで揶揄されるようになってしまったのである。本書はそのような「ノラ博士の就職問題」の背景を解説し,就職先のない状況にある博士達の生の声を集め,もっと広い視野を持って博士号保持者が現実社会に立ち向かうことを提案している。自身もノラ博士の一人である著者であるが,時々混じる「世間・文科省・現在常勤職にありながらもロクに論文を生産しない研究者への恨み節」を除けば,概ね冷静かつ分かりやすい文章を綴っており,「何で博士なのに就職出来ないの?」と疑問を持つ方々にとってはぴったりの解説書になると思われる。
・・・というのが本書に対する模範解答的な書評ということになるんだろうが,うーん・・・率直に言って本書に登場する博士の方々は,世間知らずに過ぎるのではないかと思えて仕方がないのである。まあ,様々な事情があって職がない,という状態になってしまったことは理解するのだが,「こんなに長い間勉強して論文を書いたのに」という恨み言をストレートに受け取ってくれる程,ワシも世間もお人好しではないのである。もちろん,「お前みたいな三流大学出のろくすっぽ業績がない輩が常勤職を持っているから,もっと優秀な奴が被害を被り,日本の研究者のレベルを下げているんだ!」という批判については首肯するが,だからといって「じゃあワシの席を譲ります」とポストを明け渡す気は全くないのである。何故なら,今の職場や日本の研究会でワシはそれなりのポジションを保持しているからであり,それが出来る人はそう沢山はいない,ということをワシは確信しているからである。
本書を読んだ方が誤解するとまずいのだが,前述したように,博士号取得→大学常勤職というルートが全員に保証されるという「常識」はなかったのである。大体,今程ノラ博士問題が深刻化していなかった1990年代半ばですら,ワシの師匠は「大学にポストを得るなんて,運が良くなきゃ無理よ」とハッキリ言っていたし,職を持つ社会人として博士課程に入学する際にも「仕事を持ったままの方がいいよ」というアドバイスは随所で受けた。少なくともワシが知る範囲で,「博士を取れば大学に残れるよ」と言われたという人を見たことがない。そういう別格扱いの人も僅かながらいるようであるが,それは才能が抜群という人に限られているように,ワシには思える。著者のいる社会科学系の世界ではどうだか知らないが,ワシのいる応用数学や情報科学・工学分野では,社会情勢や求められる専門性に相当左右されてポストが決まる世界なので,「職がない=才能がない」という公式は成り立たないのである。努力さえすれば大学にポストを得られると教授にそそのかされたという博士も本書には登場するが,自分がそれほどの才能の持ち主だと自負しているのであれば,もっと世間の風に当たって出身大学外へ出ることも視野に入れるべきではなかったのか? それが出来なかったという時点で,「甘いんとちゃう?」と思われるのは当然であろう。
ま,水月は,大学淘汰・倒産という時代に突入すれば,現在職を得ているワシら専任教員もいずれもっと転職の難しい「元大学教員」というノラ人間に成り果てると予想しているが,それについてはワシも同意する。だから,現在職のないノラ博士以上に悲惨な末路を辿る可能性も高い訳だ,ワシらは。そう言う意味でも,もっと若いノラ博士に同情する必要はまるでないし,むしろ同情して欲しいのはこっちだ!と言いたくなろうというものである。
は,甘い? そう,確かに甘いのだろう。しかしそれは博士号さえ取れれば専任教員への道が自然と付いてくる,と考えたどこぞのノラ博士と同等の甘さである。してみれば,世間知らずの甘ちゃんというのはお互い様,ということなのである。
つまりは,「センセー達も,その予備軍達も,もっと世間の風に当たりましょう」という教訓が得られる,というのが本書の一番の存在価値なのだ。大学教員の世界に縁のない方々におかれては,「へへっ,笑わせるね」と鼻を鳴らして頂くぐらいが一番真っ当な感想であり,いわゆる高学歴の集う世界が「お勉強ばっかりしている割には社会を知らないバカが多い」ということを理解するためにも格好の入門書であることは,バカ教員の一人として保証する次第である。
