螢雪時代特別編集「大学の真の実力情報公開BOOK 2025年度用」旺文社

[ Amazon ] ISBN 978-4-01-051037-7, \3000 + TAX

 大学を含む学校法人,各種学校の情報公開が久しいが,いちいちWebページを渉猟してデータをチェックするのは煩わしいし,複数校のデータを比較検討したい時なぞはExcelに数値を貼り付けてはクリックし貼り付けてはクリックし・・・ウガーとNote PCをひっくり返したくなる。まぁ今ならChatGPTに聞けばある程度は自動化してくれるが,ドンピシャリの整理整頓まではやってくれない。プロンプトでいちいち修正させるよりは手でやった方が早い・・・と言うのは非人間的なスパルタデータ整理術を肉体に叩き込まれた昭和世代の悪い癖なのだろうが,やっぱり一覧をざっと眺めたいというニーズは高いと見えて,毎年旺文社は律儀に本書を毎年9月下旬に発行してくれるのである。とゆーことで,ワシも本書を入手してつらつら眺めてはーだのほーだの言いながら下衆の勘ぐりを満足させつつ楽しんでいるのである。・・・いやつい最近まで知らんかったんだが,どうやら受験・大学・塾関係者には知られたムック本であったらしい。大学関係者たるワシもようやく一般常識レベルに達したということなのである。

 とゆーことで本書に提示されている,日本の780大学の入学者データ(選抜方式別)や学生への教育フォロー体制,入学金・授業料を眺めるに,いやまぁワシが教員キャリアを始めた時とはえらい様変わりしたモンだと感慨に浸っちゃうのである。地方には公立大学が増え,小規模私立大学は青息吐息,地域一番店と呼ばれる規模(定員5000人以上)でない限り,定員割れが当たり前で,就学支援制度を受けられる7割以上の充足率であればマシ,という状態。酷いのが,コレだけ情報公開が義務付けられているにも関わらず,全データ非公開という私立大学があるのだ。静岡県内にも一つある。まぁ状態が酷すぎて公開したくない,という事情に加えて,非公開の罰則なんぞもう気にしていられないという,つまりは現状の大学の存続は考えていないということなのだろうと推測する。少子化に加えて,情報公開の義務付けが加わり,SNS等での評判が定着しての結果であるから,残酷ではあるけど,資本主義をベースとする社会を是とする限りは自然淘汰はやむを得ない。
 大学に限らず,どんな組織でも,長く生き延びるためには一定レベル以上の投資を継続せねばならず,投資のための原資を日々の糧から得る必要がある。企業であれば自社のビジネスの売り上げからコストを差し引いた経常利益から,私立大学であれば学生が支払う学費から教育・研究経費をさっ引いた経常収支差額から,次の展開を見据えた投資を行うことが欠かせない。特に昨今の少子化の状況では,投資は新たな学部・学科・教育・研究設備へ行い,学生の集まらない学部・学科は削って集まるように組織改変をしていく必要がある。そのベースとなる活動は教職員の日々の教育研究活動であり,特に教員の研究成果とその外部公表,そして外部研究費の獲得へ繋げて,所属組織の名声を高めていく。その結果はすべからく,本書で一番ページを割いている学生定員充足率に繋がっていくのである。

 本書には財務情報は掲載されていないが,大学四季報的なものと組み合わせると,かなり立体的に各大学の「現状」が見えてくる。とかく,職員より転職が難しい教員からの嘆きの声が多い昨今であるが,18歳人口に頼るだけの現状では構造不況業種なのだから,世間からの同情は得られない。嫌なら辞めれば良いだけのことだし,今の所属組織が不満なら,バリバリ仕事して外部に評価される蓄積を作って転職すれば良いだけだ。とかく教員サイドから経営サイドへの批判が多いのは,基本口先野郎であるインテリゲンチャ故に仕方ないとしても,過分に自己弁護であることを認識しておくべきであろう。日本のアカデミックな国際的地位が下がる? 確かにさまざまな指標でそれは明らかであるけれど,現状,個々人の素晴らしい研究者は称賛されるが,「学術研究業界の一員」と一括りにされてしまえば,我々はもっと大変なんだフザケルナと罵倒されてしまうのが「民意」という奴である。繰り返しになるが,「バリバリ仕事して外部に評価される業績を作」り,一個人としての尊敬を得る以外の方策はないのである。国力としてのアカデミックな国際的地位向上が重要と思われるには,多分,学術研究の闊達さが経済的な底力の源泉であることを「民意」が認識するしかないんじゃないのかな。それはきっと日本国民が「底つき」の認識に達しない限りは無理なのではないかと,ワシは理解している。

