雲田はるこ「昭和元禄 落語心中」ITANコミックス

[ Amazon ] ISBN 978-4-06-380514-7, \562
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 堀井憲一郎に比べると1/1000程度しか落語を聞いていないワシだが,たまに寄席に行くといいこともある。今年(2011年)においては,何より震災直後に聞いた,鈴本演芸場での橘家文左衛門の「文七元結」が絶品で,「そういう演出もあるんだなぁ~」と感心しっぱなしであった。広い客席にぱらぱらとごま塩程度しか客がいない寂しい夜席だったが,あの熱演ぶりにワシは痺れたのである。・・・あ,ひょっとして男に惚れるってこういう感覚なのかもしれない。
 残念ながら,今の落語界では女性の落語家はお勧めしかねる。それだけ昔の封建社会的因習が強い世界なのだが,それ以上に,春風亭小朝の言を借りると,古典落語は男が語って面白いように完成されたモノなので,女性が演っても違和感がどうしても残ってしまうという事情も大きい。桂米朝師匠が女性の噺家を育てる自信がないと言って女弟子を取らなかったのも頷けるのである。
 つまりそれだけ「男臭い」のが今の落語なのである。それを真っ当に描こうとするとどうしてもオッサン臭くなり,加齢臭に充ち満ちた世界になる。古谷三敏のようにシンプルな線で白っぽく描いてくれるのが,ワシにとってはちょうどいい嵌まり具合に感じられる。さて,この未知の漫画家・雲田はるこはどういう描き方をしてくれるのか・・・と買ってみたらびっくり。こりゃ完全にBLの世界,いや,もっと懐かしい,「やおい」ではないか。そこからは一気通貫,真っ当なマンガなのにエロエロなカップリングが妄想されて止まらなくなってしまったのである(バカ)。
 大体,モノホンの落語家にこんな線の細い奴いねーぞ,と毒づきたくなるが,もちろんモデルらしい人物は思い当たる。主人公の強次の師匠・八雲は当代きっての人気者,出ただけで客席が沸くというから,まぁこれは先日亡くなった立川談志がモデルだろうし,懇意にしている上方の萬歳師匠は桂米朝,その実子で弟子の萬月は桂米団治を彷彿とさせる。しかし,実物とは似ていない・・・っつーか,萬歳師匠を除いては全員「やおい的色気」に満ちた人物になっていて,まぁ腐女子でなくても妄想してしまうのは無理ないという作りなのだ。
 どこまで意図しているのかは知らないし,単なるワシの勝手な思い込みなのかもしれないが,男臭い落語界を見ているうちに雲田はるこにはやおい的師弟関係が見えてきたのか・・・というほど,ワシにとっては懐かしい「やおいマンガ」なのである。2巻が来年早々に出るそうなので,しばらく追いかけて,「らっぽり」的読後感が味わえたらなぁ・・・というのは年寄りマンガ読みの勝手すぎる願望かしらん?