S.P. ネルセット/G. ヴァンナー/E. ハイラー・著,三井斌友・監訳,「常微分方程式の数値解法I 基礎編」シュプリンガー・ジャパン
[ Amazon, Springer ] ISBN 978-4-431-10002-7. \6500
大雑把なところは速報編に書いたので,もう少し詳しいことをこちらの方でお知らせする。ただし,何分ワシ自身が翻訳者の一人なので,内輪褒めっぽい内容になるのは致し方ないことである。その分割り引いて読んで頂ければ幸いである。
本書は「Solving Ordinary Differential Equations I」の日本語訳である。原著のタイトルをそのまま翻訳すると「常微分方程式を解く」あるいは「常微分方程式の解法」となるが,第一章を除いては全て常微分方程式の離散解法についての詳細な解説なので,訳者間の意見を総合した結果,「数値解法」を冠した本書のタイトルに落ち着いたという次第である。
藤原正彦と言えば今や保守派のベストセラー作家として知られる存在となってしまったが,本職は純粋数学者で,自身では二流どころの学者と言っているが,かなりの国際派数学者と見ていい。その藤原は,主に数学者の世界について,「一流どころの学者が,二流の学者の書いた論文を全て読みこなして咀嚼しまとめ上げて,グループ全体の面倒を見ている」というような(手元に本がないのでワシのうろ覚えの要約であることをお断りしておく)ことを書いている。しかしこれは「論文はふつー英語で書くでしょ?」という学界では共通の傾向であり,ワシが属している(たぶん)数値解析・数値計算の世界でも事情は変わらない。一流どころのパワーあふれる一握りの研究者が,英語で記述された論文を常にWatchし,片っ端からその業績を自家薬籠中のものにしていくと共に,自身でもバリバリと理論を構築し,コードを書き,数値実験を行って論文を湯水の如き勢いで生産していくのである。
本書は常微分方程式の数値解法の分野では,一流どころの3人が集結して執筆した,帯の文句にある通り(背表紙),まさに「百科事典」的な内容の専門書である。本書と同様のタイトルの本は何冊か出版されており,日本でも監訳者が書いたものが入門書としては存在するが,それらがほぼ例外なく引用しているのが本書なのである。他人の論文からの引用はもちろん,著者らが直接関わった論文の内容もドカドカと隙間なく盛り込まれているので,1980年代までの文献調査はまず本書と本書の巻末に掲載された文献リスト(日本語ひらがな読みによるソート済み!)に当たった方が楽だろうというぐらいだ。それだけ体力も能力も備わったお三方,特にハイラーとヴァンナーの力量の凄さが示されているのが本書なのである。
理工系の教養・専門課程では今でもプログラミング実習も兼ねて数値解析・数値計算の講義がなされているが,そこでは大体最後辺りで常微分方程式の数値解法について触れられることになっている。Euler法,Runge-Kutta法,多段階法辺りが定番であろうが,もう少し凝り性の教師であれば,補外法についても触れるかもしれない。
本書ではそれらについて,「完璧な理論体系」だけではなく,それらを実際の問題に適用して得た計算時間vs.誤差のグラフ,実装に当たって考え得る工夫の数々も網羅的に記述してある。
例えば,Runge-Kutta法だと,これが陰的解法となれば,積分区間を離散的に区切った小区間を一つ一つ進むごとに非線型方程式を解く必要が出てくる。これをそのままNewton法で実行したのでは計算時間がかかってしまう。そこで,必要な時にのみJacobi行列の計算を行い,不必要な時には準Newton法を適用するという工夫を,普通の研究者なら当然思いつくだろう。
本書では更に,そのNewton反復計算そのものを軽くするための工夫についても述べている。具体的に言えば,Jacobi行列をHessenberg行列に変換し,ゼロ成分を構造的に増やして計算量を減らすのである。こう述べれば「ワシにもできるわい」という人も多かろうが,実際に適用する際には,Newton法・準Newton法のJacobi行列計算のタイミングに合わせて行わねばならず,実際に計算時間を減らすことができるレベルのコードを書くためには相当の数学的かつプログラミング的センスが必要となるのである。まあ,簡単だと思う向きは実際にやってみると良い。どんだけ大変な作業か,よーく分かると思うから。・・・つーか,ここに書いたワシの解説の本質がちゃんと伝わっていれば,の話なのだが。
