幸谷智紀「Python数値計算プログラミング」講談社

紙版 [ Amazon ] ISBN 978-4-06-522735-0, \2400 + TAX
Kindle版 [ Amazon ] \2400 + TAX

Python数値計算プログラミング

 そーです,ワシが講談社刊行の自著に,「白泉社の少女漫画サイコー」と書いた大バカヤローでございます。だってホントのことだからしょうがないじゃん,少女フレンド系でハマれたマンガがなかったんだから(以下小一時間のオタク語り省略)。

 それはともかく,とうとう2021年3月に出た出た出ました長年の便秘に悩んでいた末の脱糞のごとく出ましたよ旦那。前書きにも書いたが,これも偏に編集人の忍耐のシロモノなのである。こちとら,額縁ょ~の第1次任期に完全にかぶってしまい,2年目からはコロナ禍の中での対応を迫られ,おまけに科研費も当たっちまったモンだから査読付き論文の方に注力せねばならず,どーしても精神的にも時間的にも伸ばせる〆切の方を後回しにせざるを得ず,大分お待たせをさせてしまったところ,諦めもせずに待ち続けて頂いた結果,何とか「工学基礎」という極めてニッチなジャンルではあっても「ベストセラー1位」という称号を得たのだから,多少はお返しができなのかなと勝手に悦に入っているのである。まぁ出版社的には第1刷分を売り切らない限りは利益回収ができないのだから,本来は第2刷が出てから成果を誇るべきところ,どーせ初刷売り切り実績が少ないワシとしてはそんなの待っていられないので(2021年5月6日現在,Amazonのみで売り切れ状態であるとはいえ),背後に家事に勤しむ神さんの白い視線を感じつつ,まずは本書に収められなかった雑感をここに書きつけておくことにしたのである。

2021年5月5日Amazon在庫切れの証拠画像

 前書きにも書いた通り,本書は元になる原稿があるにはあった。主として静岡大学で非常勤講師を務めていた時に書き足し書き足ししながら使用していたもので,最近は本学でも使うようになったが,いかんせん近年では古い記述が増えてきたことに気づいてはいたのである。そうなると,本学でも使うようになったMATLABをベースに書き直すかなとツラツラ考えていたものの,あんな高額なライセンス料を取りくさりよってと今一つ好感を持てず,取り掛かれないまま深層学習ブームやってきてPythonが流行りになってきたところ,元原稿を基に当方を突き止めた酔狂な編集者の方が「Pythonを取るかJuliaを取るか」という二択をワシに迫ったのである。後者は権威の方が大阪大学におられるので遠慮することにし,多少は心得のあって何とかなりそう&流行には乗りたいというスケベ心が相まって,本書が出来上がったという次第なのである。

 とはいえ,書き直しの必要性があることは承知していたから,章の最初に掲げた歴史的文献からの引用以外は頭から見直しをかけざるをえず,思いのほか面倒な作業であったことは前書きに書いた通りである。記憶を頼りに具体的な所を書きつけていくと,下記のようになる。

