西村しのぶ「西村しのぶの神戸・元町”下山手ドレス”」角川書店, 「下山手ドレス(別室)」祥伝社

「西村しのぶの神戸・元町”下山手ドレス”」角川書店 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-04-853145-X, \820
「下山手ドレス(別室)」,祥伝社 [ BK1 | Amazon ] ISBN 4-396-76386-7, \781

西村しのぶの神戸・元町「下山手ドレス」
西村 しのぶ著
角川書店 (2001.2)
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下山手ドレス〈別室〉
西村 しのぶ
祥伝社 (2006.7)
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 「神戸在住」という漫画があった(現在は連載終了)。漫画自体はワシの好みのテイストで,購読雑誌を買うたびに欠かさず読んでいたが,それとは別なワシの感性が「神戸のおしゃれなイメージにうまく乗りやがって」と臍を噛んでいたことは正直に告白しなければならない。
 そうなのだ。ワシはコジャレた場所や人間に対しては本能的に敵対意識を持ってしまう,「ウザい奴」なのである。原宿や渋谷を仕方なく通り過ぎるときには,マシンガンをガンガン撃ちまくってイケてそうな若者がバタバタと死んでいく様を脳内で思い描くことにしていたぐらいである。これは恐らく,バブル絶頂期に大学生活を送りながらもそこに乗れず,家賃月額一万二千円(大家さんがさらに千円引いてくれていた)の風呂なし洗濯機・トイレ共同のボロアパートで寂しく過ごしていた頃のルサンチマンの後遺症であろう。ワシが小谷野敦を愛読するのは多分,彼がブ・・・いや,この辺で止めておくことにしよう。
 ともかく,ワシがファッションとか流行とか(どっちも同じ意味なんだがな)に疎いことは今もそうで,それ故に,趣味の漫画でもあまりオシャレなものはワシの視野に入らずに来たのである。
 ただ,何事にも例外もあって,エッセイ漫画は別である。フィクションとは逆に,自分とは全然異なる価値観を持っている作品の方が,いろいろと発見があって面白く読めるのである。もちろん,ワシが共感する思想を持つ作品もいいのであるが,そればっかりでは脳細胞が安心しきってしまい,飽きてしまうのだ。むしろ「テメェ,人生そんなことでいいのか?いいんだな,なるほど,そういう考え方もあるのか」と,反感→肯定(洗脳?)という過程を経る作品の方が,中年を迎えて死に絶えつつある脳細胞のシナプス活性化のためには好ましいのである。
 しかしそれにも限度というモノがあって,この西村しのぶの超コジャレた煩悩全開のエッセイ漫画に対しては反感を持つ隙などみじんもないのだ。「ああ,世の中にはこういう人生の過ごし方があるのだな」と感心させられるばかりである。そしてワシの頭には,若い頃には少しはオシャレを気取った方が良いかも,という後悔の念すら湧いてくるのである。
 煩悩全開のエッセイ漫画といえば,一条ゆかりを置いて他にはない。うまいモノを食いたい,いい男と付き合いたい,リゾートでくつろぎたい・・・ということを言いまくり描きまくって,「一条ゆかりなら当然だよね」と世間を平伏できるパワーはさすがというしかない。しかしそのエネルギーは,幼き頃の貧乏暮らしの苦労が根底にあって湧き上がってくるものであり,それを知る多くの読者は,どんなに一条ゆかりが女王様のように振る舞おうとも,「苦労人なら当然だよね」と納得してしまうのだ。大体,彼女の場合は,「煩悩パワーが次の仕事に繋がる」と公言している通り,仕事のサイクルの中に組み込まれた行動だから,遊んでいない一条ゆかりは多分,仕事もできない筈なのである。
 西村しのぶには,そのような苦労人の香りが一切しない。その時点で既にワシは敵対意識を持ってしまう筈なのだが,このエッセイはあまりに自然体で,「はあ,スキーですか」「ピンクハウス・・・ね」「カナダでリゾート・・・へぇ」「ボディバッグっつーはやりモノがあったのか」「バリで石けん作らんでも・・・」と,これまたジェラる隙がないのである。タイトルカットは毎回ゴージャスでトレンディー(死語?)な女性が描かれるが,ワシにはまぶしすぎて生きている人間に思えない。
 多分,普通に流行に敏感で,無理のない生活を送っている社会人の女性にとっては,かなり自然な行動・意見を述べているのではないか。短い(1 or 2ページ程度)ページ数ながら,テンションが高いことでワシみたいなウザい男でも面白く読まされる作品に仕上がっているが,そんな生活を送っている普通の女性(20代後半~30代)ならもっと共感して楽しめるんだろうなーと思えるのである。
 2006年に出た「下山手ドレス(別室)」は1998年から2006年にかけてのエッセイをまとめたものであるが,「本家」は2001年に出版されており,これはなんと1988年から1998年まで,コツコツと10年以上に渡って連載されてきたモノをまとめた,激動の「失われた10年」を物語る世相史に仕上がっている。この2冊を合わせると,著者がデビューして間もない20代前半(多分)から,30代(後半?)までの生活を語っていることになるわけで,その間,バブル崩壊ありーの,オウム事件ありーの,阪神・淡路大震災ありーの・・・と,ワシのようなおっさんは思い出に浸ってしまうという特典が得られたりする。
 そんだけ息の長い作品であるから,当然,著者自身も「キャピキャピのギャル(死語だらけ)」から,結婚して主婦となり,メガネをかけながら痛む腰を気にする「オバサン」に変化している。今のところはまだ「妙齢」という訳のワカラン単語で誤魔化しが効く年ではあるけれど,「下山手ドレス」はまだこの先も当分続きそうであるから,きっと更年期障害が気になる年まで,西村は開けっぴろげに自分の煩悩を語ってくれるに違いないのである。共に老いていくパートナーに欠けるワシとしては,価値観の全く異なる異性がどのようにオバサン化していくのか,大変下品な興味を持ちつつ末永くお付き合いしていきたいと思っているのだ。