この一例でも分かる通り,原著者には理論を構築するだけではなく,実装レベルまで見通したセンスと,実装そのものもやり遂げるだけの「力業」が備わっているのである。この凄さが日本の読者に伝われば,ワシら翻訳者冥利に尽きるというものである。
ちなみに,本書の解説に使用されたコードは原著者らのWebページ(主としてハイラーの方)で公開されているが,現在はTest Setを集めたWebサービスが本格的に展開されているので,そちらにあるものを使うのがいいだろう。本書ではこのTest Setについての記述がなかったので,ここで補足しておく次第である。
・・・とまぁ,本書の内容については賞賛の一言に尽きるのだが,実際に翻訳に携わったワシも含む訳者及び監訳者は相当苦労させられた。特に監訳者については,言っちゃ悪いが,「この程度」の翻訳料では相当な赤字だろうと思われる(まだ直接聞いてないけど多分そう)。ほとんどボランティアかと思えるような献身的な努力(原著者とのe-mail及び直接のコンタクト)に加えて,特にワシが担当した第2章の前半部の抜本的な訳文の修正作業や,全世界にまたがる研究者の発音(全部カタカナになっている!)のチェックと訳語の統一作業,フランス語・ドイツ語・英語の引用部分やその真意の注釈など,本文作成に必要な全ての仕事を一人でこなしたのである。一体この仕事量の何処が「監訳」なのか,クビを傾げる程だ。世間一般では「監訳」ってのは,手下に付いた訳者の仕事にけちを付けるか,「良きに計らえ」と言うだけのモンだと思われているし,実際その程度の,いやその程度のこともしない輩ばかりである。しかし,本書に関してはワシが書いた通りの超人的な働きぶりであったことは,ここできちんと書いておこう。
そして,最後にワシの仕事についても触れておこう(の割には長くなった)。ワシの「訳文の」担当は先に書いた通り第2章の前半だが,それ以外に,監訳者が原著者から受け取った原書の元ファイルをLaTeXに「翻訳」する作業も担当したのである。
どういう意味かって? 本書でもちらりと監訳者が書いているが,原著の元ファイル,実は
だったのである。pTeXではない。LaTeXでは当然ない。TeXのprimitive「だけ」で記述されたものだったのである。しかも,一ページごとに「活版」してあるという体裁であり,図版は全て原著者によるPostscriptファイルを「埋め込んだ」ものであり,更にその上にTeXの活字をかぶせてある,というものであった。
どういうことか? つまり,原著のファイルは体裁(改行の指定まで!),図版の位置,ページ番号,文献の引用番号,索引に至るまで全て「手打ち」し,「ここで改ページ!」ってなことまで指定した,完全に1ページごとの「活版」なのである。
と叫びたくなるのは当然であろう。ワシの「LaTeXへの翻訳作業」が,本来の「翻訳作業」とは別に必要不可欠だったのは言うまでもない。
さすがに監訳者も原著者にはLaTeXの使用を勧めたようだが,時既に遅し,という奴で,これだけ膨大な「力業的活版工」のファイルを作ってしまった後では,今更LaTeXにする必要性を感じなかったに違いない。執筆当時はLaTeXがまだ産声を上げた直後だったという事情も考慮する必要がある。しかしふつーは時代の流れに合わせて構造化されたLaTeXに移行していくモンである。それをせず,あくまでPlain TeXに固執して「活版」としてのクオリティを保ち続けた原著者の頑固職人的力量も感じさせるファイルであったことは,ワシが保証する次第である。