  • 「第3章 Pythonことはじめ」は,もともと特定の言語を想定しての記述ではなかったので,2/3以上は書下ろし。書いてから「あ,if文の記述がなかったな」と気が付いたあたりが迂闊である。ま,プログラミング言語の素養のある人向きの書籍であるし,実装の事例は随所にあるのでそちらを見ながら補って頂きたい。
  • 「第4章 丸め誤差の評価方法と多倍長精度浮動小数点計算」は,多倍長計算の章を丸ごと書き直した。下敷きにしたのはワシの紀要原稿であるが,書籍用としては記述をそのまま使うわけにもいかないず,更にリライトしてある。何せ,数多ある数値計算テキストとの差別化を図るためには丸め誤差と多倍長計算を外すわけにはいかず,とはいえワシの「多倍長精度数値計算」並みの記述を行うわけにもいかず,この長さに収めるのに苦労した。「著者の書き過ぎによる暴走」が起こらなかったのは,本章の記述を前提に紀要原稿を書いておいたおかげであろう。ワシ偉い。
  • 「第6章 基本線形計算」は,計算量・ノルムの解説と,NumPyとSciPyのBLAS機能の説明をマージさせつつ,計算時間とノルム相対誤差をコードを使いながら理解できるようにした。この辺,第4章の技法を使っての検証ができるような演習問題が追加できれば申し分なかったが,サンプルプログラムを弄りながらの手すさびみたいなものになるのでキリがないのでカット。まぁ締め切り間際の強行スケジュールで無理に入れてミスを増やしかねなかったからいいか(と勝手に納得)。
  • 「第8章 連立一次方程式の解法2 ―疎行列と反復法」は本来2章の分量を今の視点でまとめ直した。理論的には疎行列も密行列も違いはないが,計算量の観点からは全く違うものとして実装してあるので,まずは疎行列の解説から入り,今ではあまり見かけないSOR法系統の解説はベクトル反復が可能なJacobi反復法だけにとどめ,CG法とKrylov反復法,前処理のやり方がSciPy.sparseで簡単にできることをスクリプトとSuitSparse Matrix Collectionの実例で示すようにした。ざっくりした紹介になってしまっているのは,この辺りを詳細にやるほどの知見が著者にないせいでもあるが,この辺のまとめをちゃんとやってこなかった数値線形計算研究者らの啓蒙努力の怠慢も問題である。いくつか日本語のまとめっぽい書籍が出ていることは承知しているが「敷居が高ぇな」「門外漢には訳が分からんな」「理屈は分かったからコードにして公開してくれない?」というのが偽らざるワシの感想である。
  • 「第10章 非線形方程式の解法」も2章分まとめ,ニュートン法の説明を中心に据え,代数方程式の解法はコンパニオン行列の固有値問題に帰着でき,NumPy.roots関数で簡単に解けることを示すにとどめた。減次して解くという古典的な方法も好きではあるが,まぁ現代的とはとても言えないので割愛。
  • 「第12章 関数の微分と積分」と,この辺りから便利なパッケージを使うことをお勧めするように軌道変更している。微分についてはAutogradパッケージは外せないし,SciPy.integrateは次の常微分方程式との絡みが出てくるので,使い方を示すのは重要・・・と言いつつ,しっかりと等間隔分割によるニュートン・コーツ公式とガウス型公式の違いは解説しておく必要があるなと,この辺りの記述はそのまま元原稿から流用してある。二重指数積分法の説明に踏み込むと複素積分まで考えないとまずいので,今回は割愛。今の仕事が一段落したら,ロンバーグ積分と組み合わせて面白いことができないかなと夢想しているが,ここに踏み込んだら暴走が始まるので,この判断は良かった(でないと〆切が無限に伸びる)。
  • 「第14章 偏微分方程式の数値解法」は,元原稿にない放物型・双曲型・楕円型PDE全部の実例と解説を付加した。参照した本がいずれも古くて,疎行列ライブラリが存在していない時代のシロモノで,はてさてもう少し効率的なやり方はないものかと,自分なりに咀嚼してスキームを組み立ててスクリプトを作成。疎行列以上にPDEの世界は応用分野が広いので,分野ごとに様々な独自手法が存在し,とてもじゃないが一人ではまとめきれない。ということで,せめて前章の応用としての時間発展問題ぐらいフォローしたかったが時間切れであえなくチョン。詳しい人にはPDEだけでPython本を書いてもらえばいいんじゃないかなと思うが,大規模化のためにはコアの計算部分の並列化と高速化が欠かせず,PythonじゃなくてC/C++によるMPI/OpenMPによる並列化の話になるので,もう「入門書」とは呼べないレベルになること必定である。

・・・とまぁ,このぐらいにしておくが,数値計算に限らず,プログラミングが重要な役割を果たす分野の入門書は時代の流行に合わせて言語やソフトウェアを変えながら新刊本として登場するのが常である。本書も,FORTRAN→MATLAB→BASIC→Pacal→C/C++→Pythonという流れの一つとして出たもので,類書は今後も出続けるであろうから,読者の方々は自分と相性の良いものを選んでいただきたい。本書がその一つとしてどなたかの琴線に触れることができれば,著者としては望外の幸せというものである。

小梅けいと「戦争は女の顔をしていない」1巻,「同」2巻

小梅けいと「戦争は女の顔をしていない」巻,,「同」

1巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-04-912982-3, \1000 + TAX
2巻 [ Amazon ] ISBN 978-4-04-913595-4, \1000 + TAX