 2025年度に向けて各大学がどのような現状にあり,どのように変わっていくか,あるいは変わらずにいられるか,旺文社が本書にまとめた数値データの比較検討を行うことで,その一端が見えてくるのである。

 

ありま猛「あだち勉物語1巻~6巻(完結)」小学館

[ Amazon ] 1巻 ISBN978-4-09-850652-1, \1000+TAX
[ Amazon ] 6巻 ISBN 978-4-09-853516-3, \1364+TAX

 令和になって6年も過ぎ,昭和の豪快さがハラスメントやコンプライアンス違反として糾弾されるようになって久しい。当たり前のことではあるが,50過ぎの男どもが持つ美学としての気質は「昭和の遺物」として,懐かしく思われることはあれ,今やすっかり「不適切な事象」として若いZ世代からウザがられる代物に成り下がったのである。

 ということで,この「あたち勉」という,大漫画家・あだち充の不詳の兄として一部では著名な「昭和の屑」を懐かしくホノボノとした筆致で描いた作品が本作である。いや「屑」は言い過ぎかもしれないが,本人はそう呼ばれて草葉の陰で案外喜んでいるかもという気がする。なんせ本人,かなりの駄目さ加減を自覚しており,高邁な弟からは「漫画の才能は俺よりある」「けど根気が(ない)」と評されているそのままの漫画家崩れ,昭和の屑なのである。
 ただし,屑は屑なりの「かわいげ」があり,これが所謂「昭和の豪快さ」の持つ魔力でもある。酒でダメになる赤塚不二夫に現役ギリギリの最末期まで付き合いつつ,自身も56歳という若さでこの世を去る。どう見たって移り気な本能に従って不摂生な生活をしてきたことが原因であろうが,それは漫画家として大成できなかったことを恥じるが如く生き急ぎした結果のようにも思えるのだ。本書はそんな昭和の屑を主人公に,赤塚不二夫とあだち充,そして作者であるありま猛という,世代も個性も異なる3人の漫画家の人生を絡めた,昭和の黙示録のような漫画作品なのである。

 今やX(旧Twitter)には,現役バリバリのZ世代から疎まれつつ,時間だけは自由にできることをいいことに昭和の屑共が跋扈している。口だけは達者で一見切れ味は鋭いが根拠に乏しいコメントを,ちょっと目立つアカウントめがけて投げつけてはウザがられた挙句に訴訟沙汰になって賠償金支払いもバックレる馬鹿どもだらけだ。現実社会でも,いわゆる出世ロードから外れたクソ昭和親父がガキのように役に立たない教条を述べ立てては会議を混乱させようと無駄な労力をつぎ込んでいる。周囲は慣れたモンで,ああまたかと思うこともなく,けたたましいが意味のないクマゼミの鳴き声と同じ扱いで受け流すだけだ。現実はかくも昭和の屑に冷たい。
 この作品で描かれる「あだち勉」も,天才弟のネームバリューに依存しながら,かつての赤塚プロのアシスタント仲間が次々とプロデビューし,着々とキャリアを積み重ねていくのを横目に,仕事が減って酒に依存せざるを得なくなった赤塚不二夫と共に昼間から管をまく「昭和の屑仲間」として人生を謳歌していくのだ。・・・いや,そこには幾ばくかのちゃんと含羞があり,漫画家としては大成できなかった自分の失敗を自覚しているのだ。そこが一種の「かわいげ」になり,少々の迷惑も打ち消すことができ,多くの仲間との交流を司ることができたのである。この微妙なニュアンスを込めた人間力を描写するにあたり,ありま猛の直接の師匠である古谷三敏の,簡素な線で読者に想像力を掻き立てる抜群の構成力が生かされている。多分,天才弟では省略しすぎて説明が不足するだろうし,赤塚不二夫ではそもそもドラマが描けないだろう。ありま猛でしか,この「あだち勉」という「昭和の屑」を題材とした長編漫画をものにすることはできなかったのである。