つーことで,ワシもまたかなりの無茶な作業で,pLaTeXでエラーが出ない程度のファイルを全章分作成し,必要最小限のマクロを組んで,担当する訳者にファイルと図版を配布して,「以降の作業は全部担当訳者が頑張って下さい!」と,甚だ無責任な仕事をムリヤリ終えたのである。ワシの無責任仕事に付き合わされた(第2巻分のファイル作成)豊田高専にいらっしゃる江崎先生には,深くお詫びする次第である。加えて,中途半端なLaTeXファイルに格闘された他の翻訳者の方々についても,お詫びしなければならない。どーもすいませんでした。
で,本書については,多分,製版業者の方の仕事だと思うが,本文の組み方についてはかなりの改善がなされていて感心させられた。・・・が,ワシの無責任仕事の一部がやっぱり残っている箇所があり,そこを見つけるたびにワシは「アチャー」と苦虫を潰す仕儀となってしまった。まあ言わなきゃ気が付かないかな,という程度ではあるのだが,やっぱり忸怩たる思いは残る。といっても,あの当時の力量ではまあ仕方がなかったかな,と開き直る気分も,多少は・・・ある。でもまぁミスはミス,もし,それらしき箇所を見つけた方は「幸谷の無責任仕事がここにも!」とお怒り頂いてご勘弁をお願いしたいのであります。だってできちゃったもんは仕方ないじゃん。ぶー。
ともあれ,TeXの製版についてはそこそこの出来ではあるものの,内容については折り紙付きである。常微分方程式を使ってシミュレーションをしようという方には,TeX Bookのような座右の書として(褒めてないかな?この言い方)入手されておいても損はない。何せ,原著よりも格安なんだから,買わない手はない。万単位で売れるような,そんな子供だましの数学入門書などではないから,今買っておかないと,あっという間に絶版であろう。第2巻の翻訳は来年早々には出るはずだが,見つけたら2冊揃えて即買い! ですぜ,ダンナ。
[速報] S.P. ネルセット/G. ヴァンナー/E. ハイラー「常微分方程式の数値解法I 基礎編」シュプリンガー東京
[Springer ]
や〜,ぷちめれ始めて・・・何年だ? 今回初めてワシが関わった本をご紹介することになるのだが,何かキンチョーするね。とりあえず,思いついたことをボチボチつづっていくことにしよう。しかし,ん〜,まだAmazonでは扱っていないようなので,出版元のページにのみリンクを張っておくことにする。実は現物もまだ届いていないので,写真は届き次第掲載します。
つーことでようやく出ました! 6500円! 高い? バカモン! 原書はコレだ↓ 値段をよく見ろ!!
不思議だ,何故原書が18000円もするのに,手間をかけた翻訳の方が6500円で出てしまうのか,ワシはこの経済の不思議に首をかしげるばかりだ。
それはともかく,値段だけでも超お買い得であることがお分かりかと思うが,他にもいいことがある。
1.世界広しといえども,本書(と原書)ほど,常微分方程式の数値解法について網羅的に,しかも「数値解法の」理論をがっちり書いたものはない。TeX使いは読まずともTeX Bookを手元に置くように,常微分方程式を数値的に解くことを仕事とする人間も本書を同様に揃えておくべきものなのである・・・って偉そうだが,役に立つことは保証いたします,ええ。
2.KOUYAのような輩を引っ張り込んで翻訳なんてさせて大丈夫か?・・・といぶかる向きも多かろうが,いいやご心配には及ばない。監訳者がほぼ全部手を入れて徹底した書き直しを行っているのである。これはもう「監訳者」の仕事とは思えないが,それ故に,本書は三井斌友「訳」と言うべきものになっているのである。安心して購入されたい。
3.この基礎編に続いて,「硬い方程式」向きの解法を解説した続刊が近々(たぶん)出るはずである。それを読むためには,まず本書に目を通す必要が絶対にある。もし本書で挫折したら?・・・いやいやいやいやご心配には及ばない。その時には続刊の方を買わなければいいだけの話だ。本書で挫折した人間が続刊を読めるはずがないのである(ヒドイ)。その意味では,無駄な出費を避ける為にも有用な本と言えよう。
つーことで,ワシの予想ではあっという間に絶版になるであろうこと確実なレアアイテムである。出たら即買い! でないと後で公開すること間違いなし! 買え! 買っておくのだ〜!
つーことで,Amazonの方に出たらこのblogにもBannerを張っておくことにしよーっと。