西川魯介「作家 蛙石鏡子の創作ノート」白泉社

[ Amazon ] ISBN 978-4-592-14665-0, \619
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 西川魯介はフェチに淫した作家だという解説をどこかで聞いた(Wikipediaだっけか?)。ワシはフェチズムってものを良く理解していないのだが,「ある特定事象にのみ性感帯を刺激されるという性癖全般」を指し示す用語だと解釈すれば,本書を読んでなるほどと頷けるのである。
 最近のエロマンガというものにはとんと疎いのだが,「使える」エロマンガを探していたら,オタクビームさん希有馬屋さんの作品にぶち当たったので,早速取り寄せて使って読んでみた。で・・・うーむなるほど,「付箋」はこんなに小さくなっていたのかとか(既に付箋の意味が無いよな),エロ表現のエスカレーションはここまで来ていたのか,とか色々勉強になったのである。まぁ,こーゆー作品を18禁と知らずに読んだカタッ苦しい方々がいきり立つのも理解できるよなぁと思うと同時に,ここまで日本のエロ表現が普遍的なものになっちゃった以上,パターン化して普通のマンガにも転用されるのも無理ないよなぁと思わざるを得ないのである。その善し悪しは道徳屋さんと政治屋さんにお任せするが,今年ヒットしたマンガでも「花のズボラ飯」なんてのは完全にエロマンガが開拓した表現を食に転用したからこそ成立した作品なのであるからして,あんましエロを締め上げるとマンガ自体が日干しになるという危惧も理解できるのである。
 で,本書なのだが,巨乳な作家・蛙石鏡子の創作や,それに刺激されて妄想を繰り広げる弟子・笹巻キゼンの「うすらエロいラブコメ的様相」(著者あとがき)が軸となっている。ヤングアニマル増刊Arasiに2010年から11年にかけて連載された短編を纏めたもので,前編これエロ・・・というのは妄想止まりであり,なんだかんだ言っても西川の描きたかったのは「ウンダーカンマー」にも共通するこの「うすらエロいラブコメ」なのではないかと思わざるを得ないのだ。
 何故か? それは本書で展開されるエロ表現がパターン化されたそれとしか思えなかったからである。もちろんそれは全て「妄想」のたぐいなので,既存のエロ表現をなぞるだけでいいと割り切っているのかもしれないが,本当に好きならもう少し表現の血肉になってもいいのではないか。どうも西川の趣味,即ちフェチっぷりは「うすらエロいラブコメ」に発揮されているのではないかと思えて仕方ないのである。何せ本書で一番ワシがエロいと感じたのは蛙石鏡子が頬を赤らめてキゼンに語りかけるコマなのだから。
 しかし,本書を読んで改めてワシはツンデレが好きだな・・・ということを認識した次第である。鏡子萌え,なのである。

唐沢なをき「怪奇版画男」小学館文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-196030-6, \600
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 本書は1998年に出版され,世の漫画家をして震え上がらせた怪作,「怪奇版画男」を文庫化したものである。ワシはオリジナルの単行本も買ってあったが,人に貸したら戻ってこなかった。以来,枕に涙して暮らす日々を送っていたのだが(嘘),本年,この怪作が再び世に出たことを弥栄弥栄と喜び,いそいそとレジに本書を運んだのである。
 無駄な努力というものが,これほどの衝撃,いや笑撃を与えてくれるモノだとは,本書のオリジナル単行本が出るまで知らなかったのだ。漫画作品これ全部,台詞まで含めて全部手彫りのアナログ作品の手間たるや恐ろしい程である。オマケに,文庫化に当たって新たに付け加わった京極夏彦の解説,あとがき,そして帯や奥付に至るまですべて版画。全くこの資源と労力の無駄遣いっぷりは凄まじい。原稿料が規定通りとすれば,恐ろしいほどのコスト超過。これ以降,版画マンガにチャレンジする漫画家が出現しないことは当然のことなのである。・・・と,今気がついたが,畑中純だって全編これ版画という作品は少なかったよなぁ。まぁ,無理もないのである。これに引き続くコスト超過マンガといえば,梅吉の切り絵マンガ以外に思いつかない。それほどの快挙なのである。
 ・・・とまぁ,費やされた労力だけでも凄いのだが,それ以上に「版画」というアナログな表現手法の持つ力強い線の魅力がまたいいのである。表現として優れているってのは,版画男のオリジナルたる棟方志功の作品を見れば一目瞭然だ。長部日出雄の解説によると,棟方の作品の多くは日本的な題材だが,所謂それを売りにしたジャポニズムではなく,もっと原始的で人類共通の美術表現になっているのだという。実際,欧米にも棟方のような平面的かつダイナミックな簡素表現作品があるんだそうな。
 その棟方の描く顔に岡本太郎を混ぜたような版画男が縦横にギャグを展開する白黒(カラーもあるけど)の画面の力強さはどうだ。これを昇華させると畑中純の芸術作品になるのだろうが,そこまで行っちゃうとギャグとしては成立しない世界になる。その手前に留まってギャグに徹する潔さ(単にメンドクサイだけなのかも)がワシらの感動腺を震わせ,費やされた労力を想像する回路に繋がって脳髄をショートさせるのである。
 つーことで,本書は永久保存品として確保されたのである。もう誰にも貸さないからね。読みたければ,買え。

