[Springer ]
や〜,ぷちめれ始めて・・・何年だ? 今回初めてワシが関わった本をご紹介することになるのだが,何かキンチョーするね。とりあえず,思いついたことをボチボチつづっていくことにしよう。しかし,ん〜,まだAmazonでは扱っていないようなので,出版元のページにのみリンクを張っておくことにする。実は現物もまだ届いていないので,写真は届き次第掲載します。
つーことでようやく出ました! 6500円! 高い? バカモン! 原書はコレだ↓ 値段をよく見ろ!!
不思議だ,何故原書が18000円もするのに,手間をかけた翻訳の方が6500円で出てしまうのか,ワシはこの経済の不思議に首をかしげるばかりだ。
それはともかく,値段だけでも超お買い得であることがお分かりかと思うが,他にもいいことがある。
1.世界広しといえども,本書(と原書)ほど,常微分方程式の数値解法について網羅的に,しかも「数値解法の」理論をがっちり書いたものはない。TeX使いは読まずともTeX Bookを手元に置くように,常微分方程式を数値的に解くことを仕事とする人間も本書を同様に揃えておくべきものなのである・・・って偉そうだが,役に立つことは保証いたします,ええ。
2.KOUYAのような輩を引っ張り込んで翻訳なんてさせて大丈夫か?・・・といぶかる向きも多かろうが,いいやご心配には及ばない。監訳者がほぼ全部手を入れて徹底した書き直しを行っているのである。これはもう「監訳者」の仕事とは思えないが,それ故に,本書は三井斌友「訳」と言うべきものになっているのである。安心して購入されたい。
3.この基礎編に続いて,「硬い方程式」向きの解法を解説した続刊が近々(たぶん)出るはずである。それを読むためには,まず本書に目を通す必要が絶対にある。もし本書で挫折したら?・・・いやいやいやいやご心配には及ばない。その時には続刊の方を買わなければいいだけの話だ。本書で挫折した人間が続刊を読めるはずがないのである(ヒドイ)。その意味では,無駄な出費を避ける為にも有用な本と言えよう。
つーことで,ワシの予想ではあっという間に絶版になるであろうこと確実なレアアイテムである。出たら即買い! でないと後で公開すること間違いなし! 買え! 買っておくのだ〜!
つーことで,Amazonの方に出たらこのblogにもBannerを張っておくことにしよーっと。
J.-M. Muller, “Elementary Functions — Algorithms and Implementation –” 2nd ed., Birkhauser
t[ Amazon ] ISBN 978-0-8176-4372-0, ¥7930
(向かって左の紺の表紙が第二版,隣の緑の表紙が第一版)
以前,初等関数の近似多項式についての論文を査読した時,著者の方に基礎文献として紹介したのが本書である。以来,折に触れて本書の第一版(緑の表紙)をつらつら眺めていたのだが,昨年,少し書き足しを施した第二版が出たので,この際,第一版の前書きの日本語訳をここに載せて,本書の紹介と代えることにした。類書は幾つか出ているし,日本でも浜田のものがあるが,最新の情報を網羅したものとしてはこれに勝るものはない。
つーことで,
と言っておこう。専門書だから10万部も売れる本には絶対になり得ないが,一万部程度は堅いんじゃないか(と言っておくテスト)。半年あれば下訳は完成させ,一年あればチェックも含めて完璧なものをお出し出来ると思いますぜ,旦那。
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基本関数([訳注] “Elementary Functions”は「初等関数」と訳すのが普通だが,「簡単な」という意味と解釈される恐れがあるので,本書では「基本関数」と訳すことにした。)(三角関数,指数関数,対数関数等々・・・)は,数学において頻繁に使用される関数群であり,これらを正確かつ高速に計算することは,コンピュータ計算研究において,一つの主要な目標となっている。本書の目的はこれらの基本関数の計算と(ソフトウェア及びハードウェア指向の)アルゴリズムの理解に必要となる理論的背景を解説するとともに,正確な浮動小数点数を得るための関連知識も述べることであり,特定の関数や浮動小数点演算システムにしか適用出来ない「料理レシピ」を与えることではない。あくまで,読者のあなた方が,自分の計算機システムにアルゴリズムを実装し適応させることが出来るような知識を与えようとしているのである。