三浦しをん「シュミじゃないんだ」新書館

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-403-22048-7, \1400

シュミじゃないんだ
三浦 しをん著
新書館 (2006.11)
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 三浦しをんは,漫画に関するエッセイで評判になったときに初めてその名を知った。が,評論的な内容ではなく,自分の嗜好を縷々述べたエッセイであるらしいことを本屋の立ち読みで知ってからは,これは買わない方がいいな,と読まずにスルーしてきたのである。
 何故か? それは,ワシのこのblogの内容とバッティングするからである。この「ぷちめれ」というジャンルは,ワシの好み100%の単なる「感想文」であって,それが何か学術的な意味を持つとか,第三者の本の購読に繋がるとか(たまーにAmazonでご購入頂いているようであるが),歴史的資産として日本文化に貢献する等といったことは全く意図していない。ワシが好きだから,気に入ったから(or クソミソにけなしたいから),主観的な感想を書いているだけであって,それ以上でも以下でもない。
 従って,三浦しをんなる人物の嗜好とワシの嗜好がほぼ完璧に合致しているというのであれば別だが,そうではない場合,しかもその確率は非常に高い訳だが,好みがすれ違っていると,三浦の感想文はワシにとっては何の意味もないものになる。まあ,三浦がこんなblogの記事を読むわけもないのだが,もし読んだとすれば,事情は全く同じであり,多分殆どの「ぷちめれ」は三浦にとって全く読む価値のないものである筈だ。感情のほとばしる主観的文章というのはそーゆーものであって,故に,本書のタイトルである,