津野海太郎「ジェローム・ロビンスが死んだ なぜ彼は密告者になったのか?」小学館文庫

[ Amazon ] ISBN 978-4-09-408660-7, \657
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 書店の平台に本書が出ているのを見た時にはちょっと感動してしまったのである。小学館文庫ってのは,ワシにとって永らく初版絶版オンパレード文庫だったのだ。殆ど買うに値しないエンターテインメントや時事ネタ本しか出ないモノだと思っていたら,最近は「パイプの煙」リイシューを出したりして,流石に少しは反省したのか,はたまた行き詰まったあげくの苦肉の策なのか,少しは資料的価値のあるモノを出すようになっていたのだな,と気がついたのである。
 で,本書だ。津野海太郎の単行本を文庫化するなんて,筑摩書房以外ではあり得ないと決めつけていたのである。それが小学館文庫とは,なかなかやるな,小学館にも目利きはいるのだと感服したのである。ワシが即レジに本書を持って行ったのは言うまでもない。しかも,読み始めたら一気一気,あっという間に読み終えてしまった,いや読み終わらされたのである(変な日本語)。ちょっといやな気分が残るのかなぁ~,という一縷の危惧もあったが,それはナシ。爽快,とは行かないけれど,「人間社会ってこうだよな」と胃の腑に落ちる名解説を受けた感じなのである。
 高校時代に少し風変わりの社会の先生がいて,目から鱗が落ちるようなことを教えてくれたモノである。その先生が,日本国憲法制定時のドキュメント再現ドラマを見せてくれた時,「GHQの将校達はインテリで,その頃のインテリはみな社会主義思想に嵌まっていた」という解説をしてくれた。その時は特に気にせず聞き流していたのだが,本書でジェローム・ロビンスがアメリカ共産党活動に関わったということを知って,なるほど,共産主義ってのはロシア革命以来,全世界を巻き込んだ一大潮流思想だったのだなぁと改めて思い知らされたのである。
 本書のタイトルである「密告者」とは,戦後アメリカに吹き荒れたアンチ共産主義運動,マカーシズムの果てに行われた「赤狩り(Red Purge)」において,共産主義者の仲間を公表した人間であることを意味する。アメリカ議会下院の非米活動委員会主導で開催された公聴会において,ハリウッドの著名振り付け師・ジェローム・ロビンスは8人,共産党時代の仲間の名前を挙げている。彼が行った「密告」は公開の場で行われており,特に法的な拘束力があるわけではないが,時代の圧力がアメリカ社会を覆っていた時代に共産主義者のレッテルを貼られることは,即,社会的地位を失うことになる。流行に敏感なインテリ揃いのハリウッド著名人は格好の赤狩りのターゲットとされ,一番有名な密告者・エリア・カザンが名指しした俳優は仕事から干されてしまう。ロビンスが挙げた者も同様の憂き目に遭い,ロビンス自身もカザンと同じく「密告者」として,死ぬまで不名誉なカテゴライズから逃れることは出来なかった。友人を売ったのだから当然・・・という断を,しかし,津野はそうやすやすとは下さない。ここからが本書の面白いところなのだ。
 津野は証言台に立ったロビンスの証言が「軽すぎる」といぶかしむ。底には何か理由があるのではないか・・・津野の調査活動が始まるのだ。つーても,資料を渉猟するのがメインなんだけどね。赤狩りについては張本人のマッカーシーが没落して以来,民主主義国家アメリカの汚点として分厚い資料が残されているし,ロビンスの自伝も刊行されているようだ。資料には事欠かない時代になったってのはありがたいことだが,じゃぁそれを全部読めるのかというと,一般大衆にそんな時間は無いのである。そこに津野のような知性と力量の両方を備えた書き手が必要となる所以なのだ。
 結果として,ロビンスが一時期関わったアメリカ共産党の活動状況やそれが可能だったニューディール時代の雰囲気,そしてロビンスを初めとするアーティストが活躍できる場を提供したWPA(Work Projects Association),そしてその反動としての非米活動委員会の成り立ちまで,アメリカ合衆国の戦後史が,マイノリティーだったロビンスの成り上がりぶりとともに,怒濤のごとく語られることになるのだ。ワシが高校時代に聞きかじった知識が,本書の説得力ある文章によって歴史の潮流に触れる糸口になったことを実感したのである。
 ロビンス自身にとって,もちろん「密告者」というレッテルは決して良いモノではないが,しかし,本人は密告後も活発な芸能活動を展開し,20世紀末に天寿を全うした。カザンと比べても随分幸せな生涯を送ることが出来たのは,二重のマイノリティー(意味は本書で確認してね)を抱えてロビンス自身が煩悶し続けたことを周囲の仲間達がよく知っていた,ということも手伝っていたらしい。そしてそのことがまた「密告者」たらざるを得なかった原因だった・・・となると,石持てぶつける気力も失せるというモノである。
 しかしまぁ,人間社会って奴はつくづく不合理なモノを含めたダイナミックなファシズム的圧力,社会運動を内包したガイアだなぁ,とため息が出てくる。本書を読了して得られるのはある種の諦観,そしてまたマイノリティという存在を出来るだけ許容しようという僅かな希望なのだ。どちらが欠けてもワシらの社会は成り立たず,そしてその社会を生きようという気分にもならない。チャンドラーじゃないけれど,「タフでなければ生きられない,やさしくなければ生きる資格がない」,それがワシら人間社会のありようなのである。折角のクリスマス,ロビンスの「踊る大紐育」のように浮かれるだけじゃなく,津野の本を通じて少しは内実のある思索に耽ってみるのは如何?

