1/5(月) 掛川・?

 けーっきょく,予定通りの仕事はぜーんぜんおわらんかった。翻訳は今までのサボり量が多すぎて殆ど進まず,一月一杯かけてやっつけるしかない。もうあれも中断,これも中断ってなもんである。現実逃避てがら弄くっていたwingmpが唯一の成果か。ちぇっ・・・。
 という有様のまま,今日から仕事始め。だらけた体勢を立て直して頑張るしかないなあ。あーあ。
 やけくそでJeLA2004用の原稿下書きをやっつけて共著者へメールする。はふぅ,これで一つおしまい。これから翻訳と査読と二つ目の紀要原稿をやっつけねばならぬ。ああ~,死ぬぅ~(悦楽)。
 本日までに届いた年賀状は全部で21枚。わしは返事以外の年賀状は絶対に出さない主義なので,この年にしてはかなり少ない方だろう。このうち返事を書いたのは15枚である。折角なのでもう少し分類してみよう。
 21枚中,15枚はインクジェット紙のもので,5枚は単なる再生紙はがき。この20枚は50円もので,絵入りの53円はがきは一枚のみである。3円分をケチらねばいけない程,皆さんは年賀はがきを出しまくっているようである。
 返事を出した15枚のうち,わし個人向けのメッセージが何もない上に,住所書きまでプリンタで打ち出している「てめぇなんぞはお義理で出しているんだぜ」的メッセージがありありと分かるものが9枚ある。こーゆーのはメールで十分事足りるものである。ちなみにわしは嫌みっぽく53円のはがきで返事を書いている。「はっ,君たちビンボー人には53円はがきは使えまい?」という意味も込めてね。・・・ああ,わしってなんて人がいいんだろう。全くほれぼれしてしまう。
 これでまた年賀状が減るかな? ま,それはそれで結構なことである。どーせこの先さらに増えに決まっているのであるから,均衡が取れてちょうどよい。
 ↑という反応は,家族の写真付き年賀状に対するジェラ心が顕現したものである。あー全く羨ましいったら羨ましい。
 さすがにテンパって来たので,翻訳をちみっと進めて寝ることにする。

1/1(木) 掛川・?

 Wingmp(実はWinbncも出来ている)にかまけていて,紅白はトリのSMAPだけ見る。あとはほぼ日の除夜の鐘を聞きながら年越し。
 とりあえず,寝ます。

Last Message in 2003

 本年は,Webサーバ移転,Weblog開設を行いドタバタしたが,どうやら認知されたよーで,トップページだけでも7500アクセスを稼ぐまでになった。来年もこの調子でウダウダと続くよう,ホドホドに頑張りたい。

