えみこ山「懐疑は踊る 3」ディアプラスコミックス

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-66140-8, \580

懐疑は踊る 3
懐疑は踊る 3

posted with 簡単リンクくん at 2007. 2.19
えみこ山
新書館 (2006.5)
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 どうもこの先きちんとしたぷちめれを(「きちんとした」もんあったのかという突っ込みは聞かないぞ)書くのが難しくなりそうな感じなので,この際,お蔵出しを兼ねて,昔から愛読している作家の作品を紹介することにしたい。
 その第一弾としてご紹介するのが,えみこ山である。「えみこさん」ではなく「えみこやま」と発音する。昔風の言い方をすれば,典型的なやおい作家,ということになるのだが,今やBLとか耽美とかモーホー(古いか)という,区分があるんだかないんだかワケワカのジャンルが勃興しているから,もはやかつての「やおい」という単語が持っていた雰囲気を伝えられる時代ではなくなっているのかも知れない。「やおい」で通じるような方々は既にオジサン・オバサンと呼ばれる歳になっている筈だ。
 「やおい」に関しては,例えば三崎さんの記事とか,Comic新現実 Vol.4の佐々木悦子「やおいの起源概論」を参照して頂きたいが,思いっきり簡単かつ乱暴に言うと,「美少年( or 美青年)がいい雰囲気になってあーだこーだする」,主として女性作家によるフィクションであり,1970年代後半から商業作品・同人誌上を席巻,今のBLというジャンルを形成する原動力となった一大ムーブメントでもあった。
 その中で,同人誌から商業誌へとデビューしていくものも多く,メジャーどころとしては坂田靖子から始まってCLAMPまで多数挙げられる。えみこ山も小説担当のくりこ姫と合同でサークル「えみくり」を主催し,かなりの人気サークルになったが,商業誌デビューは1990年代に入ってからと,かなり大器晩成的にデビューした漫画家である。
 ワシとえみこ山の初邂逅はほぼ商業誌デビューの時期と同じである。ただ,初めて手に取ったのは,えみくり発行の同人誌で,くりこ姫の方がメインの旅行記「中国トラベルトラベリング」であった。これはまだ手元にあるので,写真を貼り付けておく。
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 この中にえみこ山もカットや短いエッセイマンガを寄稿している。
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 確か本書は即売会の会場ではなく(壁際サークルで近寄るのも憚られたと記憶する),金沢のブック宮丸で入手した筈である。就職早々,能登半島のど真ん中へ左遷されて腐っていたこともあって,給料はたいて様々な少女漫画を買い漁っていた時期があり,その頃に購入したものと思われる。ワシが持っているのは1992年の奥付がある奴だが,着任したのがちょうどその年であった。
 で,すぐに嵌った,という訳ではない。くりこ姫のエッセイはそれなりに面白かったが,入れ込むほどのこともなく,えみこ山の絵に好感は持ったものの,ストーリー仕立てのきちんとした作品ではなかったため,これも追っかけるほどには至らなかった。ファンになったのは,新書館で単行本が出る前に,アンソロジーとしてまとめられて商業ルートに乗ったものを読んでからだと思う。それでも通販をしてまで手に入れたいという程ではなかったので,しばらくは疎遠になったものの,1996年に新書館から初単行本「抱きしめたい」(現在は品切らしい)が出て,商業単行本のみであるが,追っかけとなったという次第である。
