8/30(土) 掛川->東京->掛川

 朝方は寒くて目が覚めた。扇風機を付けっぱなしにしていたためである。もう秋の風が吹いているのを忘れて油断してしまった。
 いつも通り,八重洲ブックセンター本店と書泉ブックタワーを回って福澤さんが一名行方知れずとなり,捜索むなしく諦めて泣きながら大師匠を訪ね,慰めてもらう。
 用事が済んで,大師匠と一緒に喫茶店に入ったら,一つテーブルを置いて座っていた老夫婦が口げんかをしているところであった。ダンナの方は90歳を越えているようで,こちらも80は優に超えていると思われるツマが,自分の留守中に勝手に銀座に出かけたことを口汚く非難していた。ダンナを「ボケジジイ」呼ばわりするツマも大したものだが,それを黙って聞いていないダンナの反論も素晴らしく,最後はツマからハンドバックでぶったたかれていた。こういう商店街の喫茶店という公の場でぶつかり合う夫婦はDVとは無縁である。
 DVとは,加害者が精神的もしくは肉体的にものすごく優位にあることが原因で被害者が一方的に痛めつけられる現象を指す。加害者の外面が完璧で,被害者も自らの醜態を人前に晒すことを厭うようなら,それが表沙汰にならないことも多いだろう。全く陰険極まりないことであるが,バブル期に朝シャンなるオシャレ信仰が蔓延して以来,「見栄えの良さ」を至上命題とする風潮が一般的になったことで,必要以上に家庭内のみっともなさを隠すようになってしまったことも影響しているのではないか。
 公務員も教師も建前上,誰よりも身綺麗であることが世間的に要求される商売であるが,それ故に自らのみっともなさをさらけ出せなくなっているように見える。そこを,クビにならない程度にうまく小出しにすることは,自分の精神を正常に保つ上でも,公にサービスする上でも必要なことであり,とんでもない不祥事を起こしたりするのはそこがうまくいっていないのが原因ではないか。
 この夫婦がどうなるのかと観察していたら,ツマが5分ほどダンナを置いて買い物に出かけた。で,戻ってきたツマがダンナのために買ってきたものを見せた途端に仲の良い夫婦になってしまい,ダンナは妻の手を握らんばかりにしてありがとうを連発していた。その感情の起伏の激しさに,わたしゃ,やけに乳臭いカフェオレをすすりつつ,内心拍手を送っていたのであります。
 帰りの新幹線では小谷野敦大先生の単行本を貪り読んでいた。いつもながらのコヤノ節は,やっぱり新書の薄さでは発揮しづらいのかしらん?

8/29(金) 恵那->掛川・晴

 ワークショップ二日目になって,少しは晩夏らしくなってきた。マジメに勉強し,帰りは岩村城趾を見学して帰宅。
 帰宅途中に職場によって,runさせていた結果を見る。よしよし。ちゃんと出ている。安心安心・・・と思っていたら,clusterのうち一台が止まっていた。電源がダメになってしまったようなので,切り離して,もっとでかい次数の問題をrunして帰宅。ガンバりゃなんとかなりそうね。
 疲れたので今日はこのぐらい。明日は東京なんだよぉ~。

8/28(木) 掛川->恵那・曇

 今日から明日まで一泊二日のワークショップ参加である。ここんとこ,夏休みというのは純粋に学生さん達のためにのみ存在しており,教師の方はやれOpen Campusだの実験講座だの集中実習だの研究だの(これが一番後回しになるのが情けない)と,講義と違って変則的なスケジュールでありながら忙しい期間になっている。つーか,逆にこの時期に暇こいているってのは問題教師と言われても仕方ない。
 んで,昨日はどーでもいい用件と突発的なDLP Projector故障の対処に追われて,ワークショップの準備が終了したのは午後11時過ぎ。しかも,楽勝かと思われたDKA法のベンチマークテストが,予想以上に手強い問題であることが判明し,中途半端に終わってしまった。某先生の論文にある,多倍長計算が不可欠な高次代数方程式なのだが,初期値を解の近傍ギリギリに設定しておかないと,反復回数が滅茶苦茶増えてしまうのである。収束はするようなので,時間さえかければ何とかなるようだが,さすがに一日では無理であった。で,256次まででtime up。512次は帰り際に走らせてきたので,明日には終了している筈。来週中には記録更新を目指して4096次を越えねば。
 では行ってきます。

8/27(水) 掛川・?