 まぁ巻末の天才弟のコメントにもあるように,こんなホノボノとしたエピソードだけのきれいごとでは済まない諸々はあるのだろうが,それはそれ,これはこれ,なのである。我々は,あだち勉を囲む3人の漫画家も含めた「昭和時代の漫画」として本作を純粋に楽しめばいいのである。死人はこれ以上迷惑とかけることはもうないのだから。

夏目にーに「夏目にーに短編集5 底辺画家はどう生きるか: コロナ禍画家が2年間もがいた記録漫画」Amazon Kindle,あららぎ菜名「東京藝大ものがたり」飛鳥新社,原作・二宮敦人,漫画・土岐蔦子「最後の秘境 東京藝大 全4巻」新潮社

夏目にーに「夏目にーに短編集5 底辺画家はどう生きるか: コロナ禍画家が2年間もがいた記録漫画」Amazon Kindle,\0
あららぎ菜名「東京藝大ものがたり」飛鳥新社,\1200,Kindle版
原作・二宮敦人,漫画・土岐蔦子「最後の秘境 東京藝大 全4巻」新潮社, Kindle版

 年の瀬に何か一冊ぐらいはレビューをしたいなと思っていながらとうとう年の瀬,どん詰まりの大つごもり。ということで,今までやろうやろうと思ってできなかったアーティスト実録漫画を一気に紹介することとしたい。

 きっかけは夏目にーにのエッセイ漫画である。最近すっかりひ弱になって,Xのおすすめポストを抵抗することなくぼーっと眺めていたら出てきたエッセイ漫画,さすが現役画家だけあって,しりあがり寿クラスのセンスの良い,白い画面をすさまじく疾走する筆者が主人公のエッセイ漫画である。本書の内容を一言でいえば,ステータスを上げるべく,高校の美術教員として日々忙しく過ごしながらも空き時間を芸術活動に捧げつつ,成果が出たり出なかったりに一喜一憂する日常を描いている。最近はXでちょいと社会的地位の高そうな方々にかみつく愚かで暇な中高老年らしきアカウントが跋扈しているが,あの手の叫びは自己充足できず世間からの承認を得られない不満が転じたジェラ心が駆動しているだけであるからして,ミュートするなりブロックするなり,場合によっては自分のアカウントを一定時間鍵かけておくなりして無視してやり過ごしておくに限る。要は,オタク的成熟を経ていないだけの話であるからして,自分が愚かな中高老年バカッターになりたくなければ,自分が楽しいと思える,それでいて少しはごく近い人間関係を円満にする活動に身を置いて活躍すればよろしいのである。この点,夏目にーにがタダでAmazonより提供しているこの巻は,みっともない中高老年にならないよう,良き見本として大いに役立つものである。年寄りはかくありたい。

 それにしても,芸術活動というものも残酷なものである。世間的評価によって成果ははっきり出る。一定の成功を収めるにはもちろん,本人の営業的努力は必要であろうけれど,それ以前にアート的な価値というものの理解がアーティスト自身に存在していないと話にならんのだろう。問題はその「アート的な価値」というものがワシみたいな門外漢には分かったようでいて分からん代物であることだ。専門家に聞く限りは,ある程度は教育で「アートな価値観」とテクニックを収められるものらしいが,それにしても土台となるその価値を理解できるセンスがなければ,学んだテクニックをもってしてもアートに昇華する作品を作ることは不可能であろう。そういう残酷なチャレンジを,日本国における最高のアーティストを輩出する東京藝術大学(東京藝大)では,入試という最初の関門で20前後の若者に課しているわけである。ということで,今時地方私大なら名前を書けば誰でも入ることができる時代に,あららぎ菜名は3浪(1回目×,2回目×,3回目で合格)して最高芸術学府に入学できたという次第である。そのつまびらかな過程は本書を読んで頂くとして,要はアーティストの基礎教養=センスを磨きながらのテクニック向上(デッサン,デザインなど)をみっちりと入学前に叩き込んでおく必要がある,ということはワシでも理解できた。高校在学中からの3年間の葛藤,なかなか読んでいて胃が痛くなるが,易化する大学入試においては年内合格が当たり前のこのご時世に,この恐ろしく過酷な受験というものが持つ意味を考えるには良いエッセイ漫画である。