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 以来,ずーっとえみこ山の単行本が出るたびにgetしているのだが,あんまり人に勧める気にはならないのだ。何故かといえば,これはあとり珪子の作品にも共通しているのだが,「ヌルい癒し系」でカテゴライズされそうな感じがしているからである。まあ,えみこ山当人も「男の子同志で悩みもせずにラブラブ」(「ごくふつうの恋」1巻あとがき)する作品だと言っているぐらいだから,そのように一括りにされたとしても怒りはしないと思うが,愛読者からすると,それだけでは済まされない魅力を全く無視した暴論であると言わざるを得ないのである。
 大体,「ヌルい」作品ばかりかというと,そうではないのだ。最近の商業作品にはその傾向が顕著だが,同人誌に載せた作品群には結構感情を揺さぶられるものが見られる。例えば新書館刊行の第二弾作品集「月光オルゴール」に収められた表題作は,ゲイカップルにおける家族愛をテーマとした大河ドラマっぽい作りの大作だし(羅川真里茂の「ニューヨーク・ニューヨーク」より短いけど),続く第三弾の「約束の地」は「泣けるやおいマンガ」の筆頭だと思う。絵の雰囲気が1970年代風の,まだ基礎がしっかりしていない黎明期の少女漫画っぽいものであるので,精密な描写を伴うべき場面はかなり弱いものになってしまうが,物語全体に漂う雰囲気は坂田靖子によく似ていて,「空気」を伝えるには適しているものである。
 たぶん,えみこ山は正統的な少女漫画,それも「やおい」が成立する以前から培われてきた「時代の空気」を会得していて,それが自分の生理とぴったり一致しているが故に,そこから外れるような作品を描くつもりは全くないのだと思う。この頑固さは夢路行にも共通していて,彼女の場合は商業的に干されていた時期においても,同人誌で全く商業作品と変わらぬテイストの作品を描き続けていたぐらいである。同じやおい市場から登場したCLAMPとはその点全く異なっている。これはどっちが良い悪いの問題ではなく,プロとしての資質と姿勢の違いであって,CLAMPのようにふるまえば必ず売れるという保証もないし,えみこ山や夢路行のようにしていればメジャーになれない,という訳でもない。
 ・・・なんだけど,このえみこ山の「成長のなさ」加減は,もう何というか,呆れるという他ない。これは褒め言葉でもあると同時に,もうちっと新機軸を出してくれないかなぁ,という希望でもある。本作は売れない絵描きのチョンガーとその2人の息子たちが主人公の長編「懐疑は踊る」の最終巻であるが,ミステリーの香りを漂わせているにも関わらず,その謎解きの部分がよく分からないまま終わってしまっているのである。その香りは独特の雰囲気にマッチしていていいのだが,描写力(説明力)の欠如がワシのようなオジサンうるさ方には残念に思われるのである。
 長く活躍を続ける作家に対しては,「昔の方が良かった」という意見が必ず出るものである。しかし,「マンネリ」を続けるにはそこに芸がなければならず,商業作品である限り,エンターテインメントとして成立するためには変化をつけ,退屈になってはいけないのだ。えみこ山の場合,その点がちょっと気がかりではあるが,このオールドテイストは日本漫画界の天然記念物として保存しておくべきものであるとも思うのだ。「変わって欲しい」ものと「変わって欲しくない」ものを同時にかなえることの難しさをつくづく思い知らされる,アンビバレンツな感情を引き起こす貴重な作家,それがワシにとってのえみこ山,なのである。