 本書の元となる連載が始まったと聞いた時,ワシは「おっ!」と思ったのである。

 ノーベル文学賞を取った原作を「小梅けいと」が描き,監修に「速水螺旋人」が付くというではないか。前者は「くじ引きアンバランス」以来だが,ワシの好きな漫画家だし,後者はここでも何作か紹介したことで分かる通り,身悶えするほどのファンである。正直,原作に関しては関心の埒外であるので,どういう作品かもTVニュース報道以上のことは全く知らなかったが,本年最初に1巻,そして本年末に2巻が出た本作を一気読みし,ワシは久々に原作も紐解いてみようかという気になっている。つまりこれは,このコミカライズ作品がそれだけのパワーを持っている傑作であることの証なのである。つ〜ても原作を未読である故に,以降の記述は純粋に本コミカライズ作品についてのみのものなので,その点は弁えて頂きたい。

 戦争を描いた作品については,ここでも何度か引用しているいしかわじゅんの意見をワシは一つの基準としている。

 いしかわじゅんは「いわゆる反戦漫画とか戦争漫画を」「あまり読まない」と言う。その理由はこうだ。

その多くが,苦しいと描いてしまうからだ。痛いと,辛いと,悲しいと描いてしまうからだ。現実の大きさに甘えて寄りかかり,表現することから逃げてしまっているものが多いからだ。
 大きな事件があって,それを克明に描いていけば物語の形にはなる。傷を負って痛いと描けば,痛みはわかる。愛する人を失って悲しいと描けば,もちろんそれは伝わる。しかし,それは表現ではない。

「秘密の本棚」小学館,P.369

 この基準に照らし,本作はというと,及第点は楽にクリアしていると言える。ボブ・ディランがそうであるように,直接的な戦争を描いた作品ではなく,その周辺から,つまり,戦争というものが主として男同士の殺し合いであることを逆手に取り,女性側,それも実際に志願して戦争に参加した女性兵士の視点から描いた「大祖国戦争」のドキュメンタリーになっているあたり,伊達にノーベル賞をとっていないなと感心させられた。「戦争は女の顔をしていない」とは,まさにこのことを指し示しているタイトルであるのだなと,改めてその言葉選びのセンスにも嘆息してしまう。

 ナチス・ドイツとコミンテルンの親玉たるソビエト連邦(現・ロシア連邦)との,真反対のイデオロギーのぶつかり合いとして,起きるべきして起きてしまった壮絶な総力戦,それが大祖国戦争である。もちろんこれはソ連側の言い方であるが,それだけ激しい祖国愛をぶち込んだ激しいものであったということでもある。本作では巻末にいつものごとく螺旋人の異様に細かいコラム2ページが付録に入っているが,これをきちんと読むとそのあらましがよく分かる。もちろん螺旋人の愛読者たるワシには周知のことではあるが,改めて戦争ってのは,始める時よりも辞め時が難しいモンだなと感じる。まして,男女同権を高らかに宣言した共産党としては,意欲の高い女性を活用しないわけにはいかず,戦闘機の操縦士として,スナイパーとして,看護師として,時には将校の慰み者として,祖国に準じていくのである。総力戦の行き着くところ,講和などという妥協の産物は役に立たない。ヒトラーも追い込まれて米英との交渉を考えたようだが,東西より押し込まれてガソリンを炊き付けとして消えてしまった。ヒトラーの頭を銃で撃ち抜かせた原動力は,ベルリンに突入した赤軍(ソ連軍)を構成した,この女性たちであったこと,間違いないのである。

 一つ一つのエピソードは戦争から帰還した女性兵士からの聞き書きであるが,それ故に具体的で,懐かしさと苦しさと,自分だけが生き残って原作者に語るという罪悪感に満ちている。小梅けいとの白く,それでいて色気のある描線がその内容の真摯さを担保しており,ソ連時代のロシア人の独白は,人種に関わらず突き刺さってくるものばかりである。なるほど,これがノーベル賞かと,改めて感心し,原作に手を出そうという気にもなってくるというものである。

 コロナ禍の最中,引きこもりのついでに,「女の顔をしていない」極限状況に思いを馳せるのも悪くない。この日の本だって,平和ではあるけれど「女の顔をしていない」社会情勢であるという共通点があるのだし。