シュミじゃないんだ

の一言でもって却下されてしまう性格を持っているのである。
 しかし,本書は珍しくその「嗜好」が一致している内容であり,しかもそれが二項目も挙げられるのである。そうでなければワシが1400円も出して買ったりはしなかった。
 一致項目の一つは「あとり硅子」である。本書の表紙の銀糸で打ち抜かれたバスタブで優雅に本を読んでいるメガネ男子を描いているのは,故・あとり硅子である。書店で平積みになっているのをちらと見るや,直感で手にとってシゲシゲと表紙を凝視してしまったのは,ワシの”あとりセンサー”が働いたからに他ならない。
 あとり硅子は本書に収められているエッセイにイラストとサイレント漫画を,死の直前まで描いていたようだ。その縁もあって,現在刊行されているあとり珪子の漫画文庫に,三浦は解説を書いている(ちょっと不満な内容だが)。
 二つ目の一致項目は,本書のメインテーマである「ボーイズラブ」略してBLである。ここでカミングアウトしてしまうが,ワシは一時期,BL(その当時はやおい or 耽美という名称で呼ばれていた)漫画にハマっていたことがある。その分野では有名なBBC(BE×BOY Comics)をコンプリートで揃えていたぐらいだ。・・・う,身の破滅かも・・・と書いていて冷や汗が出てきたが,三浦が本書で力説している通り,日本国憲法の基本的人権によってワシが何を読もうと,他人様に迷惑をかけない限り,勝手なのである。
 ここであらぬ誤解を受けないように言っておくが(何せワシの親まで疑いやがったことがあるからな),ワシはゲイではない。つーか,ゲイだったらBLは多分,読めない。昔,NIFTY-Serveの漫画フォーラムで,BLを読んでいる自称・ゲイの方が発言していたのを読んだことがあるが,彼によればBLの大半はゲイ漫画としては読めない代物なんだそうな。ノンケなワシにはよーわからんが,やっぱりBLは,故・岩田次夫御大(BLに関しても相当読んでいたようだ)が言う通り,ファンタジーとして理解すべきものなのであって,現実の同性愛とは隔絶された世界を描いているジャンルなのである。
 と,力説しておいてなんだが,今のワシはBLどっぷりの生活からは足を洗っており,隠居生活を送りながら「えみこ山」作品をゆるゆると鑑賞するだけになっているのである。大量にあったBBCは,静岡に来る際にBook offに叩き売ってしまっているから,もう10年近く,えみこ山以外のBLは読んでいない。だいたい,えみこ山の作品は,三浦に言わせれば「まだ毛も生えそろわぬようなガキんちょが主人公の,明るく軽い男同士の恋愛話」の典型であるから(本人が「男同士が悩みもせずにラブラブ」と言っているぐらいだ),多分,カツを入れたいぐらいのぬるい代物である。そんなのを読んでいるだけのジジイであるけれど,久々に本書を読んで,「焼けぼっくいに火がついた」状態になってしまったのであった。
 三浦のエッセイは初体験であるが,うーむ,熱い,熱いぞオバちゃん。あんたそれでも直木賞作家か。直木三十五が天国で泣いていやしないかと心配するぐらい情熱を込めて,BLを語るのである。いくらマイナー出版社・新書館の本とは言え,少しは文藝春秋に気をつかってやれよ,と言いたいぐらいの前のめり姿勢なのである。
 それでもさすが伊達に直木賞は取っていない。妄想系と呼ばれるスタイルではあるが,そのように筆(キーボードか)が滑っても構成は崩れていないので,きっちり具体的なBL漫画作品を解説してくれている。BL隠居オヤジのワシが分かる作家は,石原理,よしながふみ(もうBL作家ではないよな),こだか和麻,那州雪絵(今は新書館で描いてますな),初田しうこ(改名したことは本書で知った),藤たまき(息が長いなあ),門地かおりぐらいであるが,記述自体はかなり正確(シュミの部分はともかく)であることは保証する。それでいて,本書には漫画のカットも,コミックスの表紙写真も一切挿入されていないのである。文章onlyで好きなBLをしっかり語る,まことに男らしい(?)硬派な態度はさすがだと,隠居オヤジは感服するばかりである。
 もっとも,巻末に付いているBL小説の実作とやらは・・・,ま,読まなかったことにしておこう。本人も失敗といっているし。しかし,真面目にBLやろうしているのかなぁ,と疑いたくなるカップリングである。この辺りが,BL作家になりきれない「直木賞」の呪縛という奴なのかもしれない。
 も一つオマケ。これは三浦の責任ではないと思うが,「シュミじゃないんだ」の英語タイトルが”It’s not just my hobby”ってのは酷くないか?意味としては,”It’s not to my liking”なんじゃないかと思うんだがどうか。大体,三浦にとってのBLはどう考えてもhobbyなんて代物ではないのである。「シュミではない」ものを排除して,本書が成立しているんだから,タイトルに偽りなきよう,訂正をお願いしたいものである。