武田徹「NHK問題」ちくま新書

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-06336-6, \740

NHK問題
NHK問題

posted with 簡単リンクくん at 2007. 2.10
武田 徹著
筑摩書房 (2006.12)
通常24時間以内に発送します。

 本書に関してはぷちめれを書くのを当分控えていようと思っていたのだが,著者本人が自身の掲示板で愚痴っていたので,ちょろっとだけ「途中経過」としての感想を述べさせていただく。
 武田が
 「猫の額のような自分の庭の広さに合わせてしか考えを遊ばすことが出来ないせいで、書かれているものとは違うものを読んでしまっているとしたら書き手としてはやはり残念だ。自分の尺に合わせて物事を理解してしまう悲しさはぼくも常に打ちのめされていることではあるけど」
と,blog等でなされている本書の批判に対して述べているけど,ワシも含めたそいつらは基本的には

バカ

なんであって,もう少し説明すると
頭が悪い

つまり
理解力が武田徹に全く追いついていない

だけなんだと思う。実際,ワシが本書に付いてきちんとした意見を開陳できるに至るには,少なくともあと2回ほど,メモを取りつつ通読しないと無理だと感じている。従って,武田はネットなんぞをググるのはやめ,ワシらのようなバカのたわごとに付き合うことなく次回作の準備に勤しむべきである。そしてワシも含めたバカどもは,もう少し勉強してから本書に対して意見を申し述べるべきである。・・・と言いながら書いちゃうんだけど,それは本書に対する意見ではなくて,自分がどのぐらいバカであるか,頭が悪いか,理解力が足りていないか,という自己反省だと思って欲しい。
 本書を読んでいて一貫して気持ち悪さを感じたのは,「公共性」に関する定義が,ワシも含めたバカども分かる形で示されなかったことである。それも第6章「「非国民」のための公共放送」を読んで少しは解消されたものの,比較対象となっているBBCの運営方法等についての予備知識がさっぱりなかったため,武田が理想とする「公共性」の定義を,その具体例や反例も含めて自分なりに整理して把握することができなかったのである。もちろん,参考文献に挙げられている蓑葉信弘の本でも読めば何とかなるんだろうが,イージーに薄い新書でも読んで楽をしようと考えているワシも含めたバカどもにはちと荷が重い。たぶん流動性も込めて,理想とする「公共性」を追い求めるベクトルの方向にそれが見えてくる,という”GNU is Not Unix”みたいな定義なんだろうが,それもかなり怪しい理解の仕方であろう。だから,「武田の言う理想的な「公共性」って何なんだ?」という問題意識を持って,何度か本書にチャレンジしてみる必要があると感じているのである。
 ただ,「NHK問題」というものがかなり根の深い,この「公共性」というものに根ざしたものであり,それ故に議論が錯綜してなんだか訳の分からない方向に流れがちである,というものであることは何となく分かった・・・ような気がする。その問題意識を持たせてくれただけでも,まあ740円の価値はあったかな,と勝手に結論を出しちゃってるんですけど,基本的にバカなんで,このぐらいしか分からなかった,と言うだけのことなんである。営業妨害になりそうな中途半端なものを流しちゃってすいません,武田さん。

NHK「東海村臨界事故」取材班「朽ちていった命 -被爆治療83日間の記録- 」新潮文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-10-129551-4, \438

朽ちていった命
朽ちていった命

posted with 簡単リンクくん at 2006.12.31
NHK「東海村臨界事故」取材班著
新潮社 (2006.10)