 とはいえ,じゃぁ入学してからのアーティスト修養生活はいかなるものか?という疑問は残ったままだ。この点,本来ならあららぎに描いてほしいところ,今のところ続刊はないようなので,二宮敦人の夫人(東京藝大・彫刻科・1浪)を媒介としたエッセイをもとに漫画化した本書を読むことをお勧めする。もちろん原作を読んでおけばいいんだろうが,やっぱり芸術であるからして,漫画で説明してもらった方がビビットにその生態が伝わってこようというものである。で,全4巻読んだ感想としては,センスのある生物的タフネスさが,アーティストとして一番の成功ポイントなんだろうなという,当たり前の結論である。なーんだ,結局,「性懲りもなく悩みながらも継続すること」これ以外に充実する人生ってあり得ないんだなと。営業サラリーマンであろうと,プログラミングで四苦八苦するSEであろうと,研究に日常思考を捧げちゃった学者先生であろうと,「やたらめったら動き回るしかない」(水木しげる「新選組」から)のである。

 以上,アートにまつわる3つの作品を読み返して年の瀬に思うことは,来年もまた頑張ろう,それだけであり,毎年同じことを繰り返して日が暮れていくのをしみじみ嚙み締めつつ,後半戦に突入した我が人生を堪能していきたいものである。

細野不二彦「1978年のまんが虫」小学館

1978年のまんが虫

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-861558-2, ¥1480

 ベテラン漫画家による自伝漫画が続々と出版される昨今である。こちとら「ドラえもん」6巻を親に買って貰って以来の筋金入りの漫画読みであるから、慣れ親しんだ漫画家先生の自伝となれば即買いである。手元には既に矢口高雄、ちばてつや、車田正美、藤子不二雄A、小林まこと・・・と、既に鬼籍に入った方からまだまだ現役の方まで入手済みである。
 とはいえ、全部が全部傑作かというとそうでもなかったりする。なるほど、作者の主観についてはしっかり描かれてはいるものの、自分を客観視できる突き放した視点が欠けていると、今一つ面白みを感じないのがワシなので、その当時の社会・経済・漫画界の状況の説明は、自伝漫画にどうしても欲しいものなのである。
 ということで、細野不二彦によるこの「デビュー直前・漫画家細野の青春とその決別の時期」を描いた本作は、1978年当時の熱いSF業界や、ジャンプからサンデーへのラブコメ路線が花開く時期の漫画業界のことがしっかり解説されており、ワシみたいな当時を知っている五十路以上の人間には懐かしく、もっと若い読者には新鮮な驚きを持って伝わりやすい傑作自伝になっていると断言できるのである。

 細野不二彦にはデビュー作が2作ある。一つは「スタジオぬえ」社長・高千穂遙原作の「クラッシャー・ジョウ」の漫画化作品、もう一つはその後、本作の最後の最後に登場する少年サンデー掲載作「恋のプリズナー」である。本書によれば,前者,つまり一作目の出来に今一つ細野自身が納得できず、世評もパッとしなかったので、社長命令で第一作のコレを持って出版社への持ち込みを強要され、最終的には小学館に拾ってもらって書き上げたのが後者、つまりに二番目の実質的なデビュー作となったものであるらしい。本作ではその辺りの事情が、丘の上大学(慶應義塾大学)の学生として、先輩や同輩の才能と日常の充実っぷりに当てられながらも漫画家としての技量を高めていく様が、本作・主人公の汗に象徴される焦燥感と共に描かれている。
 そう、細野不二彦と言えば、荒っぽいが生々しい描線と共に、ムンムンと熱を発する汗と涙に代表される体液が特徴的な漫画家なのである。ワシが面白さを認識したのはアニメ化された「さすがの猿飛」で、石ノ森章太郎チックな描線の荒さが気になりつつも、ムッチリした主人公と、エロかわいいヒロインに魅せられながら単行本を楽しんでいた記憶がある。既にその頃には独特の画風を確立しており、本作で高千穂社長から「永井豪の真似」と散々な言われようだったタッチからは完全に脱皮していたのだ。