本年は大変お世話になりました。

来年も一つよろしくお願い致します。

12/31(水) 掛川・曇

 どんより。まるで翻訳の状況を示すが如く,曇天。大丈夫じゃなかった。翻訳,順調に中断中・・。

12/30(火) 掛川・晴

 ピーカン。年内最後のゴミ収集日につき,燃えるゴミを一括して放り込む。
 さて,本日の翻訳は正念場である。気合いを入れて一気にやんべぇ。
 ・・・と,ナガーイ一休み中。大丈夫か>漏れ
 逃避中につき,あれこれうだうだってみよう。
 以前にも書いたが,お休み中のお供はもっぱらLAUNCH。無料の”Awesome 80’s”を流しっぱなしにしている。あ,Chicagoが終わってしまった。
 日本でも同様のサービスを期待したいのだが,音楽関係団体がon the Internetにはまだ消極的なようで,曲ごとにいちいち許諾を取らねばいけないらしい。CCCD(我が家には出入り禁止だ)なんぞで自分のクビ絞めるぐらいなら,さっさと許可してライセンス販売に勤しめばいいのに。
 敬愛する(何人目だよ)武田徹さんが,科学ジャーナリズムについて書いているのを読む。イチイチ頷く。
 一応,そっち方面の内部に身を置く者としては,も少し「政治家を見るように」科学者も見て欲しいって所は確かにある。文系理系というカテゴライズの仕方は乱暴なところもあるが,学問的な相違点が多いのは確かで,日本的文化背景をorしてやると「理工系学科・学部・大学の教授会は概して静か」という所まで行き着いてしまう点など,も少し「予断を持って」「色眼鏡で」科学技術報道をしてもいいのではないか。
 あまりにもトンデモな言説を振り回す理系学者の様を見て,安野光雅が知人の科学者に嘆くと,その人曰く,「科学者がみんな科学的とは限らないよ」。これは正しい。っていうか,自分も顧みて,結構「だまされる」ことが多いんですよ。経験を積めば「声の大きいだけの言説」に振り回されることは少なくなるが,割と「流行に流される」ことの多い業界だけに,道を誤ることはしょっちゅうである。んが,流行もある程度はWatchしていないと不安になるし,やっていることが全く時代から乖離してしまう危険性もあり,いやいやなかなか「ギョーカイの雰囲気」との距離の取り方は難しいのである。
 そーゆー「雰囲気」を体感しつつ,部外者の観点ならではの無責任性を最大限に生かして報道して頂ければ,ありがたいよなあ・・・我ながら勝手なことを言うとるのぅ。
 情報関係だと,オープンソース運動ってのが一大ムーブメントになり(なりかけた?),経産省も法的問題についての検討を行った(これは以前引用したな)が,果てさて実際問題,商売となるとなかなか難しい面がある。
 大体,人間の善意に大半を依存したシステムって,長続きしないケースが多いんじゃないの? わしみたいな陰険ジジイだからハッキリ言うが,「ソースコードをオープンに」と声高に叫ぶ連中の胸の内は,「タダで使えるシステムが欲しい~」ってのが本音じゃないのかね? 「苦労してコード書きたくない」からだろ?GNUだって,Stallmanの「やせ我慢」があるからこそ続いているのであって,彼が死んじゃったら胡散霧消しかねない危うさがある。
 その点,商売するならWindowsの方が,「バイナリパッケージを売る」という慣習が定着している分,やりやすい面がある。M$の商売のやり口が汚いとか汚いとか汚いとかって話は良く聞くしその通りと思うが,じゃあLinux他のUNiX & UNiX Compatible OSがその代替となりうるかというと,現状では甚だ怪しいと言わざるを得ない。個々のアプリは随分良くなったし,Kernelの安定性については昔から折り紙付きである。しかし,主要アプリケーションの「厚み」という点と,アプリ間の「連係機能」については,正直,GNOME or KDEではまだ辛いと感じる(逆にサーバ機能については,「Windowsなんて使ってられっかよ」なんだけどねぇ)。
 FreewareだろうがSharewareだろうがPackageだろうがOpen Sourceだろうが,最終的には市場において機能と価格の最適化が行われて,選択と淘汰が行われるのである。技術を磨くための肥沃な土壌としてOpen sourceが機能した中で,Proprietary softwareがバンバン生まれ,そこで稼いだゼニが一部のcomponentと共にopen Sourceに返る,という循環型共生システムってのが自分としての理想なんだけど,甘いかしらね? Open Source softwareは「イイとこ取り」されてしまう危険が高いので,商品としての魅力には欠けるが,「うちはこんなもんも作れまっせー」という広報活動の手段としてはかなり使える。Open にして広報パンフレット代わりにしつつ,日々の糧を得るためにProprietary softを作ったり,Serviceを売ったりする,と。CathedralとBazaarってのは元々共生関係(上下関係はあるんだろうけど)にあるんだし,どっちが欠けてもまずいだろうから,お互いに競争しつつも,相互メリットを生かす手段をもっと増やすべきだろう。
 ・・・何書いているんだか。さて,翻訳に戻ります。