 余り早い時間に寝ると,このように丑三つ時に目が覚めてしまうのであった。時間がもったいないと,こーゆーものを書いてしまうのは正に貧乏性なのであるな。
 国公立大学の入試は全科目を網羅的に課すものになりそうだという記事(朝日新聞)。良いことではあるが,「学力低下論争」を受けての右習え的対応ってのは日本的だなあとは感じる。
 昨日の高校生向け実験講座を担当して,つくづく,小中高でのComputer literacy教育の成果を思い知らされた。勿論,家庭でも普通にPCを使い,普段も携帯で連絡を取り合っている,という状況も手伝ってはいるだろうが,Windows likeのGUIの基本操作とワープロ程度のアプリ,BrowserやMUAはもう当たり前に使いこなしてくれる。ご高齢の方の入門講座を担当した経験からすれば,もう楽チンで仕方がない。若いって素晴らしいよな。数年前(今もか?)に,「インターネット時代のなんちゃら」ってタイトルの学術系入門書が流行ったが,もうすっかり日本の若年層にはThe Internetは定着しているのであった。どの程度意識しているかは不明であるけれど。
 学力低下が事実であることは既に立証済みであるが,この論争において明らかになったことの一つに,問題としている「学力」があくまで従来型のものである,ということが挙げられる。この議論が数学者グループの問題提起から始まったこともあって,特に数学における計算力低下が著しいことが指摘されているが,んなもん,わしなんぞとっくにダメになっている。大学生になってまで九九の暗唱をさせるような馬鹿な問題設定はさすがになくなったと思うが,MathematicaMuPADもあるんだし,今や電卓機能を持っていない携帯なぞ皆無だ。筆算能力が高いことは望ましいが,大学生になってまで,それにこだわるのもどんなもんか。
 それよか,如何に便利な数学ソフトを使いこなしてより高度な問題にチャレンジできるか,そっちをもっと重要視すべきではないか。そこを教えるノウハウが十分備わっておらず,唯々諾々と従来型の手計算ベースの講義を続ける「言い訳」として「学力低下」論者となっている者が,少なからずいるのではないか? どーも,そーゆーふーにやぶにらみしたくなるんだよなあ。
 「学力低下」に疑義を呈する人の代表的な意見として,ユビキタスにコンピュータが存在している状況下において必要は「学力」とは何か?それが変化しているが故の「学力低下」なのではないか,というものがある。手計算能力や漢字の書き取り能力ってのはその最たるものである。んなものは低下しても構わないから,今,手元にあるコンピュータでもThe Internetでも何でもイイから全部使いこなした上で,何をどう使いこなして何が出来るのか,それを見極められるのがこれから本当に必要な「学力」である。
 そしてそれを教えることは極めて難しい。・・・と,なーんだ,まだまだ教師のやることっていっぱいあるじゃない。頑張んなきゃ。
 で,関連で思い出したのだが,Mathematica 5が出たんですな。しかし,”Newly Released Mathematica 5 Outperforms Dedicated Numerical Systems”・・・ねぇ。数値計算屋としてはとっても食指をそそられない文句ですな。LAPACKATLASなら,ネイティブに呼び出した方がよっぽどマシ。MathematicaのUIはさすがに金がかかっているだけあって大したものだが,本質的なアルゴリズムの改良に繋がっていないソフトに,貴重なおゼゼを払う気にはなれませんなぁ。
 それに,教育機関への値引率の高いことには驚く。それだけ,単体では売れていないのかなあ・・・とやぶにらみ。

8/26(火) 掛川・曇

 うーふふふふふふふ。あー終わったー,やー終わったー,もー終わったー。夏休みの高校生向け実験講座2連チャン,終了でございます。出来? 聞かないでくれ。
 疲れたので今日は寝ます。明日はワークショップの準備ぃ~,ドキュメントかかなきゃー,MPIBNCのuploadが出来るか?
 寝ます。