幸谷智紀・國持良行「情報数学の基礎(第2版)」森北出版

幸谷智紀・國持良行「情報数学の基礎(第2版)」森北出版

[ Amazon ] ISBN 978-4-627-05272-7, \2200+TAX

 さあ寄ってらっしゃい見てらっしゃい。引退したク○教授どもが(当時の)若手教員二人に押し付けた新科目「情報数学基礎」のテキスト,紆余曲折あって森北出版社長の目に止まって出版に漕ぎ着け,所属大学以外でもあらびっくりのアラビア石油,テキストとして採用してくれたってんだからありがたいことこの上ない。本学だけでは売り切ることができないところ,5刷まで行ったてんだから僥倖僥倖これ僥倖,「本文二色刷りにして第2版を出しましょう!」と第1版担当編集F氏は宣うたのもこれ自然,著者としてはありがたいことこの上ない。是非もなし,どうぞどうぞと承諾すればコトが済むかと思いきや,「グラフ理論の章を追加して,まえがきからもう一度全面校正をお願いします。ついては第1版から追記・変更・修正するところがあればそれご指摘的下さい」ときたモンだ。クリビツ仰天,何せ著者二人は管理職,と言えば偉そーだが実態は単なる雑用係何でも屋,コロナ禍でしっちゃかめっちゃかのところに新章書き下ろしの上に全ページ校正アリだというから笑っちゃって腰が抜けるところを反射神経的に「いいっすよーやりましょー」と返事しちゃったんだから間抜けというかなんというか。んじゃ下書きよろしくです〜といつものよーに頭脳労働担当著者にぶん投げて,まぁそのうち出来たらワシが手を入れればいいやぁと呑気に構えていたらあっという間に「下書きできました」ときたモンだ。どーせ期限内にはできないだろうと悠々と構えていた所,こうなりゃ仕方ない,全面的に文章入れてリライトして図もたくさん追加して肉体労働担当著者としてでっち上げましたよ超特急で。その後は森北の編集氏とワシらとの間でやれこの題材はコラムじゃなくて本文にしろだの何だの変更しまくって頭からの校正も2回やってどうにかこうにか本日(2020年11月26日(木))販売に漕ぎ着けたという次第。20ページ近く分量増えて読みやすい二色刷りになったのに何故かお値段据え置き2200円(+TAX)! 今日日,容量減らしてお値段据え置きとかフザケタ実質値上げが相次ぐこの日の本で,なんて良心的なんだと涙が出てくるってシロモンなのだ。さあ買った買った買ったぁ!

 ・・・というヤケクソ的な愚痴はともかく,好評頂いたのは著者としてはありがたいコトこの上ないのは事実である。「理工系大学でこの程度?」という批判も覚悟で書いたモノだが,第2版が出たということは,まぁつまり「この程度」のための邦文テキストが存外に存在していなかったという事実が判明してしまったということなのだ。プログラミングやデータベースや情報理論をこれから勉強しなきゃならんのに命題論理も集合も写像も関係も知らんでは困る。いやそれ以前に高校までの数学では何を習ってきたか,計算手法じゃなくて学ぶべきは「概念」であって,記号はその表出に過ぎないということから説き起こす必要がある,というニーズをコンパクトに本文171ページに納めたのが第2版に漕ぎ着けた一番の理由ではないかとワシは睨んでいるのである。

 大体,研究者の書いたものは東海林さだおが言うところの「ドーダ」が多すぎるのである。鹿島茂が定義したこの「ドーダ」=「過剰な自己愛的表出」,早い話が「能力自慢」,まぁオベンキョーを生業とする学者先生の職業病みたいなモンだから仕方のないことではあるが,初年時の学生に対して「ワシらは専門家であるからしてこれだけのことを知っていてこのぐらいの問題は楽勝なのだ「ドーダ」」の山を押し付けることはアカデミックハラスメントにすらなりかねない。申し訳ないが,ワシらがこのテキストを書いた頃には既存の「離散数学」のテキストはかなりの「ドーダ」的な代物であり,「センスがない奴には解けないだろ?」という,良問だが,それ故に捻った演習問題に満ち溢れたモノだったのである。習得できれば何ということもないが,概念の理解と暗記だけでも大変なのに,問題が素直に解けないモノであれば,成績下位者から投げ出してしまうこと間違いない。本学に「情報数学基礎」という必修科目が設定されたのは,ともかく論理・集合・写像・関係という最低限の離散数学用語と記号と概念の習得をして貰わねばこの先がない!,という,主として数学担当の教員による要請によるものなのである。が,サイテーなことにこの科目の必要性を訴えた○ソ教授どもが担当するのイヤがってワシら若手(当時)に押し付け腐ったモンだから,「まぁこんくらいなら大丈夫かな」という内容に落ち着かざるを得ず,「ドーダ」の入れようがなかった,というのが偽らざる真相なのである。