小林よしのり責任編集「わしズム Vol.20」小学館

[ 小学館 ] \1000
 以前にも書いたが,ワシは(この言い方はよしりんから拝借したものである)既に小林よしのりの思想漫画には飽きていて,ゴー宣は読んでいない。いい線ついているな,とは思うし,個人的な倫理の持ち方はかなり共感できるのだが,同じ事を繰り返されるとさすがに読んでいてゲンナリさせられるからである。別にこれはよしりんに限ったことではなく,右でも左でも頑固に思想が固まってしまったお方のご意見はそーゆーもんであり,それ故に世間に堂々と物言える訳なのである。しかしワシはエンターテインメントとしての読書をしたい享楽的な人間なので,そーゆー壊れたCDみたいな繰り返し演説はご免こうむりたいのである。
 今回久々にこのわしズムを購入したのはひとえに巻頭漫画が,ワシのまいふぇばりっと漫画家である,とり・みき(中黒を忘れてはいけない)の作品だったからである。最近長い作品はとんと見かけない上に,「遠くへ行きたい」を連載していたフリースタイル(出版社名)のフリースタイル(雑誌名,ああややこしい)が,なかなか定期的に刊行してくれないモンだから,おいそれとその作品を読むことが出来なかったのである。
 とゆー訳で,本号のテーマである「不安」をコラージュしたよーな作品を堪能させて頂いた。しかし,よしりんがとり・みき作品の愛読者だとは知らなかったな。作風は真逆だし,思想的にも合いそうにない。どちらも少年週刊漫画雑誌(よしりん・・・ジャンプ,とり・みき・・・チャンピオン)でデビューし,ギャグマンガを描いていたから,互いに意識はしていたのかなー,とは思うが,多分,売れ部数では10倍ぐらいの差はあるんじゃなかろうか。
 ついでに,ゴー宣も読んでみたが,相変わらず熱血ぶりは健在であり,思想的に共感できる読者であればそれなりに惹きつけられるのは間違いない。ただ,絵の洗練度はこの辺りで打ち止めのようで,この先何年この作画レベルを維持できるかどうかが,よしりんの漫画家としての活動が決まってくると思われる。個人的には新連載「遅咲きじじい」やゴー宣より,「夫婦の絆」を再開して欲しいんだが,あれはいつになったらまとまるんだろうか。末永く活躍してもらい,眼中レンズがクリアなうちに再開して欲しいものである。