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 東海村のJCOで日本初,いや世界でも初めてという臨界事故が1999年9月30日AM10:30に発生した。事件のあらましは,例えばWikipediaの記事を参照されたい。
 事故直後に作業に当たっていた3人が被爆し,そのうちの1人が事故から83日目に,もう1人が211日目に死亡した。本書は,前者の治療描いたNHKのドキュメンタリー番組を作り上げた取材班が著したものである。
 この事故については,ワシが静岡に移った直後に起こった事件だったので,発生直後の報道はよく覚えている。政府も非常事態体制で臨んでいたし,チェレンコフ光を発した沈殿槽の臨界状態を停止させるために,政府から派遣された学者がJCO職員に被爆覚悟の作業を行わせたことも後の報道で知った。この辺りの事情の是非についての詳細は承知していないが,その後,直接この事故の原因となる作業を行っていた3人が治療を受けているということ,そのうち2人が重傷ということを聞いたときには,正直,どう反応して良いのか困惑したものである。本書のP.53の記述を読むまでは,どのようにこの83日後に死亡した方に対して「同情」していいものか,全く分からなかった。
 はっきり言って,この事故は,この3人の作業によって引き起こされたものである。臨界事故が発生しかねない作業を命じたJCOの会社としての責任は当然第一に考えられるべきものだが,この作業がなければ,そしてそれが「臨界」に達することがなければこの事件もなかったのだ。つまりは「加害者イコール被害者」という図式が成立しているのである。この83日後に亡くなった方は「(事故が起きた)転換試験棟での作業は今回が初めてだった。上司の指示に従って作業を進め,臨界に達する可能性については,まったく知らされていなかった」(P.53)ために,このような事態を招いた,ということを読まされていなければ,ワシは本書を読了することは多分,できなかったろう。しかしそれでもワシの胸の内のモヤモヤは解消していないのだ。
 本書の記述の大部分は,この亡くなった方の,まさしくタイトルにある通り,強烈な放射線障害によって「朽ちていく」様と,治療に当たった東大病院の医療チームの苦闘ぶりに割かれている。多細胞生物の生命現象を支える部分が破壊されて,どう移植治療や外国の専門家の助力を仰ごうにも,救いようのない事態が続発して,まことに痛ましく無惨である。それを伝えることが番組と本書の狙いであり,この目的を果たすことが出来ていることは十分認める。
 認めるのだが,その上で,やっぱりワシの頭の中の「割り切れなさ」は残っているのだ。それを解消するには当然,事故調査委員会の報告書を紐解く必要があるのだろうし,いずれは読んでみたいとは思っている。
 しかし,高濃度のウラン化合物を扱っている会社で,しかも臨界事故を起こしかねない作業手順が易々と実行されてしまい,それを「知らなかった」ために従順に会社の指示に従った,という事態はやはり問題である。今更言っても詮無いことだが,この時点で「何かがおかしい」という疑問が作業員に湧いていれば,事故は防げた可能性もあるのだ。放射能に関する知識がもう少し与えられていれば,防げないまでも,異議申し立てぐらいはできた可能性はあるのだ。
 死者を鞭打つような文章になってしまったが,「朽ちていった命」について考えるならば,このような事態を草の根レベルで防ぐための方策,上から与えられるものではなく,自己を守るための知識を広く染み渡らせるための具体的な方法論が議論されなければ意味がない。どうしてもグローバルスタンダードという奴は,「お人好し」を食い物にしてのさばっていく傾向があり,しかも最悪の場合,知識がないばかりに人のいい人間を加害者に仕立ててしまうこともあり得るのだ。この臨界事故はまさにその典型例であり,本書はその「同情を躊躇させる被害者」を描いた,優れたジャーナリズムの力量を見せつけてくれる良書である。