本書を執筆するに際して,私は二種類の読者を想定した。一人は,これから(ソフトウェアもしくはハードウェアのパーツとして)浮動小数点演算システムを作ろうとしている,あるいはそのアルゴリズムを研究しようとしている専門家(specialists)である。もう一人は,現在のコンピュータや電卓の内部において,基本関数の計算にはどのような手法が使用されているのかを知りたいと思っている趣味人(inquiring minds)である。従って,コンピュータ科学や応用数学を専攻する上級学部生・大学院生のみならず,浮動小数点演算システムを実装するためのアルゴリズム,プログラム,ハードウェア回路を設計する専門家にも,自分たちの関連分野に役立てようとしているエンジニアや自然科学研究者にも,本書は等しく役立つものとなっている。本書の内容は,コンピュータ科学や数学の基礎知識があれば大概理解出来るものであるが,そこで必要となるコンピュータ演算の基本記号については第一章に目を通して思い出して頂きたい。
本書にどのような内容が記述されているかはこの第一章に書いてある。基本記号について記述されたこの章の以降の内容は。大きく三つに分類される。第一部は2章で構成されており,基本関数を多項式や有理(多項式)関数で近似するアルゴリズムを記述してるが,可能な限り,数表も掲載してある。第二部は3章で構成されており,「シフト加算(shift-and-add)」アルゴリズム,すなわち,シフト(shift)と加算だけから構成される,ハードウェア指向のアルゴリズムを解説している。最後の第三部は3章から構成されており,精度が重要視される際には有用な事柄について議論している。
本書と同じ基本関数を扱った過去の労作(Hartらの
Computer Approximation”,Cody \& Waiteの
Software Manual for Elementary Functions”など)には,多項式近似式や有理関数近似式の係数表が沢山掲載されているが,本書にはあまり載せていない。それは本の分量を減らすためであるが(シフト加算アルゴリズムを掲載しようとしたせいでもある),今ではこれらの係数の計算はMapleなどの数式処理システムを使って簡単に計算出来るようになっているからでもある。私の一番の目的は,基本関数がどのように計算され,どのように使うことが出来るのかを説明することなのだ。更に言えば,前述の歴史的労作は,ソフトウェアで実装することに焦点を当てた物であるが,今では基本関数の計算の多くは(少なくみても部分的には)ハードウェアに実装されるようになっており,この労作で述べられている物とは異なるアルゴリズム(CORDICに代表される,区間数表ベースのもの,シフト加算を用いているもの)が使われているのである。私はこういった幅広い手法の解説をしたいと念願していたのだ。また,数年前までは1, 2bitの誤差があってもさして問題視されていなかったが,今ではもっと高精度なものでなくてはならない事態となっている。精緻に丸められた(exactly rounded)関数値を与えること,即ち,常に真の関数値に最も近い浮動小数点数(machine number)を返す機能(少なくともある変数領域,ある関数については)が求められるようになっているのである。これについては単精度計算において達成している実装系が存在している。私はもっと高精度でもexactly roundedな関数値を得ることが出来るということを本書で言いたいのである。なお,参考文献で提示したBiBTeX データベース,本書で提示したMapleプログラム,正誤表については本書のWebページから取得することができるようにしてある。