 安定したライフワークとなった「ギャラリーフェイク」をはじめとする多数の作品を紡いできたベテラン漫画家をして、デビュー直前の悪戦苦闘ぶりは、ぬくぬくとした自己充足的モラトリアムから脱するためには、近しい肉親や友人の死という生のリアル感と、キャリアを積んだ先輩社会人からの客観的視点からの批評が不可欠であることを改めて認識されられる。何者でもない時代のヒリヒリ感は、五十路のワシでも忘れられない苦い記憶と共に今も自分の中にある。年寄りはそのような「青春の思い出」として、現在進行形でもがいている若者には一つの処方箋として「試行錯誤の先に道が見えてくる」という、当事者にとっては「適当なことを抜かすな!」と言いたくなる、しかしジタバタした足掻が一番重要であることを突きつけてくれる、傑作自伝であること間違いないのである。

佐藤賢一「シャルル・ドゥ・ゴール」角川ソフィア文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-04-400732-4, \1240 + TAX

 フレデリック・フォーサイスの「ジャッカルの日」()は,最初,原作の翻訳を夢中になって読んだものである。その後,長じて映画も見たが,これもひたすら渋い作りで,原作のフランス警察警部がコロンボの如くパッとしない中年親父にも関わらず,ジリジリとターゲットのド・ゴール仏大統領の暗殺を狙う冷酷な犯人を地道に追いかけていく。派手な音楽もなく,クライマックスの暗殺実行シーンもあっさり終わり,それがまたひたすらリアルで寂しさも感じさせるあたり,こういうのが大人の映画だなと勝手に決めつけているのである。
 とはいえ,原作を読んでも映画を見ても,今ひとつ腑に落ちなかったのは,このシャルル・ド・ゴールという年老いた背の高い大統領がなぜこうも執拗に命を狙われるのか,その理由である。もちろん,原作では説明があり,アルジェリア独立を認める大統領の政治決断に対して反発する政治勢力がテロを敢行している,ということであったが,そもそも「アルジェリア独立」がどれほどの衝撃をフランスにもたらしたのか,その辺りの時代背景を知る由もないワシの胃の腑には落ちてこなかったのである。
 そんなワシにとって本書はピッタリの参考書であった。第2次世界大戦ではフランス国土の半分がナチスドイツの支配下に抑えられ,もう半分もペタン傀儡政権がかろうじて存続しているだけということはぼんやりとは知っていたが,ド・ゴール将軍がイギリスに渡って自由政府を立ち上げて大戦末期にレジスタンスや連合軍と協力しながらフランスの解放を行い,かろうじて「戦勝国」の地位につき,国連の常任理事国の一席を占めるに至ったという経緯の詳細は本書を読むまで全く不案内であった。その後のフランス植民地の独立の機運の高まりでにっちもさっちも行かなくなったフランス政界にカムバックした救国の英雄は,大統領の権限を高めた第5共和政を立ち上げて,単なる植民地とは言い難いほど関係を深めていたアルジェリアの独立を認めるに至る。この辺の詳細は第9章「アルジェリア問題」に詳しい。なるほど,これだけ本国からの移民が深く根ざしたアルジェリア社会を切り離すのは相当な力技が必要になるなと,著者の圧倒的な筆力に唸りながら納得するに至ったのである。そりゃまぁ,反対する側としては暗殺したくもなろうというものである。

 本書は「フランス」を骨身に染みて体現していると自負している救国の将軍の生い立ちから,長年住み続けたコロンべ・デ・ドゥー・ゼグリーズに若くして死んだ娘と共に葬られるまで,過不足なく時代背景や政治状況を繰り込みながら巧みにその人生を詳述している。正直,直木賞作家なんだからフツーに角川文庫に入れてもよかろうと思ったもんだが,あんまし売れないと思われたのか,お堅い学術文庫に収められてしまった。とはいえ,鹿島茂も講談社学術文庫に納められちゃうし,学術的価値があるとなればお高めの価格で販売される所に入っちゃうのも仕方ないのかもしらん。

 とゆーことで,近寄りがたいソフィア文庫ではあるが,本書は愛国的熱血将校のフランス救国物語であるからして,安心してワクワク楽しんで読める。年末年始のお供としてふさわしい良書である。「ジャッカルの日」に連なる長年の疑問を解消できたワシからもお勧めしておく次第であります。