桂米朝「落語と私」文春文庫,他2冊

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-16-741301-9, \429

落語と私
落語と私

posted with 簡単リンクくん at 2006.12.29
桂 米朝著
文芸春秋 (1986.3)
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 本年(2006年)は,昨年のドラマ「タイガー&ドラゴン」による落語人気を引きずって,マスコミは随分と落語ブームを囃し立てていたが,実際は無風状態と言っていいのではないか。一部のマスコミ受けしている噺家は更に人気が高まったようだが,そうではない普通レベルの噺家まで「落語ブーム」とやらの恩恵を受けているとはとても思えない。ブームを当て込んだ出版もちらほら見られたが,爆発的な売れ行き,とまでは行かなくとも,数万~十数万部のセールス記録を残した本が一体どれほど存在していたのか,甚だ心許ないというのが実情ではなかろうか。
 実際,寄席に行ってみると,人気者の番組が組まれていない平常時の固定客の年齢層は高止まりしたままのようだし,つまんないベテランのレベルが上がっている訳でもなく,番組が変わる度に必ず通いたくなる程の面白さはそんなに期待できない。フジテレビ提供のお台場寄席・Podcast版の司会進行を勤めている塚越アナは「寄席は当たりが3割(あれば上等)」と言っていたが,まさしくその通り。今のTVのバラエティ番組のテンションに慣らされている我々にとって,寄席はちょっとおとなし過ぎるのだ。従って,これから先の寄席の入りは元通りの低空飛行を余儀なくされると思われる。
 春風亭小朝「いま,胎動する落語」(ぴあ)は,前著「苦悩する落語」の続編として今年出版されたインタビュー集であるが,落語界の将来が楽観できる状態にはないことを如実に物語っている。詳細は本書に譲るが,媒体に乗って宣伝できる売れっ子に活躍の場を広く与えつつ,若手の有望株をうまくユニット化して舞台に上げること等,つまりは常に新機軸を出し続けていく必要がある,ということを力説している。いまや,芸能界にもしっかりしたポジションを確保した小朝にしか言えない,きついけれども問題点を的確に指摘する説法は,あのまろやかな口調も手伝って非常に説得力がある。
 とはいえ,小朝ですらそれだけの危機感を捨てきれないという現状は,きちんと認識しておく必要があろう。本年は落語協会会長も馬風に代替わりし,そのあたりの事情も述べた自伝「会長への道」(小学館文庫)も出版されたが,この中で会長は次のように述べている。
 「上野鈴本演芸場も,近年は出演メンバーが変わって,若くて面白い連中を出すようになったけど,寄席はああでなきゃいけない。世間一般にはまだ無名でも,センスのいい若手を次々と入れていけば,まだまだお客が陰気になるわきゃない。
 (略)
 個性を上手に差配すれば,寄席はまだまだ面白くなると思いますね。」(P.213)
 つまり,馬風会長もそう落語の現状を楽観視していないことが分かる。現状維持ではダメで,伝統を壊さない程度に新機軸をつぎ込む必要性を訴えているわけだ。もちろん,会長の音頭取りで各種のイベントも怠りなく準備しており,その一つが六代目・小さん襲名,もう一つが木久蔵・きくお同時襲名であり,その陰で目立っていないが,「春風亭柳朝」(小朝の師匠)も近々復活予定なのである。
 ・・・とまぁ,後継者の多い古典芸能と言えどもそう安閑としていられない現状を一通り憂いたところで,原点回帰,そもそも「落語とはどのような芸能なのか?」といことを一度振り返っておく必要があろう。
 「落語とは?」ということを解説した本は数多あるけれど,漫画のことは漫画家に効くのが一番説得力があるのと同様,やはりここは噺家に聞くのが一番である。そうなると,いまや人間国宝・桂米朝以外に適任者はそうそういない。語り口は丁寧で奇を衒わず,歴史的な事柄もそのバックグラウンドとなる知識も備えた現役噺家が書いた「落語の教科書」が,表題の「落語と私」である。タイトルだけを見ると「自伝かな?」と思ってしまうが,これは,ポプラ社から1975年(昭和50年)に出版された中高生向けの「落語入門書」である。それが1986年に文春文庫に収まり,2006年には第7刷を数えるまでに至っている。バカ売れとまでは行かないが,定番の書として定着していることは間違いない。
 本書の締めくくりとして,米朝は師匠・米団治から入門時に贈られた言葉を掲載している。有名な言葉なので知る人も多かろうが,ここで改めて引用しておく。
 「芸人は,米一粒,釘一本もよう作らんくせに,酒が良いの悪いのと言うて,好きな芸をやって一生を送るもんやさかいに,むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に芸をみがく以外に,世間へのお返しの途はない。また,芸人になった以上,末路哀れは覚悟の前やで」(P.216)
 「末路哀れ」が覚悟の「上」ではなくて,「前」というところが凄いな,と思う。一人寂しく橋の下でのたれ死にすることを「リスク」ではなく「当然」として考えろ,ということなんだろうが,これって,学者とか評論家とか作家にも通じるモンがあるよなぁ。世間が決めた自分の値打ちを自分で引き受けて,更に精進を重ねるほかないのだ,ということは馬風も本にも書いてあるけど,言うは易し,行うは難し,なんだよな。しかし,それ以外のまっとうな芸人人生はないわけで,仲間内で愚痴っている暇があったら,精進すべきである。そしてその先にしか,落語の未来も,「世間が値打ちを決める」商売の未来もない訳だ。
 びしっと背筋を伸ばして頑張らなきゃ,と気合いの入った一冊(プラス二冊)である。