藤子不二雄(A)「愛しりそめし頃に・・・」8巻,小学館

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-09-181018-7, \1200

愛…しりそめし頃に… 8
藤子 不二雄A著
小学館 (2006.10)
通常24時間以内に発送します。

 つい先日(2006年12月)に入って,ワシはとうとう20年近く購読し続けた少女マンガ雑誌の予約を取り消す旨,行きつけの本屋さんに告げたのである。
 青春が終わった,と思った。
 ・・・あ,そこのお前,笑ってるだろ。いや,ワシだってちょっとは恥ずかしい。「青春」だなんて言葉は,海に向かってバカヤローと叫ぶことができる精神構造を持った人間にだけ使うことの許されたものだと,つい先日まで思っていたのである。だいたい,ワシはもう37の立派な中年オヤヂである。就職してから14年目である。貴様は今まで社会人としてまともな経験を経てきたのかよ,と小一時間問い詰められても仕方がないのである。
 ま,教師という職業が世間知らずであることは認めよう。そして「萌えるひとりもの」として,普通に恋愛して失恋してヤケ酒くらって憂さを晴らして(以下n回ループ),結婚して子育てして・・・という,人間としてのステージを上げる努力をしてこなかった,ということも認めよう。
 その上で言うのだが,そーゆー薄ぼんやり過ごして来れた時間というものが,ワシにとっての「青春」だったのだ。そのことを,定期購読を止めた時に初めて気がついたのである。
 本書は藤子不二雄(A)(ホントは○にAである),安孫子素雄をモデルに,高岡から上京してかの有名なトキワ荘に住み,藤子・F・不二雄(藤本弘),赤塚不二夫,石ノ森章太郎,寺田ヒロオらと切磋琢磨しつつ,漫画家として独り立ちしていくまでの自叙伝風漫画である。自叙伝「風」というのは,やはりエンターテインメントとして読ませる作品になっているために,事実の時系列が乱れている上,結構フィクションも混じっているように思えるからである。それでも著者が感じていた昭和30時代の雰囲気はかなり正直に描いていると思われる。
 BSマンガ夜話(復活しないのかなぁ)で,本シリーズに連なる最初の作品群である「まんが道」が取り上げられたとき,主人公・満賀道雄(著者の分身)の惚れっぽさ,が指摘されていた。仕事や行きつけの店などで女性と知り合う度に,ほのかな思いを抱いてしまうという所は確かにそうだなぁ,と納得した覚えがある。と同時に,これはつまりSEXして結婚して・・・ということを意図できない時期の男の典型的な自意識なのではないか,ということに気がついた。
 満賀は少年雑誌に連載を持っているとはいえ,まだ駆け出しの新人である。そのことはコンビを組んでいる才野茂(藤子・Fがモデル)とも常に確認し合っており,自分の漫画家としてのスキルを上げるべく,新機軸を探してそこに挑んでいかなければならない,という意識で日々を過ごしている。このような時期は,社会人である中年ならば誰しも経験している筈である。仕事のことで手一杯,将来設計なんてまだ先の話だと,人間のステージを上げる活動(恥も伴うが)をサボってしまいがちになる時期だ。ま,普通は煩悩に負けて「据え膳」を食べてしまったり食べられてしまったりして,知らず知らずのうちにステージを駆け上がってしまうのだが,異性に対してオクテな人間は置いてきぼりを食ってしまうことになる。満賀はその典型的な人間として描かれており,しかしそれでも「ステージを上がらねば」という本能はあるので,自然と惚れっぽくなるのだと推察できる。そして,満賀の,何か世間に対して「腰が引けている」ような態度は,ステージを上がる時期を遅らせている罪悪感から出ていると言えるのではないか。そのような,仕事に対しては前のめりの姿勢,しかし人間としてのステージを上げる活動に対しては停滞気味,という時期こそが満賀にとっての「青春」なのである。
 この8巻では,「青春」を終えてトキワ荘を出て行くテラさん(寺田ヒロオ)が描かれており,満賀は自分もそのような時期が遠からず来る,ということを意識させられることになった。もしかすると,この作品の最終回も近いのかな,と読者にも思わせるこのエピソードは,青春の定義を再確認させてくれるものになっている。個人的には,もう少しフィクションとはいえ「青春」を味わっていたいのだがなぁ,と願ってしまうのは,自分もダラダラと続けてきたそれを終えたな,ということを実感してからなんだろう,きっと。