 しかしまぁ,結果的に,中学・高校数学との接続も意識した必要最低限の解説と,素直極まりない演習問題にしたことが,テキストとしては良かったのであろう。実際,数学的センスを必要とする場面が現実にそうそうあるかというと案外そうでもないし,センスなんてモンを発揮する以前に,概念習得がまず先にあって然るべきなのである。一通りの概念を学んだ後でないと,有段者のセンス良さに感心することすらできない。逆に,センスの良さばかり追いかけていると,情報処理における「肉体労働」,つまり「プログラミング」の重要性を軽んじる「評論家バカ」,つまり「眼高手低」の輩に堕してしまう可能性があるのだ。まずは素直に概念習得しましょう,そのための必要最小限のひねっていない問題解いて慣れましょう,それが本書のコンセプトなのである。

 ワシらが目指しているのは,アイディアの有用性を理解する基礎知識の涵養であり,プログラミングテクニックを通じてアイディアを実現する技術の習得であり,そのためには,プログラミングのための概念の修養が重要である。本書はそのための簡易覚え書きであり,それ以上でもそれ以下のものでもない。分量の少なさ,演習問題のストレートさは,概念理解のスピードアップを図るためのものであり,センスの涵養を行いたい向きには,前書きにも書いた通り「もう少しレベルの高い(ドーダが詰まった)「離散数学」のテキスト」や「(純粋ドーダの塊である)情報システム関連の論文」を使った教育を行って頂きたい。その際には本書を露払いとして使用して頂ければ,著者としては「この程度」で書いた甲斐があった訳で,ありがたい限りなのである。

ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」5巻,小学館

ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」第5巻

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-860810-2, \630 + TAX

 こんなビッグネームを今更紹介してどうするとも考えたが,本作は「ヤマトタケルの冒険」以来,久々の歴史大作であるし,どうやら最新の歴史学の知見をいっぱい盛り込んだ意欲作であるし,ここで一つ「ゆうきまさみ」という漫画家についての私見をまとめておくのも一興であろうと判断,お暇ならしばしお付き合い頂きたい。

 ワシとゆうきまさみとのお付き合いは,今は亡き「アニパロコミックス」に遡る。今と違ってアニメの二次創作の商業利用にうるさくなかった時代,確か最初はガンダムパロディ漫画から漫画家としてのキャリア開始したゆうきは,オリジナル作品「ヤマトタケルの冒険」を単行本化して思春期過ぎたワシの前に立ち現れたのである。原作(古事記・日本書紀)に忠実な近親相姦ありのエロ満載な作品にワシはたちまち夢中になったのは言うまでもない。
 その後,ゆうきは少年サンデーに活躍の場を移し,「究極超人あ〜る」で人気を確立,「機動警察隊パトレーバー」以降の健筆っぷりはもはやワシが述べるまでもない。流石に今では少年誌からは活躍の場を移し,週刊ビッグコミックスピリッツで北条早雲の若き京都時代から描き起こす本作を連載中なのである。

 第一次オタクブームあたりからアニパロコミックスを経てビッグネームとなったという稀有な経歴を支えたのは,シャープな描線が特徴の絵柄の華やかさもさることながら,懇切丁寧なストーリー運びと,土俗的な常識に基づくキャラクター運びにあると考えている。その特徴を生かせるのはギャグよりはユーモア漂うシリアス,少年モノより青年モノ,現代劇より時代劇なのではないか。とかく流行と刺激を求め続けるエンタメ業界にあって,ゆうきまさみのような大御所がどっしりとその力量を発揮できるのはこのような一見地味なテーマ(北条早雲って知っている人多いか?)だからこそなのではないかとワシは考えているのである。