西尾鉄也・押井守「わんわん明治維新」徳間書店

[ Amazon ] ISBN 978-4-19-950280-4, \800
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 「押井節」という言葉が意味するモノがなんなのかの議論はマニアの方々に任せておくとして,ワシにとってのそれは「徹底したリアリズムに基づいた批評眼が語らせる長ゼリフ」のことである。復刊が当初予定より3ヶ月後ろにずれて青息吐息のComicリュウに連載されていた大演説「勝つために戦え!」を堪能してたワシは,リュウの休刊前に始まったこの連載も楽しんでいたのである。その連載を纏めた本書は,今やみなもと先生生存中の完結を絶望視されている「風雲児たち」のダイジェスト版として,押井守のブツブツグチグチにまみれながら,明治維新の立役者のピリ辛論評を西尾鉄也の端正な絵で楽しめるのだから,大変お得な一冊なのである。
 西尾と押井の掛け合いで人物評を語るエッセイマンガの体裁だが,その中身は本当にリアルかつシニカルな視点で統一されている。とかくロマンと感情論に流されがちな人物伝とは180度異なる。それは作中何度も繰り返される「表現者は自己実現に生きてもいいけど革命家はダメ」「革命家は生き残って歴史を作ることが主題なんだから」(P.150)という押井の持論が貫徹されているからである。それだけ聞くと,暑苦しいおっさんの繰り言っぽくてイヤだなぁと思う向きもあるかもしれないが,そこは心配ご無用。容赦ない西尾の突っ込みが清涼感を与えてくれるようにできている。この両者の掛け合いがうまい具合にリズムを与えていて,躍動感溢れるエッセイマンガに仕上がっているのだ。ま,押井守を引っ張り出してきた大野・元リュウ編集長の助言も大きいようではあるが。
 「風雲児たち」のように,長く続いた大河マンガはどうしても作者の成長と老いが作品の勢いを削いでしまいがちになる。最初にもくろんだ意図が知識の習得とともに変化し,違和感が出てくるということもある。それはそれで仕方ないし,そこが長い作品の魅力の一つではあるのだが,やはり読者としてはコンパクトに歴史上の人物を語って欲しいという向きが世間的には多いはず。司馬遼太郎のように,結局何を言っていたんだっけとなってしまう,文学的に曖昧模糊としたものを読むよりは,本書のように押井節で貫徹したショートエッセイマンガで概要を知る,ということも時には必要だ。少しずぼらでシニカルになった中年以降の人間にとってはマイルドな読後感を,「龍馬が行く」に感動したての熱血青年にとっては愕然とする効果を期待できる本書は,年末の喧噪の最中に「革命」の本義を考える時間を与えてくれる良書なのである。