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つーことで,いい本なので推薦しておく次第である。
奥森すがり「ねこ鍋 みちのく猫ものがたり」二見書房
[ Amazon ] ISBN 978-4-576007206-7, ¥1200
ねこ鍋と言えば,今や猫好き女性の間では知らぬ者なしの無敵ベストセラー写真集である。元を辿れば岩手で農家を営む奥本すがり(HN: エレファント)さんがニコニコ動画へ動画を投稿し,そこから火が付いたものであるらしい。公式(?)本は既に講談社から写真集として出版されているが,本書はその火付け役の動画投稿人による元祖・ねこ鍋オリジナルエッセイ+写真集である。こちらが「元祖・ねこ鍋」とすれば,講談社本はさしずめ「本家・ねこ鍋」ということになろうか。どちらにしろ,小さな土鍋にまん丸く収まった三毛猫達は間違いなく「めんこい」ことに代わりはないので,純粋に猫だけを楽しみたければ本家を,「何故ねこ鍋なるものが出現したのか」というルーツを探りたい向きには元祖である本書を選ぶのがよろしかろう。とかくうるさがたの方々はオリジナルを尊ぶ向きが強いのだが,これだけ出版点数が増えた昨今,一つの事象を様々な方向から眺めたというだけの類書が存在することは自然なことで,その類書の中から読者一人一人に好まれるものが選択される,ということは別段悪いことではないと思うのである。その意味では,元祖と本家のみならず,もっと沢山の便乗本が出てもいいように感じるのである。出でよ,○○ねこ鍋本!今年のコミケのペットジャンルの一角を占めたって構わないぞ!(もう当選通知が届いているから手遅れか?)
著者のエッセイによれば,岩手の(写真を見る限り)古い家屋に元々いた2匹の雌猫に,近所の川に捨てられていた4匹の子猫が加わったのが今年(2007年)の6月のこと。この6匹の猫が,鉢代わりに使っていた古い土鍋に入り込み,丸くなって眠ってしまったことで「ねこ鍋」が誕生したとのことである。それを見た著者はその「めんこさ」に打たれ,写真や動画をニコニコ動画にアップ,それからねこ鍋ブームが数ヶ月で訪れることになった。
ここ20年程で,ペットを猫かわいがり(猫相手だから当然ではあるが)する様を描いた,いわゆる「親バカ」エッセイや漫画が多数登場し,読者を獲得して定着するようになった。ねこ鍋写真もそのようなものを受け入れる読者層があったからこそ,数ヶ月という短期間で出版までこぎ着けたのであろう。
バカの力がヒットを生み出す,というのは,養老孟司じゃないけれど,いつの世にも普遍的なことなのだ・・・が,ま,一読者としては「うわ〜めんこ〜い」とねこ鍋写真にノックアウトされるとともに,著者ご一家のまったりした岩手弁の会話を堪能させて頂いたので,もう何も言うことはない。ヒット作なんてヘッ,と普段は高飛車なワシだが,たまにはいいものにもぶち当たるのだな,と反省させられました。もう少しメジャーな作品も読まないといけませんね。
小谷野敦「リチャード三世は悪人か」NTT出版
[ Amazon ] ISBN 978-4-4167-4, ¥1600
日記にも書いたが,「日本の有名一族」「日本売春史」「リチャード三世は悪人か」と,今年の秋は小谷野敦出版ラッシュである。まあ本人は「内田樹ジュ程ではない」と言うかもしれない。しかし,内田先生の方は対談本・エッセイ・講義録が殆どであるから,呼吸するようにblogを書き続け,講義をこなし,気の合う相手と喋っていれば,優秀な編集者の助力の元,次々と本が出るのも不思議ではない。それに対して小谷野先生の本は,資料を自力で集めて読み込んで分析してまとめる,というものであるから,手数が掛かっているという点では内田先生の比ではないだろう。ワシは両先生の書いたもののファンであるが,内田先生はタレント性で売っているのに対し,小谷野先生は,学術論文を執筆するという古典的な意味での学者としての態度を捨てていない,という違いがあり,その両方に魅了を感じているのだが,ワシも一応学者の端くれのつもりでいるので,その職業意識としては,この出版ラッシュの勝負,小谷野敦に軍配を上げたいのである。