 室町幕府はその名の通り,京都室町に幕府(というか屋敷)を構え,天皇をガッチリガードしつつも利用することで命脈を保ってきた政治体制である。それ故に御所との関係は良好なれど,経済力の源泉であり暴力装置たる有力守護のバランスの上に成り立った幕府であるが故に,跡目争いで常にごたつく守護同士の争いが激しさを増すと,後の豊臣・徳川とは異なり,自領と自軍が脆弱な将軍家では制御できなくなり,応仁の乱を経て戦国時代へ突入することになるのである。後の北条早雲,伊勢新九郎盛時はその只中で京都で生を受け,現将軍・足利義政の元で混乱が続く政治と,父親が放置してもはや維持が怪しい領地・荏原で悪戦苦闘する・・・というのが5巻までのストーリーであるが,このややこしい状況を,近年のNHK大河ドラマよろしく蜷川新右衛門に解説させつつ,じっくりと描いていくのである。第1巻,冒頭では,姉が嫁いだ今川家の禄を食みつつ,鎌倉公方とのゴタゴタに介入していくシーンから始まるので,まずはそこまでの新九郎の活躍(ジタバタ?)っぷりを楽しんで欲しいというのが著者の狙いなのであろう。にしても5巻目でこの為体では,いつになったら早雲を名乗れるのか,気が遠くなってくるのである。・・・ま,完結しそうもない「風雲児たち」という先達に比べればまだ,カタルシスを得られる作品になる見込みはあるとは言えるか。

 しかしまぁ,この悠然たるストーリー運びに,ワシらファンは魅了されているのである。振り返ってみれば「機動警察パトレーバー」なんて,勿体付けもいいところだった。一体全体,内海は何をしたいのだとイライラしながら単行本を追いかけていたワシではあるが,あの最期に至ってようやくここまでのノタクリっぷりに「会得」したのだ。グリフォンを操ることにだけ特化して育てられた孤児を利用し,散々警察のみならず身内の企業も振り回して楽しんた結果をその身で全て受け止めた内海の行状と運命を読者に伝え納得させるには,あの長さが必要であったのだ。恐らく本作でも,ゆうきまさみは後の北条早雲を形成するための説得を,いつものようにネッチリとワシら読者に教え込んでいるのであろう。そう思えば,まぁ20巻ぐらいは付き合ってもよろしいかとワシは今後の新九郎の歩みを,諦めとともに楽しみにもしているのである。

 本年(2020年)のNHK大河ドラマは明智光秀が主人公で,京都の御所と消滅間近の室町幕府が主要な舞台の一つとなっており,これらに巣食う旧来勢力と,最後の将軍・義昭を抱えて上洛した織田信長側との諍いのなかで実直な光秀が重用されていく様が描かれている。御所を中心とする「京都政界のめんどくささ」の魅力が再認識されてきたとも言えよう。「新九郎、奔る!」はそのややこしい京都のとば口を知らしめてくれる作品でもあるのだ。

 本作でも光秀よろしく,主人公たる新九郎は実直そのもので,それ故に,京都でも領地でも筋を通すことに痛みを覚えている。そういえばパトレーバーでも警察側の主人公達が職務遂行に悩む所が随所で描かれていたことを思い出した・・・つまり,ゆうきまさみは「自身の真っ当さとリアルな現実の間で主人公を悩ませる」真正のサドであり,悩むことを辞めて現実に従うだけのワシら小市民は,その痛みっぷりを共感しながら眺めて楽しむマゾ的変態であるということなのである。

映画「サイレンス」「舟を編む」

 HDDがPCのバックアップデバイスに成り下がり,メイン用途は家庭用録画機材の積読ならぬ「積録(つんろく)」のためのメディアになって久しい。我が家でも2TB・48時間分の外付USB HDDをパナソニックの旧型DIGAに取り付けてあるが,残り10数時間となっている有様であったので,この四連休中に「一回見た」「もう見ることは無さげ」なモノは消去して,「一度見ておけば消去可能」なモノを片付けることにした。映画「サイレンス」(原作・遠藤周作,監督・マーチン・スコセッシ)と「舟を編む」(原作・三浦しおん,監督・石井裕也)はそのうちの二本である。世評は高かったので,こちらの期待も高かった分,消さずに残しておいたのだが,どちらもこの期に見て良かった。ここでこの映画の感想を書きつけておく。ちなみにどちらも原作は読んでいない。