高千穂遙・一本木蛮「じてんしゃ日記」早川書房

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-15-208774-9, \1000

じてんしゃ日記
じてんしゃ日記

posted with 簡単リンクくん at 2006.12.27
高千穂 遥著 / 一本木 蛮著
早川書房 (2006.11)
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 ここんとこ真面目に仕事に励んでいるためか,腹回りの芳醇さは目を見張るほどである。・・・いやゴマカシはよそう。そうだよ,太ったんだよ,典型的なメタボリック症候群,つまり内臓脂肪が溜まって成人病予備軍になっちまったんだよチクショー。ダイエットをしたいなと思いつつ,ストレスを散らすための間食が止められず,しかも酒もタバコもやらないので,食うことでしか発散できないのだ。このままでは恐らく,平均寿命はおろか,定年退職前に複数の生活習慣病に侵されて死んでしまうに違いない。恐らく日本の学術研究にとってはワシなんぞ早死にしたところで何の痛痒もないばかりか,かえって厄介払いができて清々するのであろうが,そんなことはワシにとってはどーでもいい。別段,100歳まで生きたいとは思わないが,仕事があるうちは目一杯やるだけやって,糸井重里が常々言っているように「ああ面白かった~」と言って定年退職の日を迎えたいと念願しているのである。従って,せめて運動ぐらいは続けたいと,ろくに通えていないスポーツクラブの会費を払い続けているのだが・・・やっぱりこれじゃダメだよなぁ。
 SF作家・高千穂遙も同様の悩みを抱えていたそうである。まあ座業している時間の長い職種であれば誰しもメタボリ体型になるのは避けられないことではあるが,「運動しなきゃ・・・でも仕事しないとおまんまの食い上げだ」とズルズル現状を引きずっていられるのもせいぜい40代後半まで,それを過ぎると老化現象とのダブルパンチで死がずいぃいっと近づいてくることになる。高千穂先生は体の不調を訴えて医者に行ったところ,中年諸氏なら誰しも思い当たる警句を大量に頂いて帰ってくることになったが,それを身に染みて痛感させられたのは,同年輩・同業種の知人の死や入院がぽつぽつ聞こえてくるようになったからだそうである。そりゃそうだ。三十路後半のワシだって,同級生の腹回りの見事さにわが身のそれを思い知らされたりしているんだからな。
 で,誰しもそうであるように,高千穂先生,様々なダイエット法や健康法に取り組んでみるものの,なかなか長続きしない。水泳やスポーツクラブは通うのが面倒になるし,せいぜい散歩に毛が生えた程度のウォーキングが性に合うということが判明したぐらいだそうな。いや,それでも立派。ワシなんぞ,電車+徒歩通勤すら面倒で続けられず,デブった腹を抱えながら自動車通勤が止められないのだから,既にこの時点で高千穂先生に負けている。
 ともかく,自宅玄関前からすぐに修練が始まり,しかも自分の体に負担のかからない運動で,外の景色を眺めながらできる運動であれば続けられる,ということを高千穂先生は発見したのだ。その結果,自転車漕ぎにたどり着き,修練の結果,知人から「えっ,なに,ガン?」と言われるぐらいの劇ヤセを達成し,現在も体脂肪率一ケタ台の体型を維持するまでになったのである。
 本書はその経緯と,ツーリングのための薀蓄が詰まった,一本木蛮との共著によるエッセイ漫画である。一本木蛮も高千穂パパに誘われて(だまくらかされて?),ツーリング仲間として巻き込てしまったので,漫画そのものは大部分,一本木主導で構成されたもののようだ。従って,エッセイ漫画の構成は自然なもので,ガチガチの原作をそのままなぞったものでは全くない。一本木蛮と言えば本人のコスプレの方が漫画作品より有名なぐらいであろうが,漫画家としての力量は高千穂が言うようにかなりのものであり,しかも女性的な色気とかわいらしさを兼ね備えた魅力的な絵も手伝って,情報のみっちり詰まった作品であるにも拘らず,スムーズに読むことができる作品に仕上がっている。
 あの吾妻ひでおをして,「じてんしゃに乗りたくなった」と言わしめるほど,読者を乗せられるパワーを秘めた本作品であるが,残念ながら,早川という健康やスポーツとは縁のなさそうな出版社から出されたこともあってか,あまり配本数は期待できそうになく,田舎の小さな本屋で見かけることは多分ない。従って,ワシみたいな田舎暮らしの人間が購入するとすれば,高千穂のWebページに張ってあるオンライン書店を頼ることになる。本書を読む限り,一本木蛮は「じてんしゃ日記」第二段に意欲を燃やしているらしいから,その念願を達成させるべく,あなたがSF者であろうとなかろうと,自分がメタボリ男(女も可)でなくても近くにかようなデブがいれば,本書を薦めて頂きたいものである。