で早速この3冊のぷちめれを,と思ったのだが,正直言って「有名一族」の方はWebにも類似のものがあり,感心しなかったのでパス,「売春史」は年末のエロ特集に取っておく必要があるので先送り。従って,今回は残った一冊,「リチャード三世は悪人か」を取り上げることにする。
ワシがシェークスピアの戯曲「リチャード三世」を初めて見たのは,仲代達矢率いる「無名塾」の公演である。確か,仲代の妻・隆巴(宮崎恭子)が逝去する前の・・・とパンフレットを確認したら違った。追悼公演でした↓。
この公演の演出をしている途中で宮崎は亡くなったらしい。しかし作品の方は,悪逆非道なリチャード三世に臆病さと悲哀を盛り込んだ仲代の演技力と,宮崎の分かりやすい演出によって,演劇素人のワシでも楽しく観劇できるものであった。
で,このパンフレットには,小谷野も参照している森護「英国王室史話」からの文章が掲載されている。それによると,リチャード三世は取り立てて容貌が悪かった訳でもなく,悪逆という評判は,プランタジネット王朝最後の王を打ち倒してテューダー王朝を創始したヘンリー七世の意向によって定着した,と述べている。まあ,ドラマはドラマ,事実はそんなモンだろうとワシは納得していた。
しかし,リチャード三世についての論争はイギリスにおいて延々と続き,20世紀に入ってからはミステリーの題材として取り上げられる程だったという。この議論の概略を小谷野は様々な参考文献を渉猟し,引用しながら本書において解説している。ワシはここんとこを読みながら,「邪馬台国論争みたいだな」と思ったものだ。
さて「リチャード三世は悪人だったのか?」という疑問に対する結論は,本書を読んで確認して頂くのが一番だが,「中庸」を重んじる小谷野の導いたそれは,至極穏当なものである。大体,大虐殺とか大圧政を行った場合を除いて,権力者というものは大概似たり寄ったりの悪辣さを持っているものだろう。そもそもその程度の普通の権力者の「善悪」を議論すること自体,無意味なことなのではないかとワシなんかは思う。政治を司る人間に対する評価は,その後の歴史の中で,善悪とは別の結果論としてしか意味を持たないのではないか。
本書ではリチャード三世以外のシェークスピア劇「マクベス」「リア王」「オセロウ」についての論考も納められており,これらは全て「元ネタ」があることを,これもまた文献からの引用を交えて述べられている。まあ学問的には常識に属することなのかもしれないが,文学に暗いワシには感心するところが多かった。
帯にも取り上げられている「シェークスピアさん,盗作です!」という文句は,これらの元ネタの存在を明らかにしている部分のものだが,だからといって,シェークスピアのドラマ作家としての力量が疑われる,ということにはならないだろう。今だって,テレビや映画・演劇には「原作」があるのが普通だし,シェークスピアの時代はそれをクレジットしないのが普通だったというだけのことだ。原作に比して面白くない作品はゴマンと存在する訳だから,今でも盛んに上演されているシェークスピア作品は総じて優れている,ということは疑いないことなのである。そして,優れているからこそ,「リチャード三世」は論争の的となり得たのである,と小谷野は書いている。
そういう意味では,本書の一番の目的は,シェークスピアの偉大さを改めて喧伝するというものだったのかなぁ,と思えてならないのである。
内田樹「村上春樹にご用心」アルテスパブリッシング
[ Amazon ] ISBN 978-4-903951-00-3, ¥1600
日記にも書いたが,ワシは村上春樹とは相性が悪い。おかげでエッセイ一冊,小説一冊,読み通したことがない。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の文庫版を買って読もうとしたが,最初の段落を読んで「こりゃだめだわ」と早々に撤退してしまった。以来,どんなに売れていようと,世評が高かろうと,ワシにとって村上春樹は敬して遠ざける作家であり続けている。