「サイレンス」

 江戸時代初期,一人のイエズス会宣教師フェレイラが日本で消息を経った。経過を記した文書にはフェレイラは棄教し,日本人として妻子と共に暮らしていると書いてあり,それも年単位で前のことだという。敬虔なフェレイラを師とする若い二人の宣教師は文書を信用できず,フェレイラの真の消息を知ると共に,神父がいなくなった日本でキリスト教を維持するために,漂流者として流されてきたキチジローを案内人として日本に密入国し,隠れキリシタンとなっていた五島列島・平戸方面で,最初は二人で,そのうち一人ずつ別れて密かに神父としての責務に励むも,そのうち幕府の役人らに信者の村人共々捉えられてしまう・・・というのが前半のストーリーだが,後半は捕まった神父の一人にひたすら棄教を迫る精神的拷問と説得に占められ,最期はフェレイラ同様,日本人として幕府の貿易業務の手伝い(キリスト教関係品の選り分け作業など)をしながら余生を過ごすことになるのだが,全編音楽なし,セミの声,波の音・・・ひたすら自然音を淡々とバックグラウンドミュージックとして用いる地味な演出ながら,深い信仰心というモノをこれでもかと突きつけてくる演出に引き込まれ,終了後はジーンと頭の中が痺れてしまったのである。
 感心したのは,残酷極まりない信徒への貼り付け,ミノ踊り(藁ミノで包んだ信者に火をつける),長く苦痛が続く逆さ吊り・・・と,神父を慕う信者の拷問を見せつけつつ,長崎奉行・井上(イッセー尾形)や配下のインテリ(浅野忠信)が叩きつけてくる「日本がこれほどキリスト教徒を弾圧する理由」の説得力の強さだ。奉行以下,江戸幕府の残酷さに憤る向きは多いだろうし,確かにそれは分かるのだが,バランスを取るように弾圧者の理屈も述べられていて,神父もその政治的理路は理解しているという描写が実に巧みである。それでいて,何度も裏切っては安直に懺悔をするキチジローが,ラストで信仰を貫いたことを見せたり,屈服した元神父は,日本の土に帰るものの,助けを求める信者や自身に対する何の救いももたらさない「神の沈黙」を受け入れ,更に深い信仰を秘めていたことを歪んだクロスに象徴させている。全く,いろんなモノを詰め込むだけ詰め込み,激しい肉体的精神的葛藤をもたらす信仰というものの正体を観客に突きつけているような映画である。
 どんな神でも,現世の人間が願う安直かつ直接的な救いなどは寄越さないものであり,それを持って神は死んだと言うのは簡単なことであるが,信仰そのものが救いどころか完全なる害悪をもたらすものであっても,それを人間は手放すことができるものなのか,ワシはかなり疑問である。ソビエト連邦ではあれだけ弾圧したロシア正教を根絶やしすることはできなかったし,隠れキリシタンも明治まで細々ながら生き残った。中国でもそう簡単にコトが運ぶとはどうしても思えない。むしろ迫害が精神的紐帯を強めてしまうことも井上ら奉行所一同はよく理解しており,それ故の神父の棄教を迫っている。だがしかし根絶やしには結果としてできなかったということの「信仰の強さ」を理解する教材として,この映画ほど雄弁に語ってくれるモノはないとワシは確信しているのである。

「舟を編む」

 広辞苑(岩波書店),大辞林(三省堂)といった分厚い国語辞典を10数年に渡り,担当編集者の世代交代を経つつも編んでいく様を淡々と描いた日本映画である。ストーリーに余計なモノを持ち込まず,適度にウェットな演出を挟みつつ,最後はハードウォーミングに落とすという邦画にありがちの映画であるが,編集責任を全うできなかった国語学者(加藤剛)が病床まで日課となった語彙再録作業を辞めなかったというあたり,つい先日に恩師を亡くしたワシとしてはちとウルっときてしまったぜよ。
 辞書編さんという,地味だが長期の取り組みが求められるビッグプロジェクトを「舟を編む」とタイトル付けした三浦しおんはさすがだなと思うが,それを主演の松田龍平,オダギリジョー,はな,宮崎あおい等の芸達者な俳優陣を揃えることで魅力的な映像に仕上げたのはさすがだなと感心させられた映画であった。