池田清彦「科学はどこまでいくのか」ちくま文庫

[ BK1 | Amazon ] ISBN 4-480-42281-1, \640

科学はどこまでいくのか
池田 清彦著
筑摩書房 (2006.11)
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 内田樹の著作から「構造主義」という現代思想を知り,橋爪大三郎によってそれが現代代数学の考え方の影響を強く受けているということを知らされ,ちょうどタイムリーに山下正男の「思想の中の数学的構造」が文庫化されたので,ちょっと深くその辺りの事柄が分かるのかな,と期待しているところに本書もまた文庫化されたのである。池田清彦の文章のうまさは既に知っていたので,早速入手して読んでみた。
 池田が標榜する「構造主義的生物学」とやらがどんなものなのか,その片鱗でも分かるのかな,と期待していたのだが,その期待は裏切られた。しかし,ちくまプリマーブックスの一冊として書き下ろされただけあって,やっぱり文章は面白く,適度な性格の悪さがスパイスとなって,ピリ辛の現代科学技術論に仕上がっている。但し,部分的な突っ込みの鋭さには感心させられつつ,著者の導く結論がことごとく科学技術悲観論に到着するだけで,その具体的な回避策も解決策も提示されずに,未来を放り出しているのは頂けない。
 科学技術万能論というものが色褪せて,今や先進諸国では理工系大学への希望者が減りつつあるのは本書でも述べられているように事実であり,そのことを嘆くつもりはワシにはない。まあ個人的には自分の職場の未来が明るくない,ということは困ったことではあるが,今の日本社会がどれだけ科学技術に従事する人間を求め,そいつらが生み出す成果に見合う待遇をしてくれるのか,となると,かなり疑問であるので,いわゆる「理系離れ」現象は自然なことであると納得しているのである。
 逆に言えば,それだけ世間が科学技術研究者に対しては,成果を期待しつつも,一定の「うさんくささ」を持って見ている訳である。科学技術が軍事と密接に結びついて発展してきたということが周知の事実となって久しい上に,研究者も人間であって,性格の悪い奴らもいるし(平均値より悪いように思う),金や名誉に転びやすい性質も備えていることも,各種のニュースでいやんなるほど知らされ続けているのである。そりゃ,「あいつらを野放図にしておけば,軍事機密の技術だって転売しかねないし,何に使うか分かったモンじゃないぜ」と思われるのは当然であり,昨今聞かれる「研究がやりづらくなった」という研究者間の愚痴は,その世間の風潮の現れが原因の一端ではないかと推察されるのである。
 さらにここで逆に考えてみれば,そのような世間の監視が厳しくなったことで,野放図な科学技術の発展というものに一定のブレーキがかかってきたと言えるのである。もちろん,今後も人権を無視した科学技術の乱用や犯罪が根絶されることはないだろうし,池田が指摘するように政治と科学技術の蜜月は進んでいくであろうが,それが全面的なカタストロフィーへとなだれ込んでいく前触れであるかのような言説というものは,どうも信用しがたいのである。つーか,池田センセーは悲観的な要素だけを選択的に取り上げるのがお上手なのである。本書に述べられている事はかなりの部分当たっているのであるけれど,現実というものはもっと巨大で果てしがないものなのだよ,ということは,少なくともプリマーブックスの対象読者である中高生の諸君に伝えておく必要があろう。
 だいたい,本人は東大出て山梨大学の教授になり,いまや早稲田大の教授であるにも関わらず,何がおちこぼれ学者なものか,エリート路線まっしぐらの癖にちゃんちゃらおかしい。確かに政府の審議会に呼ばれるような特権的エリートではないのかもしれないが,人文系の方々にはない生物学の専門知識を売り物にして思想界に切り込んでいく著作を数多くモノにしている売れっ子(印税はたかが知れているかもしれないけどさ)ライター学者として確固たる地位を占めているのである。そーゆー影響力のある学者の著作,しかも一般向けの文庫本に,悲観的見通しだけを書き連ね,それを食い止める方策の提言もなしでは,無責任といわれても仕方ない。
 あ,もしかして提言が出来るほどの能力がないから「おちこぼれ」なのかしらん?