だもんで,本書を買ってしまったのは,純粋に内田樹が書く村上春樹に関する文章が好きだ,という理由によるのであって,決して村上春樹に興味があったからではない。本書に納められている文章の大部分は既に内田のblogで発表されたものであるが,リライトされ,紙に印刷されたものを読むと更に面白さが増しているように思える。やっぱ,ワシは骨の髄から内田ファンになってしまったんだな,きっと。
しかし,最近,村上春樹に関して興味が湧く事件があった。かつて担当編集者だった故・安原顯が村上の直筆原稿を売り飛ばしていた,という事実が発覚したのである。それに対して村上春樹は長文のコメントを雑誌に寄稿している。本書でも内田はこの事件について一文を寄せ,村上のコメントを引用しながら鮮やかにこの事件について解説を行っている。既にblogで読んでいた記事だが,ワシはそれを本書で再読しながら,いちいちごもっともだなぁ,と理性で思いつつも,一方では,「酷薄だな」と感じたものだ。
本書でもう一カ所,内田の「酷薄さ」を感じた所を引用しよう。
しかしご存じのとおり,今や日本を代表する世界的文学者である村上春樹について,わが国の批評家のほとんど全員(およびかなりの数の作家)たちが「毛嫌い」ないし「無関心」を示している。世界的な評価とドメスティックな無関心との対比は誠に興味深い。
これを「売れているから嫉妬している」というふうに下世話に解釈することは(かりにそれがかなりの程度まで事実であったとしても)文学的には生産的ではないだろう。やはり,村上春樹を嫌う人々にはそれなりにやむにやまれぬ文学的事情というものがあるに違いないと考える方がよろしいと私は思う。(P.36)
これを読んだワシは,なんだウチダ先生,ちゃんと村上春樹が世間のジェラ心によって意図的に無視されているってことはご承知なんだ・・・と思ったものだ。しかし,それはそれとして,この文章はさっさとよりグレードの高い問題へ軽やかに移行していくのである。
こういうスマートな思考を持つ人たちをエリートと呼ぶのである。そしてこういう思考をできる人はそれほど多く存在しない。ワシも含めたある種の「しぶとい(友人命名)」バカどもは,「スマートな思考」が優れていることを重々承知しながら,自分が拘る一カ所に拘泥し,そこから足抜けできずに日々悶々としているのである。
そこを軽やかにすり抜けていく人間を見れば,そりゃ,ジェラ心を抱かない方がおかしいだろう。もちろん,ある程度年輪を重ねると,露骨に感情を出すよりは黙っていた方が得策だ,という程度の知恵は付く。しかし・・・それで治まりがつかない人間もやっぱりいる訳で,その一人が安原顯だったんだろうなぁ,とワシは思うのである。そして,ウチダも村上も,エリートの思考を持ってして,図星を付く指摘をしているのだ。
これを「酷薄」と呼ばずにおられようか。
ワシの理性は拍手を送っているのだが,感情は「冷たい・・・」と震え上がっているのである。
本書の担当編集者が,ほぼ日で本書の紹介をしている。そこでは「橋本治以来の知性」という文句を使ってウチダを礼賛している。
ワシもそれは肯定する。その知性は恐ろしく切れ味が深い,という意味でも正しい。しかし,それは小谷野敦や大塚英志にワシが感じる「自分の持つダメさへの諦観と郷愁」という奴とは真逆のベクトルを持つものである。人類全体の進歩には重要なものではあるが,人間個々人の「癒し」とは成り得ないものである。本書で批判されている蓮實重彦の「村上春樹作品は結婚詐欺である」(P.63)や松浦寿輝の「うまいのは確かだが,文学ってそういうものなのか」(P.167)という発言は,多分そのあたりのことを指摘しているのではないか,とワシには思えるのである。
ま,しかし「癒し」でない知性も重要である。その意味でも一度読んでみると,村上春樹以上に内田樹という人の考えがよくわかる本であることは間違いないのである。